三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

藤ケ森城

2017-08-31 09:15:28 | 古城巡り

藤ケ森城

↓ 北から見る藤ケ森城

↓ 虎口

↓ 頂部 (主郭)

↓ 東、浄土寺城方面

↓ 堀と土塁

↓ 同堀

↓ 同切岸

↓ 西側土塁

↓ 西側切岸

↓ 同

↓ 東南の土塁残影

↓ 南東から見た藤ケ森城

 

城名
 藤ヶ森城
住所
 津市安濃町岡南字藤ヶ森
築城年 築城者 不明
形式
 平山城
遺構
 郭、土塁、堀
規模
 東西100m×南北70m
城主 不明
標高 30m 比高 14m
歴史 不明
環境
 安濃川と穴倉川の中間地点の平野部に取り残されたように比高14m程の凸があり、その全体が城域である。
 南西750~800mの所に連部城と今徳城が、 南東550mの所に浄土寺城がそれぞれある。
現地
 連部城の支城という説あり。連部城と当藤ケ森城が穴倉川を挟んで位置する。
 頂部・主郭は楕円形でやや不定形である。その北側から西側にかけて、この城一番見ものの幅6m深さ3m以上、長さ30~40mの明確な堀がある。
 東と南側は切岸で防御している。南東部の小屋に挟まれた所には土塁の残影が見られる。
考察
 藤ケ森城、浄土寺城、連部城、今徳城が近接してある姿は伊賀の国人領主の世界を見るようである。
その他
 平成29年4月5日訪城
地図
 <!-- 藤ケ森城 -->
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浄土寺城

2017-08-27 12:59:49 | 古城巡り

浄土寺城

登城口と切岸

帯曲輪と切岸

主郭南西隅

帯曲輪と切岸

見張台

西空堀

主郭

北郭

北郭土塁

主郭背後土塁

二郭土塁

今徳城、連部城方面

浄土寺城縄張図

城名
 浄土寺城
住所
 津市安濃町浄土寺字三反田
築城年
 天正12年(1584)
築城者
 家所帯刀正藤高
形式
 平山城
遺構
 郭、土塁
規模
 東西100m×南北60m
城主
 守岡 金介
標高 30m 比高 10m
環境
 安濃川と穴倉川の中間地点の平野部に取り残されたように比高10m程の凸があり、その全体が城域である。
 北西550mの所に藤ケ森城がある。又西800mの所に連部城、今徳城がある。
経緯
 天正12年(1584)小牧長久手の戦い。羽柴秀吉は伊勢攻めに関して戸木城を攻めるために家所帯刀藤高に命じて築かせ、守岡金介に守らせた城。
書籍
 三重の中世城館 勢陽五鈴遺響
現地 郷社稲荷神社と林
考察
 藤ケ森城、浄土寺城、連部城、今徳城が近接してある姿は伊賀の国人領主の世界を見るようである。
その他
平成29年4月5日訪城
地図
 <!-- 浄土寺城 -->
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前田城・二子城

2017-08-23 10:52:08 | 古城巡り


城名
 前田城
住所
  津市安濃町中川 字庵の下
築城者・城主
 前田 将監
形式
 平山城
遺構
 曲輪、土塁、西屋敷
規模
 東西170m×南北100m
標高 40m 比高 14m
歴史
 草生氏の臣 
経緯
 草生梶之助の下臣 で本城の東側を守る。
書籍
 伊勢一国旧城跡附
環境
 西2Kmにある草生城の支城と言われる。
現地
 正運寺の西丘陵にある。周辺は後世の改変がある。主郭の周辺のみ当時の様子が伺える。
 同書籍によると「又その側に20間四方の西屋敷と申すところがある。」とあるが、傍らの家が該当すると思われる。
感想
 主郭を一部囲む土塁、西側を守る堀切など数少ない遺構である。西隣の二子城の土塁等の様子が参考になる。
その他 
 平成29年4月5日訪城

