一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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活字中毒者のアナタのためのブログです。

現代藝術は「開かれている」の?

2006-09-15 03:05:29 | Art
『ヘリコプター弦楽四重奏曲』の演奏に参加した
ヘリコプター・チーム "The Grasshoppers"。

本ブログの姉妹ブログ『一風斎の趣味的生活/もっと音楽を!」で、K. シュトックハウゼンの『ヘリコプター弦楽四重奏曲』を取り上げました。

念のために、その楽曲の内容を示せば、
「アルディッティ・カルテットの面々が、アクロバット・ヘリ・チーム“ザ・グラスホッパーズ”のヘリコプター4機に分乗し、空中で演奏した彼らの音楽とヘリのサウンドが、機内を移した4台のモニター映像とともに会場の聴衆に供され」る
というもの。

小生は、ブログで好意的な評価を下したのですが、それは「馬鹿馬鹿しい」「子どもっぽい」アイディアを、マジに実現させたことに対してです。
世間的評価によれば、なんと意味のない、ということになるのでしょうが、藝術というのは、もともとそういうものでしょう。


しかし、とここで一歩退いて考えると、このアイディア、発展性があるのかな、と疑問も出てくる。

現代藝術には、どうしてもこのような問題が起こってくるようです。
というのは、表現者のオリジナリティーを発揮しようとすれば、アイディアの一発勝負になってしまう可能性がある。

音楽では、このシュトックハウゼンの作品も、J. ケージの『4分33秒』も同様です。
いかに理論的裏づけをしようと、一発勝負的なところがあるのは否定できない。つまり、最初にやった者の「勝ち」、ということね(著作権的に言えば「プライオリティ」)。
これは音楽だけではないようで、環境藝術のクリストがやっていることもそうでしょう。もっと古くは、M. デュシャンの『大ガラス』(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』)や『泉』も、そうでしょうね。

問題は、その「一発勝負」性がかえって邪魔になって、後の藝術表現に影響を与えることができるかどうか、ということじゃないでしょうか。

シュトックハウゼンやケージは、理論家でもあるから、それなりの理屈をつけることはできるんでしょうが、藝術表現レヴェルでは、理屈は理屈、ということになりかねない。

その点、ミニマル音楽などは、S. ライヒや T. ライリー以後も、その手法を表現者個々が取り入れて、各者ことなる具体的表現として発揮することができましたし、発展・拡散することもできた。
今では、むしろ、J. アダムズなどは「ポスト・ミニマル」にまで行ってしまったけれど、それも発展・拡散の証明になるでしょう。

翻って考えると、シュトックハウゼンやケージの、『ヘリコプター弦楽四重奏曲』や『4分33秒』に、ミニマル音楽にあったような発展性があるのでしょうか。

たとえ、人工衛星に載せた弦楽四重奏団に演奏させようが、100人のオーケストラを100機のヘリコプターに載せて演奏させようが、それは形だけの真似に過ぎないでしょう。
さて、それでは、『ヘリコプター弦楽四重奏曲』の手法や理論は、どのように現代音楽に対して開かれているのでしょうか。

小生の現在の考えでは、それは、はなはだあやしい。
どうも、一発勝負に終ってしまうのでないかという危惧が拭いされません。
現代藝術(特にイヴェント的なもの)は、袋小路に入ってしまう危険性があるようです。

ちなみに、国内某所では、クリストの「藝術表現」が行なわれたのを機に、「クリストまんじゅう」が売り出されたとのこと(情報未確認)。
はてさて、環境藝術は、土産物業界には開かれているんでしょうか。