ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

記録

2012年05月19日 15時20分23秒 | 日記
我がNPOが本年2月に設立5周年を迎え、今月15日に発刊された基幹事業としての定期刊行物『TOS・TAG』(Vol.8)に、その活動の大雑把なダイジェストを写真中心で記している。極めて不完全ながら、それでも、いわば5年間の記録である。

実は、これに先立つ本年2月には、かれこれ3年前に入会したもう1つの似たようなシルバーの集い(Mの会)が同じく満5周年を迎え、しかしこちらは本格的な記念誌を刊行した。因みに発刊に際しては、我々NPOのメンバーが編集協力に当たったのだったが、ほぼ、プロのスタッフによる編集だっただけに、立派なものが出来上がったと自画自賛したものだった。

ついでながら、けれどこれの出来栄えについては、その完成のイメージを、例えば中学や高校の文集的なものとして捉えていた同会の一部の面々にとって、それとは“余りにもかけ離れた”冊子の出現に面食らい、かつ、自分の文章を寄せた代償に何がしかの費用負担をしなければならないということで、一時は騒然となったものの、しかし最終的には「いい形での記録を残すことができた」と、大方の納得は得られたものと思っている。

はたまた、このブログでも度々書いているNPOの山歩き会においても、関西100名山の完全踏破を宣言しているリーダーが、然るべき山の数をクリアした段階での記録集の発刊を表明している。曰く。「それぞれの参加メンバーが得意とする記録の方法による原稿、例えばエッセイや俳句、あるいは写真などを軸にした編集構成としたい。よって山登りを2度楽しみたい。」

肝心の、冒頭に記したNPOの今回の5周年記事は、正直、中途半端な形で終わってしまっているが、いずれ、仮に10週年の折などには、もっと立派なちゃんとしたものを、といった声が湧き起こってくるのかもしれない。

何はともあれ、何がしかの組織があって、それが会社であれ、自治体や機関・団体であれ、さらには大学・高校であれ、一定の歴史を重ねると、その節目、節目には決まってその活動の歴史(=記念誌)を編纂しようとするのは、職業柄、当たり前のことと思ってきた。

が、今回のNPOやMの会、山歩きの会といった場合、それら”組織”の発行する記念誌、記録史とはまた違った意味合いがあるように思われてならない。

その最大の差は、こちらは、あくまでも個人の自由な志向性に依拠したもの、つまり、個人が、誰に束縛され、指示され、ましてや自分を殺すのでもなく、自らの意志によって自らを昇華させる―かの自費出版という形に限りなく近いものなのであって、方や、ある意味、“組織”の記念誌がそうした個人の顔を隠してでも自身の功利性を語ろうとするものであるからして、この点にこそ両者の本質的な違いがあると思うのだ。

やや脇道に逸れるが、一般通説的に、古来、歴史・正史というのは、実は時々の権力者の歩んだ軌跡の記述に他ならないと言われてきた。即ち、文字にせよ、絵にせよ、それを記録として留める道具を持っている、さらにはそれを恣意的に操れる層にのみ、その検証は許されたのあり、その蓄積が教科書に載る歴史だったのだ、と。蓋し、常に時代の権力者は正当だったし、極端な話、その前では、そんな手法を持たない無名な庶民や社会の姿などは登場する余地はなかった。ここで、その残滓が言わば“組織の記念誌”の実相とも言えなくはない。

話はかなり波乱含みだが、要するに言いたいことは、自費出版をしてまでも個人の記録を残そうとするその意味性である。言うならばここには、そのようにして出来あがったかつての正史・歴史観では考えられなかった無名の個人の歴史的出現、即ち、偏った歴史観にアノニマスAやBやらが雄弁に語って風穴を開け、ひとまずその時の歴史の全体像解明に参加すべくその名を刻み込む、そうしたコペルニクス的転回をもたらす芽がある。

1つに、今のインターネットは、だから、制約なしで個人の自由な発信を保証し、結果そんな転回の実現を加速させる確率性大という面において、何よりも格好のメディアであるとは言えるのだろう。それがいわゆる情報革命とされてきた所以を、この文脈において私もまた可としたい。