 大嶋内蔵頭書の北畠家臣帳に御馬廻組として前田数馬首の名前がある。

 

城名
 二子城
読み
 ふたごじょう
住所
 三重県津市安濃町中川
築城年・築城者 不明
形式
 平山城
遺構
 郭、土塁、虎口、切り通し
規模
 東西170m×南北60m
城主
 村主文宗
標高 61m 比高 31m
書籍
 伊勢一国旧城跡附 三重の中世城館
環境
 安濃町平野部の西端で西から突き出した丘頂から東方面を睨む。背後に草生方面、経ヶ峰を望む。
一族
 村主玄蕃を本家とする
現地
 安濃町を伊勢湾にに向かって流れる大谷川と滝合川、穴倉川の間にある。舌状丘陵の東端にあり東方面の視界に優れる。
 南の穴倉川沿いには美里町日南田から(家所城がある)家所へ抜ける道が走り交通の要所であった。
 東西に延びる尾根をフルに活用している。現在この近辺で見られる山城の中では完成度の高い城だ。
 構成は曲輪と土塁と虎口。虎口は不明瞭なものも入れると主郭から西側の尾根伝いの曲輪に数か所見受けられる。
考察
 北隣の前田城とは川一本を隔てて800mに位置する。その前田氏が草生梶之助の旗下であることから二子の村主氏も草生の一角を占める一人であったと思われる。
感想
 小振りではあるが山城の典型のような城である。井戸跡や小川が無いようだとすると水の補給は麓からの運搬でそれは十分考えられる。平山城と言っていい。
その他
 平成29年4月5日訪城
地図


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雲林院城

2017-08-20 23:51:07 | 古城巡り


スライド デジブック

城名
 雲林院城
読み
 うじいじょう
住所
 津市芸濃町雲林院
築城年
 元弘元年(1331)
築城者
 長野氏から分家し雲林院氏を名乗る。播磨守祐高(祐尊とも)以後11代ここに居住する。
形式
 山城
遺構
 曲輪 土塁 堀切
規模
 270×350m
城主
 祐高- - - - - - - - - -祐基-祐光
標高
 170m
比高
 70m
歴史
 応永の乱 応永22年(1415)北畠満雅挙兵の時雲林院氏、長野氏は幕府軍に属して拝野城を攻撃した。
 正長の変 正長元年(1428)満雅再挙兵し岩田城に入る。幕府の討伐軍の中に雲林院氏、長野氏も加わり抜群の戦功をあげた。恩賞として一志郡を給わった。
 応仁の乱 応仁元年(1467)乱が勃発すると雲林院、長野氏は乱最大の激戦「相国寺の戦い」に参加し奮戦したことが知られる。この後、雲林院氏の消息は史料上から消える。
 天文年間(1532~55)の末頃、北畠側の大和の沢氏、秋山氏と津の垂水の鷺山で合戦している。この時雲林院氏の配下の河内武者が参戦していると勢州軍記にある。
 永禄年間(1558~70)のはじめ長野氏は北畠氏と和議を結び北畠具教の次男具藤を養子に迎えたことで長野氏、雲林院氏ら工藤一族は北畠氏の幕下に属した。
 永禄11年(1568)に織田軍に降りて織田信包が長野氏の養子に入る頃には、草生、家所、細野、中尾、乙部の長野一族は信長の幕下に入った。長野具藤は追放された。
 天正8年(1580)対立する信包が雲林院氏の領地を奪おうとして雲林院出羽守祐基・祐光兵部大輔父子は追われ、信長を追い伊勢の地を離れた。城は落城した。
 信長の死後は再び伊勢に戻り天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉に属し小地を給わった。
書籍
 三重の中世城館 勢州軍記
一族
 長野氏工藤の一族(勢州四家のひとつ)
家臣
 家来に忍田美濃守 家老に野呂長門守
その他
 侍600人(馬上100騎)、小人400人、合計千人
雲林院の名前の由来

