去る13日(土)、14日(日)と、今度もまたW夫妻の誘いを受け、我々も夫婦共々、城崎温泉に1泊で出かけた。今回は、漁において、そろそろ、絶頂期からやや下り坂にさしかかりつつあるという山陰のカニを食べることが目的とされた。
その夜、生のものから、焼いたもの、蒸したもの、煮たもの、それに雑炊と、とことんカニ尽くし、とりあえず1年間は“これで十分”状態までにカニを堪能した翌日、帰りのバス、出発時間までの1時間強の間に、「城崎文芸館」なる資料館を覗いてみた。
城崎はこれまで3度ばかり訪れていたが、この資料館に入るのは始めてである。ここで、ここの温泉には、『城の崎にて』の志賀直哉は当然のことながら、他の白樺派の同人、例えば武者小路実篤や木下利玄をはじめとする多くの文人墨客、それに何となく意外なことに与謝野晶子や鉄幹なども縁を結んでいたといい、それだけ城崎は古くからの湯治場であったことを改めて知らされた思いをした。
資料館では、何と言っても志賀直哉の直筆の原稿用紙の展示がいい。何の作品だったかは忘れたが、推敲に推敲を重ねている様が、文章を削ったり、書き加えたりする中にまざまざと伝わってきて、何十年かを隔てつつも、あたかもすぐそこに作家の息遣いが聞こえてきそうなのである。おそらく、パソコンが主流の今の原稿執筆では到底味わえない、手文字の世界の織り成す緊張感が満ち溢れていた。
年譜によれば、志賀直哉が当温泉に来たのは、30歳代の前半。山の手線ではねられ、脊椎カリエスに罹る心配を抱え、それの養生のためだったようだ。後年、これの湯治場体験が件の『城の崎にて』の短編に結晶していくのだが、そこでは、死んだ蜂や、魚串を刺されて瀕死の鼠や、思いがけずも自分が投げた石ころで命を失くしたイモリ、などなどの小動物たちとの対峙を通じて、未だ若かりし自分の生と死の観念を引き寄せ、そこに生まれ出る詩情を感性豊かに表現していた。
換言すれば、城崎での思考行為は、生命をも奪われかねなかったような電車事故に遭った志賀直哉にとって、本格的に生と死、とりわけ死というものを正面に据えて考えた最初の経験だったのだろう。
で、かくも純で深く突き詰めた、若き志賀直哉の“いのち”への思いほどではないけれど、実は私も、言うならばそれの入り口近辺を、今回の旅行の前日までのほぼ10日間、汲々としてうろつき回っていたのであった。
即ち、生まれて初めて本格的ながん検診を受け、その結果が出るのを待っていたのである。
これまで、がん検診などは受けた経験がなかった。それが、1月末、定期的に受けている中性脂肪や尿酸値等の成人病関係の血液検査の結果をこの度も聞きにかかり付けの診療所に行った折、A先生から「今回の検査では肝臓がんも調べたが異常はなかった」と言われ、ついついそれに気を良くして、潜在的にはずっと“いずれ立ち向かわなければ”と思っていながら、逆にその結果を知るのが怖くもあって、なかなかその気になれないでいたがん検診を、「そろそろ受けてみたいと思うのですが」と、この時は、すんなりと切り出したのだ。背景に、私も60歳を過ぎ、とりわけ父親がそれで逝った食道がんに敏感になっていたということもあった。
「そうだ、そうだ。やっぱり受けといた方がいい」。そのような私の言い出しをどこかで待っていたのかもしれない、A先生は、一も、二もなくそう受け取って、早速、当面検査対象とすべき箇所とその検査法を図示し始めたのである。それには一瞬、事が余りにも迅速に進み過ぎ、後悔の念が走ったが、既に遅かった。因みにこのA先生については、ある時、“自分の遠縁には名立たる文学者がいる”ということを聞かされ、“あ、あのA・Tがそうか”と、当然なことなのだが、同じ姓名であることに感心し、納得もした憶えがある。
胃、食道、大腸、(肝臓は問題ないから)膵臓、肺、それに最近とみに増えている前立腺、というのが今回検査すべき機能箇所のラインアップだった。それを聞いただけで十分気後れがしたのだったが、それでも、いざバリウムを飲んだり、2回に亘る便を持参したりの検査が始まると、せいぜい精巧な検査データがほしいものだと、気を取り直してA先生の指示通りにこなしていった。それが2月に入ってすぐのことであり、そして検査結果は約10日後の12日に出る運びとなった。
つまり、その10日間が、ある意味、深刻に私が“いのち”を考えた時間だった。何しろ、錚々たるがん予備軍箇所のすべてに亘っての検査なのである。何事もなくて当たり前、“しかし、齢62も重ねて、何もないなんてあり得ない”。それがまず私に襲ってきた感懐だった。
するとすぐに、一方では、“でも、そんなことはまず心配ないだろう。何故って、昨日までどこもおかしいところはなかったのだから”という考えがやってきて、先の不安感を躍起になって消し去ろうとする。
