石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 栗東市高野 松源院宝塔(その2)

2013-08-20 23:22:06 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市高野 松源院宝塔(その2…2007年1月27日の記事の続編)
高野神社前の路地を左に歩いて行くと間もなく路地に面してその雄姿を現す見上げるばかりの大きい宝塔。相輪を失って層塔の初層軸部と思しい四方仏のある石材と宝篋印塔の笠石を代わりに載せてある。01_3完全でないのが惜しまれるが、基礎、塔身、笠石といちおう主要部分が揃い、宝塔の多い近江でも稀に見る巨塔である。03特色ある構造形式と優れた手法を示し、もっと注目されて然るべき優品と考える。褐色できめの細かい良質の花崗岩製。
基礎の下端が若干埋まっているが、笠石頂部までの現状高約229cm、これに見合う相輪はおそらく130cm程はあったと思われ、元は塔高約3.6mの12尺塔として設計されたものと考えられる。基礎はやや不整形な方形石材4つを田字状に組み合わせたもので、幅約132cm、下端が少し地中に埋まっているが現状高約41cm。幅に対する高さの割合が1/3程で非常に低平な基礎である。各側面は素面。基礎の石材どうしがぴったり接合しておらず、少々隙間が目立つ。元々一石であったものが4つに割れたか、あるいは本来の基礎が失われ適当な石材をあてがっている可能性も完全には否定できないが、とりあえず一具のものと考えておきたい。こうしたやや不整形な基礎を有する例として、湖南市廃少菩提寺や長寿寺の石造多宝塔、高島市満願寺跡の宝塔(鶴塚塔)がある。02いずれも塔高4m前後の巨塔で、鎌倉時代中期に遡る古い石塔である。ただし、これらの基礎はどれも一石で、上端に段形を作り出したものもある。一方、4つの石材を田字状に組み合わせる例として守山市懸所宝塔や大日堂層塔、愛荘町金剛輪寺宝塔がある。懸所塔や金剛輪寺塔も4m近い巨塔である。これらの石塔の基礎は相応に整形され、側面には輪郭と格狭間を有する点で松源院塔とは異なる。松源院塔のように、やや不整形で、かつ田字状に組み合わされた基礎の類例は今のところ管見に及んでいない。塔身高は約132cm、軸部の高さ約95.5cm、基底部付近の直径約94cm、肩部付近の径約92cm。縦断半裁された構造で、内部は中空になっており、何らかの納入物があったと思われる。ただ、わずかな隙間から内部をのぞき込んでみても特に何も見えない。軸部側面の四方に大きい扉型が薄い陽刻突帯で表現される。鳥居型のように見えたので2007年1月27日の記事ではそのように書いたが、上部中央の鳥居でいうと額束にあたる部分から縦の突帯が下に伸びて下端の框状につながっている。04鳥居でいうと貫から下がちょうど「Ⅲ」字のようになっているので、鳥居型というより、やはり扉型の方がよい。別石の勾欄部は、車のタイヤのような低い円筒形で、側面には架木や束、平桁が陽刻されている。また、構造的には二分割される塔身軸部をつなぎとめる役割を持っている。上端径約70cm、下端部径約78cmで高さは約25cm。さらに勾欄部から上部に続く首部は、基底部径約58cm、笠石との接合部分の径約54cmで高さは約11.5cm。先端を笠裏に空けられた円形の穴に枘のようにはめ込むようになっている。05_2笠裏には垂木型や斗拱型は一切刻まず、広い面積を粗面のままとしており、これに比較して首部がやや細く見える点を考えれば、別石の斗拱型を首部との間に挟んでいたとしても不思議ではない。もっとも笠裏の枘穴構造が本来のものであれば、別石の斗拱型は元々無かったと考えるべきかもしれない。笠石は軒幅約135cmもある。それに比べ高さは約56cmとかなり低平である。軒口の厚みは中央で約13cm、隅では約16.5cm。135cmという軒幅に比して軒口はあまり厚いとは言えない。軒反りは緩く穏やかで、軒口の隅増しも顕著でない。軒の一端が欠損している。笠上端に通常同石で刻みだされる露盤は見られない。削り取られたのか、元々作り付けられていないのか、笠頂部に載せられている層塔の塔身をどけてみれば何らかの手がかりが得られるかもしれないが現状では不明とするほかない。露盤は、相輪と同石とするなど笠と別石とする事例もないわけではない。現状の笠上端の幅は約38cm。笠上端から四注の隅降棟にかけては宝塔の特徴である突帯がある。隅降棟の突帯の断面は凸状ではなく、鈍角の△状を呈する。隅から約7.5cm入ったところでこの突帯は収束し、突帯先端には鬼瓦を表現したと思われる突起がある。
刻銘、紀年銘はないが、低平でやや不整形な基礎、背の高い塔身とほとんど横張りのない円筒状の軸部、低平で伸びやかな笠石の造形などは古調を示す特徴と判断して特に支障はないだろう。隅増のほとんどない穏やかな軒反の様子は廃少菩提寺多宝塔にも通じる。また、隅降棟の断面形状や素っ気ない笠裏の作りなど、定型化した宝塔には見られない特徴といえる。一方、大きい扉型の上品な陽刻突帯などはかなり洗練された意匠表現である。こうした特徴を総合的に勘案すると、造立時期は鎌倉時代中期の終わり頃から後期の初め頃、概ね13世紀後半頃とするのが穏当なところではないかと思われる。
基礎、塔身軸部、勾欄部と部材を分割して組み合わせる構造形式は特異で、特に塔身を縦断二分割する手法は非常に珍しい。こうした分割方式は、本塔のような大型塔の運搬上の便宜を図るための策と考えることもできよう。なお、笠上の層塔の初層軸部や宝篋印塔の笠もなかなか立派なもので鎌倉時代後期頃のものと思われる。このほか境内には小型の五輪塔や宝篋印塔の残欠、石龕仏等がいくつか集積されている。

参考:川勝政太郎『歴史と文化 近江』

最近再訪しコンべクス略測をしたので粗々の法量値を記載します。あくまでコンべクス略測ですので多少の誤差はご寛恕願います。なお、2007年1月27日の記事に現状高217cmとあるのは『歴史と文化 近江』の記述に依ったものです。今回は自分で測りました。とにかく一目見た時の
大きいなぁという印象が強く、かねがねサイズについてはもう少し詳しく紹介したいと考えておりました。前にも触れましたが宝塔の前にある説明看板はちょっと目障りですね。素晴らしい宝塔の正面にあるのに宝塔には一切触れていないというのはちょっとどうかと思います…。


滋賀県 湖南市東寺 長寿寺石造多宝塔(その2)ほか

2012-11-19 21:57:14 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 湖南市東寺 長寿寺石造多宝塔(その2)ほか

