この24日は、女房と一緒に金毘羅さんに詣でた。地元のスーパーが、顧客謝恩にと企画したバスツアー(女房が応募して、1人無料招待+同伴者実費)に参加したものである。四国は徳島出身の女房はともかく、私は金毘羅さんは初めてだ。
このバスツアー、我々は今回が確か3度目の参加となる。過去には倉敷とか鳥取砂丘とかに出向いたが、今回は金毘羅さんと讃岐うどんの抱き合わせ。まずは、金毘羅さんの足元にあるうどん店で、昼、うどん食べ放題を済ませた後、同店で実際にうどん作りを体験し、それから金毘羅さんに詣でる、というコースである。
最初のうどん作り体験だが、すでに、そのプログラムはすっかり定着しているらしく、昼の2時近く、我々40人弱の番が回って来た時には、これが本日4回目とかで、約40分間、うどん粉をこねるところから始まって、最後、細かく切り刻むまでを実習する(もっとも順番的には、すでに十分こねられたうどん粉を、丸く細長い棒で延ばし、それを折り畳んで線状に刻む、というころから出発したのだったが)。
それは、実習指導に当たる、同店副社長氏の「香川には、朝、喫茶店で食べるモーニングうどんがある」「香川の人は年間、男約300玉、女150玉のうどんを食べる」といった前振りを聞いた後、5人のグループに別れ、軽快なBGMのもと、うどん粉に塩水をまぶし、こね、少しばかり粘り気が出たところで、グループ各人が順番に入れ替わって足で踏み、さらにこねあげる、といった一連のプロセスに従って進められたのであった。
自分たち一人一人が細く切り刻んだうどんは、真空パック化され、持ち帰れるようにする。合わせて、希望すればこの作り方を記した“免許皆伝書”(有料)を授ける。讃岐うどんブームが到来して久しくなるはずだが、それの普及、深化と共に、かかる観光ノウハウも蓄積されてきたように思われ、ブランド・“讃岐うどん”ファンのさらなる広がりに少なからぬ貢献をしているに違いないとみた。
それからが金毘羅参りなのである。
例によって、ウイキペディアを頼りに同神社のおさらいから。〈金刀比羅宮の由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が像頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。いずれにせよ神仏習合の寺社であった。海上交通の守り神とされるのは、古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるとされるとの説があるが、縄文海進での海面上昇は5m程度であり、大物主命が「海の彼方から波間を照らして現れた神」であったことに由来すると考えるほうが妥当である。〉
開山縁起の1つに、ここにも修験道(役小角)との絡みがあったことはインプットしておこう。何やらそれが、金毘羅さんと言えば、かの長く続く参道のストイックな石段を連想させることの遠因になっていると思われるからだ。
参道は、そういえば当地の人も石段をかなり意識していることが見て取れる。要所、要所には表参道から数えた階段数が道路標識風に書かれていたり、“200段堂”といったみやげ物や兼食事処があったりするのだ。
正確を期そう。まず、表参道入り口から本宮までが、その数785段。往復に1時間を要するというのがスタンダードらしい。上り始めてすぐに、急峻な石段などがあったりして、やはり結構な手ごわさを予感させられる。とりわけ今は、夏の昼下がり、2時半頃なのだ。歩いて5分も経たないのに、汗、全開。
本宮までの途中に、旭社というのがある。立派な社構えは本宮と何ら遜色がない。かの森の石松は、これを本宮と勘違いし、ここで参拝を切り上げ、帰ってしまったのだとか。ここまでで628段である。
本宮からはさらに、「奥社へ」という表示がある。そこは参道のどん詰まり、海抜421m、下から1368段目にある巌魂(いづたま)神社の俗称とされているが、“まま、あそこまで行く人は100人に1人”というのが、参道を降りる時に入って、全身汗まみれ、からからののどを缶ビールで潤させてもらった茶店のおばさんの言い方ではあった。私は、そこを目指すも、バスの集合時間と、本宮で待つ女房に気兼ねして、果たせず、そこに至る途中の白峰(しろみね)神社という所で引き返さざるを得なかった。因みにそこまでが麓から923段。
確かに、本宮までで石段はいやというほど堪能できるのは間違いない。だから、そこから奥社コースを辿るのは、“100人に1人”、余程の健脚、ひょっとするとその道のマニアであるのかもしれない。事実、奥社への道は、樹木が鬱蒼と繁る厳かな山道の様相を呈し、逆算するとそこまでは本宮からさらに583段の石段が続くことになり(距離は約1km程とか)、これはこの日のような夏の盛りにはかなり堪(こた)えるはずだ。
そしてここに極まる深山幽谷さ加減こそ修験者が出没するにふさわしい条件と言えたし、それ故にこそ、金毘羅さんの石段は、そこに分け入るにある種必然性を伴って敷かれていると思われたものである。蓋(けだ)し、残念がなら、その必然を極める、私の満願成就は叶わなかった。
爾来、と言っても僅か4、5日に過ぎないけれど、何故か私の毎日のウォーキングにおいても、階段箇所ではその数を数えることが習わしとなった。地道から高台にある住宅地までが116段、あるいは遊歩道山道に入るまでが120段。一面これが、散歩コースに新発見があったということはあるものの、どうにもこびり付き過ぎて少々持て余し気味になっているのもまた否定できない。これはもう、かの宗教体験の続きにいると言うより、成就できなかったことのトラウマとでも言った方がいいのだろうか。
