語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『ジョニーは戦争へ行った』

2010年03月19日 | 小説・戯曲
 トランボは、赤狩りに抵抗してしぶとく生き抜いた脚本家である。
 本書は、反戦文学の傑作である。映画化作品も秀作だ。
 時は第一次世界大戦中。米国が参戦し、青年ジョニーも応召した。戦火の中にたおれ、気づいた時には、目は見えず、耳は聞こえない、両手両足はない、顎もなく、舌もなく、鼻さえもない、という肉塊と化していた。しかし、意識は明瞭であった。
 映画では、たえずフラッシュ・バックのように過去へ遡り、あまりにも短いが甘味な女友だちとの交際や、家族たちが想起される。回想はカラー、現実は白黒で区別して表現される。回想のみずみずしさと、凄まじい現実の対比が際だつ。
 振動感と皮膚への触覚しか残っていないが、そのわずかに許された感覚を通じて様々な想像をめぐらす。看護婦あるいは医者の動向、ネズミに対する恐怖。もとより周囲の人々は意識のない植物人間と見なしていたわけだが、こうした状態でも可能なコミュニケーション手段に想到し、「人間」であることを証明する。首を前後左右に動かすことで、モールス信号を送ったのだ。単なる「物体」と目していた周囲の人々の驚愕はいかほどばかりか。意識がないものと勘違いして医学用患者として生存させていた医師は、強い自責の念にかられる(ジョニーの一人称で語られる小説では明瞭ではないが、映画ではまざまざと示されている)。小説ではこうした状態が今後も無限に続くかのようだが、映画ではジョニーの希望による安楽死で終わる。
 本書は、戦さがもたらす悲惨さを徹底して描きつくした。ために、米国で発禁の浮き目にあった。そして、後にヴェトナム戦争反対運動のバイブルとなった。
 しかし、本書に悲惨さのみを見て取るのは誤りだと思う。身体がいかなる状況に陥っても、意識を有するかぎり自己決定は可能な点を示すから、今日では別の読み方もできる。

□ジョン・トランボ(信太英男訳)『ジョニーは戦争へ行った』(角川文庫、1971、原作は1939年刊)
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