ひろっちゃの「力まない力」

ひろっちゃの脳内景色をまたーり語ります

反原発の正義の話をしよう (その3: 反原発の欺瞞と偽善)

2012-07-12 21:07:33 | 日記

反原発の正義の話をしよう(その1:序論)、(その2:原発の必要性)に引き続き、今回は反原発運動が持つ欺瞞と偽善について述べます。

すべからく利便性や快楽はリスクとベネフィットの両面を持っている。火力発電というベネフィットのもつ大きなリスクについては前回の記事で述べた。もう一つの例として自動車を挙げよう。平成22年中に日本においては4,863名の交通事故死者を出している。このうち2.3%(111人)は15歳以下の子供である。事故だけではない。排ガスによる大気汚染が原因の肺がんや喘息によっても毎年数千人の死者を出し続けていると推定されている。

それに対して、福島原発事故では直接原因による死亡者はゼロ、避難や移住が原因の死者(精神的ストレス死など)をカウントしても「累積ですら」自動車による「毎年の」死亡者には桁違いに及ばない。にも関わらず、なぜ原発にはヒステリックに反対する人間がいるのだろうか?

それは人々が負の感情に支配されて、リスクベネフィットを正しく認識できなくなってしまったからである。自分の知らないもの・理解できないもの・見えないものに対する恐怖、(自動車などと異なり)自分が直接コントロールできないことに対する不安、自分が信用していない人(東電・政府)がオペレートしていることに対する不信。これら負の感情によって完全にリスクを読み違え、合理的な判断ができなくなり反原発という逆にリスクを高める行動に走っているのである。

逆に、自動車が毎年数千人単位の命を奪っておきながら、反自動車を叫ぶ人はほとんどいないのはなぜか? おそらく最大の理由は、自動車は生活に欠かせないという利便性からだろう。自動車は毎年数千人近くの人をコンスタントに殺すリスクを持っているが、それを上回るベネフィットが社会にあると考えているから反対しないのである。自動車に関しては人々は合理的にリスクベネフィットを計算し、車社会を容認しているのである。むしろ「自分だけは事故は起こさない(事故に遭わない)」という「リスクの過小評価」すら感じられるほどだ。

「自動車は欠かせないから無くせないが、原発は代替エネルギーがあるから無くせる」という意見は反原発派ばかりでなく広く人々のあいだに存在する。一見合理的な論理のように聞こえる。原発が当面無くせないことは前回の記事で述べたとおりだが、「欠かせないから無くせない」という前提はどのような「正義」に基づいているだろうか? そこで「車は欠かせないから毎年5千人死のうが無くせない」と言い換えれば、この意見のもつ「悪魔の側面」に気付くだろう。

すなわち、利便性が行き渡った我々の社会では、人の命や健康や環境を犠牲にするリスクを負ったとしても、それを上回るベネフィットをもたらすものを許容しているのが現実の姿なのだ。車だけではない。ダム、道路、飛行機など、いたるところに同じ構図が見られる。従って、原子力エネルギーも一時的な感情に基づくのではなく真のリスクを合理的に勘案し、それを上回るベネフィットを相変わらず持っていることを冷静に確認する必要がある。

利便性や快楽の持つリスクベネフィットを勘案するというやり方は、サンデル流にいえば功利主義ということになるだろう。サンデル講義では功利主義は人権の蹂躙や少数意見の抹殺、拝金主義の弊害を招くものとしてネガティブな例が数多く挙げられた。しかし我々の現実の政治や経済においては、様々な利便性と快楽を許容するかどうかは功利主義に基づいて決められている。「生活に欠かせないから(人が死のうが)無くせない」と主張することは、「難破船の中で生き残るためには弱った人間を殺してその人肉を食うのもやむを得ない」と主張するに等しいかもしれないということは、はっきり自覚する必要がある。我々は決してきれい事だけの社会に生きているわけではない。