このバスツアー、我々は今回が確か3度目の参加となる。過去には倉敷とか鳥取砂丘とかに出向いたが、今回は金毘羅さんと讃岐うどんの抱き合わせ。まずは、金毘羅さんの足元にあるうどん店で、昼、うどん食べ放題を済ませた後、同店で実際にうどん作りを体験し、それから金毘羅さんに詣でる、というコースである。
最初のうどん作り体験だが、すでに、そのプログラムはすっかり定着しているらしく、昼の2時近く、我々40人弱の番が回って来た時には、これが本日4回目とかで、約40分間、うどん粉をこねるところから始まって、最後、細かく切り刻むまでを実習する(もっとも順番的には、すでに十分こねられたうどん粉を、丸く細長い棒で延ばし、それを折り畳んで線状に刻む、というころから出発したのだったが)。
それは、実習指導に当たる、同店副社長氏の「香川には、朝、喫茶店で食べるモーニングうどんがある」「香川の人は年間、男約300玉、女150玉のうどんを食べる」といった前振りを聞いた後、5人のグループに別れ、軽快なBGMのもと、うどん粉に塩水をまぶし、こね、少しばかり粘り気が出たところで、グループ各人が順番に入れ替わって足で踏み、さらにこねあげる、といった一連のプロセスに従って進められたのであった。
自分たち一人一人が細く切り刻んだうどんは、真空パック化され、持ち帰れるようにする。合わせて、希望すればこの作り方を記した“免許皆伝書”(有料)を授ける。讃岐うどんブームが到来して久しくなるはずだが、それの普及、深化と共に、かかる観光ノウハウも蓄積されてきたように思われ、ブランド・“讃岐うどん”ファンのさらなる広がりに少なからぬ貢献をしているに違いないとみた。
それからが金毘羅参りなのである。
例によって、ウイキペディアを頼りに同神社のおさらいから。〈金刀比羅宮の由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が像頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。いずれにせよ神仏習合の寺社であった。海上交通の守り神とされるのは、古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるとされるとの説があるが、縄文海進での海面上昇は5m程度であり、大物主命が「海の彼方から波間を照らして現れた神」であったことに由来すると考えるほうが妥当である。〉
開山縁起の1つに、ここにも修験道(役小角)との絡みがあったことはインプットしておこう。何やらそれが、金毘羅さんと言えば、かの長く続く参道のストイックな石段を連想させることの遠因になっていると思われるからだ。
参道は、そういえば当地の人も石段をかなり意識していることが見て取れる。要所、要所には表参道から数えた階段数が道路標識風に書かれていたり、“200段堂”といったみやげ物や兼食事処があったりするのだ。
正確を期そう。まず、表参道入り口から本宮までが、その数785段。往復に1時間を要するというのがスタンダードらしい。上り始めてすぐに、急峻な石段などがあったりして、やはり結構な手ごわさを予感させられる。とりわけ今は、夏の昼下がり、2時半頃なのだ。歩いて5分も経たないのに、汗、全開。
本宮までの途中に、旭社というのがある。立派な社構えは本宮と何ら遜色がない。かの森の石松は、これを本宮と勘違いし、ここで参拝を切り上げ、帰ってしまったのだとか。ここまでで628段である。
本宮からはさらに、「奥社へ」という表示がある。そこは参道のどん詰まり、海抜421m、下から1368段目にある巌魂(いづたま)神社の俗称とされているが、“まま、あそこまで行く人は100人に1人”というのが、参道を降りる時に入って、全身汗まみれ、からからののどを缶ビールで潤させてもらった茶店のおばさんの言い方ではあった。私は、そこを目指すも、バスの集合時間と、本宮で待つ女房に気兼ねして、果たせず、そこに至る途中の白峰(しろみね)神社という所で引き返さざるを得なかった。因みにそこまでが麓から923段。
確かに、本宮までで石段はいやというほど堪能できるのは間違いない。だから、そこから奥社コースを辿るのは、“100人に1人”、余程の健脚、ひょっとするとその道のマニアであるのかもしれない。事実、奥社への道は、樹木が鬱蒼と繁る厳かな山道の様相を呈し、逆算するとそこまでは本宮からさらに583段の石段が続くことになり(距離は約1km程とか)、これはこの日のような夏の盛りにはかなり堪(こた)えるはずだ。
そしてここに極まる深山幽谷さ加減こそ修験者が出没するにふさわしい条件と言えたし、それ故にこそ、金毘羅さんの石段は、そこに分け入るにある種必然性を伴って敷かれていると思われたものである。蓋(けだ)し、残念がなら、その必然を極める、私の満願成就は叶わなかった。
爾来、と言っても僅か4、5日に過ぎないけれど、何故か私の毎日のウォーキングにおいても、階段箇所ではその数を数えることが習わしとなった。地道から高台にある住宅地までが116段、あるいは遊歩道山道に入るまでが120段。一面これが、散歩コースに新発見があったということはあるものの、どうにもこびり付き過ぎて少々持て余し気味になっているのもまた否定できない。これはもう、かの宗教体験の続きにいると言うより、成就できなかったことのトラウマとでも言った方がいいのだろうか。