 京都市北区紫野にある雲林院(うんりんいん)という平安時代の寺院がルーツでなまってうじいとなった。

地図



林三城(林館・林城山城・林北浦城)

2017-08-20 11:18:08 | 古城巡り


スライドデジブック

城名
 林館
別名
 林殿町城 林城屋敷城
住所
 津市芸濃町林字殿町
築城年
明応年間 (一説に正応年間)
築城者
 林氏
形式
 居館
遺構
 掘割、石塁、土塁
規模
 東西280m×南北230m
城主
 林祐行 - 重越 - 定保 - 日向守? - 信重
標高
 85m
比高
 40m
歴史
 勢陽五鈴遺響によると、明応年中(1492~1501)に長野工藤氏一族の林中守祐行が住まうとある。
 天文5年(1536)に長野氏と対立していた関氏に攻められ、関氏の一族鹿伏兎定長の子定保が城主として入り林氏を名乗ったともいわれている。この時、林重越は追われた。
 天文7年(1538)定保は城を築く。
 天正2年(1574)に、滝川一益と信長の幕下になっていた雲林院出羽守に攻められた。西方の楠原・北方の楠平尾の武将もこの城に籠って守り抜いた。和議が成立する。
 北側の閑翁寺の言い伝えでは、天正2年滝川一益の兵火に城主林日向守は翌年、当山にて切腹、寺院も全焼した、とある。
 天正11年(1583)羽柴秀吉に攻められたが落ちなかった。のちに秀吉側についた。
 天正12年(1584)信包は林の領主となる。また、早々に嫡男・信重が家督を継ぐ。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに東軍として参戦し、所領1万石で林藩を立藩する。
 元和元年(1615)信包が死去すると信包の家督を弟の信則が継ぐことになり、信重は幕府に申し立てをする。
 願わず、信重は所領を没収され流浪の身となり、林城は廃城となる。信重、30年ほどの働きが無となった。
一族
 長野氏の一族
感想
 現在もなお城下町の風情が残り貴重な場所だと思う。ゆっくりと見せていただきたい。静かに!
 林三城は史料がほとんどない状態という。勢陽五鈴遺響、伊勢名勝志、勢陽雑記それぞれが異なった部分を記述している。また、中世城館、日本城郭大系、芸濃町史も異なった解釈をしている。疑念×疑念=収集がつかない状態、となっている。
 林三城の内林館が本城であろう。城山城と北浦城は林信重の時にかなり広い範囲を領有していた関係から、出城的機能を持たせた簡易的なものであったと考える。
 父、信包から領地を引き継いだ後かなり領有地の運営に活躍した様子が少ない文書から垣間見えてくる。
 あるいは、用水の調停など領地内のもめごとの見張用に築かれたものかもしれない。城としての施設が見られないのもその辺の理由からきているのかもしれない。

 

城名

  林城
別名
 林城山城
住所
 津市芸濃町中縄
築城年
 
築城者
 
形式
 平山城
遺構
 なし
規模
 東西200m×南北230m
城主
 
標高
 90m
比高
 10m
歴史
 
経緯
 芸濃郷土資料館の掲示物に示された場所を根拠にしている。現在では「しろやま」とも呼ばれていないことが地元の郷土史研究者らによって指摘されている。
書籍
 三重の中世城館 三重の城 
一族
 関氏
感想
 今日現在公式見解は不明であるが「火の無い所に煙は立たぬ」でここを林城と考えた。

 

