ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

ネパールから戻って

2010年01月28日 16時31分36秒 | 日記
24日の早朝、5泊7日のネパール行から戻り、4日が経つ現在でも、かの国の、猥雑で混沌とした表情と、翻って、清澄で透明感にみちた風景とが交互に現われ出ては、容易にその残像、余韻は消えようとはしない。

猥雑で混沌としていたのは首都・カトマンズ。かつ、ここは、寺院を中心とした幾つかの世界遺産もあるという古都、宗教都市でもあった。かつて私の学生時代は、ヒッピーのメッカとしても名声を馳せ、事実、友人の中にもここを訪れていた人間が2~3人はいたのだったが、そういうところからも、かねてより注目していたのは確かだった。

彼らが訪れたのは70年代前半だったから、かれこれ40年前になろうとしている。が、今回私が見たカトマンズは、おそらく40年間という時はなかっただろうぐらいに、原初的だった。つまり、古いレンガ造りの住居と、これまた2階建てぐらいの低層の店舗がひしめいて出来上がっている街の中の至る所に、ヒンズー教に絡む寺院や施設が見え隠れし、依然として貧しそうな人の群れが、昼間から何をすることもなくあちこちにたむろしている姿は、きっと40年前と変わってないはずだった。

変わったのは、自動車とバイクが増えたこと、辺りになるのだろうか。とりわけバイクの多さは目を見張るばかりで、つとにカトマンズ市内の道路の渋滞は名物らしいのだが、その主たる要因の中心にはこのバイクの存在が確かにある。

舗装もされていない砂埃の立つ道路には、まず古ぼけたバスや車が、信号など全く無意味状態に次から次へと突っ込んできては途切れず(SUZUKIとフロントグラスに大書した軽自動車をしばし目にしたが、当地ではこれがステータスらしい。タクシー車に多かった)、その間を縫うように、件の、無数のバイクがこれまた無秩序に闖入し、そしてそれに負けないくらいの、人口270万人という市内の人の群れ(因みに、日本の北海道と四国、九州を合わせた面積といわれるネパール全土では約3000万人)が、さしずめあり地獄のありのごとくに群がり、道路を横断する(この横断も、実は、車は簡単に止まってくれないから決死の覚悟を必要とする)。これでは、渋滞が起きない方が変というものだろう。

だが、この騒々しさも40年の時間性を超えることはできない。そうした通行の合間にも、ヒンズー教で聖なる存在と言われる牛が市内のあらゆるところに出没し、路端では野良犬が街の喧騒をよそに、死んだように惰眠を貪っている。そして物乞いの子供や、旅行客にしつこくつきまとって手作りの金属雑貨のみやげ品を売りつけようとする男や女がいるし、何よりも前記したような、当て所(ど)なくただ虚ろな表情をして座り込んでいる人々の姿が至るところに目に付くのであって、これはきっと40年前の風景そのものであるはずだ。

だから、そういう中に、世界遺産の寺院とは別に、その簡易版としての宗教関係の建物や施設が混在するというのは何とも奇異で(これを称して“住宅と同じ寺院があり、人口と同じ神々の住む国”とも)、しかしそんな街にあるからこそある意味、人と神の共生する厳粛なる光景にも見えてきて、私の感じた原初的とは、そういうことを意味してのことだったのだ。

方や、清澄で透明感にみちた風景。とりもなおさず、かの8000m級、世界最高峰の山々が連なるヒマラヤ連峰のことだ。

カトマンズからバスで1時間半ぐらいの所にある高地、ナガルコット(標高2000m強)から、さらに明くる日、カトマンズから飛行機で30分ほどの、トレッキングなどでの自然が売りのリゾート地、ポカラにあるサランコットの丘から、ともに朝5時半には起床し、続けて2日間、来光を仰ぐヒマラヤの山々を見たのだったが、朝陽の赤が加わるに従って徐々に映えてくるそれら山々の頂の冠雪の白さには‐‐‐、これはもう神々しくさえあって、まさに感動もの。

