24日の早朝、5泊7日のネパール行から戻り、4日が経つ現在でも、かの国の、猥雑で混沌とした表情と、翻って、清澄で透明感にみちた風景とが交互に現われ出ては、容易にその残像、余韻は消えようとはしない。
猥雑で混沌としていたのは首都・カトマンズ。かつ、ここは、寺院を中心とした幾つかの世界遺産もあるという古都、宗教都市でもあった。かつて私の学生時代は、ヒッピーのメッカとしても名声を馳せ、事実、友人の中にもここを訪れていた人間が2~3人はいたのだったが、そういうところからも、かねてより注目していたのは確かだった。
彼らが訪れたのは70年代前半だったから、かれこれ40年前になろうとしている。が、今回私が見たカトマンズは、おそらく40年間という時はなかっただろうぐらいに、原初的だった。つまり、古いレンガ造りの住居と、これまた2階建てぐらいの低層の店舗がひしめいて出来上がっている街の中の至る所に、ヒンズー教に絡む寺院や施設が見え隠れし、依然として貧しそうな人の群れが、昼間から何をすることもなくあちこちにたむろしている姿は、きっと40年前と変わってないはずだった。
変わったのは、自動車とバイクが増えたこと、辺りになるのだろうか。とりわけバイクの多さは目を見張るばかりで、つとにカトマンズ市内の道路の渋滞は名物らしいのだが、その主たる要因の中心にはこのバイクの存在が確かにある。
舗装もされていない砂埃の立つ道路には、まず古ぼけたバスや車が、信号など全く無意味状態に次から次へと突っ込んできては途切れず(SUZUKIとフロントグラスに大書した軽自動車をしばし目にしたが、当地ではこれがステータスらしい。タクシー車に多かった)、その間を縫うように、件の、無数のバイクがこれまた無秩序に闖入し、そしてそれに負けないくらいの、人口270万人という市内の人の群れ(因みに、日本の北海道と四国、九州を合わせた面積といわれるネパール全土では約3000万人)が、さしずめあり地獄のありのごとくに群がり、道路を横断する(この横断も、実は、車は簡単に止まってくれないから決死の覚悟を必要とする)。これでは、渋滞が起きない方が変というものだろう。
だが、この騒々しさも40年の時間性を超えることはできない。そうした通行の合間にも、ヒンズー教で聖なる存在と言われる牛が市内のあらゆるところに出没し、路端では野良犬が街の喧騒をよそに、死んだように惰眠を貪っている。そして物乞いの子供や、旅行客にしつこくつきまとって手作りの金属雑貨のみやげ品を売りつけようとする男や女がいるし、何よりも前記したような、当て所(ど)なくただ虚ろな表情をして座り込んでいる人々の姿が至るところに目に付くのであって、これはきっと40年前の風景そのものであるはずだ。
だから、そういう中に、世界遺産の寺院とは別に、その簡易版としての宗教関係の建物や施設が混在するというのは何とも奇異で(これを称して“住宅と同じ寺院があり、人口と同じ神々の住む国”とも)、しかしそんな街にあるからこそある意味、人と神の共生する厳粛なる光景にも見えてきて、私の感じた原初的とは、そういうことを意味してのことだったのだ。
方や、清澄で透明感にみちた風景。とりもなおさず、かの8000m級、世界最高峰の山々が連なるヒマラヤ連峰のことだ。
カトマンズからバスで1時間半ぐらいの所にある高地、ナガルコット(標高2000m強)から、さらに明くる日、カトマンズから飛行機で30分ほどの、トレッキングなどでの自然が売りのリゾート地、ポカラにあるサランコットの丘から、ともに朝5時半には起床し、続けて2日間、来光を仰ぐヒマラヤの山々を見たのだったが、朝陽の赤が加わるに従って徐々に映えてくるそれら山々の頂の冠雪の白さには‐‐‐、これはもう神々しくさえあって、まさに感動もの。
誰もが、自然に涙を誘われても、無条件に受け入れられるものであったろう。
最後の仕上げは、ネパール5日目、1時間弱に及ぶ、ヒマラヤ遊覧飛行。地上から見上げるだけだったかの連峰が、飛行機の窓外に間近に鎮座している。16人乗りの飛行機、その乗客1人、1人に、交代で操縦室(コックピット)にも入れてくれて展望させてもくれる。そんなこんなで、文字通り、清澄な自然美に圧倒され、あっと言う間の1時間。これで2万円は決して高くない。
降りた時に渡された搭乗記念証明書には、“I did not climb Mt Everest…but touched it with my heart!”と記されてあった。実感ではあった。
いずれにせよ、このネパール行は、私の中でさらに咀嚼され、やがて活字化されるはずである。紀行文になるのか、フィクションのなかに組み込まれていくのか、それは今の時点では分からないにせよ、である。
ただ言えることは、どういう形を採るにしても、もう1度、機会があれば是非行ってみたいという強い願いのもと、神々と共生する、人間としての、貧しくとも誇り高きカトマンズ気質が基調に据えられることになるのは間違いない。
河口慧海の気配は、日本語の解説付きで、人物レリーフが、カトマンズ市内、チベット難民が多く住むという、“リトル・チベット”といわれる地区の中にある中心寺院、ボウダナート寺院の、通りを隔てて建つ寺院の入り口付近に据えられているのを見たことで、感じ取ることができた。
