ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳2・光は粒子か波か//

2018-12-28 | 日記
光の実体はその両方です。

というよりは、光の粒子性(光電効果とかコンプトン散乱とか)を測定、観測すれば光は粒子として振る舞います。

そうしてそこには何の矛盾もなく、不整合もありません。

かたや光の波性(屈折とか回折とか偏光とか)を観測すれば光は波として振る舞います。

そうしてまた、そこには何の矛盾も不整合もないのです。

で、それでは光は粒子なのですか?波なのですか?

答えは「その両方の性質をもっている」となりますが、粒子性を見ている時は波性は見えず、波性を見ている時は粒子性は見えません。

その二つの性質を同時には見れないのです。


さて、バパはアブラハムの宗教で言う「天国」と仏教で言う「涅槃(二ルバーナ)」は違うものだと言いました。

しかしながら、それは我々の認識の仕方がそのようにしか認識できない、人の心による理解の限界を表している可能性が残ります。

・仏教の「涅槃」キリスト教の「永遠の生命」<--リンク

『両教がそれぞれ目指すもの――その大きな違い』

さていずれにせよ、もともとこの世を超えた世界の話でありますれば、それを我々が暮らすこの世に引き戻して解釈したり理解したりすることには基本的に無理がある、という認識は大事でありましょうか。

ひょっとすると「同じものの単に違う側面、違う表現を見ているだけ」と言う可能性がのこります。

追記
人の認識は1つの実体に対して同時に2つの認識の仕方はできない、、、という例。

・ルビンの壺<--リンク

この例ではつぼを見た時には人の横顔は見えず、人の横顔を見た時にはつぼはみえなくなります。

それと同じように、一つの実体に対して複数個の見え方、解釈の仕方がある場合には、人間は混乱します。

そうして、自分に見えている見え方に固執し、それ以外の見え方、解釈の仕方を否定します。

PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク

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