石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市須川町 神宮寺宝篋印塔

2008-04-30 23:29:57 | 五輪塔

奈良県 奈良市須川町 神宮寺宝篋印塔

須川町は奈良市北東部の山間の集落で、北に向かって谷筋を下っていけば笠置に出る。南北に長い須川貯水池の最上流部にある相和小学校の南南西約300m、尾根上に天竜山神宮寺(真言宗御室派)がある。01県道の西側、尾根のピークに隠れて県道側からは少々目立たない場所にある。04 明治初期に近くの戸隠神社の別当寺であった神宮寺、羽林寺、丸尾寺、妙蓮寺、薬師寺が統廃合、羽林寺の跡に改めて新たに神宮寺としてできたといわれており、宝篋印塔も別の場所から移されたともいう。本堂の向かって左に建つ一際存在感のある大柄な宝篋印塔が目に入る。花崗岩製、現在高約230cm。軒幅は約1mもある。後補の石積壇の上に立つ。非常に低い側面無地の基礎の上に別石作りの2段を置き、幅に比べやや高さが勝る比較的大きい塔身には、狭めに輪郭を巻き、内側いっぱいに月輪を描く。月輪内には雄渾なタッチで金剛界四仏の種子を大きく薬研彫する。笠は、軒と笠下2段、笠上段形部分がそれぞれ別石造りになっている。さらに笠上3段目以上は通常と異なり屋蓋四注形となる。四注はゆるく反り、頂には露盤を削りだしている。隅飾は二弧素面で、やはり軒と別石で、笠上段形と同石彫成になっている。ほぼ垂直に立ち上がり、長大とまではいえないが、笠全体に比して少し大きく感じる。相輪は九輪の中ほどが残るのみだが、凹凸のはっきりした逓減の少ないタイプで、当初のものの残欠とみて間違いないだろう。17この宝篋印塔の最大の特長は、笠上の屋蓋四注形で、14屋だるみや露盤まで表現するのは、大和では他に例がなく、日本最古の宝篋印塔との呼び声も高い京都の鶴の塔こと旧妙真寺塔にも通じる手の込んだ意匠表現である。さらに各部別石造りとする構造形式は、高山寺式宝篋印塔の系譜を引くと考えられる京都の宝篋印塔に多く見られる。特に、別石の各部構成は、大和最古とも目される唐招提寺開山廟塔(覚盛上人墓塔か?)と同じである。こうした点に加え、塔身種子が雄渾なタッチの浅い薬研彫であること、塔身が背高で大きいこと、基礎が極めて低いことなど、総じて非常に古い特長を示している。以上のことから、造立時期については、鎌倉中期、13世紀中頃まで遡らせて捉えることも可能ではないかと思われる。なお、川勝博士は中期末頃、清水俊明氏は鎌倉中期とされ、案内看板には13世紀から14世紀初期(※英語表示部分)とある。一方、太田古朴氏は鎌倉末期と推定されている。いずれにせよ、無銘であり推定の域を出ない。全体に優れた出来ばえを示すシャープな彫成と、風化の少ない緻密で良質な石材の清浄な質感がよく陽に映えて、見る者に爽快感を与える素晴らしい宝篋印塔である。境内には他にも近世の大きな宝篋印塔や無銘ながら反花座に立つ鎌倉末仕様の立派な五輪塔(花崗岩製、高さ約150cmの五尺塔)、光背を半ば欠くが天文年間の銘のある石仏(施無畏・与願印の如来立像)、小石仏、一石五輪塔、名号碑等が見られる。

 