反原発派がしばしば掲げる「いのちを守れ」とか「子供の未来を守れ」などというスローガンは、サンデル流にいえば人間の尊厳を第一義に考えるカント主義に基づいているように見える。しかし、原発以上に人を大量かつコンスタントに殺し続け、原発以上に深刻な環境被害をもたらしているハイリスクなベネフィット(例えば火力発電と自動車)については都合よく許容し、その恩恵に浴し、時には自分だけはリスクは無縁などと思い上がりながら、罪の意識を感じないように他人にリスクを押しつけている。そういうカントの理想からほど遠い人間が、こと原発に関してだけ「いのちを守れ」などと叫ぶ資格があるだろうか? 自分は利便性をぬくぬくと甘受していながら「いのちが大事」などと叫んでいるとすればそれは単なる偽善であり、自分の気に入らないものだけ排除するためにこどもをダシにしているとすればそれは許し難い欺瞞である。

利便性のもつ悪魔の側面はリスクだけではない。それはしばしばサクリファイス(犠牲)を要求することを忘れてはならない。原発反対の理由としてしばしば聞かれるのは、原発事故が起これば周りの住民や村々や自然が壊滅させてしてしまうからだというものがある。それならば自分たちがこれまで便利に使ってきたダム、道路、空港についてはどう考えるのか? これらを建設する際に、原発事故とは比較にならないほど多くの住民や村々を強制移転させて自然を破壊して犠牲を強いてきた。自分がこれまで他人に押しつけてきた様々な犠牲のことは知らんぷりして、原発立地周辺住民の意志を勝手に憑依して反原発を叫ぶような度し難い偽善を、ここでも発見することができる。

サンデル先生の教えのとおり、コミュニティで生きる以上、大きいものは原発から小さいものは地域のごみ処理や火葬場建設に至るまで、コミュニティの成員たる我々はさまざまのリスクと犠牲を他人に負わせている。リスクがあり犠牲が出るからといって生活に浸透している様々な利便性や快楽を捨てるわけにはいかない。現実社会はもう引き返せないほどそれらに取り込まれてしまっているからだ。誰かが汚い・危険・きついものを引き受けなければならないコミュニティの現実を正しく認識し、リスクを負い犠牲を払ってくれている方々に常に感謝の念を忘れず、事故が起こってしまったらしかるべき補償を粛々と行いつつ、リスクベネフィットを勘案しながらコミュニティは前に前に進むしかないのである。

取りあえず今回で「反原発の正義の話」シリーズは終わりです。今も移住先で不便な生活を強いられている被災者の方々、地域の復興や大量のがれきの処理に困っている被災者の方々に対して、震災を風化させることなく、できる限りの支援を継続することを誓ってこのシリーズを終わります。


反原発の正義の話をしよう (その2:原子力発電の必要性について)

2012-07-11 20:11:58 | 日記

反原発の正義の話をしよう(その1)に引き続き、今回の記事では原子力発電の必要性について述べます。

震災前の原子力発電量の割合は30%近くに上っていた。原発を性急に止めるとなれば、これだけ多くの発電量を他の電力エネルギー源でまかなったり、電力需要自体を下げる(=節電する)必要が出てくる。太陽光発電などの自然エネルギーに期待が集まっているが、現在の技術レベルでは発電量としても安定電源としても原発の代替となるには遠く及ばない。となると今後長期に渡って火力エネルギー源で不足を埋めなければならないことになる。

それは地球温暖化や大気汚染など他の環境リスク・健康リスクを発生させ、日本での肺がん増加などの健康被害ばかりでなく、地球上で洪水などの自然災害や異常気象を発生させることになる。環境被害はまさしく因果関係が直接証明できないという意味で放射線被曝被害と同列におかれるべきリスクであるから、どんな低い放射線被曝も危険だなどと叫ぶ人たちは、火力発電による環境被害の危険性についても同列に叫ぶべきだろう。

