NPO山歩き会10回目の金剛山である。昨日、25日に登った。今回は男子5名に、女子2名の7名参加だった。
8時50分に南海高野線&近鉄線の河内長野駅に集合。バスで金剛山登山口までを約30分(470円)。9時半過ぎ、そこからゆっくりと登り始め、途中から、おそらく前日かあるいはそのくらいの直近に降ったのであろう残雪が濃厚な山道を、休憩をたっぷりとりながら約1時間30分で山頂へ。
その、丸太で段差を仕切り、階段状にゆったりと広めに土を敷き詰め、また、両端にはずっと手すりが備えられている山道を見て思い出した。確か半年くらい前、NHKTVで放映された、認知症の妻とそれを支える夫の老夫婦が妻の症状の進行を抑えるべく1000回登山を目指すとして、数年来チャレンジしていたのがこの山だったことを。
事実、金剛山は登る度にスタンプを捺印して登山証明したり、頂上の一角にある金剛山・転法輪寺境内では、500回とか1000回登山者をそれぞれ「金剛錬成会員○○回以上登拝者名」という形で大々的に名前を刻印し、顕彰したりしているのだが、これが本山を有名にしている一因でもあるようだ。
「大阪府下の中学生などは欠かさず冬季の耐寒登山にも登らされた」と今回参加者のお一人は話していたけれど、つまりは、そのくらい、地元の人にとっては身近な山ということなのだろう。因みに、〈大阪市内からでも車で60分程度の距離にあるため、健康登山、回数登山の山としても有名。朝の出勤前や、夕方仕事が終わってから毎日登山に来る人も数多い〉とは某所での説明書き。こうして登山客が動員されるからか、これまた今回参加者のお一人・Y氏は、この山が「日本で富士山に次いで登山者の多い山」と宣(のたも)うておられたが、その真偽のほどや、いかに。
それはさておき、その、一部急勾配になっている箇所は除き、むしろ徐々にくねるように上昇していく山道は、頂上に近付くに連れて、へばり付いている雪の量が地面を見えなくするほどになって、かつ、凍結もあり、滑りやすくなっていた。その滑りやすい道を、既に早朝の登山を終えたのだろう、グループで、あるいはご夫婦で、はたまたお一人で、いずれも地元の方々と思われる、我々と同じかそれ以上の年恰好にも見えるご高齢者達が、一向に苦にする風もなく、下山するのに擦れ違うのだ。
その時お互いに交わす「お早う」の言葉が親密感を一層高めるのだが、私などは、どうしてもその時のその人達の足元に目が向いてしまう。そして登りよりもよほど危なそうな状況を見るにつけ、“きっとあれは靴に滑り止めを付けているに違いない”と思うのだけれども、定かではない。いずれにせよその身軽さには感嘆させられるばかりであった。
これまた途中。路傍に登山者を励ますかのように石に刻まれた地蔵さんが立ち、さらにはその隣に看板がある。看板に曰く。〈ゆっくり生きる。かけぬける人生よりも一段一段登っていく人生の方がいい。色んなものがよく見えていいんだよ。〉
また、山道の9合目を過ぎた辺り。〈男の一生〉と題して、人生訓も教示されているのである。「二十代は志を高く、三十代は仕事に燃えて、四十代は功を焦らず、五十代は寛容を以って、六十代は引き際良く、七十代は時を遊び、八十代は自由を楽しみ、そしてそれからはいぶし銀のように幽玄の境で。」
それら看板は2枚とも、恐らく同じ人物が描いたと思われ、共に地蔵さんのイラストが入っての言わば〈箴言〉だったのである。これはこれで、制作者のこの山に寄せる愛情と、登山者への共感も表われているようで、清々しく、そこまでの疲れも吹っ飛ぶかのようではあった。
そうして登り詰めた頂上。11時を過ぎた頃である。隣に、かつてトライして“只者ではなかった”と実感させられた葛城山が控え、あるいは「大阪で一番高い山」とリーダーのH氏が今回の案内で謳っていたこともあって、かなりの消耗を覚悟したのだったが、さほどの疲れも感じずに登り切ったのであった。
