ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

残雪の金剛山

2012年03月26日 18時53分57秒 | 日記
NPO山歩き会10回目の金剛山である。昨日、25日に登った。今回は男子5名に、女子2名の7名参加だった。

8時50分に南海高野線&近鉄線の河内長野駅に集合。バスで金剛山登山口までを約30分(470円)。9時半過ぎ、そこからゆっくりと登り始め、途中から、おそらく前日かあるいはそのくらいの直近に降ったのであろう残雪が濃厚な山道を、休憩をたっぷりとりながら約1時間30分で山頂へ。

その、丸太で段差を仕切り、階段状にゆったりと広めに土を敷き詰め、また、両端にはずっと手すりが備えられている山道を見て思い出した。確か半年くらい前、NHKTVで放映された、認知症の妻とそれを支える夫の老夫婦が妻の症状の進行を抑えるべく1000回登山を目指すとして、数年来チャレンジしていたのがこの山だったことを。

事実、金剛山は登る度にスタンプを捺印して登山証明したり、頂上の一角にある金剛山・転法輪寺境内では、500回とか1000回登山者をそれぞれ「金剛錬成会員○○回以上登拝者名」という形で大々的に名前を刻印し、顕彰したりしているのだが、これが本山を有名にしている一因でもあるようだ。

「大阪府下の中学生などは欠かさず冬季の耐寒登山にも登らされた」と今回参加者のお一人は話していたけれど、つまりは、そのくらい、地元の人にとっては身近な山ということなのだろう。因みに、〈大阪市内からでも車で60分程度の距離にあるため、健康登山、回数登山の山としても有名。朝の出勤前や、夕方仕事が終わってから毎日登山に来る人も数多い〉とは某所での説明書き。こうして登山客が動員されるからか、これまた今回参加者のお一人・Y氏は、この山が「日本で富士山に次いで登山者の多い山」と宣(のたも)うておられたが、その真偽のほどや、いかに。

それはさておき、その、一部急勾配になっている箇所は除き、むしろ徐々にくねるように上昇していく山道は、頂上に近付くに連れて、へばり付いている雪の量が地面を見えなくするほどになって、かつ、凍結もあり、滑りやすくなっていた。その滑りやすい道を、既に早朝の登山を終えたのだろう、グループで、あるいはご夫婦で、はたまたお一人で、いずれも地元の方々と思われる、我々と同じかそれ以上の年恰好にも見えるご高齢者達が、一向に苦にする風もなく、下山するのに擦れ違うのだ。

その時お互いに交わす「お早う」の言葉が親密感を一層高めるのだが、私などは、どうしてもその時のその人達の足元に目が向いてしまう。そして登りよりもよほど危なそうな状況を見るにつけ、“きっとあれは靴に滑り止めを付けているに違いない”と思うのだけれども、定かではない。いずれにせよその身軽さには感嘆させられるばかりであった。

これまた途中。路傍に登山者を励ますかのように石に刻まれた地蔵さんが立ち、さらにはその隣に看板がある。看板に曰く。〈ゆっくり生きる。かけぬける人生よりも一段一段登っていく人生の方がいい。色んなものがよく見えていいんだよ。〉

また、山道の9合目を過ぎた辺り。〈男の一生〉と題して、人生訓も教示されているのである。「二十代は志を高く、三十代は仕事に燃えて、四十代は功を焦らず、五十代は寛容を以って、六十代は引き際良く、七十代は時を遊び、八十代は自由を楽しみ、そしてそれからはいぶし銀のように幽玄の境で。」

それら看板は2枚とも、恐らく同じ人物が描いたと思われ、共に地蔵さんのイラストが入っての言わば〈箴言〉だったのである。これはこれで、制作者のこの山に寄せる愛情と、登山者への共感も表われているようで、清々しく、そこまでの疲れも吹っ飛ぶかのようではあった。

そうして登り詰めた頂上。11時を過ぎた頃である。隣に、かつてトライして“只者ではなかった”と実感させられた葛城山が控え、あるいは「大阪で一番高い山」とリーダーのH氏が今回の案内で謳っていたこともあって、かなりの消耗を覚悟したのだったが、さほどの疲れも感じずに登り切ったのであった。

山頂には、昭和9年3月に文部省が指定したという「史跡金剛山」についての看板ガイドが待ち受ける。〈金剛山は海抜千百二十五米、葛城山脈中の最高峯たり。頂上附近一帯に役小角の開きし転法輪寺の址を存し、発起菩薩を祀れる修験道の霊場として夙に著名なり。今絶頂に葛木神社を奉祀し、転法輪寺を再建す。その西方平坦にて展望よき處、所謂國見城址なり。元弘二年、楠木正成、再び義兵を起こすや、その詰城千早城の背面防禦の地たり。北條氏の大軍分れて三方より楠木城に迫るや、その大和口に当れるは蓋しこの山なるべし。〉