③ 林北浦城

訪城未定

地図

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楠原 童子谷城・向市場城

2017-08-19 21:39:48 | 日本の城

楠原 童子谷城・向市場城

城名
 楠原童子谷城
読み
 くすはらどうじだにじょう
住所
 津市芸濃町楠原
築城年
 応仁年間(1467~1469)
築城者
 山田重勝
形式
 平山城
遺構
 土塁
規模
 東西130m×南北155m
城主
 山田重勝 -- 重益
標高
 73m
比高
 17m
歴史
 南北朝の頃、北朝側の足利将軍の命を受けた山田重勝が楠原の地に入り支配した。南朝側の北畠氏に対する構えとして城を築き居住した。
 その後、子孫は織田氏に従い、重益になって近江の安土で死んだという。(勢陽五鈴遺響)
書籍
 勢陽五鈴遺響 三重の中世城館
感想
 守り堅固な城には見えない。居館風である。近辺で大きな戦は無かったのだろうか。同じように向市場城にも言える。

 

 

城名

 楠原向市場城
読み
 くすはらむかいいちばじょう
住所
 津市芸濃町楠原
築城年
 応仁期(1467~)
築城者
 山田重孝
形式
 平山城
遺構
 四方に土塁、南東部に虎口、
規模
 東西120m×南北70m
城主
 山田重孝 -- 瀬古氏
標高
 67m
比高
 14m
歴史
 童子谷城と共に山田氏の城であったとされている。一時、瀬古氏が治めていたので、楠原の南東部を「瀬古」と呼んでいる。
経緯
 山田氏の分家、後に瀬古氏を名乗る。(勢陽五鈴遺響)
書籍
 勢陽五鈴遺響 三重の中世城館
現地
 畑から刀・槍が出土した。
感想
 守り堅固な城には見えない。居館風である。近辺で大きな戦は無かったのだろうか。同じように童子谷城にも言える。
地図

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赤木城

2017-08-18 23:34:45 | 古城巡り

 


城名
 赤木城
住所
 熊野市紀和町赤木
築城年
 天正17年(1589)
築城者
 藤堂高虎、羽田長門守
形式
 平山城
遺構
 曲輪、堀切、石垣(野面乱層積)、水溜
規模
 東西100×南北170m 
城主
 藤堂佐渡守
標高
 230m
比高
 22m
歴史
 天正13年(1585)北山郷民が検地に反対して一揆を起す。まだ国内での検地の実績は11%程度で一般的ではなかった。
 羽柴秀長が自ら出陣し犠牲を払いながらも鎮圧した。この冬は大雪のため成敗は中途半端で終わった。
 天正16年、秀長は徹底成敗のため武将らを出陣させた。この時辛怒田城を築いている。
 鎮圧がはかどらないので武将・吉川兄弟に変わって藤堂高虎が出陣し北山一帯を鎮圧した。(天正の一揆)
 北山一帯を治めるため、又北山杉を切り出すため藤堂と羽田は赤木城を築いた。
 26年後、大坂冬の陣で手薄になった赤木城に対して北山の郷民は再び蜂起するが20日足らずで殲滅された。(慶長の一揆)
 天正、慶長の一揆において一揆参加者の多くの農民が田平子峠にて惨殺された。
 血なまぐさい歴史がこの赤木城や田平子峠周辺にあった。赤木城の石垣はきっとそれを記憶しているはずだ。
書籍
 三重の中世城館
現地 国史跡 熊野市指定文化財 続日本100名城
 全国で天空の城が話題になっている。その一つが赤木城である。ところがまだ雲海に浮かぶ赤木城の写真は撮れてない。
地図

戸木城

2017-08-17 07:33:37 | 古城巡り


 

