以前に投稿した 吉野ケ里古墳と纒向遺跡 に合わせて紹介したいのが、宮崎の西都原古墳群
過去投稿は
吉野ケ里遺跡(とりあえず分かりやすく)
近畿の倭国 纒向遺跡
宮崎の西都原古墳群
場所
西都市(さいとし)は、宮崎県のほぼ中央部、一ツ瀬川(上流に高千穂、下流に日向灘)が流れる。
年代 3世紀~7世紀
第二古墳群81号古墳:3世紀後半の前方後円墳
男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳の2基:5世紀初め
西都原206号 鬼の窟古墳:7世紀前半
古墳数
・前方後円墳 31基・円墳 279基・方墳 1基
日本神話のニニギノミコトの天孫降臨の地の候補地です。
古事記には、「竺紫日向の高千穂の久士布流多気に天降った。」とあります。
「朝日のただ刺す国、夕日の火照る国」も東側が海で、西側に山がある土地です。
途中に根の国(ご先祖様の墓がある場所)を通りますが、これが、吉野ケ里ではないでしょうか。
※根の国(黄泉の国)が西都原古墳群で、天孫降臨の地が日向の可能性もあります)
国生みの神話でも
4.筑紫島(つくしのしま):九州
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国
とあるので、九州の肥国(宮崎)で間違いないはずです。
年代的には
吉野ケ里に人が住まなくなり、古墳となる時代に始まり
350年程続いたと思われています。
81号古墳は、後円部径:32mと小ぶりですが、箸墓古墳と同様、前方後円墳で同じ時代です。
勝手な考察
1、卑弥呼の死後(3世紀後半)、卑弥呼一族が高千穂に移住
これが天孫降臨の神話となる。
2、高千穂移住以後、お墓(古墳)は西都原古墳群に作られた。
近畿纒向遺跡の一族とも交流があり、同じ前方後円墳を作る。
卑弥呼の死後の女王 台与 は、豊国(大分)の女王になる。
狗奴国が後の熊曽国。九州が4つ国に分かれていました。
卑弥呼一族は、筑紫国(九州北部)を去り、熊曽国(狗奴国)を避けて
肥国(宮崎)に移動した事になります。
3、ニニギの孫で初代天皇 神武天皇は、一ツ瀬川下流に住み着く。
後の神武東征の神話は、日向灘が出発地、到着地が纒向遺跡
近畿奈良盆地の一族の元へ移住し、ヤマト(邪馬台の読み)国と名乗る。(4世紀前半)
神武東征後も、日向に住んだ一族が古墳を作り続ける。
と思うのですが、如何でしょうか。
後に近畿(奈良時代、平安時代)に書かれた古事記・日本書紀の神話で
九州の地理(国名、島名など)が、他と比べても多く出てきており
九州を意識して書かれた事は間違いありません。
天皇家の発祥地を天高原と呼び九州北部(博多湾)、根の国が佐賀県(吉野ケ里)で
神武東征で近畿へ移住する神話を挿入する理由があったはずです。
この250年位から350年位までに、倭国が朝鮮半島を支配します。
支配したのは天皇一族ではなく、筑紫氏、宗像氏、出雲氏ではないかと考えています。
神功皇后の三韓征伐は、筑紫氏或いは宗像氏の事で
架空の天皇名を造って、ヤマト朝廷のお手柄にしているのです。
過去投稿は
吉野ケ里遺跡(とりあえず分かりやすく)
近畿の倭国 纒向遺跡
宮崎の西都原古墳群
場所
西都市(さいとし)は、宮崎県のほぼ中央部、一ツ瀬川(上流に高千穂、下流に日向灘)が流れる。
年代 3世紀~7世紀
第二古墳群81号古墳:3世紀後半の前方後円墳
男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳の2基:5世紀初め
西都原206号 鬼の窟古墳:7世紀前半
古墳数
・前方後円墳 31基・円墳 279基・方墳 1基
日本神話のニニギノミコトの天孫降臨の地の候補地です。
古事記には、「竺紫日向の高千穂の久士布流多気に天降った。」とあります。
「朝日のただ刺す国、夕日の火照る国」も東側が海で、西側に山がある土地です。
途中に根の国(ご先祖様の墓がある場所)を通りますが、これが、吉野ケ里ではないでしょうか。
※根の国(黄泉の国)が西都原古墳群で、天孫降臨の地が日向の可能性もあります)
国生みの神話でも
4.筑紫島(つくしのしま):九州
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国
とあるので、九州の肥国(宮崎)で間違いないはずです。
年代的には
吉野ケ里に人が住まなくなり、古墳となる時代に始まり
350年程続いたと思われています。
81号古墳は、後円部径:32mと小ぶりですが、箸墓古墳と同様、前方後円墳で同じ時代です。
勝手な考察
1、卑弥呼の死後(3世紀後半)、卑弥呼一族が高千穂に移住
これが天孫降臨の神話となる。
2、高千穂移住以後、お墓(古墳)は西都原古墳群に作られた。
近畿纒向遺跡の一族とも交流があり、同じ前方後円墳を作る。
卑弥呼の死後の女王 台与 は、豊国(大分)の女王になる。
狗奴国が後の熊曽国。九州が4つ国に分かれていました。
卑弥呼一族は、筑紫国(九州北部)を去り、熊曽国(狗奴国)を避けて
肥国(宮崎)に移動した事になります。
3、ニニギの孫で初代天皇 神武天皇は、一ツ瀬川下流に住み着く。
後の神武東征の神話は、日向灘が出発地、到着地が纒向遺跡
近畿奈良盆地の一族の元へ移住し、ヤマト(邪馬台の読み)国と名乗る。(4世紀前半)
神武東征後も、日向に住んだ一族が古墳を作り続ける。
と思うのですが、如何でしょうか。
後に近畿(奈良時代、平安時代)に書かれた古事記・日本書紀の神話で
九州の地理(国名、島名など)が、他と比べても多く出てきており
九州を意識して書かれた事は間違いありません。
天皇家の発祥地を天高原と呼び九州北部(博多湾)、根の国が佐賀県(吉野ケ里)で
神武東征で近畿へ移住する神話を挿入する理由があったはずです。
この250年位から350年位までに、倭国が朝鮮半島を支配します。
支配したのは天皇一族ではなく、筑紫氏、宗像氏、出雲氏ではないかと考えています。
神功皇后の三韓征伐は、筑紫氏或いは宗像氏の事で
架空の天皇名を造って、ヤマト朝廷のお手柄にしているのです。