その転法輪寺と、及び、そこから200m程先、なおちょっと上り詰めたところにある葛木神社に詣でたところで、時計を見ると11時半を過ぎている。時折り小雪が舞い、表示された温度はマイナス1度。境内は雪に覆われ、林立する杉木立の地表にも雪が残り、まさに厳冬期の様相だ。

ついでながら、葛木神社の由緒の一節である。〈‐‐古事記・日本書紀に‐‐葛木一言主を奉祀し、一言だけ願いをすれば叶う神として有名になりました。又、日本で初めて手を拍(う)って物を受け渡しされた古事により、拍手の元祖、一言恵比寿とも言われ、商売繁盛の福の神とも称せられます。〉

それやこれやで11時40分、待望の昼食にやっと辿り着く、まではよかったのだ。が、しかし、それにしてもだ。この頂上の何たる寒さだったことか‐‐。

「金剛生駒国定公園・金剛山頂」の標識が立ち、かのPL教団の白い塔のモニュメントを中心とする大阪平野を一望に収める展望広場の隅に設けられた、雨を避けるためにという小屋に陣取った我々、少なくとも私は、凍えつくような寒さに完璧に手の先の感覚を失い、辛うじて口に放り込むおにぎりや卵焼き、ウインナー等々をゆっくり味わう余裕などほとんどなく、とにかく一刻も早く食事を終え、少しでも日の射す場所に出たい‐‐一心で、それらを黙々と食べる、否、呑み込んでいたのだった。

いつもなら1時間以上をかけ、ゆっくりビールを呑みながらの、我々の昼食タイムは、そうして僅か20分足らずで切り上げられ、早々に下山の態勢に入るのだった。私にしても、いつも通り2本準備していった缶ビールのうち1本を、それも根性で飲み干したのが関の山。

このタイミングで、参加者の一人、かつてアルピニストだったという女性のOさんが持参してきたホットコーヒーに無心に飛び付くのである。そしてそれは私一人の話ではなかった。紙コップに注いでくれたコーヒーをフーフー言って口に含み、胃袋に流し込むことで、身体の底から湧き起こる温もりに、誰もがやっとの思いで人心地をつくことが出来たようで、それをY氏は「この温かさは生涯忘れない」と、万感を籠めて表現したのであった。

この“寒い昼食”をもって“間違いなく記憶に残る山”を後にしたのが予定より1時間も早く、12時半。その後約1時間半をかけ、セトと言われる地点を経過し、青崩道(水越峠)という登山口に至る。ここは葛城登山の時の下山場所でもあり、確かに見覚えがあった。

その時と同じバス亭から、土日のみ運行という1日4便の中の2時58分発のバスに、40分くらい待って乗り込み、一路、富田林駅へ。

3時半過ぎ、まだ居酒屋がオープン前とあって駅近くのファミリーレストランで、ピザやスパゲティをあてに、ビールとワインと‐‐これだけはいつもの通り盛大なる反省会を催して‐‐、6時前の解散を迎えたのであった。

というのが、今回のあらましである。敢えて時間も記し、いつもより全体に亘って行動や情景を詳述したのは、「関西百名山の踏破が我々の山歩きの会コンセプト。20山をクリアした辺りで、記念の活動記録誌を作りたい。よってこれからは、参加者全員、その日登った山のことを日記風に綴っておいてほしい」とのリーダーH氏の要請に基づく。

それを念頭に、実は今回、目に付いたもの、気になったもの、記念になりそうなものをとりあえず写真に収めてもいた。その行為はメモ代わりとも言え、こうした場合のデジカメの有用さも、今次の山歩きの会のお蔭で新たに手に入れた気付きではあった。

(シャープ)ブンゴウ
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今度は吉本隆明だ

2012年03月18日 17時41分42秒 | 日記
〈戦後日本の思想界に大きな影響を与え、安保反対や全共闘運動に揺れた1960年代に「反逆する若者たち」のカリスマ的存在だった詩人・評論家の吉本隆明さんが、16日午前2時13分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳だった。〉

朝日新聞、16日付夕刊に載っていた吉本隆明の訃報記事の冒頭部分である。見出しを見た瞬間、“今度は吉本か”と思ったものだった。ここ2、3年、立松和平をはじめとし、ゼミの恩師や、大学時代に直接・間接的に接し、あるいは著作を読み、何かと刺激やら影響やらを受けた人達が相次いで亡くなり、どんな人間でも“やはり逝くんだなあ”と思う回数が以前より頻繁になっているところに、この記事を目にしたからだ。

