けんのぺーじ

英知とは、自分の使命とその使命を果す方法をしること トルストイ

『武将列伝 戦国終末篇』

2009-01-22 23:07:14 | 諸書巡歴
海音寺潮五郎『武将列伝 戦国終末篇』文春文庫、2008年6月10日新装版第一刷

○あらすじ(文庫裏面より)
 信長・秀吉による天下統一の前後から武将の姿は激変し、
 多様化していく。大国の狭間において生き残りのため
 右往左往する地方武将もあれば、国持ち大名の元にあって、
 参謀として名を成す武将や官僚としての武将もいる。
 生まれた場所が僻地であったり、遅く生まれた武将がいる。
 知将、謀将、闘将……ジャンル化された武将の型。

○本書で扱われている武将は以下。
・黒田如水
・蒲生氏郷
・真田昌幸
・長曾我部元親
・伊達政宗
・石田三成
・加藤清正

☆-----------------☆
「人には得手不得手のあるものでござる。拙者は弱年の頃から
 自ら武器をふるっての働きは得手ではござらなんだ。
 したがってさる働きはしたことがござらぬ。拙者の得手は
 采配を取って軍勢を指揮し、一時に千も二千も敵を討ち取る
 ことにござる。しかし、このことは各々すでによくご承知の
 ことなれば、説明する要はござらぬ」黒田如水p.20

 「水ハ方円の器ニ随フ」「身ハ褒貶毀誉ノ間ニ在リト雖モ、
 心ハ水ノ如ク清シ」黒田如水p.49

 戦国の武将にとって何よりもうれしいのは封地を加増される
 ことである。自らにあたえられたものを辞退して他に譲るというのは、
 なかなか出来ないことだ。(織田信孝を自殺に追い込んだ武功により
 秀吉から伊勢亀山の城をくれるといわれたが、亀山は関氏相伝の
 城のため関氏へ賜りたいと辞退したことから)氏郷が父譲りの
 清白な性質であったことがわかる。藩翰譜によると、彼が
 飛騨守に任官したのはこの年(天正十一年)であるという。p85

 戦術には読心術―心理分析的面が多いのであるが、巧妙なものである。
 氏郷のこの時の年齢(30歳前後)を考えると、老成驚くべきものだ。
 天成の名将なるかなの感がある。p.95

 人情に遠い人物はいあに長所があろうと重く用いないという
 氏郷の心は、ぼくにはまことに尊く思われる。p.111
 
 「さようにてはなし、小身なりとも都近くいたらば、天下に
 望みを掛けることも出来るが、なにほど大身となったとて、
 片田舎人となってはいたし方はない。われらはすたりものになったと
 思い、不覚の涙をもよおしたのである」蒲生氏郷p.122

 限りあれば吹かねど花は散るものを
 こころ短き春の山風 蒲生氏郷p.157

 真田記に「或ひと言ふ」と注して、こんな話を伝えている。
 死にのぞんで昌幸は卒然として幸村に言った。
 「わしのいのちがもう三年あったら、秀頼公に天下を取って上げられるものを」
 幸村はその策を聞いた。昌幸ははっとわれに返った様子で、
 「いやいや、重病に心乱れて筋なきことを言うたわ。乞食同然の
 この身になって、どうしてそんなことが出来ようぞ」と打ち消した。
 「いやいや、それがしにたいして御用心はいりませぬ。ぜひ仰せ付けください」
 「ハハ、そうか。ではざんげ物語のつもりで聞いてくれい。わしの
 見るところでは、三年のうちには東西手切れとなる。もしわしが
 存命するならば、人数三千ばかりをひきいて伊勢の桑名の向こうまで
 出て備えを立てよう。わしの手並みは大御所はずんと御存知じゃ。
 わしが相手ということになれば、大御所もたやすくはかかられまい。
 しばらくにらみ合っているうちには、豊臣家恩顧の諸大名共に
 して心を動かして大坂方へ馳せ参ずる者も多く出るはずだ。そこで
 大御所が攻めかかって来られたら、陣を引いて桑名のこちらでまた支える。
 これをくりかえすうちには一層人数が集まるはずだ。やがて
 近江の勢田まで来たらば、唐橋を焼き落として、こちらに柵をつけて
 ささえる。数日ささえれば、さらにおびただしく味方はふえよう。
 天下の豊臣家に帰すること案のうちではないか。やれやれ、
 長物語りに胸が苦しい。水くれ」p220~221