誰もが、自然に涙を誘われても、無条件に受け入れられるものであったろう。

最後の仕上げは、ネパール5日目、1時間弱に及ぶ、ヒマラヤ遊覧飛行。地上から見上げるだけだったかの連峰が、飛行機の窓外に間近に鎮座している。16人乗りの飛行機、その乗客1人、1人に、交代で操縦室(コックピット)にも入れてくれて展望させてもくれる。そんなこんなで、文字通り、清澄な自然美に圧倒され、あっと言う間の1時間。これで2万円は決して高くない。

降りた時に渡された搭乗記念証明書には、“I did not climb Mt Everest…but touched it with my heart!”と記されてあった。実感ではあった。

いずれにせよ、このネパール行は、私の中でさらに咀嚼され、やがて活字化されるはずである。紀行文になるのか、フィクションのなかに組み込まれていくのか、それは今の時点では分からないにせよ、である。

ただ言えることは、どういう形を採るにしても、もう1度、機会があれば是非行ってみたいという強い願いのもと、神々と共生する、人間としての、貧しくとも誇り高きカトマンズ気質が基調に据えられることになるのは間違いない。

河口慧海の気配は、日本語の解説付きで、人物レリーフが、カトマンズ市内、チベット難民が多く住むという、“リトル・チベット”といわれる地区の中にある中心寺院、ボウダナート寺院の、通りを隔てて建つ寺院の入り口付近に据えられているのを見たことで、感じ取ることができた。

(シャープ)ブンゴウ

明日からネパールに

2010年01月16日 17時03分48秒 | 日記
明日夜から1週間、ネパール行きとなる。無論、観光ではあるが、これからの、書くために触発されるような何かとの出逢いがあればいいな、といった期待感も密かに持っている。

何故ネパールか、と言われてもはっきり答えることが出来ないけれど、誘ってくれる人間がいて、“ああ、そういう所もいいかもしれないな”と思ったことがきっかけになったことだけは確かである。

“そういう所”とは、つまりそういう所。ヒンズー教の国であり、多民族国家。そしてヒマラヤ山脈が聳え、シェルパなんかがいる国。

同国については、たかだか、その程度のイメージでしかなかった。しかしそこに、何となくそそられるものがあったのだ。そこで、さらに改めて関係本などを見ると、釈迦生誕の地(今回は行けそうにないが)であり、ヒンズー教と仏教の混濁・坩堝の地、人口が約3000万、住宅と同じ数の寺院があり、人口と同じ数の神々の住む国、そして、6094m以上の高峰が240あるからして、アジアのアフリカ、東洋のスイスと謳われる国、などなど、等々のオンリーワン的言われ方をされていることを新たに知った。中には、それはいくら何でも、といったようなことも無くはないが、でも、現代の世界の“ふるさと”的様相が濃厚に残されていることは間違いなさそうで、それが楽しみでもある。

たかだか1週間で、何を見、どういうものに触れられるのかは全く覚束ないけれど、とりあえずは、チベット語仏教経典を入手すべくインドに渡り、その後ネパールからチベットにヒマラヤ越えした、かの河口慧海ほどの気概はないものの、その何万分の1かくらいの気合いはもって、行って来ることにしたい。

(シャープ)ブンゴウ

年賀状

2010年01月10日 17時48分20秒 | 日記
随分以前から、虚礼廃止とかの意味合いを込めて、年賀状廃止論を支持する人が幅を利かせる時期があったように思う。事実、それによって年賀状の売れ方が減少傾向を辿ったこともあったようだったが、郵政事業が民間になってからのサービステコ入れもあってか、ここ1、2年は復活基調にあるという。平成20年度は約35億枚強が販売されたそうだ。