本名はタカアキというそうだが、我々にとってはリュウメイの方が馴染みが深かった。そしてその名からもたらされる論理性は、恐ろしいほど、閉塞の時代状況に風穴を開ける弾丸たるにふさわしい鋭角的な言葉によって紡ぎ出され、結果その展開提示は、互いに価値観を共有する我々の世代人にとって、ある種思考の共通指標となっていた。

元々は詩人であるという。けれど、私はその詩を一篇たりとも読んだことがないから、詩人としての吉本は一切分からなかった。否、この分からないということで言えば、その思想、文学論にしても、彼の目指そうとした方向性は分からないでもないが、目指したもの、書いた内容は、恥ずかしながら半分も理解出来なかった、と言ってよかった。

私が、最初に吉本の文章に触れたのは、確か『擬制の終焉』においてだった。いわゆる革新的なもの、自称左翼の知識人たる者達の中に潜む“欺瞞的なるもの”を弾劾する峻烈なる語彙に、痺れた。それは当時、そういった人々の言い放ち、それが主流を占める潮流に、“どこか違う”と思わざるを得なかった我々、少なくとも私を、大いにインスパイアしてくる反措定には違いなかったのだ。

そして私にとって、これが唯一、吉本を理解出来た著作物に他ならなかった。

これの余韻の残る中、私は、他の一部の学生達がそうしたようにその後、吉本の著作群、『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『心的現象論序説』『悲劇の解読』等々を手に取り、のめり込んでいく。が、今から思えば、以前にもこのブログで呟いた記憶があるけれども、つまりは、難解極まりないそれらの著作の、言えばほんのりと、その途轍もない論理性の片鱗に触れただけであった。

どうやら、この頃の吉本の著作は、前記の新聞記事の続きに曰く。〈国家や家族、言語などを原理的に考察。欧米からの輸入品ではない思想を自立的に展開する〉、その延長上に発せられたようだったのだ。逆に言えば、それ故ここには、吉本が独自に開発しようとした彼の造型学構築ともいうべき様相があったはずで、凡庸な私のような頭の持ち主では、それの本当に言わんとすることへの理解が及ばなかったことは、ある意味、むべなるかな、ではあったのだろう。

が、そうであってもなお、そのドラスティックに見える論理は、当時の私をとことん刺激尽くしたのには間違いなかった。

さらには、そんなその頃の私は不遜にも、“吉本を分かり切った”思いで大学を卒業し、しかし学生時代の思考は封印する格好で社会に出てからは、正直、吉本の著作は目にしなくなった。本人がコマーシャルに出たり(コム・デ・ギャルソン)、オウムの教祖を擁護したり、等の話題に上ることで、折に触れては名前を耳にし、また、情報化社会を分析した『マス・イメージ論』などは実際に著作を手に取って、そんなこんなを通じて吉本の変節振りが伝えられたりしているのにさえも、“吉本なりの考えがあってのことだろう”ぐらいの思いでしかなかった。

それだけ私にとっては、その後も、今度の死に至るまで、膨大な著作を残した中で、あの頃の唯一、数冊の著作が吉本の総てであったし、それはそれでよかった。学生時代のあれこれを封印したまま社会生活を営む私にとって、仮に吉本に変節があったにせよ、それは最早無縁のものでしかなかったのだ。

晩年。つい2年ほど前だったろうか。糸井重里の先導で長時間に亘りテレビで熱弁を振るっているシーンを見た。言語美などの、そこで語られている内容に不変のものは感じたが、ただ、基本的に糸井重里との組み合わせということに、どこか違和感を感じたのを憶えている。

〈近年は、糸井重里氏との対談を含めた新著の発刊や時事的テーマについての発言は続けていた〉という、さらなる先の新聞記事を読むに及んで、その蜜月ぶりが分かったのだが、今また、”それにしても何故糸井重里なの?”といった思いがするのは否めない。しかしこれとても、”吉本なりの考えからだったのだろう”程度に思い過ごすことが出来るのではあるが。

そして、にも拘らずである。私の吉本に抱くイメージは、どこまで行っても、次の日、同じ朝日の天声人語欄で語られていた次の表現が、彼の本領を言い当てているようで、あくまでもふさわしく思われてならないのだ。

〈あちらでは、名だたる論客が手ぐすね引いているだろう。花田清輝、丸山真男、埴谷雄高、谷沢永一。続きをやるつもりなら、時間と相手に限りはない。天上の論壇がにわかに活気づく。〉

