海音寺潮五郎『武将列伝 戦国終末篇』文春文庫、2008年6月10日新装版第一刷
○あらすじ(文庫裏面より)
信長・秀吉による天下統一の前後から武将の姿は激変し、
多様化していく。大国の狭間において生き残りのため
右往左往する地方武将もあれば、国持ち大名の元にあって、
参謀として名を成す武将や官僚としての武将もいる。
生まれた場所が僻地であったり、遅く生まれた武将がいる。
知将、謀将、闘将……ジャンル化された武将の型。
○本書で扱われている武将は以下。
・黒田如水
・蒲生氏郷
・真田昌幸
・長曾我部元親
・伊達政宗
・石田三成
・加藤清正
☆-----------------☆
「人には得手不得手のあるものでござる。拙者は弱年の頃から
自ら武器をふるっての働きは得手ではござらなんだ。
したがってさる働きはしたことがござらぬ。拙者の得手は
采配を取って軍勢を指揮し、一時に千も二千も敵を討ち取る
ことにござる。しかし、このことは各々すでによくご承知の
ことなれば、説明する要はござらぬ」黒田如水p.20
「水ハ方円の器ニ随フ」「身ハ褒貶毀誉ノ間ニ在リト雖モ、
心ハ水ノ如ク清シ」黒田如水p.49
戦国の武将にとって何よりもうれしいのは封地を加増される
ことである。自らにあたえられたものを辞退して他に譲るというのは、
なかなか出来ないことだ。(織田信孝を自殺に追い込んだ武功により
秀吉から伊勢亀山の城をくれるといわれたが、亀山は関氏相伝の
城のため関氏へ賜りたいと辞退したことから)氏郷が父譲りの
清白な性質であったことがわかる。藩翰譜によると、彼が
飛騨守に任官したのはこの年(天正十一年)であるという。p85
戦術には読心術―心理分析的面が多いのであるが、巧妙なものである。
氏郷のこの時の年齢(30歳前後)を考えると、老成驚くべきものだ。
天成の名将なるかなの感がある。p.95
人情に遠い人物はいあに長所があろうと重く用いないという
氏郷の心は、ぼくにはまことに尊く思われる。p.111
「さようにてはなし、小身なりとも都近くいたらば、天下に
望みを掛けることも出来るが、なにほど大身となったとて、
片田舎人となってはいたし方はない。われらはすたりものになったと
思い、不覚の涙をもよおしたのである」蒲生氏郷p.122
限りあれば吹かねど花は散るものを
こころ短き春の山風 蒲生氏郷p.157
真田記に「或ひと言ふ」と注して、こんな話を伝えている。
死にのぞんで昌幸は卒然として幸村に言った。
「わしのいのちがもう三年あったら、秀頼公に天下を取って上げられるものを」
幸村はその策を聞いた。昌幸ははっとわれに返った様子で、
「いやいや、重病に心乱れて筋なきことを言うたわ。乞食同然の
この身になって、どうしてそんなことが出来ようぞ」と打ち消した。
「いやいや、それがしにたいして御用心はいりませぬ。ぜひ仰せ付けください」
「ハハ、そうか。ではざんげ物語のつもりで聞いてくれい。わしの
見るところでは、三年のうちには東西手切れとなる。もしわしが
存命するならば、人数三千ばかりをひきいて伊勢の桑名の向こうまで
出て備えを立てよう。わしの手並みは大御所はずんと御存知じゃ。
わしが相手ということになれば、大御所もたやすくはかかられまい。
しばらくにらみ合っているうちには、豊臣家恩顧の諸大名共に
して心を動かして大坂方へ馳せ参ずる者も多く出るはずだ。そこで
大御所が攻めかかって来られたら、陣を引いて桑名のこちらでまた支える。
これをくりかえすうちには一層人数が集まるはずだ。やがて
近江の勢田まで来たらば、唐橋を焼き落として、こちらに柵をつけて
ささえる。数日ささえれば、さらにおびただしく味方はふえよう。
天下の豊臣家に帰すること案のうちではないか。やれやれ、
長物語りに胸が苦しい。水くれ」p220~221
親分学の心得第一条だ。子分の危急は理否を問わず救ってやる
心掛がなければ親分にはなれないのである。p.236
人の運勢はゆるやかな坂をのぼるようではない。あるところまでは
営々辛苦して運勢の坂を汗だくになって上らなければならないが、
一旦勢いがつくと急カーブをえがいて上昇する。威勢につく
人情がそうしてくれるのだ。p.242
逆境に沈んだことのない人間は、人間心理の洞察には鈍い
ものである。p.377
「大事を思う者は、たとえ首の座にいても、その際まで命を
大切にして、本意を遂げんと心がくべきものじゃ」と
言ったということ、ともに最もよく知られている。死に至るまで
傲岸不屈であったのだ。あっぱれである。p.382
人は一代、名は末代
あっぱれ 武士の心かな 加藤清正p.408
一体いつの時代でも後家さんは頑固なものだ。現実の情勢が
どう変化しようと、法律的に認められている権利は一毫も
失うまいとし、おやじの生きていた頃の格式は一分も落とすまいと
するのが常である。豊臣家の悲惨な最後は、淀殿という後家さんが
家の主宰者であったところに最も大きな原因があるとぼくは見ている。p.432
☆-----------------☆
