ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

石段

2010年08月27日 14時24分03秒 | 日記
この24日は、女房と一緒に金毘羅さんに詣でた。地元のスーパーが、顧客謝恩にと企画したバスツアー(女房が応募して、1人無料招待+同伴者実費)に参加したものである。四国は徳島出身の女房はともかく、私は金毘羅さんは初めてだ。

このバスツアー、我々は今回が確か3度目の参加となる。過去には倉敷とか鳥取砂丘とかに出向いたが、今回は金毘羅さんと讃岐うどんの抱き合わせ。まずは、金毘羅さんの足元にあるうどん店で、昼、うどん食べ放題を済ませた後、同店で実際にうどん作りを体験し、それから金毘羅さんに詣でる、というコースである。

最初のうどん作り体験だが、すでに、そのプログラムはすっかり定着しているらしく、昼の2時近く、我々40人弱の番が回って来た時には、これが本日4回目とかで、約40分間、うどん粉をこねるところから始まって、最後、細かく切り刻むまでを実習する(もっとも順番的には、すでに十分こねられたうどん粉を、丸く細長い棒で延ばし、それを折り畳んで線状に刻む、というころから出発したのだったが)。

それは、実習指導に当たる、同店副社長氏の「香川には、朝、喫茶店で食べるモーニングうどんがある」「香川の人は年間、男約300玉、女150玉のうどんを食べる」といった前振りを聞いた後、5人のグループに別れ、軽快なBGMのもと、うどん粉に塩水をまぶし、こね、少しばかり粘り気が出たところで、グループ各人が順番に入れ替わって足で踏み、さらにこねあげる、といった一連のプロセスに従って進められたのであった。

自分たち一人一人が細く切り刻んだうどんは、真空パック化され、持ち帰れるようにする。合わせて、希望すればこの作り方を記した“免許皆伝書”(有料)を授ける。讃岐うどんブームが到来して久しくなるはずだが、それの普及、深化と共に、かかる観光ノウハウも蓄積されてきたように思われ、ブランド・“讃岐うどん”ファンのさらなる広がりに少なからぬ貢献をしているに違いないとみた。

それからが金毘羅参りなのである。

例によって、ウイキペディアを頼りに同神社のおさらいから。〈金刀比羅宮の由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が像頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。いずれにせよ神仏習合の寺社であった。海上交通の守り神とされるのは、古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるとされるとの説があるが、縄文海進での海面上昇は5m程度であり、大物主命が「海の彼方から波間を照らして現れた神」であったことに由来すると考えるほうが妥当である。〉

開山縁起の1つに、ここにも修験道(役小角)との絡みがあったことはインプットしておこう。何やらそれが、金毘羅さんと言えば、かの長く続く参道のストイックな石段を連想させることの遠因になっていると思われるからだ。

参道は、そういえば当地の人も石段をかなり意識していることが見て取れる。要所、要所には表参道から数えた階段数が道路標識風に書かれていたり、“200段堂”といったみやげ物や兼食事処があったりするのだ。

正確を期そう。まず、表参道入り口から本宮までが、その数785段。往復に1時間を要するというのがスタンダードらしい。上り始めてすぐに、急峻な石段などがあったりして、やはり結構な手ごわさを予感させられる。とりわけ今は、夏の昼下がり、2時半頃なのだ。歩いて5分も経たないのに、汗、全開。

本宮までの途中に、旭社というのがある。立派な社構えは本宮と何ら遜色がない。かの森の石松は、これを本宮と勘違いし、ここで参拝を切り上げ、帰ってしまったのだとか。ここまでで628段である。

本宮からはさらに、「奥社へ」という表示がある。そこは参道のどん詰まり、海抜421m、下から1368段目にある巌魂(いづたま)神社の俗称とされているが、“まま、あそこまで行く人は100人に1人”というのが、参道を降りる時に入って、全身汗まみれ、からからののどを缶ビールで潤させてもらった茶店のおばさんの言い方ではあった。私は、そこを目指すも、バスの集合時間と、本宮で待つ女房に気兼ねして、果たせず、そこに至る途中の白峰(しろみね)神社という所で引き返さざるを得なかった。因みにそこまでが麓から923段。

確かに、本宮までで石段はいやというほど堪能できるのは間違いない。だから、そこから奥社コースを辿るのは、“100人に1人”、余程の健脚、ひょっとするとその道のマニアであるのかもしれない。事実、奥社への道は、樹木が鬱蒼と繁る厳かな山道の様相を呈し、逆算するとそこまでは本宮からさらに583段の石段が続くことになり(距離は約1km程とか)、これはこの日のような夏の盛りにはかなり堪(こた)えるはずだ。

そしてここに極まる深山幽谷さ加減こそ修験者が出没するにふさわしい条件と言えたし、それ故にこそ、金毘羅さんの石段は、そこに分け入るにある種必然性を伴って敷かれていると思われたものである。蓋(けだ)し、残念がなら、その必然を極める、私の満願成就は叶わなかった。

爾来、と言っても僅か4、5日に過ぎないけれど、何故か私の毎日のウォーキングにおいても、階段箇所ではその数を数えることが習わしとなった。地道から高台にある住宅地までが116段、あるいは遊歩道山道に入るまでが120段。一面これが、散歩コースに新発見があったということはあるものの、どうにもこびり付き過ぎて少々持て余し気味になっているのもまた否定できない。これはもう、かの宗教体験の続きにいると言うより、成就できなかったことのトラウマとでも言った方がいいのだろうか。