しかし反原発派は地球温暖化防止のために国際社会が多大な努力を払ってきた経緯などすっかり忘れてしまっているようだ。原子力発電を世界が推進してきたのは、地球温暖化防止のためだったはず。それなのに日本だけ反原発・火力に逆行して地球温暖化ガス出しまくりなどということが許されるとでも思っているのだろうか。結局、反原発という行為は決して麗しいものではなく、環境リスクを他の地球住民に押しつけることによって、自分だけリスクを減らしたいと考える身勝手な行為なのである。

火力発電の増加と節電圧力は経済リスクも増大させる。燃料購入費増加による国民負担の増大、電力不足による企業の倒産や海外流出、そしてエネルギー自給率の低下による国際リスクの増大、節電運動による労働生産性の低下などにより、総じて国民経済が脅かされれば経済弱者(老人や貧困層)から先に、多くの死人を出すことは昨夏の経験から身に沁みて実感しているはず。死者が出ないようにと原発を停止することで、逆に他のリスクを増大させて(弱者から先に)死者を増やすことになるのだ。

現在、国内では原発再稼働反対デモなどという茶番が繰り広げられている。原発を再稼働しないからといって原発が安全になったということはなく、燃料棒が冷え切るまで何十年にもわたってずっと冷やし続けなければならない。デモを行うなどして原発再稼働を阻止しようという行動は反原発派の虚しい示威(自慰)行為に過ぎない。

他の技術と同様に、科学技術というパンドラの箱を開けていったん手にしてしまった以上、原子力というエネルギーは技術革新しながら維持しコントロールし続ける以外にない。今後の技術革新の中で、原子力や火力を上回る対コストパフォーマンス・対リスクパフォーマンスのよい技術が将来実用化されるという条件の下でなら、ゆっくりと段階的に「脱原発」してもよいと僕は考える。新エネルギー技術が開発されるまでは既存の原子力施設の安全性を強化しつつ、原子力エネルギー利用を維持・継続してゆく以外に道はないと考える。

次回は反原発という名の偽善と欺瞞について述べます。(つづく)


反原発の正義の話をしよう (その1:序論)

2012-07-10 21:10:03 | 日記

これまで何回か書いてきた「正義」シリーズ。サンデル先生の講義に基づき、現代の諸問題を分析してきた。これまでは分析主体であまり自分の意見を出さないスタイルだったが、今回は原発問題についてサンデル分析法を僕なりに活用して僕自身の考える「正義」をストレートに書く。

原発事故が起こった直後はパニック状態だったせいもあったが、デマや不正確な情報が多く流されて人々を不必要な不安に陥れた。それと並行して、従来型の「反政府・反権力は常に正義である」と考えるタイプの人間達と、原子力を使った発電方法やその政策に反対し、今存在している原子力発電施設を即時廃止しようとして「反原発は常に正義である」と叫ぶタイプの人間たちが合流し、自分たちの思想にそぐわない政治家・専門家・ジャーナリストに対する激しい非難中傷が開始された。「原発利権」「原発ムラ」「御用学者(ジャーナリスト)」といった、彼らお得意の思考停止型レッテル張りがそこで安易に行われ、パニックに陥った人々は政府や専門家に対する不信感を増大させられる結果となった。

そうやって反原発派がいい加減な情報を繰り返し流すことは、僕にとって本当にストレスだった。どんな誤情報でもいったん流してしまえば「反原発ムラ」の住民たちが素早く拡散してくれることを彼らはよく知っている。冷静で正しい情報によりいずれは訂正されるが、その速度は遅いこともよく知っている。彼らはその時間差を利用するのだ。さすが卑怯者、やり方をよく知っているとしか言いようがない。

特に許しがたいのは、一部の大学教授やジャーナリストなど、教育をしっかり受け、本来人々に正しい知識を説明し、討論や民主主義の意義に基づいて冷静かつ合理的なオピニオンを先導する責任のあるはずのこれらの人間が、率先して誤った情報を流し、危機を煽り、人々を無用な不安に陥れた(未だに陥れ続けている)ことだ。僕は彼らを絶対に許すことができない。あまりの憤りで僕は原発事故後しばらくツイートする気力を無くしてしまったくらいだ。

