教育放談

学校教育についてさまざまな視点から考えようとしています。

競争による教育を問う

2006年02月06日 | Weblog
 残念なことに、これから日本の教育や学校は否応なく「競争」せざるを得ない時代になりそうな気配が濃厚である。それは、中央教育審議会に提出された前中山文科省の私案『甦れ、日本!』からも強く窺える。
 そこでは、これからの時代は『国際的「知」の大競争時代』であるから、国家戦略としての教育を展開しなければならないとし、具体的には「競争意識を涵養」し「全国学力テストを実施」するなどして「学力を世界のトップに押し上げ」ること、教員の質の向上などを柱として挙げている。
 つまり、競争させれば学力が向上するという発想がベースにあり、これからの教育改革の中心理念として「競争」が据えられたということである。
そこで考えなければならないのは、ほんとうに競争させれば「受験のための力」ではない、本来の意味での「学力」は向上するのだろうか、ということであろう。
 
 ここで思い起こされるのは、政府の推し進めてきた新自由主義に基づく市場の競争原理がライブドアの堀江前社長に象徴される「金銭至上主義」がまかり通り、一方では自社に利益をもたらそうと数社がからんで起こした「耐震偽装問題」が出来するなど、人間の価値観や行動基準にまで大きな影を落としてきたことである。
 自由に競争することを是とする新自由主義のもとでは、「勝ち組」になることが求められ、勝つためならあらゆる手段をつくして(時には法の不備を利用し民を欺いても)良いではないか、それを考え出せないのは愚かな「負け組」の証であるとするような誤った考えを持つ市民を現出させることも危惧される。
 人が「生きる」ということは、決して「勝ち負け」の次元で論じられるべきではないにもかかわらず、「競争」が建前として認められれば、どうしても「勝ち負け」に目が奪われ、他に勝つことが大切なこととして意識されてしまうことは止むを得ないし、上に挙げた二つの事件もそうした背景と深く関わっているという認識を持つべきである。

 そして重要なことは、教育改革で言われるところの「競争」と市場の競争原理で言われるところのそれと、分野は異なるとは言え全く無関係ではない、ということである。
 前文科省の言うところの「知の大競争時代」とは、単に「知」をめぐる競争ではない。
 それは、「国際的」と冠されているように国家間のサバイバル競争を意味し、他国と競い合って「世界のトップ」に立とうというねらいを持っている。しかも、私たちの目に見える形で求められるのは「国内における競争」であり「学校内における競争」ということになるであろうことは避けられまい。
国内の学校同士を競い合わせ、学校に教育向上や教育改善の努力をうながし、全国の水準向上をめざそうとしたのがイギリスのサッチャー政権であった。そのためにナショナル・カリキュラムを導入し、それに基づいて全国統一テストによる学校評価を実施し、小学校や中学校などの学校種ごとに全国ランクづけをし、毎年それが新聞などで公表されたという。トップ10とかワースト10などの学校も新聞に掲載され、成績が悪く生徒を集められない学校も「閉校しそうな学校」として実名で発表されたと言われている。

 その結果、それぞれの学校は他の学校よりも「良い」学校となり、生徒や親から選んでもらえる学校となるための競争に走らざるを得ない状況に追い込まれたという。
 競い合うことで、どの学校も同じように教育効果を上げることが出来ればそれに越したことはないが、競争は自ずと差別化を生み、学校間格差の拡大が弊害として浮き彫りにならざるを得ない。また、競争に勝つために、自校の成績を上げるために好ましくない成績の生徒を安易に切り捨て退学させる学校が現れたり、校長自らが全国テストの答案を捏造したりするという異常な事態も生じたという。
 何よりも教育体制が「テスト志向」となることで、学校の教育文化に好ましくない弊害が出てきたという。「わかる」ことよりもテストで高得点を取ることが求められたのである。
 学校にも生徒にも『他に勝つ』ことが強いプレッシャーとなってのしかかり、互いに孤立してしまったのである。そうした「競争原理」による弊害から見直しを迫られているのが今のイギリスの現状であると言われている。

 一方、競争原理によらない教育を展開しているフィンランドは、2003年の調査で読解力と科学的リテラシーで世界一となり、数学的リテラシーでも問題解決能力でもそれぞれ二位、三位と優秀な成績を修めている。
 フィンランドでは、それまで実施されてきた習熟度別クラス編成を1985年に完全に廃止したとも言われている。競争に依らず、日本がこれからいっそうの導入を図ろうとしている習熟度別クラスにも依らず、なぜそのような高い学習能力を養うことができているのだろうか。
 フィンランドでは『なぜ学ぶのか』ということが重視され、学習とは児童生徒が自分の人生に必要な知識を自ら求め、知識を構成していく活動として意味づけられているという。社会の中で自分の将来を考え、社会的意義を意識しながら学習をすれば、当然競争などしなくても無理なく学習できるであろうし、ここで求められているのが社会的実践能力であり、テストで期待される「正答が一つに限定される知識」ではなく、正答がいくつもあるものなので、互いに教え合いながら学んでいくことが可能になる。
 学びの目的はよい高校やよい大学に入ることといった無味乾燥なものではなく、自分の将来を築き上げることと直接結びついており、「生きる」ことと不離密接なものとして意識されていることが力強い学習への動機となっていることが窺える。

 もともと「学ぶ」ということは、他者との関係で強化されるものではなく、対象と自己との関係で強く動機づけられるものである。対象の持つよさに感動し、驚き、不思議さに目覚め、それが動機となって対象に働きかけ・働き返される活動を通して自己との関係をつくり上げていくことが「学び」なのである。
 また切磋琢磨とは、「競い合い」「相手に勝つ」ことではなく、互いに磨き合って「君も僕も共に」対象により近づこうとする姿をいう言葉である。競争意識を涵養し、サバイバルな競争に打ち勝つことをめざしていたのでは、ほんとうの意味での「知力・体力・品格・教養」を備えた日本人を育てることは到底かなわないであろう。
 安易な競争を学校に持ち込むことでさまざまな弊害が予想されるし、それが教育本来の目的、例えば新渡戸稲造の言う「品性の確立」、司馬遼太郎の言う「たのもしい人格」を育てる上で、決して好ましくない影を落とすであろうこと、対極に立つ方向に向かってしまうであろうことは想像に難くない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