秘仏のご本尊ご開帳と聞いて訪ねてみた。紅葉に彩られた境内は思いのほか美しい。
01_4 長寿寺は、阿星山と号し、常楽寺、善水寺と並んで近年、湖南三山として売り出し中
の寺院である。02_3
湖東三山(西明寺,金剛輪寺,百済寺)もそうだが、山腹や丘陵に位置するこうした寺院には優れた古建築や古美術がたくさん残され、古代・中世以来の山岳寺院の遺風を今に伝える貴重な存在である。長寿寺を含む付近の山手にはかつて阿星山五千坊(5千はちょっとオーバーか?)と称された一大天台仏教圏が存在したといわれている。天台王国とも称される近江には、ほかにも同じような山岳寺院が各地にもっともっとたくさん存在していた。それらの多くは早くに退転・廃滅し、わずかに地元に伝わる伝承、客仏となった仏像、あるいは痕跡となる連続した平坦面を山林中に残すだけになってその詳細については意外にほとんど知られていない。01_4
謎に包まれた山岳寺院の実態について、少しづつ明らかになりつつあるようだが、今のところはその詳細な解明が今後一層進むことに期待するしかない。湖南三山や湖東三山のような寺院がその法灯を今日に伝えているのは、むしろ稀有の例と言えるかもしれない。
これらの寺院には、優れた古建築や古美術の陰に隠れてそれほど知られていないが、実は見るべき石造美術がたくさん残されている。長寿寺の石造多宝塔もそのひとつである。02現状高3.6m余、相輪が揃っていれば4mを優に超える花崗岩の巨塔である。
詳しくは2007年1月24日の記事を参照いただきたいが、改めて見るべきポイントをかいつまんで述べておく。割石・自然石を組み合わせた二重の方形基壇、低平で大きくやや不整形な基礎、基礎上端面の塔身受座の段形、縦長の塔身と面取り、饅頭型部や斗拱型の石材の切り合い、重厚かつ温雅な軒反の様子、二重にした上層笠の錣葺などで、これらの点に留意して野洲川対岸の廃・少菩提寺跡の石造多宝塔と見比べてもらい、近江における鎌倉時代中期の古石塔の真髄をご堪能いただければと思う。

付近の石造物についても若干触れると、長寿寺門前に道を挟んで甍を並べる十王寺の門前の箱仏群、地蔵の種子「カ」を刻んだ板碑、十王寺境内の石造宝塔残欠は少なくとも2基分があり、うち寄せ集めになった笠だけの残欠は露盤上に特色がある。それから集落を北に少し下った道路脇にある東寺集落共同墓地は中世石造物の宝庫で、数基ある大きい五輪塔には鎌倉末から南北朝頃のものが含まれ、地輪に2体の像容を刻んだ珍しいものもある。さらに墓地入口の地蔵石仏は格狭間のある台座に立つ優品。また、内壁に五輪塔レリーフを刻んだ大きい石龕も見落とせない。かつては中に石仏か五輪塔を安置したものと考えられ、宝珠や笠の軒反からおそらく室町初期を降らない頃のものと思われ貴重。これらについてはいずれ改めてご紹介したい。
 
写真左下:十王寺門前の地蔵種子板碑、下端は欠損している模様。右下:十王寺境内の宝塔残欠のうち笠と塔身が一具と思われる方のもの、基礎と相輪を失うが瀟洒な作風で14世紀中葉頃の作だと思います。
 
長寿寺本堂は鎌倉時代初め頃のもの、お隣の白山神社の拝殿は室町中期の建築で、神社横の高台にある三重塔跡には今も礎石が並んでいますが、安土城に建っている木造三重塔、あれが昔ここにあったんだそうです。織田信長によって總見寺に移築されたそうです。それから、はじめに触れたように、この秋は、長寿寺のご本尊、秘仏・地蔵菩薩立像のご開帳です。ご開帳は50年に1度のことだそうで、次は50年後かもし
れませんよ。見逃せませんね。美しい紅葉に彩られた今のシーズン、観光客も思ったほどではないので、ぜひお薦めです。小生は湖南三山の中では長寿寺の落ち着いた佇まいが一番お気に入りです。


滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その3)

2012-03-31 23:26:52 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その3)

国宝の多宝塔のある平坦地の西の隅、位置的には経蔵と宝蔵の中間付近にあたる目立たない場所に「めかくし石」(一説に「めくら石」とも)と呼ばれる石造宝塔がある。04詳しくは知らないが目隠しをして塔身を抱きとめることができれば願い事が叶うということらしい。03_3花崗岩製。直接地面に基礎を据えた堂々たる宝塔で、現状高約312cm。相輪は後補でこの相輪を除く笠上までの高さだけでも2mを越す大型塔で、元は十尺塔であろう。基礎は高さ約48cm、幅は上端で約121cm、下端で約125cm、下端の北西隅は大きく欠損したようになっており20cm前後の石をいくつか込めて安定を図るとともに形を整えている。基礎の下方は全体的にやや不整形で、欠損したように見える部分も当初からこうなっていた可能性もある。各側面とも素面。塔身はやや胴張りの円筒形の軸部の上端に首部を一石彫成し、素面で扉型などの装飾は見られない。塔身全体の高さは約93cm、軸部の高さ約76cm、最大径約82cm、首部は高さ約16cm、下端の径約63.5cm、上端で約60.5cm。笠石は軒幅約106.5cm、高さ約63cm。軒の厚みは中央で約13.5cm、隅で約14cmと笠全体のサイズに比して特に厚いという程ではなく、隅増しがほとんどない。軒反は緩やかで真反りに近い印象である。01笠裏には垂木型など作らない素面で、中央に塔身首部を受ける円形の彫り沈めを設けている。笠は全体的に背が高い印象を受ける。屋根の勾配も急で四注は鋭くしのぎ立てているが降棟の突帯は見られない。03_2笠頂部には低い露盤を刻み出す。その幅は約36cm、高さ約5.5cm。相輪は高さ約108cm、風化が少なく、宝珠先端の尖りが大きいのは近世の特長で後補である。無銘。3mを越す規模の大きさ、一切の装飾を廃した無骨な意匠が特長で、全体にどっしりとした安定感があり、大きく背の低い基礎、やや背の高い円筒形の塔身、隅棟の突帯がない屋根の四注、軒の様子などは鎌倉時代中期に遡る古い特長である。一方、笠の背が高く屋根の勾配が急でかつ屋根の反転(軒口の隅付近の反転ではない)が目立つ点はやや新しい要素である。古い要素を評価された川勝博士は鎌倉時代中期とし、逆に新しい要素を積極的に評価した田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半、永仁頃(1295年)の造立と推定されている。02四注をしのぎだてることで隅棟を強調してみせるために屋根の側面を強めにそぎ落としてシェイプアップした結果、屋根面の反転が大きく見えるのであって、これはそれほど新しい要素として重視しなくても良いと小生は思う。したがってもう少し造立時期を遡らせて支障ないと考えるがいかがであろうか。重要美術品指定。

