私の歴史

私は森羅万象、波乱万丈の一生を送っています。これからもそれを繋いで行く事でしょう。

地域社会302~中国戦跡巡りの旅22

2010-07-31 11:22:38 | モグログ

▲ 激戦地南津関 ▼ 9月13日の朝が明けた。「涼さん」、「陳さん」、に地元のガイドが加わり、宿を8:30出発した。ガイドは「宜昌の人口は戦前20万人、現在25万人」と言う。バスは長江左岸を西へ走り、「長江渓橋」を渡り、かつての激戦地「南津関」に至り、「望郷台」に駐車した。!!!!!

▲ 望郷台のいわれ ▼ 「南津関」は、旧名を「難津関」と言い,四川省に行く旅人は、ここから長江下流の故郷を望み、涙を流したと言う。名付けて「望郷台」だった。黄濁した長江の水に比べて、極めて対照的な澄んだ藍色の支流を眼下に見て渡った先の狭い石段を下る。!!!!!

▲ 三遊古洞 ▼ 洞窟が見えてきた。「三遊古洞」である。この洞窟壁面には、唐代の著名な三人の詩人が、沢山の漢詩を読み、絶景を愛でたと言う、その漢詩が刻み込まれていた。正しく天下の絶景を時間を惜しみ鑑賞した。やがてバスはますます険峻な山岳道を辿る。!!!!!


地域社会301~中国戦跡巡りの旅21

2010-07-30 11:22:50 | モグログ

▲ 宜昌へ ▼ 「湖北省鴉鵲嶺」は、戦後中国鉄道の重要分岐点となり、「紫金嶺」,「董市」を経て揚子江を渡り、「湖南省宜都」を経て「貴州省」に至る鉄道が開通していた。新事実を発見したのである。バスは飛行場の見える「土門唖」を過ぎ、近代的な高層ビルの目立つ「宜昌」の市街地に入る。!!!!!

▲ 桃花嶺飯店 ▼ 宿舎に入いり311号室で旅装を解く。タバコを切らし買い求めようとして、持参の円貨は駄目、加藤さんから3元借りて「ケント」20本入りを2箱求めた。この宜昌占領は、昭和15年6月の104連隊(仙台)突入であり、一時反転したが再突入し、宜昌西方の「長橋渓」左岸を占領した。将介石の首都・重慶から約400キロを隔て、その間は奇岩怪石の並び立つ「晋山山脈」が立ち塞がり、長江は「三峡の険」を作る天下の険となり、精鋭の日本軍も侵攻を断念したのだった。!!!!!

▲ 三峡ダムの建設 ▼ この中国政府決定は、平成4年3月である。三峡を訪れる観光客は延べ10万人、三峡ダム新完成には20年を要する由だった。明日は、精強な日本軍を阻んだ天下の険を案内すると言う。溢れる期待を胸にベッドに潜る。!!!!!


地域社会300~中国戦跡巡りの旅20

2010-07-29 10:48:18 | モグログ

▲ 突如出現したトーチカ ▼ 昭和16年春うらら~の紫金嶺分院前の衛兵所勤務の時、友軍大隊が重機関銃を据えたトーチカを築き、兵が銃把を握り、銃眼から敵方を睨む体制を取り、私も銃に実弾を籠め、立哨警戒した。13師団は早淵支隊を派遣し、長沙作戦に参加し、兵力半減のその留守の折だった。!!!!!

敵15個師包囲し来る ▼ 敵陳誠将軍指揮の圧倒的大兵力が、手薄い我が留守部隊を包囲し大攻勢を賭けた。鴉鵲嶺の旅団留守守備隊、宜昌の師団留守守備隊も、熾烈な攻撃に曝され、出先では孤立し玉砕する隊が続出、師団全体が危機に曝された。!!!!! 

▲ 紫金嶺は避けたの??▼ 紫金嶺は敵が迂回超越したのか、銃声一つ無しだった。逆に後方の鴉鵲嶺では必死に応戦し、入院患者も銃を執った。漢口の軍司令部は「長沙作戦」を中止し、早淵支隊が急遽戻り、危機を脱したのである。この様に兵個々の命など何時も明日を知らぬ蝋燭のともしびの類(たぐい)だった。!!!!!