今回の言説はしかし、ここまでくると、言ってしまえば単純に自費出版のススメ、ということにでもなっていくのだろうか。そのイメージ的に、死後、書き残した断片が、それが作品的なものであれ日記風なものであれ、確かにこの世に生を刻したことを証すと共に、在りし日のその無名の書き手を彷彿とさせ、うまくいけば、残された者の中に永遠に生き続け、糧となる。

繰り返すことになるが、よってそういうものであってもまた”歴史に名を刻んだ”ということにはならないか。正史に伍し、敢然と割って入ったということにはならないか。たとえその作物が良質なものであれ、見る(読む)に耐えないものであれ(無論良質であるに越したことはないが)、である。

この間、私を通過した記録の経験をこんなものとして考えてみた。すると、その試みは、それを著す人間にとって、存外、優れて創造的でタフな行為のようにも思えたし、そして近々私は、今度は小説を、自費出版する。

(シャープ)ブンゴウ

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吉野の花

2012年05月04日 10時32分45秒 | 日記
4月30日、NPOの山歩き会・第11回が実施された。先月の末にあったばかりだから、それからほぼひと月。しかも本来は1週間前に予定されていたものが雨のために延期となり、ということでかなりハイペースでの今回となったわけである。関西100名山踏破に向け、いよいよエンジンがかかってきたというところか。

それもあるが、この時期、当初4月22日に、と予定したのには理由があった。リーダーH氏の頭の中に捨て難く、“吉野の桜”を今年どうしても、という願望があったからだ。多少前回との間隔は狭まるが、やってみよう、と。

という次第で、11回目は吉野山。無論100名山の1つ、余り知られてはいないが最高峰は青根ケ峰という標高858m(厳密には857.9mの山頂標識)の山である。まずは、その桜で有名過ぎる吉野の概略について(当地のパンフレット等を基におさらい)。

〈吉野山は奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8kmに及ぶ尾根続きの山稜の総称。または金峰山寺(きんぷせんじ)を中心とした社寺が点在する地域の広域名である。昭和11年、吉野熊野国立公園に指定さる〉

で、ポイントその1・桜。〈古くからの桜の名所。馬の背のような山を、下から下千本(しもぜんぼん・近鉄吉野→七曲坂辺り)、中千本(五郎兵衛茶屋→如意輪寺辺り)、上千本(火の見櫓→花矢倉辺り)、奥千本(吉野水分神社→金峯神社辺り)と辿り、全山に約3万本あるとされ、標高差により花期を異にして咲き上る桜(白山桜・シロヤマザクラ)を愛でる。〉

でもって、吉野には何故、かくも桜が多いのか。〈吉野山は大峰山を経て熊野三山へと続く山岳霊場・修行道大峯奥駆道(おおみねおくがけみち)の北端に当たり、その開祖・役小角が蔵王権現像を桜樹で彫って守本尊としたことから桜木が神木になり、その後平安時代に入り、行者や信者らが桜の苗を寄進し、かつ愛護したことによる。〉

そして、ポイントその2・政争敗者の復活を夢見る地。〈都から落ち延びた人々の隠遁先としての吉野は、大海人皇子(後の天武天皇)が兄の天智天皇の子・大友皇子を倒して政権を握った壬申の乱(672年)辺りまで遡る。この大海人皇子が一時、大津の都を離れて出家、当地に隠棲、雌伏していたのである。次いで、源頼朝の討伐令から逃れるべく当地に身を隠し、やがて静御前とも別れて東国へ脱出した義経・弁慶の話(1185年・文治元年)を経、倒幕の咎で隠岐に流罪、そこから戻り、今度は足利幕府に対抗して吉野に朝廷(京都の北朝に対して南朝)を築く(1336年)も、願い空しく京に再び戻ることなく当地で崩御した後醍醐天皇が主役となる南北朝時代の歴史で極まる。〉

でもって、吉野は何故、かくも逃避先として恰好だったのか。1説に〈山岳信仰の聖地で仏門に近しい所という事情の他に、容易に攻め入ることのできない山岳地形だったから〉と。

ここで、この2つのポイント―桜と敗者の悲劇―をよくよく吟味すると、浮かんでくる1つのイメージがある。あの、梶井基次郎の短編『桜の樹の下には』の中の一節、〈桜の樹の下には屍体が埋まっている〉の件(くだり)だ。この感性に従えば、さしあたり、吉野の場合は、“桜の樹の下には怨念と悲劇の歴史が埋まっている”といったことにでもなろうか。

