ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

ラティハンを「やること」はできない。

2011-10-24 | 日記
ラティハンは受けることができるだけである。

けして我々が「やる」事はできない。


「自力」と「他力」と言った人がいた。

なるほど、自力と他力だわい。


ラティハンをするその直前までは、自分の力でなんとか体勢を作らにゃいかん。

仕事を時間までに終わらせたり、あまり怒らんようにしたり、会場に足をはこぶこと。

こういうのは自分の努力でなんとかする。


そうしておきながら、今日、どんなラティハンができるのかは全くこちらの力の
及ばないところにある。

一生懸命に努力しても調子の悪い時もある。

そんな時には「調子が悪いので、ラティハンだめだろうなあ。」などと思っていても、
さて、ラティハンになるとこれが思いのほか良かったりする。

「絶好調」みたいな時には、まるで動かず、「立ちダルマさん」状態で終わることもある。

ラティハンそのものはまるで「他力」だからである。


そうは言ってもこの「他力」、こちらがぼけーっとしていては何にもならない「他力」で、
「やる」ことはできなくても、見張っていなくてはならない「他力」である。

いや、見張るというよりは、起きて、目覚めて見ていることが必要なものである。

時々、疲れているときなどラティハンで精神の緊張がゆるむと途中で眠ってしまう
ことがあるが、それでは体は休まるがラティハンにはなっていない。

起きて、目覚めていることが必要なのである。


こちらのやることと、あちらさんがやってくれること、この2つの絶妙の組み合わせが
ラティハンであり、また人生となってゆくもののようである。

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