“おかしいところがないと思っているから、一層検診の必要があるのだろう”。不安感の否定に、さらなるそれを否定する見解の登場だ。
“ま、何事がなければそれで幸い。よしんば仮にあったとしても、早期に発見できれば今のがんはそんなに恐れるに足らないはずだ。むしろ早期発見につながるわけだし、その方が知らずに進行させ、手遅れになるよりはましだろう。”
要は、この辺を落としどころに、その10日間ほどは、実に私の内部に繰り返し発生する、“万が一何かあったら”“いや、そんなことはないはずだ”の両者のせめぎあい・葛藤の連続に、それこそへとへとになっていたのである。そしてその都度、その落としどころに救いを求め、とりあえずの精神の落ち着きを得ていたのであった。
そして旅行の前日、12日に全部の結果が出た。
「ほぼ完璧。胃に至っては信じられないくらいのきれいさだ」。先生の宣告に、ひとまずは安堵の胸を撫で下ろす。否、10日間、のどに突き刺さってストレスの原因となっていた魚の小骨がとれて、やっとすっきりした感じ、とでも言った方が当たっていようか。それまでの内部の葛藤が不思議なくらい遥か遠いところに後退していることは実感できた。
だが、しかしながら、“ほぼ完璧”であって、完全ではないのだ。「食道の管が細くなっている。原因はがんとは違うと思う。がんならばもっとがちゃがちゃに写るはずだが、それがない。多分問題ないと思うが、念のために3カ月ほどおいてから、今度は食道検査に特化してバリウムを飲むことにしよう。」
継いで出たこのA先生のことばに、喜びも半ばぐらい、といったところまで落ちかけた。“問題はないだろう”と言われつつも、指摘されたのがかの天敵、食道だ。1番安泰であってほしかった箇所がひっかかったのだ。
“でも、そうと決まったわけではないし。それにそんなに差し迫っているのなら3カ月も様子を見るはずがない。”
繰り返すことになるが、本音のところでは、名立たるがん予備軍のほとんどを無事で征し、かなりの安心感を得たのは確かだった。けれどこの1点に影を射されたような感じなのである。
そして、これからは、そのようなレベルでの心の葛藤、第2ステージに移行していくことになるのだろうか。
だが、これの内容が、先の第1ラウンドに比べてかなりの程度で軽い感じなのが、今のところは救いになっている。
(シャープ)ブンゴウ
その夜、生のものから、焼いたもの、蒸したもの、煮たもの、それに雑炊と、とことんカニ尽くし、とりあえず1年間は“これで十分”状態までにカニを堪能した翌日、帰りのバス、出発時間までの1時間強の間に、「城崎文芸館」なる資料館を覗いてみた。
城崎はこれまで3度ばかり訪れていたが、この資料館に入るのは始めてである。ここで、ここの温泉には、『城の崎にて』の志賀直哉は当然のことながら、他の白樺派の同人、例えば武者小路実篤や木下利玄をはじめとする多くの文人墨客、それに何となく意外なことに与謝野晶子や鉄幹なども縁を結んでいたといい、それだけ城崎は古くからの湯治場であったことを改めて知らされた思いをした。
資料館では、何と言っても志賀直哉の直筆の原稿用紙の展示がいい。何の作品だったかは忘れたが、推敲に推敲を重ねている様が、文章を削ったり、書き加えたりする中にまざまざと伝わってきて、何十年かを隔てつつも、あたかもすぐそこに作家の息遣いが聞こえてきそうなのである。おそらく、パソコンが主流の今の原稿執筆では到底味わえない、手文字の世界の織り成す緊張感が満ち溢れていた。
年譜によれば、志賀直哉が当温泉に来たのは、30歳代の前半。山の手線ではねられ、脊椎カリエスに罹る心配を抱え、それの養生のためだったようだ。後年、これの湯治場体験が件の『城の崎にて』の短編に結晶していくのだが、そこでは、死んだ蜂や、魚串を刺されて瀕死の鼠や、思いがけずも自分が投げた石ころで命を失くしたイモリ、などなどの小動物たちとの対峙を通じて、未だ若かりし自分の生と死の観念を引き寄せ、そこに生まれ出る詩情を感性豊かに表現していた。
換言すれば、城崎での思考行為は、生命をも奪われかねなかったような電車事故に遭った志賀直哉にとって、本格的に生と死、とりわけ死というものを正面に据えて考えた最初の経験だったのだろう。
で、かくも純で深く突き詰めた、若き志賀直哉の“いのち”への思いほどではないけれど、実は私も、言うならばそれの入り口近辺を、今回の旅行の前日までのほぼ10日間、汲々としてうろつき回っていたのであった。
即ち、生まれて初めて本格的ながん検診を受け、その結果が出るのを待っていたのである。