原発事故の実態が少しずつ明らかになってきて、放射能汚染の範囲や程度、および人の健康への影響が当初懸念されていたよりもはるかに小さく、幸いにも今後の健康被害が最小限にコントロール可能であることが分かってきた。しかし未だに放射線被曝に対する過度な恐怖から逃れられない人達がいる。事故からこれだけ十分な時間が経ったにも関わらず、正しく理解しようとする努力や知力がそもそも欠けているのが主な原因だと思うが、人の不安心理につけ込む連中(例えば人気取りや宗教勧誘や営業活動)に騙されて利用されてしまっている場合も多く見受けられる。

僕の原子力(原子力発電を含む)技術に対する意見は次の二つ。まず一つ目は原発は今後しばらくは必要不可欠であるということ。事故が起きたからといってすぐに原発だけを無くそうなどということは不可能であり、無くすとしても数十年単位でゆっくりと代替化を行ってゆかないと逆に死人を増加させる結果を招くということ。もう一つは、原発は他の利便性や快楽(水力発電、火力発電、自動車、航空機、喫煙、飲酒)とリスクベネフィットを勘案するに当たっては全く同列に扱われるべきであり、原発の危険性だけを抜き出してヒステリーを煽るのは間違っているだけでなく欺瞞であり、他人にサクリファイス(犠牲)を強いてきた過去を忘れているという意味で偽善であるということだ。

次の記事で、もう少し詳しくその根拠を述べようと思う。(つづく)


学校掃除不要論の正義の話をしよう

2011-01-07 20:01:26 | 日記

中学生ブロガー(以下GkEc君)が発した「学校の掃除は必要か?」という問いがネット上で議論を呼んでいる。僕は始めはつまらないテーマだと思っていたが、その後の議論の展開を読んでいる内に普遍的な正義に関する内容を含んでいることが分かり俄然面白くなったので、「正義の話をしようシリーズ」(笑)として取り上げてみたい。

例によって、この正義シリーズではどちらの論理が正しいかという判断はしない(が今回は最後に私なりの提案は述べる)。サンデル流の正義論分析に基づき、それぞれがどのような正議論に依拠しているかを明らかにするのが主目的である。

なぜ学校のトイレは汚いのか
学校の掃除の経済学 2

ツイッター上では大人を巻き込んで大論争になった。まとめはこちら。
学校の掃除って必要なの? - Togetter
学校の掃除って必要なの? 2 - Togetter

GkEc君の論点を要約すると、以下のようになるだろう。

1. なぜ学校の(男子)トイレというものはこんなにも汚いのだろうか。清潔好きの自分としては嫌でたまらない。
2. 学校の掃除は業者に頼む便益が費用を上回るなら、業者に頼むべきだ。生徒がやるよりその方がずっと綺麗になる。
3. 学校教育は生徒へ投資して生産性を高めるための場であり、掃除(および勉強以外のその他すべて)の時間を勉強に充てるなど生徒の生産性向上に振り向ける方が最終的効用は大きい。

それに対する「大人」側の反論はおおよそ下記のものに代表されるだろう。
1. 学校で掃除の仕方を学習するのが目的 (学校しつけ論)
2. 掃除もできないような人間は社会で使えない (社会人基礎力論、社畜養成論)
3. 税金で学んであるのだから自分たちで掃除して当たり前 (社会奉仕論)
4. 公共施設で自分で使ったところは自分で片付けるべき (公共心涵養論)
5. 現実問題として学校が業者を雇う金はない (財源論)

GkEc君は、これらの反論1~4は「毎日の」「全員による」学校掃除を正当化しないとしていずれも退ける。むしろ、税金や公共施設で運営されているからこそ、目的をはっきりと定めた上で最も効率的で有意義な資源の使い方をするべきだ、と論じる。