山頂には、昭和9年3月に文部省が指定したという「史跡金剛山」についての看板ガイドが待ち受ける。〈金剛山は海抜千百二十五米、葛城山脈中の最高峯たり。頂上附近一帯に役小角の開きし転法輪寺の址を存し、発起菩薩を祀れる修験道の霊場として夙に著名なり。今絶頂に葛木神社を奉祀し、転法輪寺を再建す。その西方平坦にて展望よき處、所謂國見城址なり。元弘二年、楠木正成、再び義兵を起こすや、その詰城千早城の背面防禦の地たり。北條氏の大軍分れて三方より楠木城に迫るや、その大和口に当れるは蓋しこの山なるべし。〉
その転法輪寺と、及び、そこから200m程先、なおちょっと上り詰めたところにある葛木神社に詣でたところで、時計を見ると11時半を過ぎている。時折り小雪が舞い、表示された温度はマイナス1度。境内は雪に覆われ、林立する杉木立の地表にも雪が残り、まさに厳冬期の様相だ。
ついでながら、葛木神社の由緒の一節である。〈‐‐古事記・日本書紀に‐‐葛木一言主を奉祀し、一言だけ願いをすれば叶う神として有名になりました。又、日本で初めて手を拍(う)って物を受け渡しされた古事により、拍手の元祖、一言恵比寿とも言われ、商売繁盛の福の神とも称せられます。〉
それやこれやで11時40分、待望の昼食にやっと辿り着く、まではよかったのだ。が、しかし、それにしてもだ。この頂上の何たる寒さだったことか‐‐。
「金剛生駒国定公園・金剛山頂」の標識が立ち、かのPL教団の白い塔のモニュメントを中心とする大阪平野を一望に収める展望広場の隅に設けられた、雨を避けるためにという小屋に陣取った我々、少なくとも私は、凍えつくような寒さに完璧に手の先の感覚を失い、辛うじて口に放り込むおにぎりや卵焼き、ウインナー等々をゆっくり味わう余裕などほとんどなく、とにかく一刻も早く食事を終え、少しでも日の射す場所に出たい‐‐一心で、それらを黙々と食べる、否、呑み込んでいたのだった。
いつもなら1時間以上をかけ、ゆっくりビールを呑みながらの、我々の昼食タイムは、そうして僅か20分足らずで切り上げられ、早々に下山の態勢に入るのだった。私にしても、いつも通り2本準備していった缶ビールのうち1本を、それも根性で飲み干したのが関の山。
このタイミングで、参加者の一人、かつてアルピニストだったという女性のOさんが持参してきたホットコーヒーに無心に飛び付くのである。そしてそれは私一人の話ではなかった。紙コップに注いでくれたコーヒーをフーフー言って口に含み、胃袋に流し込むことで、身体の底から湧き起こる温もりに、誰もがやっとの思いで人心地をつくことが出来たようで、それをY氏は「この温かさは生涯忘れない」と、万感を籠めて表現したのであった。
この“寒い昼食”をもって“間違いなく記憶に残る山”を後にしたのが予定より1時間も早く、12時半。その後約1時間半をかけ、セトと言われる地点を経過し、青崩道(水越峠)という登山口に至る。ここは葛城登山の時の下山場所でもあり、確かに見覚えがあった。
その時と同じバス亭から、土日のみ運行という1日4便の中の2時58分発のバスに、40分くらい待って乗り込み、一路、富田林駅へ。
3時半過ぎ、まだ居酒屋がオープン前とあって駅近くのファミリーレストランで、ピザやスパゲティをあてに、ビールとワインと‐‐これだけはいつもの通り盛大なる反省会を催して‐‐、6時前の解散を迎えたのであった。
というのが、今回のあらましである。敢えて時間も記し、いつもより全体に亘って行動や情景を詳述したのは、「関西百名山の踏破が我々の山歩きの会コンセプト。20山をクリアした辺りで、記念の活動記録誌を作りたい。よってこれからは、参加者全員、その日登った山のことを日記風に綴っておいてほしい」とのリーダーH氏の要請に基づく。
それを念頭に、実は今回、目に付いたもの、気になったもの、記念になりそうなものをとりあえず写真に収めてもいた。その行為はメモ代わりとも言え、こうした場合のデジカメの有用さも、今次の山歩きの会のお蔭で新たに手に入れた気付きではあった。
(シャープ)ブンゴウ