石山寺にはもう一基、石造宝塔がある。瀬田川の眺望を抱く月見亭と呼ばれる望楼建築があり、その直下、一段下がった梅林に面した崖下にある淳祐内供の塔とされるのがそれである。玉垣をめぐらせた中に建ち、石山寺第三代座主、淳祐(890~953)の墓塔と伝えられる。01_2淳祐は菅原道真の孫に当たる平安時代中期の真言宗の高僧で、石山寺中興の祖と仰がれる人物。聖宝、観賢とつながる小野流の正統を継ぐべきを自ら辞退して石山寺普賢院に入り、事相研究と後継育成に努め今日の石山寺の基礎を築いたとされる。宝塔は花崗岩製で相輪先端を欠き、現存塔高約171.5cm。地面に延石を方形に並べた基壇は当初から一具のものか否かは不明だが、その上に据えられた基礎は、高さ約33.5cm、幅約71cmとかなり低い。各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配する。輪郭は左右束部分が広く、格狭間内は素面で格狭間の作りは少々ぎこちなく形状もやや不整形だが彫りが深いのが特長。脚間並びに上部中央花頭が狭いので水平方向への伸びやかさに欠ける。塔身はやや胴の張った円筒形の軸部の上部に首部を一石彫成し、高さ約46.5cm、最大径約40.5cm。軸部の高さ約40.5cm。首部は高さ約5.5cmで、首部の基底部径約30cm、上端部で径約28cm。側面は素面で扉型などの装飾はみられない。笠は軒幅約62.5cm、高さ約41cm。軒口の厚みは中央で約8.5cm、隅で約12cm。笠裏には二段の斗拱型を設け、屋根四注の降棟は断面凸形の突帯で表現する。笠の頂部には露盤を刻み出す。降棟の突帯は屋根の上端まで達せず、屋根の露盤近くに一段素面部分を帯状に周回させるのはあまり類例のない手法である。露盤は高さ約5.5cm、幅は下端で約23cm上端はそれより約1cm狭い。相輪は先端を欠き、高さ約50cm。九輪部の八輪め以下が残る。伏鉢の曲線はスムーズで下請花は弁端をしのぎ立てた形の覆輪付単弁八葉。九輪部の凹凸は明瞭である。基礎は背が低く、笠は屋根が低平で軒口は適度な厚みを持ち、軒の張り出しに軽快感がある。基礎の輪郭束の幅を広くしてやや不整形な小さめの格狭間を置くのは、東近江市柏木町の正寿寺宝篋印塔妙法寺薬師堂宝篋印塔など近江では鎌倉時代中期末から後期初頭頃の石塔基礎側面に共通する手法。塔身は基礎と笠のサイズに比べて小さ過ぎの観が否めない。加えて風化の程度、石の色や質感なども異なるように見えるため別物の可能性も払拭し切れない。無銘であるが田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半頃のものと推定されている。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸「近江石山寺の石造美術()」『民俗文化』第144号

 

これまた法量値は田岡氏の報文に拠りますが、数値は2捨3入、7捨8入で5mm単位に丸めさせていただきました。めかくし石はやはり鎌倉中期の後半頃でよいと思います。一方伝・淳祐内供塔は難しいです。笠と基礎にも年代の不整合があるような気がします。笠は田岡説よりもう少し新しいようにも思えますが…うーんどうなんでしょうか。石山寺の石造美術はひとまずこれで終りですが、伝・悪源太(悪七兵衛)の供養塔とされる宝篋印塔は見学機会があれば改めてご紹介したいと思います。なお、『民俗文化』143号の田岡報文によれば、これらのほかに延元2年(1337年)銘の五輪塔地輪と思われる石造物があるそうです。場所は伝・悪源太(悪七兵衛)塔のさらに奥まった場所らしく、やはり立入禁止区域のようなので実見できません。田岡報文に基づいてざっと述べると、緻密な砂岩質の石材で幅約56㎝、高さ約30㎝。側面三方にわたり「従五位/左近衛/将監兼/石見守/身人部/清鷹/延元二年/三月十日卒/忠臣」との刻銘があるようですが、石の表面の仕上げ方や書体等から田岡氏は近世の後刻と断定されています。実見できないので何ともいえません。身人部清鷹という人物について詳しくありませんが南朝方の忠臣ようです。同報文を読むと延元2年の五輪塔基礎?は、そもそも景山春樹氏の『近江の金石文資料』にあったそうです。きちんと調べもしないで後刻のこんなのを載せている!として厳しく景山氏を非難する田岡氏の舌鋒は例によってたいへん鋭いものがあります。しかし、わざわざ行数を裂いて何もここまで言わなくてもいいと思いますが…。すいません余談でした。


滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝塔

2009-08-03 01:27:09 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝塔

近江富士、三上山の南東麓、山裾に抱かれるようにして北桜の集落がある。集落のほぼ中央に位置するのが浄土宗不老山多聞寺である。01境内東側、本堂向かって右手の墓地北端、ブロック塀に囲まれた一画に小柄な石造宝塔が立っている。延石を並べて周囲より一段高く区画し、その中に平面方形の低い一石からなる切石の台石基壇を設けているが、この基壇は当初からのものか否かはわからない。02さらに背後に平らな自然石を屏風状に立てかけている。塔本体は基礎から相輪まで揃っており、花崗岩製、高さ約125cm。基礎は幅約38cm、高さ24.5cm。側面は紙面とも薄めの輪郭を巻き内に格狭間を配している。西側正面のみ格狭間内に三茎蓮のレリーフが見られる。中央の茎部分が不自然に膨らみ下端には逆台形がある。はっきりしないがこれは宝瓶を表現したものと思われる。この外の3面は格狭間内素面である。塔身は高さ約34cm、軸部、縁板(框座)部、匂欄部、首部を一石で彫成する。軸部は最大径が高い位置にあり、肩の張った下すぼまりの形状を呈し、正面だけに鳥居型を薄く陽刻している。縁板(框座)部は比較的厚く、匂欄部、首部と径を減じていく。笠は軒幅約36.5cm、高さ約25cm。笠裏に2段の斗拱型を刻み出している。軒口は薄く隅近くで厚みを増しながら反転する。四柱の隅棟は断面凸状の突帯があり露盤下で左右が連結する。笠頂部には幅約14cm、高さ約3.5cmの方形の露盤を設けている。相輪は高さ約40.5cm。伏鉢が円筒状に近く、下請花は複弁八葉で九輪下端との径の差が少なくメリハリがない。九輪の彫りは浅く凹凸がハッキリしない。上請花は風化が進み花弁が明確でないが単弁のように見える。上請花、先端宝珠は全体に平らな形状で側面に直線的な硬さがある。紀年銘などは見られないが田岡香逸氏は肩張の塔身や相輪の硬い感じなどから1335年頃のものと推定されている。全体の規模の小ささ、肩が下がりぎみの格狭間の形状、縁板から首部にかけてのやや野暮ったい感じなども考慮すると、田岡氏の推定よりもなお時期が下る可能性もある。概ね14世紀中葉頃から後半にかけてと考えて大過ないだろう。細部の表現に退化傾向が認められるものの、全体としては各部の均衡のとれた手堅い手馴れた感じの作風で、何より基礎から相輪まで揃っている点は貴重である。