反論5は他のものとは異質で純粋に金がないという現実問題であり、本問題としてはこれでFAだろう。学校のような広大な敷地をもち、しかも毎日酷使されるような施設を掃除して綺麗に維持するには、かなりの延べ清掃要員と費用が必要になると思われる。委託費を安く済ますためのいくつかの案がありうるとは思うが、私立でもない限り掃除に費用を掛けるというのは実現が難しそうだ。

ちなみに日本以外の多くの国では、学校を含む公共施設の掃除は掃除夫の仕事であるが、これは掃除などという簡単なお仕事が低階層・低賃金の労働者のためのものであり、格差社会の結果によるものである。掃除は業者にやらせろなどと言っている当人が、その掃除夫(ないしその他の汚い仕事をやる人)になるかもしれないのである。

さて、両者がどのような正義に基づいているのかを述べたい。

GkEc君の主張1~3が、便益と費用と天秤にかけて効用の大きい選択を選ぶという功利主義に依拠していることは明らかだろう。大の大人が束になってかかっても彼を論破できないのは、彼が功利主義を「正確に」理解して使いこなしており、「正しく使われた」功利主義を論破することは本来難しいことだからだ。中学生でそれができているのは褒めるべきだろう。

彼に対する反論の多くは、学校掃除(ひいては学校教育や行事全般)の意義や目的(テロス)の必要性を論拠とする。学校という場は良き市民を育成し美徳を涵養するための場であり、学校教育や行事は社会的営みにおける正しい習慣を身につける機会と捉える。これはまさしくアリストテレス的正義論に他ならない。

そして、「学校の目的(テロス)と、それにより涵養される美徳は何か」、「学校行事に参加しなくても善い人になれるか」というサンデル白熱教室のテーマに結びつくわけである。サンデル教授なら「学校で生徒が掃除すべきだと思う人は手を上げて」と聴衆に質問する場面だろう(笑)。

功利主義とアリストテレス的美徳論の両者が互いに折り合わないのは、歴史的にさんざん証明されているところである。それぞれが依拠している正義感が異なるのだから噛み合わなくなるのは当然なのである。今回の問題は「社会の不条理に反抗する子供 vs. 社会の論理を押しつける大人」的な図式に隠れやすいが、実態はこのように功利主義 vs. アリストテレス主義の間の論争である。

以上で本エントリーでの分析を終わる。最後に、この問題で異なる正義感同士が噛み合わないままではいかにも不毛だと感じたので、僕の意見を述べる。

学校の掃除議論で思い出したのだが、日本一汚い川をタレントが訪問して、町内に呼びかけて川を綺麗にするっているテレビ番組企画が以前あった。町の人は川が日本一汚いのをそれまでずっと認識していながら、呼びかけられるまで自分では何もしなかった。そこでそのタレントがリーダーになって、みんなと一緒に掃除するのはもちろん、各家庭で生活排水を流さないようにするとか、いろいろ工夫した結果川は綺麗になり、日本一汚い川の汚名を返上することができた。これなんかは、金で解決するよりもみんなでアイディアと労力を出し合って効率よく取り組み、みんなが気持ちよくなった好例だ。

学校が汚なくて我慢できなかったら、自分がリーダーシップを取って全生徒および先生に呼びかけて、効率の良い掃除のやり方を提案したりアイディアを募集したりして、学校を綺麗にするようみんなに協力を求めたらどうだろうか。

理屈や文句を言うだけでなく、まず自分自身が率先してみんなを巻き込んで行動することで物事を良くしようという「やる気」が、本当は最も必要なのかもしれない。


「自分の富は自分の実力の賜物」の正義の話をしよう

2010-10-26 21:43:40 | 日記

マイケル・サンデル先生の分析手法を用いて、実社会で起こっている論争を解読するシリーズです。

さて、第3回目は「金融証券税制は予定通り2012年に本則税率10%から20%へ引き上げ―政府税調議論」というニュースに対して過敏に反応したトレーダー達を話題に取り上げる。彼らの反対意見は次のようなものである。