(シャープ)ブンゴウ
猥雑で混沌としていたのは首都・カトマンズ。かつ、ここは、寺院を中心とした幾つかの世界遺産もあるという古都、宗教都市でもあった。かつて私の学生時代は、ヒッピーのメッカとしても名声を馳せ、事実、友人の中にもここを訪れていた人間が2~3人はいたのだったが、そういうところからも、かねてより注目していたのは確かだった。
彼らが訪れたのは70年代前半だったから、かれこれ40年前になろうとしている。が、今回私が見たカトマンズは、おそらく40年間という時はなかっただろうぐらいに、原初的だった。つまり、古いレンガ造りの住居と、これまた2階建てぐらいの低層の店舗がひしめいて出来上がっている街の中の至る所に、ヒンズー教に絡む寺院や施設が見え隠れし、依然として貧しそうな人の群れが、昼間から何をすることもなくあちこちにたむろしている姿は、きっと40年前と変わってないはずだった。
変わったのは、自動車とバイクが増えたこと、辺りになるのだろうか。とりわけバイクの多さは目を見張るばかりで、つとにカトマンズ市内の道路の渋滞は名物らしいのだが、その主たる要因の中心にはこのバイクの存在が確かにある。
舗装もされていない砂埃の立つ道路には、まず古ぼけたバスや車が、信号など全く無意味状態に次から次へと突っ込んできては途切れず(SUZUKIとフロントグラスに大書した軽自動車をしばし目にしたが、当地ではこれがステータスらしい。タクシー車に多かった)、その間を縫うように、件の、無数のバイクがこれまた無秩序に闖入し、そしてそれに負けないくらいの、人口270万人という市内の人の群れ(因みに、日本の北海道と四国、九州を合わせた面積といわれるネパール全土では約3000万人)が、さしずめあり地獄のありのごとくに群がり、道路を横断する(この横断も、実は、車は簡単に止まってくれないから決死の覚悟を必要とする)。これでは、渋滞が起きない方が変というものだろう。
だが、この騒々しさも40年の時間性を超えることはできない。そうした通行の合間にも、ヒンズー教で聖なる存在と言われる牛が市内のあらゆるところに出没し、路端では野良犬が街の喧騒をよそに、死んだように惰眠を貪っている。そして物乞いの子供や、旅行客にしつこくつきまとって手作りの金属雑貨のみやげ品を売りつけようとする男や女がいるし、何よりも前記したような、当て所(ど)なくただ虚ろな表情をして座り込んでいる人々の姿が至るところに目に付くのであって、これはきっと40年前の風景そのものであるはずだ。
だから、そういう中に、世界遺産の寺院とは別に、その簡易版としての宗教関係の建物や施設が混在するというのは何とも奇異で(これを称して“住宅と同じ寺院があり、人口と同じ神々の住む国”とも)、しかしそんな街にあるからこそある意味、人と神の共生する厳粛なる光景にも見えてきて、私の感じた原初的とは、そういうことを意味してのことだったのだ。
方や、清澄で透明感にみちた風景。とりもなおさず、かの8000m級、世界最高峰の山々が連なるヒマラヤ連峰のことだ。
カトマンズからバスで1時間半ぐらいの所にある高地、ナガルコット(標高2000m強)から、さらに明くる日、カトマンズから飛行機で30分ほどの、トレッキングなどでの自然が売りのリゾート地、ポカラにあるサランコットの丘から、ともに朝5時半には起床し、続けて2日間、来光を仰ぐヒマラヤの山々を見たのだったが、朝陽の赤が加わるに従って徐々に映えてくるそれら山々の頂の冠雪の白さには‐‐‐、これはもう神々しくさえあって、まさに感動もの。
誰もが、自然に涙を誘われても、無条件に受け入れられるものであったろう。
最後の仕上げは、ネパール5日目、1時間弱に及ぶ、ヒマラヤ遊覧飛行。地上から見上げるだけだったかの連峰が、飛行機の窓外に間近に鎮座している。16人乗りの飛行機、その乗客1人、1人に、交代で操縦室(コックピット)にも入れてくれて展望させてもくれる。そんなこんなで、文字通り、清澄な自然美に圧倒され、あっと言う間の1時間。これで2万円は決して高くない。
降りた時に渡された搭乗記念証明書には、“I did not climb Mt Everest…but touched it with my heart!”と記されてあった。実感ではあった。
いずれにせよ、このネパール行は、私の中でさらに咀嚼され、やがて活字化されるはずである。紀行文になるのか、フィクションのなかに組み込まれていくのか、それは今の時点では分からないにせよ、である。
ただ言えることは、どういう形を採るにしても、もう1度、機会があれば是非行ってみたいという強い願いのもと、神々と共生する、人間としての、貧しくとも誇り高きカトマンズ気質が基調に据えられることになるのは間違いない。
河口慧海の気配は、日本語の解説付きで、人物レリーフが、カトマンズ市内、チベット難民が多く住むという、“リトル・チベット”といわれる地区の中にある中心寺院、ボウダナート寺院の、通りを隔てて建つ寺院の入り口付近に据えられているのを見たことで、感じ取ることができた。
(シャープ)ブンゴウ