参考:田岡香逸「近江野洲町の石造美術(後)―北桜・南桜・竹生―」『民俗文化』103号

このほか、境内には多数の一石五輪塔に交じって14世紀代の宝篋印塔の笠、五輪塔や層塔の残欠が見られます。また門前の小堂内には大永2年銘の完存する宝篋印塔があります。これらはまた別の機会にご紹介します。

どうでもいいことなんですが、参考にした『民俗文化』103号の田岡氏の報文に「定形式が進んだものとはいえ、なお、よく整備形式を留めているこの塔の構造形式を室町中期も終りに近い大永2年に比定しているのは、言語道断というべきである。」として卯田明氏を批判というより非難されていますが、いくらなんでも「言語道断」というのは言い過ぎだと思います。文章を読んだ人の心象が悪くなって田岡氏が損をするだけではありません。こんなことを言われたら地道に取り組む地域の研究者がやる気をなくして筆を折ってしまいますよ。板碑の権威、服部清道氏も若い頃はそうだったらしいですが、それで板碑の研究がしばらく停滞しまったそうです。むろん井の中の蛙でもダメですが、逆に一将成って万骨枯るようなことでは、いつまでたっても裾野は広がらないと思います、言い方ひとつのことなんですが、ま、余談でした。


滋賀県 高島市新旭町針江 日吉神社宝塔及び板碑

2009-03-10 23:30:39 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市新旭町針江 日吉神社宝塔及び板碑

針江集落の西寄り、鳥居の前を流れる水路の澄んだ水が印象深い日吉神社は、永仁2年開基の石津寺の鎮守社として寺と同時に創建されたと伝えられる。祭神は玉依姫。明治初期までは石津十禅師と称した。22境内は手入が行き届き、社杜の木立は遠くからもよく目立つ。石津寺の方はすっかり退転しているが今も境内を接するように小宇が残されている。拝殿の北東側の境内東側、椋の巨木の根元に古い石造宝塔が立っている。17あるいは石津寺の遺品なのかもしれない。宝塔の北側には板碑が、南側には層塔の残欠が接するように並んでいる。宝塔は花崗岩製で直接地面に基礎を据えているらしく基壇や台座は確認できない。相輪を亡失し、現高約200cm余。元は10尺塔と推定される巨塔である。基礎は幅が約93cmもあって、高さは約56cm、側面は四面とも素面で、西側正面に2行にわたり「徳治弐年丁亥/11月日」の刻銘があるとされる。摩滅が進み辛うじて文字らしきものがあるのが認められる程度で肉眼では判読できない。塔身は軸部、匂欄部、首部の3部を一石で彫成し、高さ約83cm。円筒形の軸部は素面で鳥居型などの装飾は見られない。匂欄部、首部ともにやや高さがあってその分軸部の高さが足りない感じを受ける。笠は軒幅約80cm、笠裏には2段の段形により斗拱部を刻出する。軒口は厚く、隅に向かって厚みを増しながら反転する軒反は、下端に比べ上端の反りが目立つものの非常に力がこもっている。頂部には露盤を削りだし、四注の隅降棟の突帯は、断面かまぼこ状で明確な三筋になっていない。露盤下で左右が連結するのは通例どおりである。12相輪の代わりに五輪塔の空風輪を載せている。基礎と塔身のサイズに比べ笠がやや小さい感じがありアンバランス感を禁じえない。塔身首部の径が約40cm、笠裏の下端の幅が約42cmでほとんど同じ幅である点も不審である。石材の質感や風化の程度からは違和感はなく接合面の枘などを観察しないと即断できないが、笠は別物の可能性も完全には否定しきれないように思う。もっとも田岡香逸氏は一具のものとして支障ないと判断されており、もともとこういうデザインだったのかもしれない。格狭間や鳥居型などの装飾的表現を排したシンプルさは、笠の軒の力強さとあいまって何というか質実剛健な印象を受ける。石造宝塔の多い湖西でも屈指の巨塔で、徳治2年(1307年)の紀年銘がある点も貴重。また、宝塔の北側に2本の石柱が立っているのを見逃してはならない。これは近江では比較的珍しい板碑である。花崗岩製で石材の性質上、平らに彫成するのが難しいため、関東に多い扁平なタイプの板碑ではない。それでも幅が奥行きに勝る柱状を呈する碑伝系もので、現在の地上高はそれぞれ約1.2m前後、幅約36cm程である。手前西側の石柱は上端を山形に尖らせ、その下に2条線を刻み出し額部に続く。山形の先端は少し欠損している。23二条線及び額部の彫りは正面だけでなく左右側面に及んでいる。平らに彫成した身部に枠線はなく、正面上寄りに薬研彫された大きい梵字が上下に配されている。上は金剛界大日如来の種子「バン」、下は胎蔵界大日如来の種子「ア」で、金胎大日の種子碑というべきものである。東側後方のものは素面の断面長方形の石柱状で上端に円形の枘穴があり、前後の石を継ぎ合わせていたものと考えられている。2つあわせた高さは3mを越えると推定されている。現状では銘は確認できないが、埋まっている部分におそらく銘があるものと田岡香逸氏は述べておられる。また、田岡氏は日野町村井の杜氏墓地の延慶3年(1310年)銘の板碑などとの比較から、延慶初年から2年頃のものと推定されている。形状や細部表現の比較だけで1年や2年の違いを実証するのはいくらなんでも困難であると思われるので「延慶初年から2年」というのをそのまま受け入れることはできないにしても、造立年代として鎌倉時代後期14世紀初め頃というのはひとつの見方であろう。ただ、小生は種子の書体や二条線の切れ込みや額部の彫成にいまひとつ鋭さが感じられないことからもう少し新しく14世紀中葉頃に降るように思う。この点、後考を俟つしかない。南側の層塔残欠は、四面素面の基礎、四方仏の像容を舟形光背形に彫りくぼめた中に半肉彫りする初重塔身軸部、それに笠が1枚残る。五輪塔の水輪を一番上に載せている。塔身軸部と笠は一具のものと思われるが、基礎は風化の程度が異なり、別物か五輪塔の地輪かもしれない。寄せ集めの残欠に過ぎないがこれらも中世に遡る古いものである。

参考:田岡香逸 「近江の石造美術2」 民俗文化研究会

写真ではあまり大きさを感じませんが宝塔は相輪を欠いた現状でも2mを越える大きいものです。なお、田岡香逸氏の記述によれば、最初に徳治2年銘を判読されたのは川勝博士だそうです。流石です、ハイ。


滋賀県 大津市葛川坊村町 地主神社宝塔

2008-12-10 00:37:40 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市葛川坊村町 地主神社宝塔