○あらすじ(文庫裏面より)
信長・秀吉による天下統一の前後から武将の姿は激変し、
多様化していく。大国の狭間において生き残りのため
右往左往する地方武将もあれば、国持ち大名の元にあって、
参謀として名を成す武将や官僚としての武将もいる。
生まれた場所が僻地であったり、遅く生まれた武将がいる。
知将、謀将、闘将……ジャンル化された武将の型。
○本書で扱われている武将は以下。
・黒田如水
・蒲生氏郷
・真田昌幸
・長曾我部元親
・伊達政宗
・石田三成
・加藤清正
☆-----------------☆
「人には得手不得手のあるものでござる。拙者は弱年の頃から
自ら武器をふるっての働きは得手ではござらなんだ。
したがってさる働きはしたことがござらぬ。拙者の得手は
采配を取って軍勢を指揮し、一時に千も二千も敵を討ち取る
ことにござる。しかし、このことは各々すでによくご承知の
ことなれば、説明する要はござらぬ」黒田如水p.20
「水ハ方円の器ニ随フ」「身ハ褒貶毀誉ノ間ニ在リト雖モ、
心ハ水ノ如ク清シ」黒田如水p.49
戦国の武将にとって何よりもうれしいのは封地を加増される
ことである。自らにあたえられたものを辞退して他に譲るというのは、
なかなか出来ないことだ。(織田信孝を自殺に追い込んだ武功により
秀吉から伊勢亀山の城をくれるといわれたが、亀山は関氏相伝の
城のため関氏へ賜りたいと辞退したことから)氏郷が父譲りの
清白な性質であったことがわかる。藩翰譜によると、彼が
飛騨守に任官したのはこの年(天正十一年)であるという。p85
戦術には読心術―心理分析的面が多いのであるが、巧妙なものである。
氏郷のこの時の年齢(30歳前後)を考えると、老成驚くべきものだ。
天成の名将なるかなの感がある。p.95
人情に遠い人物はいあに長所があろうと重く用いないという
氏郷の心は、ぼくにはまことに尊く思われる。p.111
「さようにてはなし、小身なりとも都近くいたらば、天下に
望みを掛けることも出来るが、なにほど大身となったとて、
片田舎人となってはいたし方はない。われらはすたりものになったと
思い、不覚の涙をもよおしたのである」蒲生氏郷p.122
限りあれば吹かねど花は散るものを
こころ短き春の山風 蒲生氏郷p.157
真田記に「或ひと言ふ」と注して、こんな話を伝えている。
死にのぞんで昌幸は卒然として幸村に言った。
「わしのいのちがもう三年あったら、秀頼公に天下を取って上げられるものを」
幸村はその策を聞いた。昌幸ははっとわれに返った様子で、
「いやいや、重病に心乱れて筋なきことを言うたわ。乞食同然の
この身になって、どうしてそんなことが出来ようぞ」と打ち消した。
「いやいや、それがしにたいして御用心はいりませぬ。ぜひ仰せ付けください」
「ハハ、そうか。ではざんげ物語のつもりで聞いてくれい。わしの
見るところでは、三年のうちには東西手切れとなる。もしわしが
存命するならば、人数三千ばかりをひきいて伊勢の桑名の向こうまで
出て備えを立てよう。わしの手並みは大御所はずんと御存知じゃ。
わしが相手ということになれば、大御所もたやすくはかかられまい。
しばらくにらみ合っているうちには、豊臣家恩顧の諸大名共に
して心を動かして大坂方へ馳せ参ずる者も多く出るはずだ。そこで
大御所が攻めかかって来られたら、陣を引いて桑名のこちらでまた支える。
これをくりかえすうちには一層人数が集まるはずだ。やがて
近江の勢田まで来たらば、唐橋を焼き落として、こちらに柵をつけて
ささえる。数日ささえれば、さらにおびただしく味方はふえよう。
天下の豊臣家に帰すること案のうちではないか。やれやれ、
長物語りに胸が苦しい。水くれ」p220~221
親分学の心得第一条だ。子分の危急は理否を問わず救ってやる
心掛がなければ親分にはなれないのである。p.236
人の運勢はゆるやかな坂をのぼるようではない。あるところまでは
営々辛苦して運勢の坂を汗だくになって上らなければならないが、
一旦勢いがつくと急カーブをえがいて上昇する。威勢につく
人情がそうしてくれるのだ。p.242
逆境に沈んだことのない人間は、人間心理の洞察には鈍い
ものである。p.377
「大事を思う者は、たとえ首の座にいても、その際まで命を
大切にして、本意を遂げんと心がくべきものじゃ」と
言ったということ、ともに最もよく知られている。死に至るまで
傲岸不屈であったのだ。あっぱれである。p.382
人は一代、名は末代
あっぱれ 武士の心かな 加藤清正p.408
一体いつの時代でも後家さんは頑固なものだ。現実の情勢が
どう変化しようと、法律的に認められている権利は一毫も
失うまいとし、おやじの生きていた頃の格式は一分も落とすまいと
するのが常である。豊臣家の悲惨な最後は、淀殿という後家さんが
家の主宰者であったところに最も大きな原因があるとぼくは見ている。p.432
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