ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

いのち

2010年02月23日 11時01分36秒 | 日記
去る13日(土)、14日(日)と、今度もまたW夫妻の誘いを受け、我々も夫婦共々、城崎温泉に1泊で出かけた。今回は、漁において、そろそろ、絶頂期からやや下り坂にさしかかりつつあるという山陰のカニを食べることが目的とされた。

その夜、生のものから、焼いたもの、蒸したもの、煮たもの、それに雑炊と、とことんカニ尽くし、とりあえず1年間は“これで十分”状態までにカニを堪能した翌日、帰りのバス、出発時間までの1時間強の間に、「城崎文芸館」なる資料館を覗いてみた。

城崎はこれまで3度ばかり訪れていたが、この資料館に入るのは始めてである。ここで、ここの温泉には、『城の崎にて』の志賀直哉は当然のことながら、他の白樺派の同人、例えば武者小路実篤や木下利玄をはじめとする多くの文人墨客、それに何となく意外なことに与謝野晶子や鉄幹なども縁を結んでいたといい、それだけ城崎は古くからの湯治場であったことを改めて知らされた思いをした。

資料館では、何と言っても志賀直哉の直筆の原稿用紙の展示がいい。何の作品だったかは忘れたが、推敲に推敲を重ねている様が、文章を削ったり、書き加えたりする中にまざまざと伝わってきて、何十年かを隔てつつも、あたかもすぐそこに作家の息遣いが聞こえてきそうなのである。おそらく、パソコンが主流の今の原稿執筆では到底味わえない、手文字の世界の織り成す緊張感が満ち溢れていた。

年譜によれば、志賀直哉が当温泉に来たのは、30歳代の前半。山の手線ではねられ、脊椎カリエスに罹る心配を抱え、それの養生のためだったようだ。後年、これの湯治場体験が件の『城の崎にて』の短編に結晶していくのだが、そこでは、死んだ蜂や、魚串を刺されて瀕死の鼠や、思いがけずも自分が投げた石ころで命を失くしたイモリ、などなどの小動物たちとの対峙を通じて、未だ若かりし自分の生と死の観念を引き寄せ、そこに生まれ出る詩情を感性豊かに表現していた。

換言すれば、城崎での思考行為は、生命をも奪われかねなかったような電車事故に遭った志賀直哉にとって、本格的に生と死、とりわけ死というものを正面に据えて考えた最初の経験だったのだろう。

で、かくも純で深く突き詰めた、若き志賀直哉の“いのち”への思いほどではないけれど、実は私も、言うならばそれの入り口近辺を、今回の旅行の前日までのほぼ10日間、汲々としてうろつき回っていたのであった。

即ち、生まれて初めて本格的ながん検診を受け、その結果が出るのを待っていたのである。

これまで、がん検診などは受けた経験がなかった。それが、1月末、定期的に受けている中性脂肪や尿酸値等の成人病関係の血液検査の結果をこの度も聞きにかかり付けの診療所に行った折、A先生から「今回の検査では肝臓がんも調べたが異常はなかった」と言われ、ついついそれに気を良くして、潜在的にはずっと“いずれ立ち向かわなければ”と思っていながら、逆にその結果を知るのが怖くもあって、なかなかその気になれないでいたがん検診を、「そろそろ受けてみたいと思うのですが」と、この時は、すんなりと切り出したのだ。背景に、私も60歳を過ぎ、とりわけ父親がそれで逝った食道がんに敏感になっていたということもあった。

「そうだ、そうだ。やっぱり受けといた方がいい」。そのような私の言い出しをどこかで待っていたのかもしれない、A先生は、一も、二もなくそう受け取って、早速、当面検査対象とすべき箇所とその検査法を図示し始めたのである。それには一瞬、事が余りにも迅速に進み過ぎ、後悔の念が走ったが、既に遅かった。因みにこのA先生については、ある時、“自分の遠縁には名立たる文学者がいる”ということを聞かされ、“あ、あのA・Tがそうか”と、当然なことなのだが、同じ姓名であることに感心し、納得もした憶えがある。

