古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

天孫降臨の西都原古墳群

2017-01-14 15:48:04 | 歴史
以前に投稿した 吉野ケ里古墳と纒向遺跡 に合わせて紹介したいのが、宮崎の西都原古墳群
過去投稿は
吉野ケ里遺跡(とりあえず分かりやすく)
近畿の倭国 纒向遺跡

宮崎の西都原古墳群
場所
西都市(さいとし)は、宮崎県のほぼ中央部、一ツ瀬川(上流に高千穂、下流に日向灘)が流れる。
年代 3世紀~7世紀
第二古墳群81号古墳:3世紀後半の前方後円墳
男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳の2基:5世紀初め
西都原206号 鬼の窟古墳:7世紀前半
古墳数
・前方後円墳 31基・円墳 279基・方墳 1基

日本神話のニニギノミコトの天孫降臨の地の候補地です。
古事記には、「竺紫日向の高千穂の久士布流多気に天降った。」とあります。
「朝日のただ刺す国、夕日の火照る国」も東側が海で、西側に山がある土地です。
途中に根の国(ご先祖様の墓がある場所)を通りますが、これが、吉野ケ里ではないでしょうか。
※根の国(黄泉の国)が西都原古墳群で、天孫降臨の地が日向の可能性もあります)
国生みの神話でも
4.筑紫島(つくしのしま):九州
 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
  白日別(しらひわけ):筑紫国
 豊日別(とよひわけ):豊国
 建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
 建日別(たけひわけ):熊曽国
とあるので、九州の肥国(宮崎)で間違いないはずです。

年代的には
吉野ケ里に人が住まなくなり、古墳となる時代に始まり
350年程続いたと思われています。
81号古墳は、後円部径:32mと小ぶりですが、箸墓古墳と同様、前方後円墳で同じ時代です。

勝手な考察
1、卑弥呼の死後(3世紀後半)、卑弥呼一族が高千穂に移住
  これが天孫降臨の神話となる。
2、高千穂移住以後、お墓(古墳)は西都原古墳群に作られた。
  近畿纒向遺跡の一族とも交流があり、同じ前方後円墳を作る。
  卑弥呼の死後の女王 台与 は、豊国(大分)の女王になる。 
  狗奴国が後の熊曽国。九州が4つ国に分かれていました。
  卑弥呼一族は、筑紫国(九州北部)を去り、熊曽国(狗奴国)を避けて
  肥国(宮崎)に移動した事になります。
3、ニニギの孫で初代天皇 神武天皇は、一ツ瀬川下流に住み着く。
  後の神武東征の神話は、日向灘が出発地、到着地が纒向遺跡
  近畿奈良盆地の一族の元へ移住し、ヤマト(邪馬台の読み)国と名乗る。(4世紀前半)
  神武東征後も、日向に住んだ一族が古墳を作り続ける。
と思うのですが、如何でしょうか。
後に近畿(奈良時代、平安時代)に書かれた古事記・日本書紀の神話で
九州の地理(国名、島名など)が、他と比べても多く出てきており
九州を意識して書かれた事は間違いありません。
天皇家の発祥地を天高原と呼び九州北部(博多湾)、根の国が佐賀県(吉野ケ里)で
神武東征で近畿へ移住する神話を挿入する理由があったはずです。
この250年位から350年位までに、倭国が朝鮮半島を支配します。
支配したのは天皇一族ではなく、筑紫氏、宗像氏、出雲氏ではないかと考えています。
神功皇后の三韓征伐は、筑紫氏或いは宗像氏の事で
架空の天皇名を造って、ヤマト朝廷のお手柄にしているのです。