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学校掃除不要論の正義の話をしよう

2011-01-07 20:01:26 | 日記

中学生ブロガー(以下GkEc君)が発した「学校の掃除は必要か?」という問いがネット上で議論を呼んでいる。僕は始めはつまらないテーマだと思っていたが、その後の議論の展開を読んでいる内に普遍的な正義に関する内容を含んでいることが分かり俄然面白くなったので、「正義の話をしようシリーズ」(笑)として取り上げてみたい。

例によって、この正義シリーズではどちらの論理が正しいかという判断はしない(が今回は最後に私なりの提案は述べる)。サンデル流の正義論分析に基づき、それぞれがどのような正議論に依拠しているかを明らかにするのが主目的である。

なぜ学校のトイレは汚いのか
学校の掃除の経済学 2

ツイッター上では大人を巻き込んで大論争になった。まとめはこちら。
学校の掃除って必要なの? - Togetter
学校の掃除って必要なの? 2 - Togetter

GkEc君の論点を要約すると、以下のようになるだろう。

1. なぜ学校の(男子)トイレというものはこんなにも汚いのだろうか。清潔好きの自分としては嫌でたまらない。
2. 学校の掃除は業者に頼む便益が費用を上回るなら、業者に頼むべきだ。生徒がやるよりその方がずっと綺麗になる。
3. 学校教育は生徒へ投資して生産性を高めるための場であり、掃除(および勉強以外のその他すべて)の時間を勉強に充てるなど生徒の生産性向上に振り向ける方が最終的効用は大きい。

それに対する「大人」側の反論はおおよそ下記のものに代表されるだろう。
1. 学校で掃除の仕方を学習するのが目的 (学校しつけ論)
2. 掃除もできないような人間は社会で使えない (社会人基礎力論、社畜養成論)
3. 税金で学んであるのだから自分たちで掃除して当たり前 (社会奉仕論)
4. 公共施設で自分で使ったところは自分で片付けるべき (公共心涵養論)
5. 現実問題として学校が業者を雇う金はない (財源論)

GkEc君は、これらの反論1~4は「毎日の」「全員による」学校掃除を正当化しないとしていずれも退ける。むしろ、税金や公共施設で運営されているからこそ、目的をはっきりと定めた上で最も効率的で有意義な資源の使い方をするべきだ、と論じる。

反論5は他のものとは異質で純粋に金がないという現実問題であり、本問題としてはこれでFAだろう。学校のような広大な敷地をもち、しかも毎日酷使されるような施設を掃除して綺麗に維持するには、かなりの延べ清掃要員と費用が必要になると思われる。委託費を安く済ますためのいくつかの案がありうるとは思うが、私立でもない限り掃除に費用を掛けるというのは実現が難しそうだ。

ちなみに日本以外の多くの国では、学校を含む公共施設の掃除は掃除夫の仕事であるが、これは掃除などという簡単なお仕事が低階層・低賃金の労働者のためのものであり、格差社会の結果によるものである。掃除は業者にやらせろなどと言っている当人が、その掃除夫(ないしその他の汚い仕事をやる人)になるかもしれないのである。

さて、両者がどのような正義に基づいているのかを述べたい。

GkEc君の主張1~3が、便益と費用と天秤にかけて効用の大きい選択を選ぶという功利主義に依拠していることは明らかだろう。大の大人が束になってかかっても彼を論破できないのは、彼が功利主義を「正確に」理解して使いこなしており、「正しく使われた」功利主義を論破することは本来難しいことだからだ。中学生でそれができているのは褒めるべきだろう。

彼に対する反論の多くは、学校掃除(ひいては学校教育や行事全般)の意義や目的(テロス)の必要性を論拠とする。学校という場は良き市民を育成し美徳を涵養するための場であり、学校教育や行事は社会的営みにおける正しい習慣を身につける機会と捉える。これはまさしくアリストテレス的正義論に他ならない。

そして、「学校の目的(テロス)と、それにより涵養される美徳は何か」、「学校行事に参加しなくても善い人になれるか」というサンデル白熱教室のテーマに結びつくわけである。サンデル教授なら「学校で生徒が掃除すべきだと思う人は手を上げて」と聴衆に質問する場面だろう(笑)。

功利主義とアリストテレス的美徳論の両者が互いに折り合わないのは、歴史的にさんざん証明されているところである。それぞれが依拠している正義感が異なるのだから噛み合わなくなるのは当然なのである。今回の問題は「社会の不条理に反抗する子供 vs. 社会の論理を押しつける大人」的な図式に隠れやすいが、実態はこのように功利主義 vs. アリストテレス主義の間の論争である。

以上で本エントリーでの分析を終わる。最後に、この問題で異なる正義感同士が噛み合わないままではいかにも不毛だと感じたので、僕の意見を述べる。

学校の掃除議論で思い出したのだが、日本一汚い川をタレントが訪問して、町内に呼びかけて川を綺麗にするっているテレビ番組企画が以前あった。町の人は川が日本一汚いのをそれまでずっと認識していながら、呼びかけられるまで自分では何もしなかった。そこでそのタレントがリーダーになって、みんなと一緒に掃除するのはもちろん、各家庭で生活排水を流さないようにするとか、いろいろ工夫した結果川は綺麗になり、日本一汚い川の汚名を返上することができた。これなんかは、金で解決するよりもみんなでアイディアと労力を出し合って効率よく取り組み、みんなが気持ちよくなった好例だ。

学校が汚なくて我慢できなかったら、自分がリーダーシップを取って全生徒および先生に呼びかけて、効率の良い掃除のやり方を提案したりアイディアを募集したりして、学校を綺麗にするようみんなに協力を求めたらどうだろうか。

理屈や文句を言うだけでなく、まず自分自身が率先してみんなを巻き込んで行動することで物事を良くしようという「やる気」が、本当は最も必要なのかもしれない。


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