ついでに梶井基次郎のこの表現の背景には、〈満開の桜という美の極みに、死という負の真逆の極みを対峙させることで、初めて主人公は心の均衡を得ることができた。つまり、そうすることで、美しいものに対して覚える劣等感を回避することが出来たのである〉といったような、まことしやかな解釈があるのも確かだが、次のように、原文(一部)は、そんな解釈をせせら笑うかの如く、えぐく、執拗だ。

『おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆(うじ)が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。』

例えば1594年(文禄3年)には、太閤秀吉が一行5千名ほどを当地・吉野に引き連れ、花見の宴を催したというが、おそらく華麗さにのみ現を抜かしたのであろう秀吉にとって、こんな“深読み”は全く無縁だったに違いない。

それはさておき、我々の吉野歩きである。今回参加者は7名(夫婦1組に、女性2名+男性3名)。終日どんよりとした曇り、最後までもってくれるか、と思ったが、下山時(夕方3時頃)、多少の雨に遭っている。最後の最後だから、これは許されよう。

まずは9時前に、件の下千本の起点、近鉄吉野駅に集合。舗装路の七曲坂辺りを経、黒門(金峯山寺の総門で、いわば吉野一山の総門とも言われる)を潜る。そこを進んで最初に立ち寄ったのが、北面からの玄関口に当たる、両側に5mは優に超える巨大な仁王像(金剛力士像)が構える国宝・仁王門のある金峯山寺の本堂であり、修験道の根本道場でもある蔵王堂だ。境内を登り切った所に、重層入母屋造の檜皮葺、高さ33.9mで佇立し、木造古建築としては奈良の東大寺に次ぐ規模とかで、勇壮そのもの。周囲に対する威圧感たるや、半端ではなかった。彫刻の精巧さにも驚嘆のうちに、10時過ぎここを発つ。

次いで覗いたのが吉水(よしみず)神社。義経や静御前、弁慶が潜居したり、後醍醐天皇が南朝の拠点(皇居)にしたのもここ。中千本地区に当たり、実際に中千本から、上千本、そして奥千本までを一望のもとに収められる境内内展望所には、〈二十一世紀に残したい日本の風景 花の部門第一位一目千本〉の標識が見え、さらにはその脇に、ダメ押しの〈一目千本〉の大看板がかかる。秀吉の花見の宴の折、ここを本陣としたというのも頷けようというもの。

決まって〈大峯奥駆道〉も刻まれる方向指示標識を頼り、11時前に辿り着いたのが吉野水分(みくまり)神社。ここまでの沿道では、白い花びらに黄と紫が混じるのが瑞々しい草花や、僅かに残る桜花、新芽の樹木群、赤の鮮やかなチューリップ、名前は知らないが黄色満面の花々、等々の植生たちとも、いやでも懇(ねんご)ろにならざるを得なかった。

水分神社は、何と言っても、檜皮葺の3つの社が1続きになり、1棟の様相になっているのが目を引く。珍しい建築様式であるのは事実のようで、同時に豪華で精巧を極めた桃山時代の特徴が今に伝わる。一角に、西行の座像が鎮座。聞けば、特に当社に縁があるわけでもなく、明治5年の廃仏毀釈の折、安置されていた寺から避難してきたとのことであった。

この辺りで11時半を過ぎていたと思う。今度は、間伐が施されて、一際(ひときわ)鮮やかに、芸術的にとすら言ってもいい、すらりと伸びた杉木立の合間を縫いながら、奥千本は西行庵を目指している。道の傍らに〈大峰登山五拾度供養塔〉と刻まれた大きな石碑を目に止めたり、義経の隠れ塔の建つ金峯寺を通過したりして、近畿自然歩道を山上ケ岳方向に進み、〈左・西行庵0.2k〉の標識の建つ地点を降下。奥の千本・西行庵、12時過ぎの着であった。

〈奥千本に隠れるようにたたずむ庵。放浪の歌人西行が3年幽居していたという。山桜と紅葉の名所。近くに芭蕉句碑のたつ苔清水、宮滝から拝む神仙境のシンボル青根ケ峰がある〉(パンフレット)

そこは、緑の樹木に被われた森閑とした窪地であった。ほぼ真ん中に草庵。その庵の中央には座禅を組む西行像が。その前で、我々一行は粛々と昼食を取るのであった。「願はくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」―新古今集に編まれている吉野を詠んだ西行の歌である。