戸木三城;戸木城、宮山城、城山城

城名
 戸木城(へきじょう)
住所
 津市戸木町桃里
築城年
 天文23年(1554)
築城者
 木造具政(北畠具教の弟で木造家へ養子)隠居所として築城 - 天正12年(1569)(子)木造長正が戦いの城に増強
形式
 平山城
遺構
 全壊(堀らしき片鱗が一部に残る)
規模
 東西160m
標高 21m 比高11m
城主
 木造具政 - 長正
歴史
 信長の侵攻を助けたのは皮肉にも北畠具教の弟であり木造家の当主木造具政だった。具政の謀反の真意は北畠一族の馬揃えにおける自分の順位の不満と、それをもとにした家臣の柘植三郎左衛門尉らがそそのかしたためだった。
経緯
 天文23年(1554)木造家九代、具政が家督を長正に譲り、隠居所として造営し戸木御所と称された。
書籍
 三重中世城館
歴史
 天文23(1554)木造具政が戸木の地を隠居所とする。
 永禄12(1569)具政・長正父子は、伊勢に侵入してきた織田信長から南伊勢の案内を頼まれて信長に属し、その後、北畠家を継いだ織田信雄に仕えた。
 天正12(1584)豊臣秀吉と織田信雄+徳川家康の小牧長久手の戦いが始まる。秀吉側の蒲生氏郷軍らと対峙する。
 戸木城の城主は木造具政の子、木造長正は戦いの城として増強・修復して完成していた。
 5月、松ヶ島より転戦してきた蒲生氏郷隊は、戸木城ちかくの牧城を攻め落とした。川方城にもせまったが、戸木城より多数の援軍を入れていたために「益なし」としてこの場は引き下がり戸木城の東に陣を張った。
 5月28日、雨の夜、蒲生隊はひそかに北側より川方城に忍び寄った。城の堀際まで進出してから時の声を上げ堀を乗り越えた。城方はあわてて対応するも蒲生隊の大群に対処できず戸木へと脱出した。
 敵軍は北には家所帯刀、西には榊原形部少輔、東には蒲生氏郷、南には高野・日置・沢六郎・秋山左近大夫・芳野宮内少輔連合軍が陣を敷いた。
 城中からはたびたび討って出たり須ケ瀬八太まで刈田に出かけ大合戦となった。
 中でも中川庄蔵(注1)は敵将蒲生氏郷とわたり合いその働きは目覚ましかった。(勢陽五鈴遺響)
 ここでの籠城は木造方将兵数百人で約六ヶ月にも及んだと伝えられる。
 11月15日秀吉と信雄の間で小牧長久手の戦いの和睦が成立した。
 翌年、長正は城を明け渡し員弁郡田辺城に移り戸木城は一時、現在の津市庄田町に勢力を持っていた中川庄蔵が預かっていたがまもなく廃城となった。
現地
 昭和51年小学校建設にあたり発掘調査が行われた。
 範囲は南端部で幅7.5m深さ2.8mに及ぶ大きな空堀や平面がコの字形の空堀が発見された。
 城の南は断崖となり稲代川の水を谷にたたえ、東西を堀切北は沼地で宮山に番所を置く要害であった。
感想
 南に崖面をもつ台状地で小学校建設のために南端部が開発された。ゆえにそれ以外の台状地は開墾はされたが崩されてはいない、と思われる。
 現在、現地には台状地の下に小学校が建てられ記念碑も小学校の校庭内にあるが実は背後の台状地が本来の戸木城の位置であろう。
 すると西側のやぶの中にある窪みはやはり西側を防御する堀の一部と思われる。前述の幅7.5m深さ2.8mという大きさも匹敵する。資料には遺構は見られないとあるがこれは戸木城の堀であると考えられ、城の東を走る道路も堀跡とすると東西を大きな堀で守備する堅固な城であったと想像できる。
地図


宮山城

2017-08-16 13:45:40 | 古城巡り


 

 

