日中・日韓が共通の「歴史認識」を持つのは不可能。靖国神社に気を効かしてもらうしか手はない

2005年04月20日 19時54分25秒 | 反日問題
中国公館などへの嫌がらせに抗議 在日中国大使館参事官 (朝日新聞) - goo ニュース

 歴史上の出来事を書物に記述して著すという作業は、思うほど単純ではない。 一つの出来事をどう見るかは、立場や視点によって違ってくる。ましてや「歴史観」が異なれば、記述の仕方や内容が180度違うということもあり得る。
 中国政府や韓国政府が、日本の検定教科書について異議を申し立てている現実について言うならば、個々の著者の「歴史観」がまず問われる。記述されていないことについて、検定当局である文部科学省に異議を申し立てても、どうしようもない。個々の著者に直接文句を言ってもらうしかない。言論・出版・その他の表現の自由が憲法で定められている自由民主主義国であれば、当然のことである。共産主義国やいまだ戦時体制にある国とは、根本的にシステムが違うのであるから、思想も信条も歴史観も多種多様な著者が、それぞれの立場で書き上げる教科書について、そもそも「共通の歴史認識」を持つことは極めて難しい。
 「歴史認識」に限定するなら、ザッと拾っただけでも、以下のように多種多様である。
 ①皇国史観
 ②マルクス史観
 ③キリスト教史観
 ④仏教史観
 ⑤イスラム教史観
 ⑥帝国主義史観
 ⑦比較文明史観
 ⑧自由主義史観
 ⑨極東裁判史観
 ⑩その他