山頂の青根ケ峰を1時過ぎに登り切ると、そこから先は、一路、バス停のある川上村・西河に向かう。途中、ある地点では遥か遠くに大阪・奈良の幾重にも重なった山脈を見つつ、また歩く足元は、これまでの舗装路とは打って変わった細い山道を、延々と続く杉木立と、傍を流れる、水が澄み苔むす渓流とに癒されながら、ほぼ2時間をかけての下山であった。

こうしてみると今回は、山歩きというよりも、04年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された地の歴史散策という意味合いが強かったように思う。故に、下山の狭い山道を歩いた2時間以外は“登山”の感覚が乏しい。

が、それはそれでよかったのは間違いない。と共に今回は、桜の終わった直後の、杉林の中に混じる総ての緑の新芽、どこことなく淡く萌葱(もえぎ)色のその様に、来るべき初夏を迎えての新緑、そして雨季に差しかかってのさらなる深緑を予感させられて、心奪われるものがあった。吉野の桜は、その季節・春のみにあるものではなかったのだ。

わけても、前記した白い花びらに黄と紫の瑞々しい草花の存在である。下山し切り、狭い山道から再び舗装路に出た所で、杉木立の中のその群生と最後に遭遇したのは、ある種感激であった。ここで、その名が分からないのはいかにも惜しい、ということで、我らの博識のエースYさんが、即席の“牧野富太郎“よろしく、〈ニホン・エーデルワイス〉と命名。居合わせた全員から支持を得た。

帰って、とりあえずその辺のところをパソコンで当たってみた。すると、日本にもエーデルワイスの仲間がいる、と。ウスユキソウ。北海道、東北、長野辺りを中心に分布しているらしい。

下にウスユキソウと付くのは同じだが生息地によって上の呼称が異なり、写真で見る表情にも若干の違いがある。そして吉野で見たものはそれらに酷似していたのであり、それのバリエーションであるとは言えそうだった。Yさんの命名は強ち的外れではなかったのである。

が、それにしても、正確な名前が知りたい。この際は、吉野の花は、桜のみに非ず、を刻み込んでおくためにである。

(シャープ)ブンゴウ

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京都の奥行・その2

2012年04月17日 11時37分00秒 | 日記
前回ブログの「都をどり」の日、午前中に降り出した雨が一時激しく降りしきる中、実は、これまた京都をよく知るOさんご夫婦の案内により、昼食に続く踊りの鑑賞を挟んでの前後の時間、市内ビューポイント数カ所を巡っている。

まず午前中は、〈皇室の菩提所として篤い信仰を集めている〉(パンフレット)泉涌寺と、藤原摂関家の造営による、京都最大の大伽藍とされる東福寺とを訪った。共に市中心部からは少しばかり離れた東山三十六峰の麓に位置している。2寺とも私は初めてだ。

最初の泉涌寺。皇室縁の寺ということから、頭に御寺(みてら)と付く。三十六峰中の月輪山という嶺の麓だけに、参道アプローチは深い森に包まれ、伽藍全体も鬱蒼とした緑に囲まれていた。

この日は、境内内、舎利殿(当寺では仏教で最重要とされる釈迦の口の周りの骨を安置しているという)の、12年に1度、辰年の1カ月間だけが特別ご開帳というタイミングに巡り合わせ、晴れて拝観という幸運と光栄に浴したのだった。もっともこれにしても、O夫人の綿密な計画に基づいてのものではあったのだが。付属する宝物館・心照殿では、真言、天台、禅、浄土の4宗兼学の寺(現在は真言密教)にふさわしい当寺に、豊富に遺された仏画と仏像を拝観している。

観光的には、この舎利殿の天井に描かれた龍の図(「蟠流図」狩野山雪作)の下で手を叩くと残響音(現在のコンサートホール等の基になっているとか)が起こり、それが龍の鳴く声にも似て、ということから名付けられた「鳴龍(なきりゅう)」が有名らしい。我々も、もれずに体験している。声というよりも、ぎーんといった鈍い金属音のような残響が、堂内の薄暗闇の中にある種神秘さをもたらしていた。