8時50分に南海高野線&近鉄線の河内長野駅に集合。バスで金剛山登山口までを約30分(470円)。9時半過ぎ、そこからゆっくりと登り始め、途中から、おそらく前日かあるいはそのくらいの直近に降ったのであろう残雪が濃厚な山道を、休憩をたっぷりとりながら約1時間30分で山頂へ。
その、丸太で段差を仕切り、階段状にゆったりと広めに土を敷き詰め、また、両端にはずっと手すりが備えられている山道を見て思い出した。確か半年くらい前、NHKTVで放映された、認知症の妻とそれを支える夫の老夫婦が妻の症状の進行を抑えるべく1000回登山を目指すとして、数年来チャレンジしていたのがこの山だったことを。
事実、金剛山は登る度にスタンプを捺印して登山証明したり、頂上の一角にある金剛山・転法輪寺境内では、500回とか1000回登山者をそれぞれ「金剛錬成会員○○回以上登拝者名」という形で大々的に名前を刻印し、顕彰したりしているのだが、これが本山を有名にしている一因でもあるようだ。
「大阪府下の中学生などは欠かさず冬季の耐寒登山にも登らされた」と今回参加者のお一人は話していたけれど、つまりは、そのくらい、地元の人にとっては身近な山ということなのだろう。因みに、〈大阪市内からでも車で60分程度の距離にあるため、健康登山、回数登山の山としても有名。朝の出勤前や、夕方仕事が終わってから毎日登山に来る人も数多い〉とは某所での説明書き。こうして登山客が動員されるからか、これまた今回参加者のお一人・Y氏は、この山が「日本で富士山に次いで登山者の多い山」と宣(のたも)うておられたが、その真偽のほどや、いかに。
それはさておき、その、一部急勾配になっている箇所は除き、むしろ徐々にくねるように上昇していく山道は、頂上に近付くに連れて、へばり付いている雪の量が地面を見えなくするほどになって、かつ、凍結もあり、滑りやすくなっていた。その滑りやすい道を、既に早朝の登山を終えたのだろう、グループで、あるいはご夫婦で、はたまたお一人で、いずれも地元の方々と思われる、我々と同じかそれ以上の年恰好にも見えるご高齢者達が、一向に苦にする風もなく、下山するのに擦れ違うのだ。
その時お互いに交わす「お早う」の言葉が親密感を一層高めるのだが、私などは、どうしてもその時のその人達の足元に目が向いてしまう。そして登りよりもよほど危なそうな状況を見るにつけ、“きっとあれは靴に滑り止めを付けているに違いない”と思うのだけれども、定かではない。いずれにせよその身軽さには感嘆させられるばかりであった。
これまた途中。路傍に登山者を励ますかのように石に刻まれた地蔵さんが立ち、さらにはその隣に看板がある。看板に曰く。〈ゆっくり生きる。かけぬける人生よりも一段一段登っていく人生の方がいい。色んなものがよく見えていいんだよ。〉
また、山道の9合目を過ぎた辺り。〈男の一生〉と題して、人生訓も教示されているのである。「二十代は志を高く、三十代は仕事に燃えて、四十代は功を焦らず、五十代は寛容を以って、六十代は引き際良く、七十代は時を遊び、八十代は自由を楽しみ、そしてそれからはいぶし銀のように幽玄の境で。」
それら看板は2枚とも、恐らく同じ人物が描いたと思われ、共に地蔵さんのイラストが入っての言わば〈箴言〉だったのである。これはこれで、制作者のこの山に寄せる愛情と、登山者への共感も表われているようで、清々しく、そこまでの疲れも吹っ飛ぶかのようではあった。
そうして登り詰めた頂上。11時を過ぎた頃である。隣に、かつてトライして“只者ではなかった”と実感させられた葛城山が控え、あるいは「大阪で一番高い山」とリーダーのH氏が今回の案内で謳っていたこともあって、かなりの消耗を覚悟したのだったが、さほどの疲れも感じずに登り切ったのであった。
