本当に価値あるものが「タダ」で手に入る?
ええ、「お金がいらない」という意味では「タダ」ですね。
「オープン」の時に「オープン代を払う」などというのは聞いたことがありません。
でも、オープンに先立って「信頼します」ということを言わねばなりません。
あるいは、「自分の意志でオープンを受けます」という表明も必要です。
お金はいりませんが、実はこの事は普通の我々の自我にとっては
とても「高いもの」につきます。
ずうっと「ラティハンを信頼してゆく」ことを「自分の道」として選んだということですから。
歩きやすいときは、これは簡単なことですね。
ただし、歩きにくくなると「なんだ、こんなもの」となりやすくなります。
雨がふりゃ、道はぐちゃぐちゃ、風が吹きゃ目にゴミは入るし、ろくな事がありません。
日照りが続けば熱中症にだってなります。
さて、そんな時にも「信頼」して歩けるかどうか。
苦しくなると「自我」が立ち上がって「ブウブウ」言いだします。
「もうやめようよ。時間の無駄だよ。」とか、いろいろとね。
どうです、「お金」はいりませんが、なかなか「高いもの」でしょう。
この「高いもの」を支払わないと、どうやら「価値あるもの」は手に入らないようです。
このあたりは、世間の常識と同じですね。
さて、ラティハンは「高い」のでしょうか、「安い」のでしょうか?
そうですね、「高い」とは思いますが、「お金」はいりませんよ。
PS
たとえばクリスチャンの方々が毎週日曜日に協会にかよわれる。
あるいはイスラムの方々が毎週金曜日にモスクにかよわれる。
その程度の勤勉さはラティハンの道を歩くものには最低限、必要でありましょう。
そのための時間も作れない、、、というのであれば、残念ではありますが、それはまだあなたがラティハンを受ける時ではない、、、ということであります。
ところで、現状のラティハンのヘビーユーザー層の中核をなす人たちは明らかにバパのカリスマに触発され、その影響によってラティハンに対して勤勉であると思われます。<--リンク
バパが生きておられた時代はそれでOKでした。
しかしながら時代が過ぎ、カリスマの影響力に期待ができなくなっているのが現状であります。
さてそうなるとこれからはいったい何がラティハンの道を歩く人たちの勤勉さの動機づけになるのでしょうか?
その人の宗教的な世界観とラティハンの整合性がよければ、その人がお持ちの宗教的情熱が勤勉さを与えてくれそうであります。
あるいは単に「人としてどう生きていくのか、生きていくべきなのか」という探究心、道を求める気持ちも勤勉さの源にはなりそうです。
いずれにせよ、ラティハンが与えてくれる結果を体験できるまでは暗中模索であり、そこががまんのしどころ、難しいところであります。
そしてそこがこの道を歩くものにとっては、超えなくてはならない大きな峠なのであります。
16・5・30
PS
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ええ、「お金がいらない」という意味では「タダ」ですね。
「オープン」の時に「オープン代を払う」などというのは聞いたことがありません。
でも、オープンに先立って「信頼します」ということを言わねばなりません。
あるいは、「自分の意志でオープンを受けます」という表明も必要です。
お金はいりませんが、実はこの事は普通の我々の自我にとっては
とても「高いもの」につきます。
ずうっと「ラティハンを信頼してゆく」ことを「自分の道」として選んだということですから。
歩きやすいときは、これは簡単なことですね。
ただし、歩きにくくなると「なんだ、こんなもの」となりやすくなります。
雨がふりゃ、道はぐちゃぐちゃ、風が吹きゃ目にゴミは入るし、ろくな事がありません。
日照りが続けば熱中症にだってなります。
さて、そんな時にも「信頼」して歩けるかどうか。
苦しくなると「自我」が立ち上がって「ブウブウ」言いだします。
「もうやめようよ。時間の無駄だよ。」とか、いろいろとね。
どうです、「お金」はいりませんが、なかなか「高いもの」でしょう。
この「高いもの」を支払わないと、どうやら「価値あるもの」は手に入らないようです。
このあたりは、世間の常識と同じですね。
さて、ラティハンは「高い」のでしょうか、「安い」のでしょうか?
そうですね、「高い」とは思いますが、「お金」はいりませんよ。
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たとえばクリスチャンの方々が毎週日曜日に協会にかよわれる。
あるいはイスラムの方々が毎週金曜日にモスクにかよわれる。
その程度の勤勉さはラティハンの道を歩くものには最低限、必要でありましょう。
そのための時間も作れない、、、というのであれば、残念ではありますが、それはまだあなたがラティハンを受ける時ではない、、、ということであります。
ところで、現状のラティハンのヘビーユーザー層の中核をなす人たちは明らかにバパのカリスマに触発され、その影響によってラティハンに対して勤勉であると思われます。<--リンク
バパが生きておられた時代はそれでOKでした。
しかしながら時代が過ぎ、カリスマの影響力に期待ができなくなっているのが現状であります。
さてそうなるとこれからはいったい何がラティハンの道を歩く人たちの勤勉さの動機づけになるのでしょうか?
その人の宗教的な世界観とラティハンの整合性がよければ、その人がお持ちの宗教的情熱が勤勉さを与えてくれそうであります。
あるいは単に「人としてどう生きていくのか、生きていくべきなのか」という探究心、道を求める気持ちも勤勉さの源にはなりそうです。
いずれにせよ、ラティハンが与えてくれる結果を体験できるまでは暗中模索であり、そこががまんのしどころ、難しいところであります。
そしてそこがこの道を歩くものにとっては、超えなくてはならない大きな峠なのであります。
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