ついでながら、当寺の案内による龍についての薀蓄。〈龍は吉兆の代表。海や川・天候をあやつる神獣でもある。お釈迦様と縁が深く、誕生の時には釈迦を清浄な水で清め、悟りを開いた時には7日間、降雨から守った。その後、仏法の守護者として神になり、寺院の天井に多く描かれるようになった。鯉が川を逆昇り、竜門という激流を登りきると龍になるとの伝説があり、これを「登龍門」という。〉

続く東福寺。奈良の〈東〉大寺と興〈福〉寺から2字を採って命名したのだとか。案内に〈広大な境内に北谷・中谷・南谷の3つの渓谷を巧みに取り入れている〉と謳う、スケールの大きい庭園が自慢だ。殊に通天橋と言われる回廊からの眺めが素晴らしいとされ、その一番の見頃は秋。この日我々は、新芽をつけた樹木群にその紅葉をイメージしつつ、蛇のように連なる回廊を練り歩いたのであった。

「手入れだけでも大変だ」。庭というレベルからほど遠く、むしろ一山、幽谷の趣の強い、それでいて隅々にまで手入れの行き届いたその庭の風景に、同行のKさんがつと呟かれた。確かに、その保守、整備の丹念さぶりにはいかにも京都の寺院らしさが濃く滲み出ていたのである。

踊りが終わった3時過ぎ。愈々雨足が強まりつつあるところを、今度は歌舞練場から清水寺を目指している。石塀(いしべ)小路を抜け、二寧坂、三年坂を経て、清水寺へ。と言いたいところだが、我々夫婦とKさんご夫婦とは、三年坂までで雨のために挫折、喫茶店へ。その後、見事初志を貫いたOさんご夫婦を同所で待ち受け、合流して、元来た道(「ねねの道」)を高台寺を傍らに見るなどして辿り、八坂神社・円山公園は枝垂桜の下へと到達したのであった。

なお雨の降りそぼる折、それでも桜の前でめげずに記念撮影。その足で、本日の目玉の一つ、棒だらと海老いもの奏でるハーモニー、その秘伝の味を300年以上も積み上げてきた平野屋本店「いもぼう」での食事の席へと向かっている。時刻は、予定より1時間半も早い、夕方5時前。本来なら、今を盛りの枝垂桜の鑑賞にたっぷり時間をかけるところ、総て無情なる雨のせいだった。

ところで、これらの散策中、Oさんは「京都はどんどん変わっている」と幾度も言われていた。特に、「ねねの道」の途中、横道に逸れる形で、細い路地が曲がりくねって続いている石塀小路では、「前はこんなではかった、普通の小路だった」と。

今ここには、バーや小料理屋、はたまた宿などがいかにも古都の隠れ家然とした佇まいで存し、情趣の、これ以上ないロケーションを形成している。が、初めて歩く私にしてみると、それは以前からそういうものとして在ったもののように思われているのである。

が、これが、以前には見られなかったものだとしたなら―。そう言えば、例えば30年くらい前に散策して私の記憶の中にある高台寺周辺にしても、今回目にした「ねねの道」なるネーミングなど、なかったように思う。

確かに「京都は変わっている」のだ。それも、それまであった伝統的な景観を損なわず、むしろそこに溶け込むように、昔からそこにそうしてあったみたいに―。

だとすれば京都のこの変化は、伝統的素材を活かした(新伝統的)創作料理みたいなものなのか。そしてそれがまた京都の新たな魅力づくりにつながり、京都のプレゼンスを国際的にアピールする底上げともなっていく―激しい雨にも拘らず、三年坂に、円山公園に飛び交う、英語、韓国語、中国語等のバイリンガルがそれを証明しているようにも思われたものだった。

こうした京都の魅力は、「いもぼう」を出て、この日のO夫人の計画の最後、夜の帳(とばり)がどっぷり下り、依然小雨交じりではあったが、祇園の北エリアを流れる白川、その川端沿いに連なる、ソメイヨシノや枝垂桜、はたまた柳等々の夜桜見物に至って、有終の美を遂げる。ライトアップというこれまた新手の技法によって、それらが夜陰に怪しくも妖艶な姿を浮かび上がらせていたのだ。

そこに、かの吉井勇の歌碑―〈かにかくに 祇園はこひし 寐るときも 枕のしたを 水のながるる〉(明治43年作)。まさにライトアップは、この“正統なる祇園の伝統”を一層際立てるの図、そのものに思われてならなかった。