城名
 宮山城
読み
 みややまじょう
住所
 津市久居戸木町(へきちょう)敏太(とした)
築城年
 天文年間(1532~1554) 1554頃か
築城者・城主
 木造具正(具政)
形式
 平山城
遺構
 曲輪、土塁、空堀
規模
 50×70m
標高
 42~46m
比高
 20m
歴史
 戸木本城と同時期、出城(北の備え)として天文年間(1554頃か)に築城された。
 小牧長久手の戦いの時、敵・羽柴秀吉側の家所帯刀隊が風早池の西に陣を構えた。
 織田信雄側の木造方(柘植彦次郎ら)は城の西へ打って出て戦ったが敗れて5月20日、宮山城は落城し600m~800m南の戸木本城へ引き揚げた。
 その後、帯刀は宮山城に陣取り、城を増強しながら眼下の戸木城を攻撃した。
書籍
 三重の中世城館 木造軍記 上野遺跡だより まいぶん津
一族
 木造一族
家臣
 木造家臣(柘植彦次郎、田中道京、海津、川原田ら)
環境
 北から西へ深い谷が巡り大谷川に繋がる。南から西にかけては崖が続く。東、南は平坦地で比高20mの低丘陵に城はある。
現地
 周囲の中で一番の平坦地にある敏太(とした)神社の裏山となる。かつて周辺は谷が深かったようだが現在は埋め立てられて想像もできない。
考察
 家所帯刀が宮山城を乗っ取った後、戸木城攻めのため城は増強された。
 このタイミングでの城山城との関連は定かではない。
感想
 推定される歴史から宮山城は(城山城も)当初、戸木城の出城という位置づけから「砦」的存在だったと思われる。両城ともコンパクトな城だ。北からの敵をいち早く察知することや短時間引き留めるくらいのものではないだろうか。
 その後、羽柴秀吉側の隊によって現在見られるような縄張に増強された。宮山城と城山城は縄張の特徴から同じ時期に増強されたと考えられる。
 そして、南1kmにある上野遺跡の南東隅の遺構は戸木城攻めのため羽柴秀吉側、榊原刑部少輔隊によって、もともとの居館を巨大な堀や土塁で増強して砦にしたという可能性が指摘されている。
地図

 

 

 

 

 

 


城山城

2017-08-16 13:34:03 | 古城巡り

 

城名
 城山城
読み
 しろやまじょう
住所
 津市久居戸木町(へきちょう)城山
築城年
 天文年間(1554頃か)
築城者・城主
 木造具正(具政)
形式
 平山城
遺構
 曲輪、土塁、空堀
規模
 70×70m
標高
 31m
比高
 8m
歴史
 戸木本城と同時期、出城(北の備え)として天文年間(1554頃か)に築城された。
 小牧長久手の戦いの時城山城は落城し秀吉方の軍に乗っ取られ、戸木城攻めに利用されたと思われる。4月12日付けの秀吉から家臣達への書状の中に「戸木城攻めの為の砦四つを造るよう」という指示が出ている。
書籍
 三重の中世城館 木造軍記
一族
 木造一族
家臣
 木造家臣(柘植彦次郎、田中道京、海津、川原田ら)
現地
 風早池の南東に位置し北からの進入を警固している。
考察
 秀吉軍に乗っ取られたとき城は増強されたようだ。
 このタイミングでの宮山城との関連は定かではない。
 秀吉の命令に「戸木城攻めの城を四つ造れ」とある。宮山城(家所帯刀隊)・城山城(不明)・久井陣屋(蒲生氏郷隊)・上野遺跡(榊原刑部少輔隊)の4か所と考えられる。
感想
 歴史から城山城は(同時に宮山城も)戸木城の出城という位置づけから「砦」的存在だと思われる。両城ともコンパクトな城だ。北からの敵をいち早く察知することや短時間引き留めるくらいのものではないだろうか。
 その後、羽柴秀吉側の隊によって現在見られるような縄張に増強された。宮山城と城山城は縄張の特徴から同じ時期に増強されたと考えられる。
 そして、南西1.6kmにある上野遺跡の南東隅の遺構は戸木城攻めのため羽柴秀吉側、榊原刑部少輔隊によって、もともとの居館を巨大な堀や土塁で増強して砦にしたという可能性が指摘されている。
地図