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 137ページ

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 293ページ

   平凡社 『奈良県の地名』日本歴史地名体系30 654ページ

   太田古朴 『大和の石仏鑑賞』 87ページ、122ページ


滋賀県 大津市上田上新免 西性寺宝篋印塔

2008-04-29 00:07:46 | 宝篋印塔

滋賀県 大津市上田上新免 西性寺宝篋印塔

西性寺は、新免集落にあるささやかな寺院である。境内はよく手入れされている。本堂向かって右手の植え込みにある石塔は、宝篋印塔の基礎、五輪塔の水輪、宝篋印塔の笠、小形の五輪塔の水輪、火輪、空風輪より構成される寄せ集めである。02台座や基壇はみられず直接地面に据えられている。宝篋印塔の基礎と笠は、概ねサイズ的にバランスがとれているが、同一個体であるか否かは不詳。五輪塔は各部全くの寄せ集めである。この宝篋印塔の基礎と笠が珍品であるので紹介したい。基礎は、幅約52cm、高さ約34.5cm、上2段式で各側面とも輪郭を巻いて格狭間を入れる。この格狭間がたいへん珍しい。一面は花頭部分がなく上下とも脚部となった異形の格狭間、3面はいわゆる蝙蝠形で、川勝博士が便宜上後期式と呼ばれるものである。いうまでもなく近江は宝篋印塔をはじめ中世石塔造立の一大メッカであり、格狭間を持つ石塔類もほとんど枚挙に暇がない状況だが、このような格狭間は他に管見には及ばない。05昭和40年代に精力的に近江の石造美術を広く調査された田岡香逸氏をして「従前、例の少ない珍しい手法」と言わしめるものである。他に例がないだけに比較検討もしづらい。もっとも蝙蝠形格狭間は木造建築や工芸品において鎌倉期から見られるものである。あるいは凝った意匠で、奇をてらった近世の模古品の一種かとも疑わしめるが、表面の質感、段形や輪郭の手法などを見る限り、やはり古いものである。石工の創造性の発揮なのか発注者側の趣味によるものか、木造建築や工芸品等に倣った意匠を石造品に持ち込んだものと解される。次に笠であるが、これまた他に類例を見ない珍妙なものである。軒幅約48cm、高さ約34cm、笠下は2段式で通例どおりであるが、笠上もまた2段である。さらに、軒が約10cmと厚く、笠下の2段は約3cm内外と通例の高さであるが、笠上の2段は下6cm余、上9cm余と異様な高さがあり、笠上が2段しかないにもかかわらず笠全体としては十分高さがあって扁平にはなっていないのである。隅飾は一弧素面で低く、軒と区別して若干外傾する。また、田岡氏によれば、上端にあるべき枘穴がないという。田岡氏は、基礎と笠を一具と認め、13世紀末頃のものとし、笠については三重宝篋印塔の中段部分と推定されている。田岡氏の報文では、下端の枘についての言及がなく、三重宝篋印塔とする結論に至る説明が省かれており、少し唐突な印象を受ける。もちろんその可能性を否定するものではないが、小生としては三重宝篋印塔と断定するにはもう少し説明責任を果たしていただきたかった。そうでなければ、もう少し結論には慎重であるべきと考える。仮に基礎と笠が一具のものとすれば、基礎の格狭間にみる特異な意匠に鑑み、何か既定の枠に収まらない特殊な製作意図が働いた結果の産物、異形の宝篋印塔の残欠としておくに留めたい。加えて製作途中で放棄された可能性もいちおう残る。造立時期についても、不詳とするほかないが、あえてといわれれば、基礎の輪郭、幅:高さ比から田岡説よりやや新しい概ね14世紀初頭ごろと仮定しておく。

参考:川勝政太郎 『古建築入門講話』改訂版 141ページ、147ページ

   田岡香逸 「大津市田上の石造美術」『民俗文化』89号

写真左:変てこな笠、珍品でしょ。

写真右:これまた変てこな格狭間、画面左側が蝙蝠形、右は上端の花頭がなく上も脚部のようになっています。


お墓と「病気」

2008-04-24 21:37:15 | ひとりごと

お墓と「病気」

石造美術は多くが仏教系の所産なるがゆえか、お寺やお墓にあることが多く、石塔や石仏を求めて各地を徘徊していますと、次第に墓地への忌避感が薄らいでだんだん慣れっこになってしまった自分に気付くことがあります。子どものころは、墓の脇を通る狭い路地が近道だとわかっていても、一人の時などはその道は避けて通ったものでした。まして夜道の墓地の横などはあまり通りたくないというのが普通の人の感覚だと思います。ところが、近年慣れっこになったせいか、あまりお墓が苦になりません。それどころか、通りがかりにお墓があれば古そうな石仏や石塔類がないか、進んで目をやってしまいます。そのうち、放置された三角形のケンチブロックや物干台のコンクリ基礎までが火輪に見えてくるようになるとかなり重症、病気ですね。たぶん、ほとんどの同好の士が同じ病気に罹っているのではないかと思います。墓地をうろつく疾行餓鬼ならぬ石造餓鬼といったところでしょうか。いやはや・・・。そんな小生でも、真新しい土盛がある土葬のお墓や、その土盛が少しくぼみかけているようなところ、無縁塚に打ち捨てられた白い陶器の蓋が半分開いているのを見かけた時などは、さすがにぞっとします。ちょっと怖い話で閑話休題。