山頂には、昭和9年3月に文部省が指定したという「史跡金剛山」についての看板ガイドが待ち受ける。〈金剛山は海抜千百二十五米、葛城山脈中の最高峯たり。頂上附近一帯に役小角の開きし転法輪寺の址を存し、発起菩薩を祀れる修験道の霊場として夙に著名なり。今絶頂に葛木神社を奉祀し、転法輪寺を再建す。その西方平坦にて展望よき處、所謂國見城址なり。元弘二年、楠木正成、再び義兵を起こすや、その詰城千早城の背面防禦の地たり。北條氏の大軍分れて三方より楠木城に迫るや、その大和口に当れるは蓋しこの山なるべし。〉
その転法輪寺と、及び、そこから200m程先、なおちょっと上り詰めたところにある葛木神社に詣でたところで、時計を見ると11時半を過ぎている。時折り小雪が舞い、表示された温度はマイナス1度。境内は雪に覆われ、林立する杉木立の地表にも雪が残り、まさに厳冬期の様相だ。
ついでながら、葛木神社の由緒の一節である。〈‐‐古事記・日本書紀に‐‐葛木一言主を奉祀し、一言だけ願いをすれば叶う神として有名になりました。又、日本で初めて手を拍(う)って物を受け渡しされた古事により、拍手の元祖、一言恵比寿とも言われ、商売繁盛の福の神とも称せられます。〉
それやこれやで11時40分、待望の昼食にやっと辿り着く、まではよかったのだ。が、しかし、それにしてもだ。この頂上の何たる寒さだったことか‐‐。
「金剛生駒国定公園・金剛山頂」の標識が立ち、かのPL教団の白い塔のモニュメントを中心とする大阪平野を一望に収める展望広場の隅に設けられた、雨を避けるためにという小屋に陣取った我々、少なくとも私は、凍えつくような寒さに完璧に手の先の感覚を失い、辛うじて口に放り込むおにぎりや卵焼き、ウインナー等々をゆっくり味わう余裕などほとんどなく、とにかく一刻も早く食事を終え、少しでも日の射す場所に出たい‐‐一心で、それらを黙々と食べる、否、呑み込んでいたのだった。
いつもなら1時間以上をかけ、ゆっくりビールを呑みながらの、我々の昼食タイムは、そうして僅か20分足らずで切り上げられ、早々に下山の態勢に入るのだった。私にしても、いつも通り2本準備していった缶ビールのうち1本を、それも根性で飲み干したのが関の山。
このタイミングで、参加者の一人、かつてアルピニストだったという女性のOさんが持参してきたホットコーヒーに無心に飛び付くのである。そしてそれは私一人の話ではなかった。紙コップに注いでくれたコーヒーをフーフー言って口に含み、胃袋に流し込むことで、身体の底から湧き起こる温もりに、誰もがやっとの思いで人心地をつくことが出来たようで、それをY氏は「この温かさは生涯忘れない」と、万感を籠めて表現したのであった。
この“寒い昼食”をもって“間違いなく記憶に残る山”を後にしたのが予定より1時間も早く、12時半。その後約1時間半をかけ、セトと言われる地点を経過し、青崩道(水越峠)という登山口に至る。ここは葛城登山の時の下山場所でもあり、確かに見覚えがあった。
その時と同じバス亭から、土日のみ運行という1日4便の中の2時58分発のバスに、40分くらい待って乗り込み、一路、富田林駅へ。
3時半過ぎ、まだ居酒屋がオープン前とあって駅近くのファミリーレストランで、ピザやスパゲティをあてに、ビールとワインと‐‐これだけはいつもの通り盛大なる反省会を催して‐‐、6時前の解散を迎えたのであった。
というのが、今回のあらましである。敢えて時間も記し、いつもより全体に亘って行動や情景を詳述したのは、「関西百名山の踏破が我々の山歩きの会コンセプト。20山をクリアした辺りで、記念の活動記録誌を作りたい。よってこれからは、参加者全員、その日登った山のことを日記風に綴っておいてほしい」とのリーダーH氏の要請に基づく。
それを念頭に、実は今回、目に付いたもの、気になったもの、記念になりそうなものをとりあえず写真に収めてもいた。その行為はメモ代わりとも言え、こうした場合のデジカメの有用さも、今次の山歩きの会のお蔭で新たに手に入れた気付きではあった。
(シャープ)ブンゴウ
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