確かに私など、年末のその時期になると、これを“書かなければ”と億劫な気持ちになり、何となく重荷に感じてしまう方だ。もっとも、こんな私とは真逆に、“今年はどんな図柄にしよう?”とばかり、そのデザインを考えるのが好きだという御仁が、おそらく確実にいることも間違いのないところ。現に、そんな人の作った葉書を受け取って唸るほどの感動を誘われるのに、毎年、必ず2~3通は出会う。“かくも入念に魂を込めるものなのか”といった思いと共に。とりわけPCの普及により、図柄・構成が多様性を極めるようになってからは、加えて奇想天外な発想に基づくビジュアルも増えたように思う。

この賀状を書くのは、私の場合は、大体、晦日の30日にまとめてする。あくまでも渋々といった感じで、それでも以前は、自分の近況を書けるスペースを多く取るような葉書レイアウトにし、実際書き込んでいたものだった。が、ここ数年は書くこと自体の手間を省くべく、とりあえず宛名書きさえすれば済むような構成とし、しかも印刷屋の用意する既成のビジュアルを使用するようにしてしまっている。そうして、出来るだけ事務的に処理してしまおうとする。

けれど、一旦、前回寄せてくれた賀状を引っ張り出してきて、そこに書かれた一人ずつの内容を読み、それぞれの人となりに想いを馳せるにつけて、“これは、せめて何かひとことでも書かねば”と思い直し、とりあえず、1人、2人と、こちらの近況の2~3行を書き始めるのがここ数年の習慣になっているのが事実なのである。

そしてもう一つ事実なのは、するとこれに意外と興が乗ってきて、短文のうちにでも、“今年はこのキーワードで近況を報告しよう”と、書く方向が定まってくるのである。それは例えば、3年前なら“還暦”だったし、今年は“まだまだ頑張る”だった。これを、今では殆ど会うことのなくなった友人や知人、恩師、はたまたかつての職場の同僚や上司、等々に、それぞれ受け手の環境の相違を勘案して若干のアレンジを加え、盛り込んでいくわけである。

もっとも現在的に頻繁に会ったり、仕事上の付き合いがあったり、何事かを一緒にやったりしている相手には、何の書き込みもせずに出す。極端な場合、出すこと自体を見合わせる。そうしても、別にさしたる感情の、あるいは人間関係の齟齬をきたすものではないとの(お互いの)了解がある(はずだ)からだ。

こうしてみると、きっぱりと“自分は出さない”方針を貫いている人もいるようだが、年賀状も悪くないと思う。とりわけ、そのように過去においては少なからず関係の深かった人を、最低年1回ペンを執ることで、その時の自分の状況をも併せて思い起こさせてくれるからに他ならない。そうして自分の現在のアイデンティティに至る経緯を年1回でも確認し、それを明日へのよすがにすることも出来る。

さて今年、私に届いた賀状の文面で多く目にしたのは“ご無沙汰”と“元気?”。中には“今、何してる?”“定年後非常勤講師をやってるがそろそろ潮時かもしれない”と問いかけたり、心境を綴ったりしてきた学生時代の友人のものや、“これからの人生を有効に送っていきたい”と新境地を述べてきた小中時代の友達のものもあった。