反対意見
(1) 「俺たちは高いリスクを背負ってマーケットと戦った結果として自分の実力で富を得た。これは侵さざるべき私的財産であり、それに対して課税するのは権利の侵害である」
(2) 「マーケットは可能な限り自由であるべきであり、政府が税率を上げたり規制したりすれば自由で効率的な市場を妨げる
(3) 「軽減税率が金持ち優遇などという批判は的外れであり、持たざる者による嫉妬である

さて、このようなトレーダー達の考え方は、サンデル本でいう所の「自由至上主義(リバタリアニズム)」の立場に立っているのは明らかだだろう。

自由至上主義者(リバタリアン)は、課税などの富の再分配に反対し、自己の富の扱いに対して個人に自由に任せることを求め、国家に再分配を強制する権限はないと考える。それは全体の効用を最大にするという効率主義の立場ではなく、自己の富への所有権は人間の「基本的権利」であるとする立場である。トレーダーに限らずこのような自由至上主義の考え方は自由主義経済で活動している人々のなかに意識・無意識に浸透している。

リバタリアン思想の持ち主は、優れた才能があったり多大な努力を重ねたりした結果として富を獲得した人が多い。自分の富は自分の実力で勝ち取ったものだという自負がとても強い。そのような富を持つ者としての占有意識から、反対意見(3)のような「課税強化は持たざる者による嫉妬」という反感が生まれてくる場合があるのだろう。また、富を蓄積できたのは「自分が他の人よりも優秀な人間だからである」という有能感を持つ人もいる。

その有能感は「富を持たざる人間は劣った人間である」という蔑視とは紙一重だ。そしてそれは、再分配に対する強い反感と混じり合うことによって「貧乏人には嫉妬抑制剤を接種するべきだ」などという反人権思想に容易に転じうる。リバタリアニズムは常にそういう危うい傾向をはらんでいる。

また、課税のような再分配制度に対しては、反対意見(2)のように「重税を課して有能な人間のやる気を失わせるのは社会全体にとってもデメリットが多い」という「功利主義」のフレーバーを加えて論じられることが多い。自由と再配分とをどうバランスしてゆくかという問題は常に議論の分かれるところなので、本ブログではこれ以上議論しない。

むしろ僕が俄然意識するようになったのは、反対意見(1)で表明されている「自分の富は自分の実力で得たものである」という考え方である。確かに一見正しいように思えるし、僕自身もこれまでそう考えていた。しかしそれは必ずしも自明ではないというのがサンデル先生の主張である。イチローは野球、マイケル・ジョーダンはバスケットボールというスポーツ労働市場の中での成功者であり、彼らは自分の才能が最も活かされるシステム(チーム・マスメディア・ファン等々)が存在していたからからこそ大成功した訳である。ビル・ゲイツが大富豪になったのもIT革命が起きる社会背景とタイミングとが彼の才能と出現が見事にマッチしたしたからであり、彼の誕生がもう少し遅かったりしたら彼以外の誰か(スティーブ・ジョブス?w)が代わりに画期的なOSを開発していて、ゲイツは有能ではあるが数多くのIT起業家の一人で終わっていたかもしれない。

富を蓄えられるシステムがその時代のその社会にあったからこそ、その仕組みにうまくマッチして才能や努力が開花したと考えると、集まった富をどれだけ「自分の実力」のお陰だとすることができるだろうか?

「運も実力のうち」などというが、実は自分の実力と思っているもの自体が「運」とか「まぐれ」から成り立っているのではないか?

それがサンデル先生がリバタリアンに対する問いかけだと僕は理解した。成功に対して果たす運の役割に関しては、ニコラス・タレブが著書「まぐれ」や「ブラック・スワン」でおいても述べられている。

じゃあ一体どうするのかと言われても、僕自身もどうすればいいのかまだよく分からない。富の再分配で生じる正義の問題は、正解のない難問であり続けるのである。