 親分学の心得第一条だ。子分の危急は理否を問わず救ってやる
 心掛がなければ親分にはなれないのである。p.236

 人の運勢はゆるやかな坂をのぼるようではない。あるところまでは
 営々辛苦して運勢の坂を汗だくになって上らなければならないが、
 一旦勢いがつくと急カーブをえがいて上昇する。威勢につく
 人情がそうしてくれるのだ。p.242

 逆境に沈んだことのない人間は、人間心理の洞察には鈍い
 ものである。p.377

 「大事を思う者は、たとえ首の座にいても、その際まで命を
  大切にして、本意を遂げんと心がくべきものじゃ」と
 言ったということ、ともに最もよく知られている。死に至るまで
 傲岸不屈であったのだ。あっぱれである。p.382

 人は一代、名は末代
 あっぱれ 武士の心かな 加藤清正p.408

 一体いつの時代でも後家さんは頑固なものだ。現実の情勢が
 どう変化しようと、法律的に認められている権利は一毫も
 失うまいとし、おやじの生きていた頃の格式は一分も落とすまいと
 するのが常である。豊臣家の悲惨な最後は、淀殿という後家さんが
 家の主宰者であったところに最も大きな原因があるとぼくは見ている。p.432

☆-----------------☆

後悔しないで生き切る!

2009-01-20 02:02:00 | 徒然なるままに。。。
今年もよろしくお願いいたします。

さて、台湾は戦時中、帝國日本により支配され
大東亜共栄圏に組み入れられた地域です。
満州や韓国のように、本来であれば支配された国というのは
支配国に対し非常に強烈で根深い嫌悪感を抱くのですが、
台湾の場合は概して「これほど親日感情に富む地域は
ないのではないか」と感じてしまいます。
それほど人も良いですし、食文化も日本に近いものがあります。

これは、支配はあったのが事実であり、おそらく略奪、虐殺も
あったのでしょうが、
(1)日本の布いた政策(インフラ整備、教育など)がよかったこと
(現在まで、鉄道、ダム、貯水池などが台湾各所に残され、使用されている)と、
(2)その後の中国からの流入者(特に国民政府の蒋介石時代)の
施政が非常に悪かったことの反動でもあります。

それらの背景の上に、近年は哈日族(ハーリーズー)という日本のサブカルチャーに
影響を受ける若い世代も多くおり、日本のTVドラマなどは早ければ
ドラマ終了後、翌週には全編放送することもあります。

前置き長くなりましたが、今週はAroud40(既に3回目くらい)が
放送されており、今日が最終回でした。
その中で天海祐希演じる主人公の精神科医・緒方聡子が北海道で恋人と
一緒に施設で働くか、新生する病院の院長となるかの決断をする際に言った、
「後悔しないで生きることが幸せ(主旨)」
という言葉に非常に感銘を受けました。

実は最近、仕事上で非常に面倒を見ていただきお世話になった方が、
他界されました。
その時に、改めて、
「人は生まれた時から死に向かって生きている」
という著名な方の言葉を思い出しました。

生まれれば、また死ぬのも当然ですが、死がなければ、
一生懸命生きられないのも事実です。
サラリーマンとしては誰もが少なからず名声、富、地位などへの
欲をもつはずですが、死ねば当然、誰もがこれらを失い、裸一貫の
人間としてあの世にも、来世にもそれらは持っていけません。
仏法では三世(過去、現在、未来)の生命観を説き、
死は次の人生までの生命の休息期間と捉えます。
一つの人生での行為は生命に刻まれていきますが、
何を刻んでいくか、また特に無形のもので何を残していけるか、
ということが大事だと思います。
死に様は生き様の反映だからです。