“彼らの賀状に託す想いもまた、私と共通なのかもしれない”。それらの行間に滲む文言に、私はそう感じ取った。

(シャープ)ブンゴウ

初夢

2010年01月05日 11時27分26秒 | 日記
「降りるよ。」
少し離れた所に座っていた熟練の編集者(仮にAさんと呼ぼう)が、私の座席の近くまで寄って来てそう声をかけると、降車口の方に向かって通路を歩いて行った。
「はい」。資料を広げ、下準備をしていた私は答えながら、それをバッグの中に仕舞おうとする。
ここは特急電車の中だ。とある重要な取材があって、私は担当のAさんとその取材先に向かうためにその電車に乗ったのだった。
 思いのほか、資料を仕舞い込むのに手間取った。けれど、“ここは最終の駅だからそんなに急ぐ必要もないだろう”。そう考えて必要以上に慌てることもなく、なおじっくりと事を進めていた。
が、突然特急が動き出した。不意を食らって思わず窓外に目をやると、ホームで中を覗うようにして立っているAさんの姿が目に飛び込んできた。
“しまった!この駅止まりというのは自分の勘違いだったのか!”
 そう思った時にはもう遅かった。特急はかなりのスピードを上げていたのである。
“次の駅で降りて引き返せばいいだろう”。ひと呼吸置いて、私は思った。取材の予定時間までにはまだ大分余裕があったからだ。
 とりあえず資料を仕舞い終えた私は、やおら携帯を取り出し、その旨をAさんに伝えようとした。だが、いつものようにメニューボタンを押すのだが、そこに現われるはずの、呼び出す相手の番号を蓄積している画面が出てこない。それどころか、これまで見たこともないような画面になっている。
“押し間違えたのだろうか?いや、そんなはずはない”と思いながら、再度そのメニューボタンを押す。が、出てきたのは、前のとは別の画面、それもまた同様に、これまで見たこともないような表示画面なのだ。
 次第に焦ってきた私は、同時に、次に降りる駅のことについても注意を払わなければならなかった。“今度こそ、乗り過ごす失敗は許されない”。そんな思いからである。だが、電車はなかなか次の駅に着く気配がない。“そうか、各駅停車とは違い、これは特急だったんだ、そうそう停車駅があるはずがない”。改めて合点せざるを得なかった。
 そして方や問題の携帯である。すでに10回近くも押し直しているのだが、出てくる画面は何らこちらの要求とは関係のない、しかもその都度、初めて見るビジュアルの繰り返しなのだ。
 そのように携帯と格闘しているうちに、やっと特急は駅に停車した。
下車して、時計を見ると、今からでも引き返せば何とか取材には間に合う時間帯だ。そう思った途端、私を待って苛立つAさんの顔が浮かんできた。
けれど、反対方向に向かう電車は、少しも来る気配がない。すると、ここがそんなに電車本数の多くないローカルの路線であることに今さらのごとくに気付くのである。
“だとすれば、別の私鉄を乗り換えて行った方が早く着くかもしれない”。そう思い付いた私は、今いるJRの駅からさほど離れてないその駅の方に向かって足を速めたのだった。
 私鉄の駅に着いた。頭の中では、乗り継ぐ駅と目的地にまで要する大体の時間が計算されていて、取材にはぎりぎり間に合うはずだった。が、その前提となる乗り換え駅に行くまでにはどの電車に乗ればいいのか。駅には、次々と電車が入ってきては、人を降ろし、乗せ、また走り去って行く。でも私には、そのうちのどの電車に乗ればいいのかが分からないのだ。
 取材が始まっているだろう2時が遂にきてしまった。突然、携帯が鳴った。知り合いのライター(仮にBと呼ぼう)からだ。
「今、どこにいる?Aさんが怒って、こちらに電話をかけてきたぞ!とりあえずすぐにAさんに連絡を入れてくれ」。Bはそう叫ぶように言うと携帯を切った。
“携帯がおかしくなったと思ったけど、先方からかけてくる分には通じるんだ”。そう思いつつ、とりあえずAさんからの着信がなかったかを確認すべくメニューボタンを押すと、これは正常に作動して、送信者と送信時間の一覧がすぐに現われ出た。
“ええっ!Aさんからは10回以上も着信がある!”。
 時計を見ると既に2時を大分過ぎている。再び、でも今度は1人で奮闘しているAさんの姿が思い浮かんできたし、同時に、私に対して怒りが頂点に達しているのだろうとも想像した。
“随分といらいらしているのに違いない。何と言い訳をしよう”。追い込まれた気分になり、切羽詰ったようにあれこれ考えあぐねている、
‐‐ところで目が覚めた。