「餓鬼草紙」に描かれた墓地の五輪塔

2008-04-20 21:39:01 | ひとりごと
「餓鬼草紙」に描かれた墓地の五輪塔
先頃、ある方から、平安時代の終わりに描かれた「餓鬼草紙」に五輪塔が描かれているとのご指摘をいただきました。そういえば確かに描かれています。「餓鬼草紙」は東京と京都の国立博物館に1巻ずつ所蔵されているようで、東京のものは、旧河本家蔵本とも呼ばれ、その第四段、疾行餓鬼が墓場にたむろして死屍を食う場面に五輪塔をはじめ、いくつかの塔婆が描かれています。概ね12世紀後半に描かれたものとされています。平安時代の終わりごろの、鳥辺野や船岡山など当時の葬送地の実際の情景を彷彿とさせ、墓制や葬送史の研究に、しばしば引き合いに出されるものです。この絵を見る限り、平安時代の終わりには、既に墓塔の一種として建てられた五輪塔の存在を知ることができます。しかも、五輪塔は石造に見えますよね。しかし、史料はともかく、なぜか確実にこれは平安時代に遡る石造五輪塔だという現物の事例が、京都ではほとんど確認されていないんです。いちおう、この頃の石造五輪塔は風化速度が早い凝灰岩製と推定されており、風化して朽ち果てたり、バラバラになって省みられなくなったりして残っていないのだろうと考えられています。あるいは、今も残る五輪塔の残欠の中には、案外古いものが混ざっているのかもしれませんが、いずれにせよ平安期の五輪塔として実証困難な状況にあるといえましょう。さて、詳しくは失念しましたが、どなたかが「餓鬼草紙」に描かれた墓地を詳しく分析された論文を読んだ記憶があります。「餓鬼草紙」には、筵に放置されたままの死体、棺に入っただけのもの、さらに一つひとつの塚や立てられた塔婆類にもバリエーションがあり、釘貫(柵)の有無、石積や立木の有無などの相違があって、被葬者の貧富や階層の違いを示すものだろうといった大意だったと思います手前に見える五輪塔の塚は、釘貫に加え、石積に石造五輪塔備え、描かれたものの中では、最も手の込んだ墓です。恐らく貴族など経済的に豊かな人か、高僧などの墓だろうと思われます。この絵からは、一部の特殊な階層の墓塔として採用されはじめた頃の石造五輪塔の姿を見ることが出来ます。これが次第に民衆レベルにまで普及し、広く流行するには、なお数百年を要するのかなと考えています。このような昔の墓地の姿は、絵画史料などに加え、中世墓などの発掘調査によっても次第に明らかになりつつあるものと思われます。ご指摘をいただき、石造美術を考えていく上で、こうした幅広い視点が必要だということを、改めて痛感しつつ、不勉強と情報不足に頭を抱える小生であります。(それにしても、何で平安期の五輪塔が京都にほとんど皆無といっていいほど残ってないんでしょうかね?やっぱり謎ですよね。)

三重県 伊賀市寺田 大光寺北向三体地蔵石仏

2008-04-18 01:11:02 | 三重県

三重県 伊賀市寺田 大光寺北向三体地蔵石仏

寺田の東南、丘陵上に大光寺がある。西大寺末寺帳に載る伊賀における筆頭末寺であった大岡寺に比定されており、現在は、真言宗豊山派で山裾の毘沙門寺の奥の院のように扱われている小宇があるだけだが、丘陵上にはかなり広い平坦地があって相当規模の伽藍であったらしい。01_2毘沙門寺から奥の院である大光寺に向かう山道を爪先上りにしばらく登っていくと右手に大きな花崗岩があり、地蔵石仏が彫ってある。正面側の平坦面中央を137cm×70cmの横長の隅切長方形に彫りくぼめ、二重円光背に単弁八葉の頭光のレリーフを背にした同一デザインの地蔵菩薩坐像三体を並べて厚肉彫する。注目すべきは蓮華座で、平面六角ないし八角の框部上を複弁反花で飾り、正面と左右3箇所に小さい雲形文を付した敷茄子を挟んで覆輪付単弁請花座という構成で、右手に錫杖を斜に握り、左手は掌を上にして膝上に置く。左手には宝珠は見られない。お顔の表現も優れ、体躯のバラ02ンスがよい。衣文も木彫風で、とりわけ中尊の面相は眉目秀麗である。先に紹介した寺田地蔵堂地蔵石仏よりひとまわり大きいが、凝った蓮華座や像容の特長は瓜二つである。しかし、よく見ると①框部側面を二区としている、②覆輪付単弁の請花座が魚鱗葺となっている、③頭光の蓮弁が覆輪のない単弁である点に相違がある。複弁反花や衣文の表現がやや硬いところから、北向三体地蔵石仏のほうが若干新しいとされているが、寺田地蔵堂地蔵石仏と概ね同じ時期、つまり鎌倉末~南北朝初め14世紀前半から半ば頃の造立とされている。隅切長方形に彫りくぼめた龕部に体躯のバランスの優れた眉目秀麗な三体の尊像を、写実的に厚肉彫りする手法は、上野の市街地を挟んで西南にある徳治元年(1306年)銘の花之木三尊磨崖仏(岩根の石仏)に通じる。小生はとりわけその面相に共通の意匠を見て取るのだがいかがであろうか。花之木三尊磨崖仏では地蔵菩薩が阿弥陀、釈迦の二如来と同列に配されており、やはり地蔵信仰の強さを示すものと見てよいと考える。なお大光寺から南に少し下った服部川沿いの岩壁には鎌倉中期とされる阿弥陀三尊を中心に不動、地蔵等から構成される立派な磨崖仏があり、中之瀬磨崖仏と呼ばれる。また、毘沙門寺境内にも、塔身に胎蔵界四仏の種子を刻んだ鎌倉末期頃の宝篋印塔、江戸時代に後補部材を交えて再建された南北朝ないし室町初期ごろとされる巨大な宝篋印塔の残欠がある。

