『ほのぼのマイタウン』気まま通信

『ほのぼのマイタウン』のブログ版~見たこと、聞いたこと、伝えたいことを自由に気ままに綴ります。

昭和の家族写真によせて(7)

2017-01-22 00:40:15 | 身辺雑記

  唯一の姉の写真

     

     これは私の母が姉を抱いている写真です。

     私が持っているただ1枚の姉の写真。
     私が生まれる前に亡くなりました。

     当時のことを佐世保に住む叔母が次のように書いています。
     新聞のはがき随筆に投稿し掲載された文章の一部です。

     「黄色い野の花に包まれた姪の小さな棺にじっと見入っている役場の男性2人。
      まるで映画の一場面のように強烈にフラッシュバックする。その側で泣き崩れていた
      姉、母たちの姿はなぜか紗のかかったようなうっすらとした記憶のみだ。
      戦後1カ月、疎開先の農村も騒然としていた。点在する農家に身を寄せていた
      疎開者たちの間にある日忽然と赤痢が発生し、無医村状態の村落に野火のように拡がった。
      そして、病魔は幼い者たちを襲ったのだった。」

     叔母の文章で初めて知った当時の模様。
     その後叔母に会った時「あなたのお母さんはあの時、どうかなるんじゃないかと思うほど
     憔悴しきっていた」と言われました。

     遠い記憶をひも解くと「姉がいて疎開先で赤痢で亡くなった」ことは知っていましたが、
     父も母もそれ以上のことは何も語りませんでした。

     父が出征中のことで、父は可愛いわが子の顔を一度も見ることがなかったのです。
     母の無念さ、悲しさはいかばかりだったか、このことは両親の深い傷となって
     触れたくないことだったのでしょう。

     現在のNHK朝ドラ「べっぴんさん」でも夫が出征中に生まれた子に初めて会う、
     感動的なシーンがありましたが、事実はドラマよりも切なかったのです。
     両親に重ねながら見ていました。

     「あなたに似ていなくて、色白でふっくらとした赤ちゃんらしい可愛い子だった」と
     叔母たちからからかわれ、子ども時代はむくれた(?)ものです。

     祖母にとっては初孫、叔母や叔父たちにとっても最初の姪で、
     姉はどんなに可愛がられたことか想像がつきます。

     2歳前に亡くなったと思いますが、姉が生きていたら私の人生も変わっていたかもしれません。
     この写真の母はまだ、22歳か23歳ではないでしょうか。
     幸せな娘時代から奈落の底を経験した戦争犠牲者の一人であったと思います。

     父は大分遅れて復員したと聞いています。
     私が生まれた時、ただでさえ心配性の母でしたから
     どんなに子育てに気苦労したことでしょう。

     47歳で亡くなった母の心情を、まだ若かった私は理解しようとする心を持ち合わせず、
     もっと母の話を一人娘として聞くべきであったと、今もなお反省しています。

     

     
        
コメント
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