地主神社は天台修験の聖地葛川の信仰的な中心として知られる息障明王院の南に隣接し、明王院の鎮守として一体的に信仰を集める古社である。千日回峰行の始祖とされる相応和尚を葛川に導き、不動明王を感得せしめた土着の神である思古淵神を祀ったのが起源とされる。04社殿は三間社春日造、文亀2年(1502年)の棟札が残るという。幣殿とともに大きい蟇股がたくさんあって蟇股内や絵様肘木の凝った彫刻が美しい室町時代の優れた社殿建築である。目指す石造宝塔は参道石段を登って左手にある手水屋の横にある。柵などはなく、やや唐突な感じで立っている。高さ約194cm、元は7尺塔と推定される。花崗岩製。地面に5枚の切石を組んだ一重の基壇を設けている。基壇の下半は埋まって下端は確認できない。03基壇上に据えた基礎は幅約68cm、高さ約41cm、北側を除く3側面は輪郭で枠取りして格狭間を配する。北側は切り離しの素面で、田岡香逸氏の報文によれば6行の刻銘があるとされる。風化摩滅で辛うじて左端に「康永四乙酉(1345年)三月廿二日」の紀年が判読できるとあるが、現在は苔がこびり付き刻銘を肉眼で確認することはできない。この北側面の下端中央に約11cm×約14cmの方形の穴があり奉籠孔と見られる。手首から先が余裕で入る大きさの穴で、田岡香逸氏の報文によれば、銘文がこの穴で途中で途切れているらしく、これによりこの穴が後から穿たれたものと断定されているが、盗掘穴でなければこのような穴を後から穿つ理由について見当がつかない。あるいは、刻銘を刻んだはめ込み式の蓋があった可能性も否定できないと思われる。拓本などにより刻銘を詳しく検討すればはっきりするかもしれないが、後考を俟つほかない。側面輪郭の幅は狭く、彫りはやや深い。格狭間は輪郭内に大きく表現され、花頭中央がやや狭くなっているが側線から脚部に至る線はスムーズで概ね整った形状を示す。01格狭間内は微妙に盛り上がった素面で近江式装飾文様は見られない。塔身は軸部と縁板(框座)、匂欄、首部の四部構成で一石彫成。軸部には扉型などは確認できず素面と思われる。肩付近に最大径がある円筒形で、亀腹に相当する曲面部分を経て低い円盤状の縁板(框座)を廻らせ、2段にした首部に続く。0022段のうち下段は匂欄部を表現すると思われる。首部上段はやや細く笠裏の円穴にはめ込まれる。塔身は表面の荒れが目立ち風化が進んだ印象。笠は軒幅約65cm、笠裏に2段を削りだし斗拱部を表現する。軒中央の水平部が目立ち隅近くでわずかに厚みを増して反転する穏やかな軒反で、軒口あまり厚くない。軒先の一端が欠損している。欠損部断面を見ると新しそうだが、昭和52年8月に調査された田岡香逸氏の報文に添えられた写真でも既に欠損していることが確認される。四注には断面凸状の隅降棟の突帯が表現され屋だるみは比較的顕著である。笠全体に高さがない割に屋根の勾配がきつく見えるのは、笠頂部の面積が広いためであろう。笠頂部にあるべき露盤が見られないので笠全体にしまりないものとなっているが、笠頂部をよく見ると不自然な凸凹がみられ、何らかの理由で露盤部が破損したため、はつりとったものと推定される。相輪は伏鉢を亡失し、複弁の下請花から始まっている。九輪の凹凸はハッキリ刻まれるが逓減が目立つ。上請花は小花付単弁、高さが不足ぎみで幅が広く先端宝珠とのくびれが目立つ。宝珠は重心が高く側線に直線が目立って硬さが出ている。全体的に表面の風化が進み、細かい欠損もあるが主要部分がほぼ揃い、優れた造形を見せる。基礎の紀年銘も貴重で文化財指定あって然るべき優品である。

参考:川勝政太郎 「歴史と文化近江」 58~59ページ

   田岡香逸 「近江葛川の宝塔など(前)―付勝華寺の弘長二年石湯船補記―」『民俗文化』172号

写真下左:まずまずの格狭間、写真下右:北側面下端の穴。けっこうでかい穴ですがやっぱり奉籠孔に見えます…。ここに刻銘があるはずなんですがごらんのとおり苔が蔓延って確認不能です。この苔は根がしぶとくこびりつくタイプで風化摩滅を助長します。刻銘の行く末が心配されます。田岡氏の報文に載せられた拓本を見る限り完読は厳しいかもしれませんが紀年銘以外も何文字かは読めそうにも見えます。田岡氏の調査から30年が経過し、苔と霜による侵食・風化がさらに進んでいることも予想されます。これ以上風化が進行しないよう保存保護が図られるとともに、一刻も早く失われつつある刻銘の判読が試みられオーソライズ(記録保存)されるよう願うばかりです、ハイ。


滋賀県 大津市真野4丁目 神田神社宝塔

2008-11-21 00:12:34 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市真野4丁目 神田神社宝塔

琵琶湖大橋の北西約1.km、真野小学校の南に神田神社がある。社殿の南西側、社殿背後の石垣に近接して石造宝塔がある。自然石を組んで方形壇をしつらえた上に、板状の切石を前後2枚並べた基壇を置き、その上に基礎を据えている。自然石の方形壇は新しいもので上端がモルタルで塗り固められている。02約72cm×約71cm、高さ約21cmの切石基壇は当初からのものである可能性もある。塔高約157cm。元は5尺塔と思われる。キメの粗い花崗岩製で、全体に風化が進み表面の荒れが目立つがこれは石材のせいかもしれない。基礎は幅約48cm、高さ約24cmと低く安定感がある。側面は四面とも何の装飾もない素面。刻銘も確認できない。塔身は高さ約43cm、框座や匂欄の段形は見られず首部と軸部を一石彫成する。軸部の径約36cm、やや下がすぼまった円筒状で首部は径約30cm、高さ約7.5cmと太く高さがある。塔身にも何ら装飾はなく全くの素面である。笠は軒幅約45cmに対する高さ約27cmと全体的に低い印象で、笠裏には厚さ約1cmの一段の垂木型がある。垂直に切った軒口は隅に向かって厚みを増しながら反転し、軒反は下端に比べ上端が顕著である。01 屋根の四注は屋だるみを持たせ軒先に向かう反りに軽快感がある。四注の隅降棟の突帯表現は見られない。笠頂部には露盤を刻みだしているが風化によって角がとれ判りにくくなっている。相輪は高さ約62cm。九輪中央で折れたのを接いでいる。伏鉢と上請花は比較的背が高く側辺の直線が目立つが下請花と宝珠はそれ程でもない。宝珠は低い団形に近い形状を示す。風化により請花は上下とも蓮弁がほとんど摩滅している。九輪の凹凸はクッキリしないが線刻式のものではなく逓減はそれほど目立たない。各部揃っている点は貴重で、基礎の輪郭や格狭間、軸部の扉型などの装飾を排した全面素面の簡素でシンプルな意匠表現が笠の軽快な軒反とあいまって非常にスッキリした印象を与える。基礎の低さ、匂欄や框座を設けない円筒形の軸部と太く高い首部からなる塔身、隅降棟突帯のない低い笠、相輪の逓減が目立たない点はいずれも古い要素である。一方、下端より上端が顕著な笠の軒反り、伏鉢などに直線的でやや硬い感じがある点、5尺塔とやや規模が小さい点などは新しい要素といえる。田岡香逸氏は素面の意匠表現を簡略化とみなし1390年頃の造立と推定されている。『滋賀県石造建造物調査報告書』では理由が明らかにされていないが室町時代中期としている。比較検討できる装飾表現がみられない分、造立時期については判断が難しく慎重さが必要と考える。あえて踏み込んだ意見を述べると、シンプルさを単純に簡略化とみなす根拠はやや弱いような気がする。また、笠の軽快な印象はたしかに新しい要素であるが、それだけで基礎の低さや塔身の形状、低い笠と突帯表現のない四注などの古い要素を打ち消してしまうだけの確度がある要素になりうるのか、慎重に検討しないといけないと思う。逆に古い要素をもっと積極的に評価するならば鎌倉時代後期でも早い時期、13世紀末~14世紀初頭頃にもっていくことも可能ではないかと考える。案外古いものかもしれないというのが小生の感想であるがいかがであろうか。博学諸雅のご批正を請いたい。