昨年末のブログに、初夢の言葉を使った。長年の習慣で、それが1月2日にみる夢のことだと思い込んでいたが、気になって改めて調べてみると、ある解釈では、“一般的にはそうだが、少し枠を広げて、1月1日から3日の間にその年に初めてみる夢のことを指してもいい”とあった。

とすれば、前記の文章は元旦の夜にみた夢のあらすじなのだけれども、つまりはこれが私にとっての今年の初夢であって、何ともリアルなものとなった。

おそらく初夢というのは縁起物だし、心地よいものであってしかるべきだろう。その限りにおいて、それを象徴するものとして、古来、「一富士、二鷹、三なすび」が上げられてきている。ただ、これが何故縁起物?と思わなくもないが、一説に、“富士=無事、鷹=高く、なすび=事を成す”という意味であると聞けば、むべなるかな、ではある。

それにつけても、私の今年の初夢。その種、明るく希望に満ちた内容に反して、いかにもちまちまとして世知辛い、既に夢とは言えないほどの厳しい現実そのものが描かれていたのではなかったか。この事実を前に、またぞろ年齢との絡みで考えざるを得なくなるのだが、加齢と共に、肉体同様、どうやらみる夢の幅は狭く凋み、みすぼらしいものになっていくのも、摂理らしい。

(シャープ)ブンゴウ

初詣で

2010年01月02日 18時48分07秒 | 日記
新しい年がやってきた。

今年の元旦は全国的に天候が荒れ模様。東北、北陸など、豪雪に見舞われる地域があったかと思えば、私の奈良地方は朝方から強い風。女房に言わせれば、今冬一番の冷え込みとかで、その限りにおいては正月らしくはあった。

その元日、昼からは、歩いて20分ほどのところにある神社(添御縣坐神社―そうのみあがたにいます神社)に、毎年の通り、女房と一緒に初詣を敢行した。ところが、そこで例年見られなかった現象が一つ。

本殿参拝のために30分ほどの待ち行列ができていたのである。

当神社は「寺院神社大事典」(平凡社)にも記載されているらしい、建速須佐之男命(たけはやすさのうのみこと)、武乳速之命(たけちはやのみこと)、櫛稻田姫之命(くしいなだひめのみこと)の3神を祭神とする延喜式内社(式内社というのは、延喜式がまとめられた10世紀初頭に、朝廷から官社として認識されていた神社とのことだと)ということからして、かなり由緒正しき古社のようなのだが、国道から逸れ、一帯に広がる田畑の中にある一本道を少し入り、徐々に高台になっていくその適当な頃合の所に、こんもりとした森に覆われるようにして位置しているのであって、その風貌は古く(唯一本殿が国の重要文化財)、規模的にも決して大きくはない、ただ、さほど多くはないと伝え聞く土地の氏子達によって守られてきたのは確かで、言わば、その古さと格式、地域崇敬を得てきたことだけが取り柄のような、何の変哲もない寺に私には思われていた。そこに、私の通って30数年来、初めて目にした参拝待ちの行列だったのである。

これには、私と女房で2つの見解が成立した。女房「朝方の風がやむのを待って、みなさん、昼から出かけてきたからこんな混雑になったんだわ」。私「この不景気で、付近の住民が遠距離の寺社を避け、近くのこの神社で初詣を済まそうとしたのに違いない」と。ま、その辺の正否はさておき、いずれにせよこの行列、初春の異変、珍事であったことは間違いなかった。

あるいはまた、そうした行列が出来たことで、例年よりご利益感、有難味が増したようにも感じられた当神社・本殿の前で、さて私は今年、どのような願掛けをしたのだったか。

この際、それは言わぬが花、というものだろう。ただ、その想いを繰り返し確認し、例年以上に手を合わせている時間が長かったのは事実だったような気がする。

そのようなことで、みなさん、明けましておめでとうございます。本年も、このブログ、よろしくお願いします。

(シャープ)ブンゴウ