地域社会299~中国戦跡巡りの旅19

2010-07-28 09:11:19 | モグログ

▲ 紫金嶺 ▼ 漢口~宜昌公路の分岐点「鴉鵲嶺」から揚子江岸の「董市」に至る中間に、純農村の「紫金嶺」が有り、116連隊本部本部(大坪進連隊長)近くに、病院の二半部が開設され、私は薬剤部勤務であった。森と畑と丘陵が連続し、市街も娯楽施設も皆無、アンペラ敷きの兵舎で、官給タバコ「ほまれ」を覚え、スパスパ吸ったり,支那酒(チャンチユ-)を飲んだりの暮らしだった。!!!!!

▲ 顔も身体もマツ黄色~ ▼ 朝から晩まで南瓜(カボチャ)の飯、南瓜の味噌汁、南瓜のてんぷら、毎日南瓜の食事が続く。駐屯将兵の顔は皆「黄胆(おうだん)」症状の如く、手先まで真黄色に染まり、皆顔を見合わせて驚く。野菜は南瓜以外は調達出来なかった由。何をかいわんや?????

▲ 急性ニコチン中毒症 ▼ 私のタバコ初体験は、ここ紫金嶺が最初である。吸わないから「ほまれ」の束が整頓棚に山積みとなり、捨てるに惜しい、どれだけ吸えるかと、止せば良いのにスパスパ始めたら~急に気分が悪くなり、冷汗が額を伝わり流れ、心臓は急迫した。自己診断で「急性ニコチン中毒症」を自ら体験した。馬鹿を見たのだった。!!!!!


地域社会298~中国戦跡巡りの旅18

2010-07-27 13:49:07 | モグログ

 ワンパ隊長のザン切り頭 ▼ 病院で2番目に偉い斎藤庶務主任に呼ばれ命令された。「病院長の頭を散髪せよ」と言う。この恐ろしい隊長室へ伺う。今後の再々のお呼びを嫌い、わざと刃の切れ味の悪いバリカンを選び、御奉仕したら、以後の及びは無かったのである。私の作戦勝ちであった。!!!!!

 衛兵勤務の一幕 ▼ 私が衛兵所勤務に就いた時のこと、着剣立哨しながら、暗夜を幸いに、餡餅を口一杯にしたら、ガチャガチャと軍刀の鞘に当る音を耳にした。スワツ将校なりと大慌て???目を白黒させながら「誰かツ」と誰何したら~「御苦労」の声その声の主は、まぎれも無く「片桐ワンパ隊長」その人だった。「冷汗三斗の思い」とはこのことだった。!!!!!

▲ 鴉鵲嶺を後に ▼ 前述の記憶はホンの一部に過ぎない。語り尽くせない思い出を秘めて、15:00頃出発した。公路の先で、左折する道路と「鉄道橋」を発見した。左折すると、「紫金嶺」を経て長江岸の「董市」に至る。私は純農村の「紫金嶺病院二半部」勤務を懐かしく思い出していた。!!!!!


地域社会297~中国戦跡巡りの旅17

2010-07-26 10:08:20 | モグログ

▲ ワンパ隊長 ▼ 私の第2野戦病院には、軍医学校卒業の軍医が病院長であった。外科内科などの医官は、皆医科大学卒業の開業医又は勤務医であった。この病院長は、「ワンパ隊長」と酷評されたが、中国では「泥亀」を意味する。環境整備と称して、軍医以下の将校下士官兵を連日の如く、叱咤激励し、土木工事の突貫工事に駆り立てた。!!!!!

▲ クリークへじゃぶじゃぶの閲兵式 ▼ 昭和16年春、私達初年兵一同は、遥々日本から補充され着隊した。その閲兵式で我ら一同は、ワンパ病院長から直接命令された「前え進めツ」、、、、、「止まれ」の号令が無い、、、、全員ズボズボとクリークの中へ、手荒いワンパ隊長の一発だった。!!!!!

▲ サルバルサン ▼ 私は薬剤部勤務だった。陸軍薬局法片手に勤務中に、ワンパ隊長の当番兵が訪れ、処方箋を差し出す。診断を担当しない病院長がナゼ??薬は606号注射液だが梅毒治療用であり管理の厳しい毒薬である。薬剤官の指示で処方を拒絶した。一体誰の為のものだったのやら?????


地域社会296~中国戦跡巡りの旅~16

2010-07-25 11:20:19 | モグログ

▲ 鴉鵲嶺・再訪の喜び爆発 ▼ やがて「鴉鵲嶺」と墨書きした案内標識を目にした。バスは丁字路の路傍に駐車した途端、待ちかねた如く戦友達は、イナゴの様に、先を争って下車し、病院跡の痕跡探訪に散った。私は初年兵で大陸の最前線の、この土地に真っ先に放り込まれた野戦病院なのだった。!!!!!