私にとっても、〈戦後日本思想界〉の〈掛け値なしの一大事〉(天声人語)であったことは確かでる。合掌。

(シャープ)ブンゴウ
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確定申告

2012年03月12日 15時50分20秒 | 日記
大した額でもないが、それでもやっておかなければ、と、例年、年が明けた辺りから何とも気になる確定申告を、さっきようやく投函することができた。

実は、自分でこの申告書作りをやり出したのは去年からである。それまでは、生意気にも、友人のW氏夫人のお兄さんが経営する会計事務所にお願いしていたのだが、1昨年の余りにも激しい収入の減り方に、“そんなことはおこがましい”とばかり、インターネットの国税庁のHPにある申告フォームを利用して仕上げたのだった。(激減の状況を知られるのが恥ずかしくもあったのだが‐‐)。

確か、インターネットで申告可能になったのは、数年前のことだったと思う。会計事務所の私担当の方から聞かされていた。事実その頃から、申告後、こちらが用意した決算資料を返還してもらう時に、税務署に提出したというPCから入力した申告書の控えを、併せて貰っていたので、“なるほど、こういうものか”ということは理解出来ていた。

昨年、その頂いた申告書の控えを脇に、国税庁のHPを開き、順次、入力していったのだった。そしてこれが大いに役立った。反面、こんなことをするのは、ほぼ10年近く、年間の出納の整理法から始まって、申告の仕方まで学習させてもらった恩を仇で返す、換言すれば何か会計事務所の長年積み上げてきた折角のノウハウを盗んでいるような罪悪感に囚われないわけではななかったけれども、やり終えた時には、それなりの達成感があったのも確かだったのである。

ついでながら、それまでも、友人かつ人生の大先達・Mさんなどからは、「あんなものは自分ひとりで十分出来ますよ、一度やってみたらどうですか」と、このネットによる作成が可能となる以前から言われていたが、それをする自信がなく、加えてその頃は収入もここ2、3年よりは数段上ということや、それよりも何よりも事務所さんに敬意を払い力を借りる意識が強くあったので、当然の如く、その助言は無視させてもらっていた。

さて、今年。昨年1回やって全て分かった気がしていたし、収入もさらに落ちている。端から自分がやるものとして取り組んだ。「今年は、自分でやってみようと思います」との断りを、どこか後ろめたい気持ちで担当の方に告げた(先方も、ああいいですよ、と快く了承してくれた)昨年とは異なり、ひとことの断りもなしに、である。きっとさほどいい顧客であるはずがなく、今年もそうするのだろうと思ったのだろう、例年なら、「そろそろ準備を」と催促してきていた連絡が、今回は先方からもなかった。

取り掛かる前は、2年目ということで、比較的余裕を持てていたはずだった。しかし実際には、進める手順的に戸惑うことが多かった。1カ所では、何度やってもやり直しのサインが出て、“これは税務署に訊くしかないか”と思うような局面もあったが、“昨年はちゃんと出来たのだから”の思いが私を粘らせ、そうしているうちにそこでの初歩的な理解の誤りに気付き、訂正入力したところ、“次へ”のお許しがやっと出、忸怩たる思いの中にも溜飲を下げたというようなことが、少なくとも3回ぐらいはあった。

かくして、青色申告の収支決算書と、それに基づく所得税の確定申告書Bなるものが今年も出来あがったのだった。今や、言わずもがなではあるけれど、これのいい面は、入力した数字が自動的に計算され、確定数字が勝手に所定の欄に記入されることと、前記したように、不完全な入力だと、正しくそれがなされるまで何度もやり直しが命じられ、正しい入力をもってはじめて次に進むことが出来る仕組みになっていることから、結果、仕上がったデータは、その基礎資料さえ間違ってなければほぼ完全な内容がもたらされるということとにある。おそらく、手書き、しかも自分で電卓で計算をしつつ、という時代からは遥か遠くまでやってきていて、ひとまず文明の進歩は有難い。

さてさて、そうして得た確定申告書。その、何よりもの楽しみは、源泉徴収によりプールされていた還付金が如何ばかりになるのか、ということに他ならない。そこで、では今年、一体その額は‐‐?