胃、食道、大腸、(肝臓は問題ないから)膵臓、肺、それに最近とみに増えている前立腺、というのが今回検査すべき機能箇所のラインアップだった。それを聞いただけで十分気後れがしたのだったが、それでも、いざバリウムを飲んだり、2回に亘る便を持参したりの検査が始まると、せいぜい精巧な検査データがほしいものだと、気を取り直してA先生の指示通りにこなしていった。それが2月に入ってすぐのことであり、そして検査結果は約10日後の12日に出る運びとなった。

つまり、その10日間が、ある意味、深刻に私が“いのち”を考えた時間だった。何しろ、錚々たるがん予備軍箇所のすべてに亘っての検査なのである。何事もなくて当たり前、“しかし、齢62も重ねて、何もないなんてあり得ない”。それがまず私に襲ってきた感懐だった。

するとすぐに、一方では、“でも、そんなことはまず心配ないだろう。何故って、昨日までどこもおかしいところはなかったのだから”という考えがやってきて、先の不安感を躍起になって消し去ろうとする。

“おかしいところがないと思っているから、一層検診の必要があるのだろう”。不安感の否定に、さらなるそれを否定する見解の登場だ。

“ま、何事がなければそれで幸い。よしんば仮にあったとしても、早期に発見できれば今のがんはそんなに恐れるに足らないはずだ。むしろ早期発見につながるわけだし、その方が知らずに進行させ、手遅れになるよりはましだろう。”

要は、この辺を落としどころに、その10日間ほどは、実に私の内部に繰り返し発生する、“万が一何かあったら”“いや、そんなことはないはずだ”の両者のせめぎあい・葛藤の連続に、それこそへとへとになっていたのである。そしてその都度、その落としどころに救いを求め、とりあえずの精神の落ち着きを得ていたのであった。

そして旅行の前日、12日に全部の結果が出た。

「ほぼ完璧。胃に至っては信じられないくらいのきれいさだ」。先生の宣告に、ひとまずは安堵の胸を撫で下ろす。否、10日間、のどに突き刺さってストレスの原因となっていた魚の小骨がとれて、やっとすっきりした感じ、とでも言った方が当たっていようか。それまでの内部の葛藤が不思議なくらい遥か遠いところに後退していることは実感できた。

だが、しかしながら、“ほぼ完璧”であって、完全ではないのだ。「食道の管が細くなっている。原因はがんとは違うと思う。がんならばもっとがちゃがちゃに写るはずだが、それがない。多分問題ないと思うが、念のために3カ月ほどおいてから、今度は食道検査に特化してバリウムを飲むことにしよう。」

継いで出たこのA先生のことばに、喜びも半ばぐらい、といったところまで落ちかけた。“問題はないだろう”と言われつつも、指摘されたのがかの天敵、食道だ。1番安泰であってほしかった箇所がひっかかったのだ。

“でも、そうと決まったわけではないし。それにそんなに差し迫っているのなら3カ月も様子を見るはずがない。”

繰り返すことになるが、本音のところでは、名立たるがん予備軍のほとんどを無事で征し、かなりの安心感を得たのは確かだった。けれどこの1点に影を射されたような感じなのである。

そして、これからは、そのようなレベルでの心の葛藤、第2ステージに移行していくことになるのだろうか。

だが、これの内容が、先の第1ラウンドに比べてかなりの程度で軽い感じなのが、今のところは救いになっている。

(シャープ)ブンゴウ

立松和平が死んだ

2010年02月11日 11時28分07秒 | 日記
10日の朝刊に立松和平の訃報が載った。8日、多臓器不全での死去だったという。先月に心臓の手術を受け、入院最中の急死だったらしい。

この人とは、大学時代にたった1度だけ飲んだ憶えがある。

入学間なしの頃だった。「文章表現研究会」なるサークルがあって、そこにほんの僅かの期間だったが私は顔を出していて、そこで彼と出会ったのだった。

このサークルの連中は、私なんかが入学する前年に学費値上げの反対闘争があり、ノンポリながらそこに関わっていて(全共闘運動の先取りみたいな?)、その軌跡がテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられていたのだったが、実際に、高3だった私はその番組を見ていたのであり、しかしあのテレビに出ていたのがこのサークルだったということは、私は、入部してから知った。