▲ 白壁の洋風2階建 ▼ 丁字路から東へ狭い道路があり、左側の白壁洋館は、昔の薬剤部跡今は「中国国際旅行分社」の表札があった。その向かい側が、病院本部、内科病棟と続いた筈である。また辛くも昔のクリークを見つけたが昔にくらべ小さいと知らされた。!!!!!

▲ 思いでは走馬灯の如く ▼ 一刻の休憩時間は既に超過した。三度の訪問は無いのだと悟った途端不覚にも涙が零れた。心を残してバスは出る。ここでも沢山の民衆が車を見送る。最大の思いでは「ワンパ隊長」の存在と、「私の紫金嶺分院勤務」だが後述に譲る。!!!!!


地域社会295=中国戦跡巡りの旅~15

2010-07-24 09:07:20 | モグログ

▲ 玉泉寺 ▼ 午後1時頃関帝陵前を出発したバスは、当陽市とも別れて山中の道路を曲折して、右折した先に名刹「玉泉寺」があった。紀元198年「晋浄和尚」が創建し、紀元555年に修復された。最盛期には、僧3千7百人を傭したと言う。今に残る国宝の「大雄宝殿」。また重さ参千斤高さ十三層に及ぶ紀元615年建立の「陵金鉄塔」を見学した。!!!!!

▲ 玉泉のほとり ▼ 蝉しぐれ姦しい林の中を奥に進み、飲めば延命の効果ありと言う「玉泉」のほとりに佇み、吹き出る汗を拭い、涼しい木陰に憩う。忙中閑ありだった。!!!!!

▲ 玉泉渡槽(水管橋) ▼ 駐車場へ戻る途中の道路上に架かる施設を見つけた。農業用水路として作られ,空中の懸け橋と見まがう「玉泉渡槽(水管橋)」がある。周辺の景観にマッチするデザインであり、1971年完成の由、既に時計は14:20を示していた。バスは、漢口~宜昌公路上をひた走る。!!!!!


地域社会294~中国戦跡巡りの旅~14

2010-07-23 13:06:10 | モグログ

▲ 長坂坡公園 ▼ 正午過ぎ県政府役員の見送りを受けて、市街地の西方へ向かう。やがて公園の坂道の途中で下車した。ここは、劉備の軍と曹操の軍が死闘を演じた「長坂坡」であり、今は市民の為の「長坂坡公園」として整備され、「当陽八景」の一つであると言う。!!!!!

▲ 摩夫人投身の井戸 ▼ 公園の一隅に、劉備玄徳の子幼君「阿斗」を曹操軍から守り抜き、自らは重傷の吾が身を井戸に投じた「摩夫人(玄徳夫人淑玲)投身の井戸」があった。!!!!!

▲ 関帝陵 ▼ バスは更に水田の中を西方へ進行して史跡「関帝陵」前に至る。南宋時代1188年に荊州で没した関羽を葬った所である。その陵は元朝以後に再建された。仏堂、鼓楼、僧坊など痛みが激しので、足場を組み修復中であった。ともあれ現在も中国の人気ナンバーワンの関帝将軍なのだった。午後1時頃出発し、「当陽市」に別れを告げた。!!!!!


地域社会293~中国戦跡巡りの旅~13

2010-07-22 10:47:58 | モグログ

▲ 十里舗の大群衆 ▼ 荊州出発後バスは約1時間で、交通の要衝である「十里舗」の十字路に達し、その一隅に停車した。北へ向うと「荊門」であり、東進すれば「沙洋鎮」へ、西へ進めば「当陽」に至る。バスは黒山の大群衆に包囲された。日本の観光団を好奇心一杯での目で我々を観察し、ワイワイ喋り遭っていた。!!!!!

▲ 当陽県政府 ▼ 一路公路を再び西へ走る。公路上の稲藁を車に踏ませる脱穀作業は、当然の如く行われた。標高が上がり、遠望した山並みが身近に迫り、昔の禿げ山は見事な緑の植林に覆われおり感心する。空港を半周し、段丘の市街と感じた頃「当陽県政府」に着き、接待所へ案内された。!!!!!

▲ 人民政府の説明 ▼ 弁公室主任から、「県の人口43万人、三国時代の名所古跡あり、御ゆっくり見学を」の挨拶有り、庁舎屋上の「見晴らし台」へ。西北方角に「樟河」と長い鉄道橋を見つけた。この鉄道は、明日の深夜、武漢市へ戻る夜行寝台急行列車で通過しようとは、予想もつかないことだった。?????