今年は、と言うべきか、今年も、と言うべきか、基礎資料作り(1年の領収書を1カ所に放り投げて保管しているだけなので、それの整理に当たらなければならない)と、行きつ戻りつしてのそれら資料のPC入力とで、丸2日間を費やした作業量の対価としては、いかにも寂しいものだった、とだけ記しておこう。それにしたって、所詮は仕事にあまり熱心でなかった昨年のつけが回って来たのに過ぎないのだが。

(シャープ)ブンゴウ
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それから(1)

2012年03月08日 13時36分11秒 | 日記
「行ってらっしゃい。」
 仕事をもっている妻を送り出すと、そこからが妻が食べるだけでいいように用意してくれていた朝食の時間だ。
 ただし、コーヒーを淹れ、電子レンジでサンドイッチ2個を温め、ヨーグルトの容器からスプーン3杯分を小皿に掬い取ってブルーベリーで酸味を和らげることと、それらと一緒に、妻が剥いていてくれていたリンゴ1個とバナナ半分をトレーに載せ、キッチンから居間に運び込むことは男が自分でする。
 落ち着いたところで、新聞朝刊を1面から読み出し、それと同時にコーヒーをひと口啜る。そこからやおらサンドイッチにかぶりつく‐‐。
 退職して以来、既に半年が経つ朝食時の男の習慣であった。
 しかし、その時間を挟む前後の状況がここにきて変化を見せていた。
 まず、朝食は、朝6時に起床し、1時間ほどの散歩をした後に持つようになった。
 因みに、朝の散歩を始めたのは男に医者の進言があったからである。退職後しばらくして、男は自ら感じるところがあって、夕方の1時間近くを自宅周辺や、時に自宅の裏に横たわる丘陵を歩いたりしていたのだったが、2カ月ほど前、眼科医院に行った折、そこの60絡みの闊達な女院長から、初対面にも拘わらず、「今のあなたの生活環境ではそれだけでは不十分」と詰(なじ)られ、執拗に目と生活習慣病との関係を聞かされた挙げ句、「目の老化防止のためにはさらに朝のウォーキングが欠かせないのよ」との言い分を承服させられたのであった。
 次いで、朝食後は、30分ほどの仮眠を取るようにもなっている。朝6時起きが未だ完全に習慣化したとは言えず、たまらず襲ってくる睡魔に耐え切れないからである。そして9時くらいに再び目覚め、特に目的もなくパソコンの部屋に入るようになったのだ。

 それにしても、いかにも微小な朝の変化があったにせよ、大勢としては何の変哲もない定年後の男の日常と言えた。感動がない日々と言ってもいいのかもしれない。明日は何をするかという以前に、今日何をしたらいいのか、これといって決まったものもない。
 
 けれど、いつしかそのことを何とも辛いものとして、男は身に沁みて感じるようになっていたのも確かであった。
 
 気が付くと昼の時間になっている。
 昼食は、妻のメモしておいてくれたメニューを冷蔵庫の中から忠実に取り出すことで整え、味噌汁を温め、ご飯をよそって、それらを朝食同様居間に持ち込み、ここでは赤ワインを1杯だけグラスに注ぐ。あとはテレビを見ながら、40分ぐらいをかけて、この時もゆっくりと食べる。

 昼からの時間がまた長い。再び男はパソコン部屋に入り、しかし今度は、いずれ読もうとこれまでに買い溜めしてあった本を、買った順番に読んでいく。
 4時過ぎからは、いつの間にか居ついて10年は経つ猫に餌をやったり、庭の植木に水をやったり。はたまた、“せめてこれだけは”と妻から譲り受けて担当になった風呂掃除をし、新たに水を張りガスに点火する。そうしておいて干してある洗濯物を取り込んで畳み込む。
 一通り終えると5時半頃になっているのが常だ。それからが夕方のウォーキング。朝とはコースを変え、1時間から1時間半ぐらいを歩く。
 散歩から戻り、夕刊に目を通している最中の7時前、妻が帰宅する。それを汐に男は風呂に入り、その間に妻が慌しく夕食を準備し、といった生活が、これは半年間、ずっと変わらずに続いているのであった。

 しかし、ここ2週間ほど、男は、“幾ら何でもこのままでいいのか”と本気に思うようになっていた。外に出て何かやらねば、と考え始めたのである。が、その一方で、“このご時世だ。再就職にしても、そうそうたやすく適当な会社や機会が見つかるわけがない”といった、今の閉塞社会の悲観的事情に思いを馳せ、怯(ひる)みもし、退職して改めて思い知ることとなった”自分には仕事以外何もなかった”というやや自虐的な考からも、依然として、抜け切れずにいたのである。
”それでも何とか、その辺の情報収集だけでも注力してみるか”と、強いて前向き志向に意識を切り替え、パソコンに向かう男ではあったのだ。

すると今日。
パソコン画面のとある検索キーワードが男の目を捉えたのだった。

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