参考:田岡香逸 「大津市北部の石造美術―下坂本から真野へ―」『民俗文化』124号

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 108ページ

例によって法量値はコンベクスによる実地計測によりますので、若干の誤差はご容赦ください。こういうシンプルなものはヒントが少ないので年代推定が難しいです。わかんない分さまざまな見方ができるわけです。真実はひとつなんでしょうが、あまり独善的にならず、懐を深くしていろんな可能性をなるべく排除しないであれこれ考えていくのが楽しいですよね。まだまだ近江宝塔シリーズも続きます。いつからシリーズになったの!?


滋賀県 甲賀市水口町岩坂 最勝寺宝塔

2008-10-09 00:22:26 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 甲賀市水口町岩坂 最勝寺宝塔

最勝寺は岩坂集落の西方山中にある。現在無住だが地元で手厚く管理されているようで、閑静な境内はよく手入れされている。苔の緑が美しい本堂正面の空間に石造宝塔が立っている。07大吉寺跡の宝塔から建長三年銘が発見されるまでは近江在銘最古の石造宝塔として早くから知られた存在で、近江でも屈指の古い在銘遺品である。14相輪の大半を亡失して現高約192cm。元は9尺塔と考えられる。総花崗岩製。基礎は直接地面に据えられているようだが下部の1/3ほどが埋まって下端が確認できない。基礎は大きい亀裂が縦方向に入り都合3つに割れている。側面は四面とも幅の広い輪郭を巻いて格狭間を入れる。左右の束が特に幅広になっている。格狭間内は素面で平らに彫成されており、近江式装飾文様は認められない。格狭間に特長があって、輪郭内の面積に比べて全体に小さく、上部の花頭曲線が水平方向にまっすぐになって肩が下がっていない。花頭中央の幅は狭く、側線はどちらかというとふくよかさに欠け、特に在銘面の向かって左側の側線などはむしろやや角張っているようにさえ見える。格狭間の形状はお世辞にも整美とはいえず古拙というべきであろう。こうした基礎の特長からは、東近江市柏木正寿寺の宝篋印塔など、だいたい13世紀末頃以前、近江でも古手の部類に入るとされる石塔類の基礎に通有する意匠表現を見出しえる。06基礎の下端は地中にあって確認できないが、高さに対して幅が広く、低く安定感のあるものであることは疑いない。田岡香逸氏と池内順一郎氏で報告の計測値に若干の差異があるが、概ね幅約93cm、高さ約49cm。西側の向かって右の束に「大勧進僧…(以下判読不能)」左に「弘安八年(1285年)十月十三日乙酉造立之」と陰刻する。乙酉は十月のやや上の左右に配置している。大勧進、弘安八年は肉眼でも十分確認できる。塔身は円筒形の軸部、匂欄部と思しき段形を持つ首部を一石で彫成している。軸部は四方に大きめの扉型を薄肉彫りする。扉型は長押が一重で鳥居状にならない単純な構造。左右の方立と長押ともに幅広で、扉型に囲まれた長方形の区画内に舟形背光を彫り沈め、蓮華座に座す四方仏を半肉彫りしている。面相、印相ともに風化の進行でハッキリしないが、田岡香逸氏によれば西側から釈迦、北側阿弥陀、東側弥勒、南側薬師の顕教四仏とのことで、各尊の方位は違っている。わずかな痕跡から可憐な面相がうかがえる。また通常の蓮華座と異なり下半に矩形座を設けているとのことであるが下半身を大きめに造作したようにも見え、その辺りは肉眼では確認できない。背光は像容に比べやや小さめである。左右の扉型方立の外側には開いた扉を表現した台形があり、隣り合って連結して見えるため上に下向きの矢印、下に三角形の彫りくぼめがあるようにも見える。11亀腹部の曲面は狭く、匂欄部を表したと思われる太く高い段形最下部、さらに中段、上段と徐々に高さと太さを減じる3段の段形からなる首部に続いていく。塔身高さ約66.5cm。笠は全体に低く、笠裏には薄い3段の段形の斗拱型を刻みだす。笠高さ約48cm、軒幅約75cm。軒口は非常に分厚く、隅に向かって全体に緩く反転する軒反には力がこもっている。隅増しは顕著ではない。軒の厚みがある分屋根の勾配は緩く、四注の屋だるみも軒反にあわせて絶妙な曲線を描く。隅降棟は、通例の断面凸状とせず、断面半円形の突帯とし、露盤下で左右が連結している。頂部には露盤を比較的高めに削りだしている。相輪は伏鉢、下請花、九輪の最下輪を残し九輪2輪以上を欠損している。伏鉢並びに下請花の曲面はスムーズで、くびれ部にも硬さや弱さは感じられない。下請花は単弁。わずかに残る九輪は凹凸をハッキリ刻み込むタイプであることがわかる。全体に剛健な印象で、細部の意匠には古拙さがある。以上まとめとして特長を改めて列記すると、①低く安定感のある基礎、②幅広い輪郭、③輪郭の左右の束が広い、④輪郭内の広さに比して小さめの格狭間、⑤格狭間内に近江式装飾文がない、⑥格狭間花頭曲線中央の幅が広くない、⑦シンプルな扉型と左右に開く扉の表現、⑧円盤状の縁板(框座)を持たない塔身、⑨ほとんど下すぼまり感のない円筒形の塔身軸部、⑩分厚い笠の軒口、⑪薄めの段形による斗拱型、⑫緩いが真反りに近い力のこもった軒反、⑬緩い屋根の勾配、⑭断面凸状の三筋にならず、かまぼこ状の突帯による隅降棟、⑮単弁の相輪下請花、⑯凹凸をハッキリさせた九輪といったところだろうか。13世紀後半の紀年銘とあわせてこうした特長をとらえていくことが肝要ではないかと考える。また、こうした特長が複合的に見る者の視覚に作用し、塔全体として醸し出される雰囲気を構成しているのである。基礎の輪郭・格狭間、塔身の扉型、笠の隅降棟など典型的な石造宝塔としてのマストアイテム的な特長のいくつかは備えつつも、先に紹介した竜王町島八幡神社宝塔(2008年7月15日記事参照)などに見る14世紀初め以降の「定型化」したともいえる石造宝塔とは明らかに違う雰囲気を感じる。細部の特長やそれぞれの特長の違いを詳しく見ていくことに加え、こうした全体の雰囲気をつかみとることも石造美術を理解していくうえで欠かせないのではないかと思う。いずれにせよ最勝寺塔は近江の石造宝塔を考えていくうえで貴重なメルクマルである。なお、境内周辺にはこのほかにもいくつか中世の石造物の残欠が見られる。