あくまでも素直に文章表現を切磋琢磨し合うサークルと思っていた私であった。従って、入部してすぐ、そのイメージとの落差に驚くところとなる。私みたいに、好きな作家は、と言われれば藤村と答えたり、政治問題ではケネディを称えたりする、そんな泥臭くて田舎じみた高校出身者の一本道の固定パターンとは異なり、そのサークルのメンバーからは、大江健三郎だったり安部公房だったり、さもなくばサルトルだったりカミュだったりの名前が出てきては飛び交っていたし、政治状況となると、その年、秋の羽田闘争で京大生が轢死するのだが、そうした事態を予測、先取りするような激しい議論が渦巻いて、複眼・重層的な思考構造に支配されていたものであった。

ある日、サークルの帰り、私は彼ともう1人(確か秋山といっていた)と、新入生同士3人連れ立って駅に向かう途中、我々の大学の最寄り駅、高田馬場近くの居酒屋に誰が誘うでもなく入った(“養老の滝”とか、そんなイメージの店だった)。

顔を合わせてまだ2週間ぐらい。全くの初対面に近かった我々はお互いに改めての自己紹介から始まった。3人とも学生服、なかで立松氏の下駄履きにはちょっとばかり驚かされた。

名前は横松と言い、“宇都宮高校の出身、1浪で政経学部だ”と彼は言った。そして秋山氏は、“僕は法学部”。続けて私が言わなければならない“教育の国文科”というのが、その時は、そんな彼らの前で何故か憚れたのを覚えている。

サークル関連の話になった。すると、秋山氏の、日が浅いにも拘わらず、サークルの雰囲気に既にすっかり馴染んだかのようなものの言い様が淀みなく、都会的で格好いいことこの上ない。多分に政治的自覚が早かった。同時に、そのほとんで、話についていけない自分が情けなくもあった。おそらく、立松氏も私と同じような心境だったのではなかったかと思う。何しろその場は、この秋山氏の独壇場であり、2人はもっぱら聞き役だったのだから。

それから間もなく私はサークルをやめた。改めて周りを見回すと、上級生はさることながら、新入りにしても、秋山氏のようなシャープで出来のいい学生ばかりのように思われたし、そこに醸される私には異感覚の緊張空間が、どうにもその中ではやっていけそうもない深刻なカルチャーショックを私にもたらし、すっかり自信を喪失してしまったのである。必然的に立松氏との絡みも絶たれた。

作家・立松和平を知ったのは卒業後である。かの『遠雷』で評判を取り、手にした本のプロフィールで、著者が本名・横松、かつ宇都宮出身であると記されていることで、“あの時の彼だ”と、瞬時にして結びつく。

正直言うと、これまで私は立松和平の熱心な読者ではなかった。最終的に300点の著作を残したというがほとんど読んでいない。自分のことを棚に上げて言うわけではないが、一読以来、あの出会いの後、運動に挫折した彼が、救済を求めるように小説の中に逃げ込んだ風情があって、そのことはまた痛いほど理解できるのだったし、それでいて逆に、そのような状態を許すことが、どこかである種居心地の悪さにも通じていたからだった。

ただ、テレビキャスターで滝を紹介したり、エコ活動に熱心だったり、またお寺との結び付きも深めていくといった、著作活動以外の、日常的な彼の生き様のベースになるようなことについては、その都度、注目してきたように思う。あの酒場での、朴訥とした人間味が今も変わらず、それ自体、ある周波を私に送ってくれていると、私は勝手に思い込んでいたからだ。

「62歳だった」との訃報記事。それはまさに、私が今、いろんな機会に書き込む年齢そのものだ。

彼の死は、私の外堀がまた一つ埋められたような、喪失感を伴っている。

(シャープ)ブンゴウ