 歴史をだれが書かせるかによっても、記述の仕方が変わり、「正史」と「外史」に分かれてしまう。
 正史は、政権を握っている権力者が書かせた歴史である。「正」という文字の成り立ちをみれば、このことがよくわかる。立命館大学名誉教授の白川静先生によれば、「正」という字は、「城郭」を意味する「一」と「戈をかざして進む」を意味する「止」で形成された象形文字だという。中国は城壁のなかに都市を築き、そのなかに皇帝や官僚、商人や町人などが住み、城壁により蛮族からの侵入を防いでいた。この城郭都市を攻め落とした勝利者を示しているのが、「正」という文字であるという。要するに「勝てば官軍」ということであり、勝利者を示す「正」から「征服」の「征」という文字も生まれている。
 富山の胃薬に「正露丸」というのがあるが、日露戦争のあった明治時代から、大東亜戦争に敗戦するまでは、「征露丸」という商品名であった。ロシアを征服しようという日本人の帝国主義的な意気込みがうかがわれる。これと同じく、北朝鮮の金正日総書記の「正日」も、「日本を征服する」という思いをこめて名付けられたという。
 であるから、明治維新以降、終戦までの日本の歴史は、薩摩・長州・土佐・肥後中心のいわゆる「官軍」の立場で書かれた「皇国史観」に立脚した歴史が、「正史」であり、賊軍は「悪者扱い」された。
 戦後は、勝者である「アメリカ」を「正」とし、敗者である日本は「賊軍」となり、日本の歴史からそれまでの「皇国史観」が一掃された。教科書の執筆者が、「マルクス史観」を基本にした学者やその弟子たちがつくる、いわゆる「ギルド」によって書かれいたため、記述も「マルクス主義的発展段階説」がベースになっていた。原始共産制度-部族長制度-貴族制度-封建制度-資本主義制度-社会主義制度-共産主義制度へと人類社会が発展過程をたどるという歴史観である。この立場による教師の多くが、「資本主義体制は破綻し歴史の必然として社会主義制度-共産主義制度へと移行する」と宣伝した。しかも「このマルクス史観は、科学的である」とも断言していたのである。だが、実際はどうか。共産主義体制であったソ連東欧諸国は、すでに崩壊し、資本主義体制へと逆戻りしている。共産主義体制を今日も維持しているのは、残すところ、中国、北朝鮮、キューバ、ベトナムくらいである。
 また死者に対する態度も日本と中国では、大いに違う。蒙古襲来の後、鎌倉幕府の執権・北条時宗は、「円覚寺」を建立し、日本の兵士、「元軍」(高麗軍を尖兵とする『東路軍』と南宋軍を尖兵とする『江南軍)』の兵士ともども、敵味方の別け隔てなく、犠牲者を祀って慰霊したという。このように中国から伝わった仏教を普及してきた日本においては、善人も悪人も敵も味方も、死んでしまえば皆仏になるという仏教観がいまでもある。日本には、いにしえの昔から「死者にムチ打つ」文化も風習もない。
 これに対して、中国ではむかしから、「憎っくき敵」に対して、死後も怨み続け、墓地でツバを吐くとか、死体を大瓶に塩漬けにして、時々フタを開けては死体を切り刻み、口に入れてはクチャクチャと噛んで吐き捨て怨みを晴らすといったことを風習にしていると言われてきた。そうした文献もある。つまり、日本と中国では、培われてきた文化が違うのである。自ずと歴史観も違ってくる。
 ということで、文化が違う上に、マルクス主義史観を取る中国と自由民主主義国である日本とが、日中の歴史で共通認識を持つことは、限りなく不可能に近いともいえ、無理である。
 それでなくても、日本国内には、大東亜戦争を「アジア解放の聖戦」であったといまだに信じている旧陸軍出身者が、健在である。老骨にムチ打って、「大東亜聖戦の碑」を建立さえもしている元気さである。
 大英帝国やフランス、アメリカ、ロシア、オランダなどの帝国主義・植民地主義を進めた西欧列強諸国をアジアから追い出し、「五族共和」を目指して戦ったという意識は、日本人のなかにも根強くある。「負けたのは、アメリカが原子爆弾を2発も落としたからで、日本は、もう一歩のところで原爆を開発できたのに」という恐るべき思いを持っている老人たちも、まだ生きている。
 東条英機が嫌われるのは、当然である。私の祖父なども相当に恨んでいた。「早よう戦争を止めておれば、息子が戦死せんでもよかったのに」と日々、悔しがっていた。靖国神社の神殿の前にぬかずき、涙を流していたが、ハンカチをそっと渡すのは、私の役目だった。だから、靖国神社に行くのは、いまでも辛い。
 その東条英機が、なぜか、アメリカや英国などから余り非難されない。東京裁判で死刑判決を下し、絞首刑にして罪を償ったことにしているのか。一説によれば、「ヒットラーに迫害されたユダヤ人のために杉原千畝以上にビザを最も多く発給したのは、東条英機だった」と言われている。もちろん杉原千畝が、ユダヤ人にとって命の恩人であることには違いないが、東条英機は、ヒットラーとの対立を予測して「ユダヤ人」を助けていたというのである。
 しかし、もっと不思議なのは、今回改定になる新しい教科書を私自身はもとより日本人の多くが手に取って読んでもいないというのに、なぜ中国や韓国の人々が、丸ですでに読んでいるかのような反応を示し、「反日暴動」など過激に行動に走るのかということである。
 靖国神社にしても、反日暴動に走っている中国のデモ隊の若者たちは、靖国神社を実際に見たことがあるのだろうか。北京政府の「プロパガンダ」に乗せられているだけではないか。

 聞くところによれば、靖国神社が東条英機を合祀しているというのは、単に慰霊される人々の名前を記す和紙づくりの帳面のような簿冊に一行「東条英機」と記載されいるだけという。実際に見たことがないので、真偽のほどは分からないが、もし、「合祀」が気に食わないのであれば、直接、靖国神社に文句を言って、削除してもらえばよい。日本政府がそれをすれば、「信教の自由」を保障している憲法に反するのでできない。
 もっと言えば、靖国神社が、気を効かして「合祀」から「分祀」すれば問題は一気に解決する。靖国神社は、「一度合祀した御霊は分祀できない」と言っているが、全国各地の神社を訪れみると、どこかから「分祀」してきた御霊を祀っている神社は、いくつもある。「合祀」にこだわるのは、屁理屈にすぎない。といって、私が、靖国神社の「信教の自由」を侵すわけにはいかないのだが・・・。

コメント (6)
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