古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

後漢書の「漢委奴国王」と魏志倭人伝の「親魏倭王」

2017-04-23 17:23:35 | 歴史
後漢書東夷伝倭伝 と 魏志の東夷倭人伝の原文、和訳のサイトを紹介しておきます。

後漢書は、後漢朝(西暦25~220年)の歴史書で
成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)
つまり、後漢の時代に書かれたわけではありません。
陳寿の魏志倭人伝より、かなりの後の時代です。
范曄の後漢書は、漢の時代の事実と魏志倭人伝と范曄の時代の情報がミックスしています。

建武中元二年(57年)倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 と記述があり
西暦57年に印綬「漢委奴国王」が贈られていますが、金印の文字が漢委奴国王とは限りませんが、
後に「漢委奴国王」が発見されますので、間違いはないでしょう。

魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」
西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれた。
范曄の後漢書より早いのです。
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 と記述がわり、他にも 親魏倭王卑弥呼 と卑弥呼の事を表現しています。
「親魏倭王」の金印は発見されていませんが、こちらも「親魏倭王」で間違いはないでしょう。

漢委奴国王は、学校で漢の委(ワ)の奴(ナ)国王の金印 と教えられました。
別説では、漢の委奴(イト)国王で 委奴(イト)国=伊都国 の説もありますが、
委 は ワ行の ゐ、伊都国の伊は、母音の イ なので少し違うように思います。
ならば、何故 倭(ワ) を 委(イ、ゆだねる)の文字にしたのでしょうか。
仮にも皇帝が発行する印綬です。省略したとは思えない。
漢は委ねる、奴国王に と受け取る方がスマートですが、倭国の王が表現されていない。
倭、委、奴の読み方について、先の投稿で少し説明しています。

更に疑問が、奴国王は、金印を何に利用したのか?
本来、金印は、奴国から貢物を漢へ運ぶ際に手紙を添え、「金印」を捺印しておけば
途中で他国の妨害時に、手紙を見せれば襲われない。と使ってください。
残念ながら、奴国では漢字がありません。
国内の諸国に向けて、どうだ、我が国(奴国)が倭国連合のトップに認められたと
金印を見せびらかすしか、使わなかったと思います。

対して「親魏倭王」4文字、四角い印のバランスも良い。
魏と親しい倭の王、邪馬台国の女王卑弥呼 の記述はないです。この金印を持つ者が倭国の王ですね。
漢は、奴国の王に委ねる (だいぶ上から目線)と
魏は、倭国の王と親しい (対等な立場)   で、だいぶ印象が違います。
100余国があり、後に大乱となった倭国の時代の奴国
30国から代表として認められた卑弥呼の国邪馬台国
倭国の印象も違っていたと思います。
こちらも、手紙の最後に朱肉でハンコとして使用してないでしょう。
贈られた織物など衣類と銅鏡などは卑弥呼の祈祷、生活で使用されました。
金印は、どこかに飾られていた、或いは、卑弥呼の手元にはなかったのでしょうか。

 


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