三国志

2010年08月17日 14時46分57秒 | 日記
気が付けば、盆も過ぎ、夏は峠を越そうとしている。ブログもおよそ3週間ばかり、夏休みを取った。別に意識的にサボったわけではなく、書けなかったことのそれ相応の理由はあった。

8月4日から8日までは、中国は河南省、安陽市という所を訪れていた。中国政府の観光の出先機関(大阪駐在所)が、大阪の旅行社やマスコミ関係者を対象に催した当地の研修旅行に、とある縁があって参加していたのである。

安陽市は3300年前の殷の時代の都であり、その遺跡(殷墟)は世界遺産に登録されている。なかでも甲骨文字と青銅器の出土が、この地を中国国内での7大古都の1つに押し上げ、歴史文化の都市として広く名を轟かせることになったようなのだが、当地に昨年、かの『三国志』は曹操の墓が出土したとかで、その現場を見学するのが今回の大きな目的であった。多分に、今後これを観光の目玉の1つとしたいとする中国政府の意図的なもの(PR戦略)が見え隠れしたツアーだったのは間違いない。

ところで、これまで曹操の墓は、中国国内に70箇所ぐらい、そうではないかとされる所があったようだったが、今回の出土はかなりの確率で確定要素が高く、しかもそのきっかけとなったのが盗掘だったというのが、いかにも中国らしい。

専門の盗掘団、12名が関わり、現場にはカップめんの容器やペットボトルなどが置き去りにされていたというから、彼らの掘るに際しての一生懸命さが伝わってきてリアルだし、何やら微笑ましくさえある。そうして、逮捕後の話で、どうやら出土した品が、彼らの商品価値としての見立てに合わず、そのまま放置されたらしかったのが幸いしたらしい。

と、この顛末の一部始終が、河南省文物考古研究所が発行する発掘の記録図書の中に記述されている(同行した中国通の旅行社の方=仮にAさん=が翻訳してくれた)。で、ここでこの展開は、ある種、1つのミステリー小説を誕生させるようなドラマツルギーを含んでいるようにも思われ、限りなく想像力を喚起させられる。これも『三国志』が絡む故からだろうか。

ここの部分を、現地でいろいろと面倒を見てくれた安陽市の、差し当たり観光局長ともいうべき男性(40歳絡みのでっぷりとして恰幅のいい、共産党員とのことだった)に、しつこく取材していた同行の某新聞の女性記者に、私は、「これは、単なる記事よりも、小説仕立てて紹介した方が面白いのではないですか」と提案したものだ。が、彼女の反応は“大きなお世話”とばかり、“ふふん”と鼻であしらう態のことでしかなかったのだったけれど。やはり無難なまとめになっただろうことは容易に想像がつく。

現地は、曹操が“自分の墓は小高い丘にしてほしい”と側近の者に語ったのを忠実に守ったようだとかで、辺り一帯にトウモロコシ畑が広がる平坦な土地の中の、確かに僅かながら隆起を見せるような一角にあった(それもそう言われてみれば、といった程度で、ちょっと見には、大陸のあの平原の続きに変わりなかったのだが)。

結論を先に言えば、発掘された墓は、まだ一般公開はされていなかった。今も発掘の途上にあり、しかも、発掘された全遺品が完璧に保存される見通しが立って始めて一般公開になるのだとか。それが中国流流儀なのだと、前記のAさんが教えてくれた。関係者の話を総合すると、どうやらその時期は3年先ぐらいになるらしい。

これも前記の共産党員課長の話になるが、それまでに、一方では、博物館を造ったり、アクセス道路の整備や、関連施設の充実化のために、ここ近辺に住む住民の立ち退きを図り(土地がいっぱいあるので、このような住居の移転話は簡単にまとまるらしい)、それらの、観光地にふさわしいインフラ整備に段階的に当たっていくのだという。

そのような前提のもとに、我々はいわば特例的に発掘現場を見学することができた。そして地下になっているそこには、曹操本人の遺骨と思われるものと、2人の女性の遺骨が横たわっていたという。(この辺の状況についてはまた別の媒体に書くことになると思う)。

ところで、一般未公開にしては、この日、観光バスが何台か連なって、次から次へと観光客らしい姿が訪れていた。彼らはまず、現場脇に建つ、仮の発掘資料館に入ってその全体像を理解して現場に入るのだが(我々もそうだった)、これでは最早、一般公開の状態と何ら変わらない。そこですかさず、現地通訳に質問。

「いろんなコネで、見に来る人が多いんです。あくまでも一般公開ではありません。」

これまた、いかにも中国らしい理由ではあったし、妙に納得。それにしても、公開前からこの騒ぎ。本当に中国の人は『三国志』が好きらしい。また、これら訪問者の応接に忙しい現場の係員の姿も数多く見受けられ、そのほとんどに少なからぬ熱気が感じられたのは、主人公の一人の墓が当地に発見されたという興奮と、これは間違いなく有力な観光資源になりうるだろうという確信からくる期待感がなせる業だったに違いない。

因みに『三国志』における曹操はこれまで、放蕩を好み、素行を治めなかったとかで、あまりいい評判ではなかったようだが、武将、政治家であり、哲学者、詩人の顔を持ち、さらに兵法家としても業績を残しており、その評価が変わってきているのだとか。おそらく3年先には、完全に名誉回復、なんてことになっていないとも限らない。

これまで、あまり関心のもてなかった『三国志』。そろそろ挑戦してみようかとする思いが起こってきたのも、かくして、現地の風に触れたことが引き金になっていることは事実だ。

(シャープ)ブンゴウ