アンパンマンの歌詞に、
「何のために生まれて 何をして生きるのか
 分からないまま終る そんなのはいやだ」
とあります。

何のために何をして生きるか、これは使命です。
使命は「命を使う」と書きます。
○○歳で亡くなったから不幸だ、とかではなく、
いかに使命に生ききったかが大事だと思います。
使命にいききれば、きっとその死には深い意味があるでしょうし、
そのことにより一人でも多くの人に影響を与えることが出来るのでしょう。

ともあれ、後悔なく生ききること!
これが他界された方への恩返しと思い、
自身の戦いに悔いなきよう、自身を奮い立たせていきます。

 

『武将列伝 戦国揺籃篇』

2009-01-06 02:15:54 | 諸書巡歴
海音寺潮五郎『武将列伝 戦国揺籃篇』文春文庫、2008年4月10日新装版第一刷

○あらすじ(文庫背表紙より)
今回登場する武将は足利尊氏、楠木正儀、北条早雲、斉藤道三、毛利元就、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉の八人である。南北争乱を経て、世は下克上の戦国時代へと移るにしたがい、武将の資質も変化していく。軍事的才能だけではなく、領内を経営する能力も必要とされていく、つまり軍陣と経営者両面なのである。

現実は観念論では動かない。長い歴史の間には動いたように見えることも有るが、それはかならずその観念論が必要となっているときである。明治維新がそれだ。世界が統一国家時代となっているとき、突然開国して国際場裡に登場した日本としては、統一国家となることが最大の急務であった。勤王論はここにおいて現実の必要とマッチした。統一には中心が必要であり、それには国初以来一系相伝えているとの国民信仰のある皇室にまさるのものはなかったからである。
維新の志士らは、これを明確には把握していなかったに違いない。感覚的、あるいは本能的に感受して、勤王運動によって日本を統一国家とし、ひいて明治・大正の盛世を将来したのであるが、明確把握していなかったために、そのたたりが昭和年代になって出てきて、こんどの大戦のようなことになってしまったのである。p57

人間に運不運のあることは誰も知っている。それは生きているうちにもあるが、死後にもまたある。時代思想の変化によって、人物の価値基準が変動するのである。歴史上、そんな人物はずいぶんあり、英雄豪傑といわれる歴史上著名な人物は皆それをまぬかれないといってよいのであるが、楠木正成をトップにする楠木一族くらいその変動のひどかったのは、あまり類例がない。p62

英雄の素質があって大志のある者は、その微賤の時代には空威張りなどはしない。かえってへりくだって俊傑の心を攬り、おのれの羽翼にすることを心がけるのである。p116

「およそ国主は親で、民は子である。これが昔から定まった道である。しかるに、世の末となって、国主らが貪欲となり、いろいろな税目を考え出し、百姓らに重い課税をしてはたりとることが習わしとなった。そのため、国主はぜいたく三昧のくらしをしているが、百姓は餓死せんばかりとなっている。これが今日の国々の実状だ。わしはまことにあわれと思う。わしが(北条早雲)一介の旅人の身でありながら、その方共の主となり、その方共がわしの民となったのは、浅からぬ宿世の縁あればこそのことであろう。わしの望みは他にない。その方共が豊に暮らすようになることを、ひたすらに念ずるばかりだ。されば、わしの領内では、税は田税だけにして、他は一切取り立てるまい。しかも、田税も従来より五分の一を減らすことにする。さらにまた、もし諸役人や知行主らが法にそむいてきびしい取立てをしたり、そなたらを虐げたりするようなことがあったら、遠慮はいらぬ。直接来て、わしに訴えよ。かならず諸役人や知行主らの罪をただすであろう」p142