これまで、がん検診などは受けた経験がなかった。それが、1月末、定期的に受けている中性脂肪や尿酸値等の成人病関係の血液検査の結果をこの度も聞きにかかり付けの診療所に行った折、A先生から「今回の検査では肝臓がんも調べたが異常はなかった」と言われ、ついついそれに気を良くして、潜在的にはずっと“いずれ立ち向かわなければ”と思っていながら、逆にその結果を知るのが怖くもあって、なかなかその気になれないでいたがん検診を、「そろそろ受けてみたいと思うのですが」と、この時は、すんなりと切り出したのだ。背景に、私も60歳を過ぎ、とりわけ父親がそれで逝った食道がんに敏感になっていたということもあった。
「そうだ、そうだ。やっぱり受けといた方がいい」。そのような私の言い出しをどこかで待っていたのかもしれない、A先生は、一も、二もなくそう受け取って、早速、当面検査対象とすべき箇所とその検査法を図示し始めたのである。それには一瞬、事が余りにも迅速に進み過ぎ、後悔の念が走ったが、既に遅かった。因みにこのA先生については、ある時、“自分の遠縁には名立たる文学者がいる”ということを聞かされ、“あ、あのA・Tがそうか”と、当然なことなのだが、同じ姓名であることに感心し、納得もした憶えがある。
胃、食道、大腸、(肝臓は問題ないから)膵臓、肺、それに最近とみに増えている前立腺、というのが今回検査すべき機能箇所のラインアップだった。それを聞いただけで十分気後れがしたのだったが、それでも、いざバリウムを飲んだり、2回に亘る便を持参したりの検査が始まると、せいぜい精巧な検査データがほしいものだと、気を取り直してA先生の指示通りにこなしていった。それが2月に入ってすぐのことであり、そして検査結果は約10日後の12日に出る運びとなった。
つまり、その10日間が、ある意味、深刻に私が“いのち”を考えた時間だった。何しろ、錚々たるがん予備軍箇所のすべてに亘っての検査なのである。何事もなくて当たり前、“しかし、齢62も重ねて、何もないなんてあり得ない”。それがまず私に襲ってきた感懐だった。
するとすぐに、一方では、“でも、そんなことはまず心配ないだろう。何故って、昨日までどこもおかしいところはなかったのだから”という考えがやってきて、先の不安感を躍起になって消し去ろうとする。
“おかしいところがないと思っているから、一層検診の必要があるのだろう”。不安感の否定に、さらなるそれを否定する見解の登場だ。
“ま、何事がなければそれで幸い。よしんば仮にあったとしても、早期に発見できれば今のがんはそんなに恐れるに足らないはずだ。むしろ早期発見につながるわけだし、その方が知らずに進行させ、手遅れになるよりはましだろう。”
要は、この辺を落としどころに、その10日間ほどは、実に私の内部に繰り返し発生する、“万が一何かあったら”“いや、そんなことはないはずだ”の両者のせめぎあい・葛藤の連続に、それこそへとへとになっていたのである。そしてその都度、その落としどころに救いを求め、とりあえずの精神の落ち着きを得ていたのであった。
そして旅行の前日、12日に全部の結果が出た。
「ほぼ完璧。胃に至っては信じられないくらいのきれいさだ」。先生の宣告に、ひとまずは安堵の胸を撫で下ろす。否、10日間、のどに突き刺さってストレスの原因となっていた魚の小骨がとれて、やっとすっきりした感じ、とでも言った方が当たっていようか。それまでの内部の葛藤が不思議なくらい遥か遠いところに後退していることは実感できた。
だが、しかしながら、“ほぼ完璧”であって、完全ではないのだ。「食道の管が細くなっている。原因はがんとは違うと思う。がんならばもっとがちゃがちゃに写るはずだが、それがない。多分問題ないと思うが、念のために3カ月ほどおいてから、今度は食道検査に特化してバリウムを飲むことにしよう。」
継いで出たこのA先生のことばに、喜びも半ばぐらい、といったところまで落ちかけた。“問題はないだろう”と言われつつも、指摘されたのがかの天敵、食道だ。1番安泰であってほしかった箇所がひっかかったのだ。
“でも、そうと決まったわけではないし。それにそんなに差し迫っているのなら3カ月も様子を見るはずがない。”
繰り返すことになるが、本音のところでは、名立たるがん予備軍のほとんどを無事で征し、かなりの安心感を得たのは確かだった。けれどこの1点に影を射されたような感じなのである。
そして、これからは、そのようなレベルでの心の葛藤、第2ステージに移行していくことになるのだろうか。
だが、これの内容が、先の第1ラウンドに比べてかなりの程度で軽い感じなのが、今のところは救いになっている。
(シャープ)ブンゴウ