参考:川勝政太郎 『伊賀』近畿文化社近畿日本ブックス4 71~72ページ

   清水俊明 『関西石仏めぐり』 176ページ

   中淳志 『日本の石仏200選』 33ページ

   平凡社 『三重県の地名』日本歴史地名体系24 814ページ

ほの暗い木陰にあって、北向といわれる光線の加減もあってか、数回訪れてなぜかいつもいい写真が撮れません。いや腕のせいかな、やっぱり・・・。悪しからず。


三重県 伊賀市寺田 地蔵堂地蔵石仏

2008-04-14 23:50:05 | 三重県

三重県 伊賀市寺田 地蔵堂地蔵石仏

名阪国道中瀬インターの北東約1km、寺田集落ほぼ中央、公民館の南西100mほどのところ、集落内の狭い交差点の北西に地蔵尊を祀った辻堂がある。地元の厚い信仰に守られ、香華が絶えることはない。01_3堂内中央に四角い花崗岩があり、そこに本尊の石造地蔵菩薩坐像を刻んである。石材中央に53cm×37.5cmの縦長の方形枠を彫りくぼめて龕部を設け、蓮華座に座す地蔵菩薩坐像を厚肉彫りする。龕部の隅を切るのは、先に紹介した天理市福住別所二尊石仏龕(双仏石)にも通じる古い手法。二重円光背を薄く浮き彫りし、頭光部分は覆輪付八葉の蓮華を陽刻している。蓮華座が特に優れ、平面六角ないし八角形の正面観を側面に輪郭を施し上部を優美な複弁反花で飾る台座上の正面観を写実的に表現し、さらに中央と左右に1つずつ3個の雲形文で飾る敷茄子を重ね、その上に覆輪付単弁請花を置くの本格的なもの。地蔵菩薩は斜めにした錫杖を右手に執り、左手は膝上の掌に宝珠を載せたものが欠損しているように見える。体躯のバランスも申し分なく衣文の処理も木彫風でいきとどいている。面相は長年撫でられたのか摩滅して窺えない。像高30cm程度の小さい石仏ながら意匠表現、彫技ともに洗練され、端正な佇まいに、思わず手を合わせたくなる。元々は磨崖仏であったものを切り出してきたものかもしれない。堂内外には多数の五輪塔の部材や箱仏類が集積されている。近くの丘陵上にある大光寺へ向かう山道沿いに北向地蔵と呼ばれる三体の地蔵磨崖仏があるが、寺田地蔵堂石仏と意匠表現が非常に似通っており、同一系統のものと考えられる。紀年銘等は見当たらず、造立年代は概ね鎌倉末~南北朝初め14世紀前半から半ば頃とされている。こうした頃に、この地域に地蔵信仰が盛り上がった時期があったのであろうか。なお、この大光寺は、西大寺末寺帳に載る伊賀の筆頭末寺大岡寺に比定されており、洗練された石仏の手法からも伊派系石工など高度な彫刻技術を持った石工の存在を連想させる。

参考:川勝政太郎 『伊賀』近畿文化社近畿日本ブックス4 71~72ページ

   清水俊明 『関西石仏めぐり』 176ページ

   中 淳志 『日本の石仏200選』 33ページ

   平凡社 『三重県の地名』日本歴史地名体系24 814ページ

付近には北向三体地蔵磨崖仏や毘沙門寺宝篋印塔、中の瀬磨崖仏といった優れた石造美術が集中しています。このほか花之木磨崖仏、阿弥陀寺五輪塔など名阪国道沿いに見ごたえある石造美術が点在しており、車ならアクセスも悪くありません。そもそも伊賀は三重県でもとりわけ石造美術が豊富なところで、大和、近江、伊勢、山城に囲まれ、これら地域の石造文化圏を考えていく上でも見逃せない地域です。なお、寺田の南隣の荒木は、剣豪荒木又右衛門ゆかりの地ですが、かつては良質の花崗岩の産地として知られ、東方の山手には採掘跡があります。