「わし(北条早雲)から二代の間は、武士共に扶持をあたえるにも特別な心得がいる。二十前の若者や七十以上の老人には、功あっても知行地をあたえず、金銀を与えるようにする必要がある。老人はいのち短いものである故、すぐその子の代となる。その子の器量が尋常ならよいが、つたなければ取り上げねばならぬ。しかし、取り上げれば、必ずうらみを含むようになる。二十以前の若者は、成人してどんな人物になるか検討がつかぬ。若い時はすぐれていても、成人してうつけものになるもの、度々あやまちをしでかすもの、世上少なくない。これまた知行地を取り上げねばならぬが、これも必ずうらみを含むようになる。当人だけでなく、縁につらなる親族一般の気風がゆるんでくる。とかく、あとくされのないよう、金銀をあたえておくべきものじゃ」p159

共通する敬愛する人を持つ時より、共通する憎い人を持つ時の方が親密になるのは、人間のかなしい性質だ。p177

英雄となり得る人物は、大将としての初陣という、こういう大事な時に稀有の幸運に恵まれるものである。もっとも、この時の元就は幸運であっただけではない。実に勇敢である。陰徳太平記によると、敵が厳しく結った木柵を、乱箭の飛来する中に自ら引抜いて、ひるむ味方をはげましており、最後には武田(安芸の守護大名・武田元繁)と親しく一騎討の勝負をしようと敵軍に割って入っている。大将たるものがこんな危険なことをすべきでないというのは、机の上の批判だ。こうして兵を励まさなければならない場合もあるのである。
幸運だけでも英雄とはなれず、器量だけでもなれない。二つが兼ねそなわってはじめて英雄になれる。「ことを謀るは人にあり、ことを成すは天にあり」という中国の古諺があるが、この間の消息から出たことばであろう。p210

元就は領分境の豪族らに通信するときは、
「何かあの地方でめずらしがるものはないか」
と言ってととのえさせ、手紙につけて持たせてやったので、豪族らは、
「譜代衆とかわりなく待遇下さる」
とありがたがり、心服したという。
また、自分のすまいにはいつも餅と酒とを用意しておいて、小身な士や小人頭や、その組の者や、出入りする百姓らが、季節の花や魚鳥などを持参して、ごきげん伺いに来ると、対面して、「おお、おお、これはよいものを持って来てくれた。ちょうどほしいと思っていたところであったよ」
と言って、食べ物なら、早速に調理を申しつけておいて、
「さてその方は上戸か下戸か」
ときく。
「上戸でございます」
というと、
「おお、おお、飲むか。酒はよいものじゃ。酒がのうては冬は凌げぬ。まして戦で川を渡ったり、夜道を行くときには、飲まんではやり切れんからのう。飲むがよい」
と、酒を出して飲ませる。
「下戸でございます」
と答えると、
「おお、おお、下戸か。上戸はよく過ごしては、気が荒くなって乱暴したり、言うまじきことを言うたりする。飲まぬとは殊勝な。餅を食べよ」
と、餅を出して食べさせる。
これについて、吉田物語はこう説明を加えている。
「すべて大将たる人は、身分が高くなるにつれて、下々との間が遠くなり、直接のことばなどをかけるのはごく限られた人だけとなり、その以下の者とはまるで疎遠になってしもう。そうなると、下々の者は奉行や組頭を自分の主人のように思い、ほんとに恩をこうむり、生命をつないでいる主人を、奉行や組頭の半分も貴く思わず、大事な時にご用に立つ者も少なくなる。このようなことも考えて遊ばされたのであろう」p258

人間はデビューが大事だ。はなやかな出方をするのと、地味な出方をするのとでは、生涯のうち何十倍、何百倍の損得がある。p333

ほめられて悪い気のする人間はいない。はじめのうちは用心していても、くりかえされると、つい心が動いてくる。p340

信長は勝負の気合というものをよく知っている。調子の出た時には無理を押しても積極的に出る。p351

一坪の溜池の中では鯉は一尺以上にはなれないp418