言ってしまえば、”奥行が深くて静謐で。伝統、気品があって、革新的なインテリジェンスにも溢れ‐‐、の、千年の古都、京都。”

碑の前で、朝からの一日をそう振り返り、そうした街に、私は何故か、かつてないほど、憧れではなくジェラシーを覚えていたのである。

(シャープ)ブンゴウ

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京都の奥行・その1

2012年04月14日 16時24分58秒 | 日記
11日、親しくさせて頂いているOさんご夫婦のお誘いで、京都祇園の「都をどり」を鑑賞してきた。我々夫婦と他にもう1組、Kさんご夫婦も一緒だった。

これまで話でしか聞いたことがなく、その限りにおいて、春の風物詩には違いないが、単なる芸妓・舞妓さんの踊りのショーだろう、程度の認識しか持ち合わせていなかった。けれど実際の舞台は、全くもってそんな考えを覆させられるものであった、を地で行った。

踊りの会場は祇園のど真ん中にある、祇園甲部歌舞練場。因みに祇園甲部(歌舞会)とは、八坂神社から四条河原町にかけての祇園新地一帯(新橋周辺+四条通南側を含む)にあるお茶屋さんの集合体をいうらしい。現在64軒、芸舞妓さん約100名が所属し、京都の5花街(他に、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東)の中では最も大きな花街という。

つまり「都をどり」はこの祇園甲部歌舞会が主催する年1回の催しなのだ。例年4月の1カ月間がその開演期間とされている。主催者によれば、〈京舞井上流の伝統に裏づけされた確かな伎芸が生み出す華麗な舞。衣装は毎年誂え、着物が京友禅、帯は西陣織の、それぞれ老舗が半年以上かけた逸品。なにもかもが一流で〉というのが、言ってみれば売りだ。明治5年に始まり、戦前戦後、昭和19年から24年までの6年間の休演を挟み、今年が140回目となる。

公演時間は1時間。毎回、演し物(歌題と称されている)が設定されており、今年は、過去においても何度か取り上げられてきたという『平家物語』の中から、今年のNHKの大河ドラマでもある平清盛に縁の舞台、8景。題して「平清盛由縁名所(たいらのきよもりゆかりのなどころ)」。

1カ月間、1日4回の公演で、この日、我々が鑑賞したのは、昼2時からの第2回目の舞台。1階から3階まで、椅子席、桟敷席、合計928席といわれる歌舞練場の、O夫人の尽力で取って頂いた1階のほぼ中央部に当たる、言わば最高の指定席(23列中12列目・茶券付特等鑑賞券4500円)に陣取った。ついでながら、会場内は3階までが満席という盛況ぶり。駐車場のナンバーに見かけた新潟や富山、山梨、兵庫、等々の優に10台は超える観光バスの群れから推測するところ、さらには、ひときわ目立つアングロサクソン系のグループの姿などを目にするにつけ、観衆の大方は観光客だったのかも知れない。

それは、芸妓達の〈ヨーイヤサー〉の掛け声と共に幕を開けた。一斉に照明が付くと華やかな演出の舞台が現れ、左右の両花道から、藍地と赤帯が目を引く衣装立て、日本髪にかんざしと顔から首にかけての白塗りが、初々しくも艶めかしい芸舞妓さん、各々20名ほどの登場だ。

やがて舞台中央に進み、プロローグの総踊り―。と、ここまでで既に、その絢爛さと優美さに息を呑み、“これはただものではないぞ”とばかり、前記した程度のイメージしかなかった私は、深いカルチャーショックを受けている。

そしてこのカルチャーショックは踊りだけではなかった。踊りを導く長唄・三味線(黒紋付きの着物姿・やや歳をいったお姐さん達?10数名)、片や笛、小鼓、大鼓、太鼓、それに「イヨーッ!」という合いの手を入れたりする、こちらはややあどけなさの残る芸妓さん風情10名足らずによる囃子が、共に格調高く聴かせるのである。

こうして清盛に因む8景が、しかも春夏秋冬の四季の変化を絡めて演じられていく。そして最後。総勢60名ともいわれる芸舞妓が登場し、一層鮮やかに、最早、豪華で華やかとしか言えないエピローグの総踊りでフィナーレを迎えるのであった。