参考:田岡香逸 「近江甲賀郡の石造美術」(3)―最勝寺・飯道神社― 『民俗文化』66号

   池内順一郎 「近江の石造遺品」(下) 217~218ページ

   川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」 101ページ

池内順一郎氏いわく、「宝塔が最勝寺塔であれば、多宝塔は廃少菩提寺塔、宝篋印塔は比都佐塔となるであろう。この最勝寺塔を見ないものは、石造遺品を語る資格がないといっても過言ではない。」とのこと。是非はともかく、ここまで言われてはご紹介しないわけにはいかないですね。ただ、お寺には地元自治会長に断りをいってから立ち入る必要があるようで探訪される場合はご注意ください。流石の市指定文化財。相輪の欠損が惜しまれますが、静寂な山寺の苔むした地面に立つ堂々たる佇まいに惹かれ、立ち去り難い気分にさせてくれる素晴らしい宝塔です。やはり小生も近江で最高の石造宝塔のひとつだと考えます、ハイ。


滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その2)

2008-09-17 00:56:00 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その2)

本堂跡の北西に頼朝供養塔との伝承を持つ石造宝塔がある。塔の回りは自然石を方形に並べて区画され、周囲より少し高くなっている。03_2全体に破損が目立ち、総花崗岩製で笠頂までの現在高約157cm、基礎は幅約92cm、高さ約44cmと非常に低く安定感がある。側面は輪郭格狭間式で、南面に三茎蓮花、西面に一茎未開敷蓮花のレリーフを配している。北面は格狭間内素面、東面は剥落破損が激しく明らかでないが、うっすら輪郭の痕跡のようなものが見えることからやはり輪郭格狭間があったとみて間違いない。01_2下端は埋まって地覆部はっきりしないが、束が広く葛部の幅が狭い。格狭間は輪郭内いっぱいに大きく表現され、花頭中央が広く伸びやかで整った形状を呈する。輪郭、格狭間の彫りは浅い。塔身は首部と軸部を一石彫成し、下がすぼまった円筒状の軸部は素面。軸部南側に「建長三年(1251年)辛亥/七月日」の刻銘が浅く大きい文字で彫られている。文字の存在は確認できるが、風化摩滅が進行し肉眼では判読が難しい。首部は太く短い。首部から亀腹部にかけて大きく破損したものを継ぎ合わせて修復してある。この部分は内部を丸く刳りぬいて奉籠孔を設けてあったものが、砕けて散乱していたものを拾い集め復元したものである。02_2笠は軒幅約82cm、高さ約45cm、屋根の勾配が緩く伸びやかな印象で、屋だるみも顕著でない。また、軒口はさほど厚みを感じさせず軒反も緩く、軒口の厚みの隅増しもほとんどない。笠裏には低い垂木型の一段を削りだし、中央を円形に彫りくぼめて浅い首部受けを設けている。四注に隅降棟を持たないのも特長である。笠の4隅の内、2箇所が破損し、その内1ヶ所は上手く接がれて修復されている。頂部には低い露盤がある。ぼろぼろに風化した相輪の九輪部の残欠が載せられている。これは当初のものと思われる。全体に破損が目立つ上に、表面の摩滅も激しく、田岡氏が指摘されるように、堂宇の火災で熱を受けた影響があるものと考えられる。Photo_2建長三年という紀年銘は、近江の石造宝塔としては在銘最古である。石造宝塔の鎌倉中期のメルクマルとして極めて重要な存在であり、輪郭、格狭間式の基礎側面の手法や近江式装飾文様を考える上でも欠くことのできない貴重な史料である。四注隅降棟を持たない伸びやかな軒先、緩やかな屋根の勾配、低くどっしりとした基礎、花頭中央が広く、輪郭内いっぱいに広がった大きい格狭間など、この塔の特長を把握しておくことが、石造宝塔はもちろん、宝篋印塔や層塔など他の形式の石塔や残欠にも通有する石造物の構造形式や意匠表現を理解するうえでいかに大切かは論を俟たない。このほか、本堂西側には六角形石燈籠の基礎がある。各側面に輪郭と整った格狭間を配し、上端は小花付単弁の蓮弁で飾り、中央に竿受の丸い孔が見られる。格狭間の形状から鎌倉後期頃のものとされている。Photo_3さらに中心伽藍跡から一段下がった山道脇に今も清水をたたえる苔むした長方形の石造水船がある。恐らくこれも中世のものだろう。石階段に南西にある鐘楼跡とされる土壇上には石造層塔の最上層ないし宝塔のものと思われる笠石が転がっている。軒幅は60cmほどはあろうか、小さいものではない。軒の様子から概ね鎌倉末期頃のものだろう。さらに覚道上人像のある石室の脇に石塔残欠や板碑、一石五輪塔などが集積されており、この中に文明19年(1487年)銘の宝篋印塔基礎が、そして元池といわれる涌水地点には明徳三年(1392年)銘の水船があるとされるがいずれも見つけられなかった。五輪塔の残欠や石仏などはいたるところに散見される。宝塔の修復は昭和44年5月のことで、地元の全面的な協力のもと、田岡香逸氏や福沢邦夫氏らが尽力されたとのこと。

参考:田岡香逸「滋賀県東浅井郡浅井町野瀬・大吉寺跡の石造美術」『近江の石造美術』(1)