この都をどりを、ひとことで言ってしまえば、絢爛さに加え、その鳴り物、及び踊りは完璧な様式美に貫かれていた、と、私の素人目には思われていた。それは予想を遥かに上回るものであったし、敢えて歌舞伎仕様の舞台演出と言ってもよく、即ち“女性版歌舞伎舞台”の様相が濃く感じられてならなかったのだ。

それにしても、繰り返すことになるが、そして表現は悪いが、“しょせん座敷芸か”“しょせん遊びの世界のイベントか”ぐらいにしか思っていなかったものが、かかる様式美にまで昇華させられていたとは―。いかにも京都の奥深さよ、と嘆じざるを得ない。

が、今日の歌舞伎の発生が河原乞食にあったことに改めて思いを馳せれば、都をどりに見る確かな文化的様式の確立も極めて自然な流れなのかも知れない。この辺がおそらく、やはり、京都の奥行とそして底力なのである。

(シャープ)ブンゴウ
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2012年04月09日 11時20分42秒 | 日記
〈年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず(毎年同じように花は咲くけれど、人はいつまでもこの世にいるわけではない)〉を実感した、先日、土曜日(7日)の花見ではあった。

場所は大阪毛馬。主催は前回のブログにも登場してもらったY氏。「3人で始めた花見が今年11回(年)目、15人以上も集まるイベントに成長した」とY氏はいささか感慨深げだった。

今年は例年になく寒さが長びき、「開花が遅くなるのでは」とその彼をやきもきさせたようだったが、結果的に6、7分咲きで、これまでに比して何ら遜色のない花見になったように思う。数年前から参加せてもらっているが、今年は女房と一緒に参加させてもらった。そして、冒頭の漢詩が一際胸に沁みたのは、この公園一帯の桜の見事さが今年も相変わらず健在、絢爛に咲き誇っているのを見たのと、やはり、昨年末から今年にかけて、義父母の死に見舞われていたからに他ならない。

すっかり忘れてしまっていたが、この漢詩の続きにはかくある。〈言を寄す全盛の紅顔の子 応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁(はくとうおう)〉。―若く美しい君達に言っておく。哀れにも人はすぐに年老い、黒い髪もすぐに白くなってしまう。―

今読み返してみると、これも蓋し実感である。唐代の詩人、劉希夷(りゅうきい)の作「白頭を悲しむ翁に代わりて」と題する詩の1節だ。

ところで、一昨年秋、我が家の庭に植えた小ぶりの桜も昨日開花した。女房が定年の記念にと植えたものだったが、昨年の春から健気にも咲き出している。思いついて昨年撮っていたその開花状況の写真を見ると、ちょうど時期的に今年と同じ。やや遅れ気味かと思っていたが必ずしもそうではなかった。ただし、日々の散歩コースに見る奈良の桜は、昨日段階で、まだ2、3分咲きといったところ。大阪から較べると1週間ぐらいは遅れているような気がしてならない。

そんなことに気を掛けていると、昨日の朝日新聞で、白幡洋三郎(国際日本文化センター教授)さんの次のような文章を目にした(読書欄)。

〈桜とくれば「花見」である。花の鑑賞は世界中で行われ、植物としての桜は北半球に広く分布している。ところがサクラが咲いたからといって飲食を携え、大勢で出かける花見の文化は日本にしかない。ヒマラヤにもヨーロッパにもサクラはあるのに、そして誰もが花好きなのに。これはどうしたことだ。私の長年の疑問である。中尾佐助『花と木の文化史』はこの問いに一部答える見解を出している。「西洋文化の花の美学はだいたい本能的美意識」による。日本では、加えて「学習による文化的美学」がはたらくからだ、と。日本人の心を揺さぶる桜、花見は世界を視野に入れて語られるべきものだ。〉

これまた昨日のテレビ報道によると、今年の桜前線は愈々東北地方にも這い上がり、今月中旬から下旬にかけてが見頃になるだろうという。昨年自粛した花見が、今年、復興祈念や支援の意味合いを併せ、いろんな仕組みのもとに関東までは今がたけなわといった風情でもある。

差し当たり、日本独特の文化的美学の奥行が、華やかさと共にまだまだ進化し続ける図とも言え、この時期、しばし浮かれるのも決して悪くない。私にしても、どうやら今年は、あと1回か2回、続きがありそうな予感がし、胸が膨らむ思いでいる。

(シャープ)ブンゴウ
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