   〃 「近江湖北・湖東の石造美術」(2)『民俗文化』70号

   川勝政太郎『近江歴史と文化』202~203ページ

   〃 新装版『日本石造美術辞典』181~182ページ

   平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25 971~972ページ

当時既に60歳を越える高齢で、しかも眼が不自由だったにもかかわらずこのような急峻な山に登り精力的に調査と復元に携わられた田岡香逸氏の熱意には今更ながら頭が下がります。ちなみに当時の田岡氏からみれば子どものような(実際には孫かひ孫の世代ですが)年齢の小生は、情けないことに道に迷ったせいもあり、息も切れ切れで、寺跡に着いても汗だくのまま暫く倒れ込んでしまいました。その田岡氏も平成4年に亡くなられ、その後の池内先生、瀬川氏の業績、最近では兼康氏ら研究がありますが、田岡氏のように求心力のあるピニオンリーダーが率先して未開の分野に切り込んでいった当時の勢いに比べると近江の石造研究の今日は寂しい限りです。田岡氏らの活動が盛んであった昭和40年代後半で近江の石造物の研究はストップしているといって過言ではない気がします。若い近江の石造研究者の奮起を期待せずにおれません。なお、現地は渓流沿いから右に折れる場所がわかりにくいので、道に迷うおそれがあり、軽装では本当に遭難する危険性があります。冬季は積雪と凍結で本格的な登山を覚悟しないと難しく、夏季は雑木下草の繁茂が激しく道を見失いやすいうえに、見通しが利かず遺構の見学に適しません。したがって春季ゴールデンウイーク頃が寺跡を探訪できる唯一のシーズンとされています。山道も寺跡も手入れされておらず、できれば存知おられる方の案内をお願いするか、少なくとも単独行動は避けるのが賢明かと思われます。ちなみに覚道上人というと、ほぼ同時代か一世代くらい前に、後嵯峨院の信任厚かった嵯峨浄金剛院第二代長老に同名の人物がいます。この人は大炊御門流の鷹司伊頼の子息で禅空といったらしく、浄土宗の碩学であるので、弥勒信仰の厚い大吉寺の覚道さんとは別人でしょうね…たぶん。寺跡は県指定史跡です、ハイ。


滋賀県 高島市マキノ町上開田 称念寺(薬師堂)宝塔

2008-09-15 00:24:28 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市マキノ町上開田 称念寺(薬師堂)宝塔

旧マキノ町上開田集落の東端、民家から少し上がった山裾に、称念寺(浄土宗)に属する薬師堂と阿弥陀堂が東西に並んでいる。21現地案内看板によると、元ここは西明寺という天台寺院で、廃絶後、称念寺に属する飛び地境内になったらしいが、昔から地元の人たちにより手厚く保護管理されているとのこと。06手入れがいきとどき明るく静寂な雰囲気に好感が持てる。参道入口、小川を挟んで反対側に小宇のあるのが称念寺のようだが現在無住の様子である。薬師堂に祀られる一木彫7尺余の薬師如来立像は像内に延久6年(1074年)8月25日の墨書銘があり、近江における11世紀後半の基準作としての重要性に鑑み、国の重要文化財に指定されている。ちなみに荘園整理令で知られるこの延久という年号は、6年の8月23日に承保元年に改元されている。したがって厳密には延久6年8月25日という年月日は存在しない。わずか2日の違いなので改元の情報が届いていなかったのであろう。また、阿弥陀堂の丈六阿弥陀如来坐像も平安末期のもので県指定文化財との由である。付近に比定される開田庄は、天元元年(978年)には既に存在しており、建長8年(1256年)、同5年に焼失した延暦寺実相院の造営料所となったとのこと。この実相院は薬師如来を本尊とし、当地との結びつきに何らかの薬師信仰が介在した可能性を指摘する説もある。参道の西側、杉の巨木の根元に立派な石造宝塔が立っている。14宝塔の東側には自然石を組んだ小祭壇が設けてあり、地元の方によると思しき香華が絶えない。相輪先端を亡失しているが現在高約260cmあり、元は10尺に及ぶ巨塔である。石材はやや褐色がかった花崗岩で、表面観察による印象の域を出るものではないが安曇川の三重生神社塔などに見る白っぽいきめの粗いものとは異なる。原位置を保っているかどうかは不明だが、基礎を直接地面に据えている。基礎側面は四面とも壇上積式の輪郭を巻き、羽目いっぱいに大きい格狭間を配する。格狭間内は比較的平坦に調整され素面で近江式装飾文様は確認できない。花頭中央の幅が広く伸びやかで、古調を示す。基礎幅約92cm、基礎下端が不整形で基礎高は一定ではないが約60cm前後。左右の束部の幅約12cm、葛部の幅約10cm。輪郭、格狭間の彫りはさほど深くない。04 塔身は首部と軸部を一石彫成し、高さ約71cm、軸部の径は下端で約62cm、肩のやや下で約63cmとほんの少し裾がすぼまるもののほぼ円筒形。表面は素面で縁板の円盤框座も見られず、首部は基底部径約42.5cm、高さ約10cm、基底から4cm余の高さのところに段があって、下段は匂欄を表現しているものと思われる。笠は軒幅約87cm、高さ約60cm、笠裏に2段の段形を設けて垂木型を表し、さらに径約49cm、高さ約2cmの円形の受座を最下面に削りだして首部を受けている。これはあまり例の多くない手法である。軒口は中央で厚さ約14cmと厚く、隅に向かって厚みを増しながら力強く反転する。頂部には基底幅約35cm、高さ約4.5cmの露盤を刻みだしている。四注には隅降棟を断面凸状の突帯で表現し、露盤下で左右の隅降棟の突帯が連結する通例を踏襲する。屋だるみはあまり顕著ではなく、照りむくりは認められない。相輪は総じて大きめで、九輪の8輪目までが残り、残存高約71cm。伏鉢の側線はやや直線的で硬い。下請花は複弁で九輪の凹凸はハッキリしている。10尺塔というと近江でも屈指の巨塔に数えられる。この規模の大きさに加え、全体に受ける豪放感とでもいうべき生き生きとした力強さ、しかも重厚でどっしりした印象があり、逆に繊細さや脆弱さは少しも感じさせない。無銘ながら笠の軒反や厚み、屋根の勾配、段形の彫りの鋭さ、格狭間の形状などを見ても石造美術が盛期を迎える鎌倉後期の作風が看取され、14世紀初め頃の造立と見て大過ないと考える。相輪の欠損が惜しまれるが湖西から湖北にかけて数多く分布する石造宝塔の中でも屈指の優品である。このほか薬師堂周辺には層塔の笠数枚が無造作に集積され、石仏、小形五輪塔の残欠などが若干見られる。

参考:川勝政太郎『近江歴史と文化』69ページ

   平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25 1068ページ

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』 188ページ

(なお、『滋賀県石造建造物調査報告書』に基礎幅72cmとあるのは明らかに誤りで92cmが正しく7と9の錯誤と思われます。平成5年3月に発行された同書は、小生も近江の石造美術を訪ねるにあたりその恩恵に浴することひとかたならぬものがありますが、平成2~4年度にかけて866万円の事業費をかけ調査記録され、滋賀県下の石造建造物を悉皆的に網羅した労作です。取組として高く評価されるものですが、石燈籠や石仏は対象外で、報告書には紀年銘があろうとも残欠はまったく含まず、概ね主要部位が揃った優品に限っている点は惜しまれます。また個々の記述内容にばらつきがあり、この種の錯誤・誤植が結構多いので注意を要します。ま、錯誤や誤植が多いのは当サイトも同じ、よそのことは言えないですね

※ 写真左下:笠裏の丸い首部受座の様子、右下:相輪下請花が複弁なのがおわかりでしょうか。法量数値は例によってコンベクスによる実地略計測によるものですので、若干の誤差はご容赦ください。知る人ぞ知る(ほとんどの人が知らないともいう…ウーン、とにかく)素晴らしい宝塔、一見の価値ありです、ハイ。