頑張るノンちゃん

脳梗塞闘病記 

赤坂

2017-05-18 09:02:14 | 日記
私と赤坂の縁はやはり親父です。
親父は戦争も終わりの頃招集され、満洲で終戦。そのままシベリアに抑留されましたが運よくかかなり早く帰還でき、職場に復帰もしました。
が、やはりシベリアでの生活で無理もあったのか、私が小学校に入ってすぐのころ結核で倒れました。
その頃は重病でした。
それでも勤めていた会社の役員の紹介で、赤坂の有名病院に入院することが出来ました。
入院の日、家族で取引先の会社が出してくれた車で、赤坂に行きました。
その病院は今のTBSの裏の丘の上にあり一ツ木通りから急坂を上るのですが、その車がやっとの思いで上った記憶があります。
病室の窓からは背の低い電波塔が見え・・・まだラジオ時代ですね。
これから毎週日曜日母と見舞いに通う日が通づくのです。


母は日曜に一回都心に半日出てこれるのは気晴らしになり、苦ではなく、帰りに銀座の不二家で
お昼ご飯を食べて帰るのが楽しみだったみたいです。
私もそうでした。

それと赤坂見附の駅から病院に・・・・
ただ生まれて初めて地下鉄に乗った時の恐怖がトラウマで新橋駅から地下鉄に降りる階段で
いつも母親にしがみついていたそうです。


行きだけで帰りはなんでもなく最初はそんならしかったらしいです。

お昼ご飯を食べて帰るのが楽しみだったみたいです。私もそうでした。

それと赤坂見附の駅から病院に行く一ツ木通りの急坂の手前にあるお菓子屋のショウウインドウの中に

キャンディーの入った小さな木の小箱が気になり毎回行きも帰りも見ていました。
ある時ついに母に「欲しい」と言ったら親父が治って退院出来たら買ってあげるよ!との約束をしてくれました。

何か月か後にその日が来て買って貰ったのです。
親父が退院出来たのはそのころアメリカで開発され日本に導入され始められたストレプトマイシンの
治験に合致し治療してもらえたかららしいです。
病院がK大系列で日本一早く成功していたらしく運がよかったのです。
その話はあとで何度も繰り返し母親からきかされました。
中身のキャンディーはちょっとで母と姉と私ですぐに食べ終わってしまったけど箱が目的ですから
宝箱で大事にしてずっと一緒で机のそばにありました。

熱海にも持ってきたはずですが、最近見ないので家内に処分してしまったのか恐々聞いたら「何処かにしまってあるわよ」という。

私が元気なら写真でも添付したいところです・・・してくれました!


これでも赤坂とは縁は切れず数年後中学高校とTBSの真ん前の学校に通うのです。
学校の6年は行き帰りとも駅と学校の間だけが赤坂との
接点で帰りの道も料亭街は禁止されいて

山王下の方の角には教師立っていました。
夕方になると黒塗りの高級車やハイヤーが入って来て、時には人力車や芸者がいるととなれば生徒の歩く環境ではないです。赤坂は夜の国会なのです。

一ツ木通りか外堀通りしか歩けず、外堀通りは正面に有名な日枝神社、更に見附駅の先には豊川稲荷
がありましたが、興味がない連中で私も一度もお参りにもいきませんでした。
日枝神社の左側には異形の巨大ビルディング、ホテルニュージャパンがそびえたっていました。
後に大火災になるのですが・・・。

その地下にニューラテンクォーターがありました。
そうです。力道山が刺殺されたクラブです。
刺された次の日、みんな下校時外堀通り経由でホテル向かい側を歩きましたが警察と報道で一杯でした。

力道山は享年39と聞いてびっくりしました。
それと力道山は最初近くの山王病院に運ばれ次に何と親父の入院していた病院に転院してもダメで更に転院した病院でなくなったらしいのです。

私の母校はたまに甲子園に出るので名が知れているぐらいですが、日枝神社の裏にはその当時東大進学ダントツの都立日比谷高校がありました。
我々には関係ない高校生活を送っている連中と思っていたら数年後、庄司薫がサリンジャーパクリの
「赤ずきんちゃん気をつけて」で実態を書いていました。この話はこのへんで。たまに山王下から都電で
品川まで帰りました。その頃はまだ都電は走っていました。品川直通はないので札の辻辺りで
乗り換えたのかも。


都電は座らないで一番後ろの車掌いる席に立って後ろに流れていく景色をごっとんごっとんごっとんと揺られながら見ていくのが好きでした。
その時社会に出て市電広告を全国展開していた広告会社に入るとは夢にも思いませんでした。

学校は社会に出てから数年後鹿島建設に土地を売却して町田に移転してしまいました。
跡地には立派な鹿島建設別館がたっています。、学校の正面玄関跡の辺に〇〇学園此処にありとの
プレートが建っています。鹿島も粋なことをしますね。
社会人になってもまだ赤坂とは縁がありました。
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2 コメント

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ひろママったらやさしい! (北のカラス)
2017-05-21 00:09:23
山王下に山王ホテルという米軍専用の古いホテルがありました。
知人が若い頃、ホテル地下の売店でアルバイトをしたことがあるそうです。
英会話の勉強がしたかったからとのことでした。
その後、その人はアメリカに留学し、現地で就職しました。
あの白っぽい古めかしい建物は、私が見た「戦後」でした。

ニュージャパンの火事は驚きました。
当時事務所が近かったので、いつもニュージャパン内郵便局を利用していたのです。
長く無残な姿をさらしていたように思いますが、再開発後どう変わったかは見ていません。

宝箱、外国製かな?
半世紀も前のお品ですし、お宝鑑定団に出してみたい気も。
北のカラスさんへ (ノンちゃん)
2017-05-21 16:22:07
ありがとうございます。記憶では白い禿禿の外観と緑の
屋根?だったか。熱海にも山王ホテルはありまして網代のデイにいくとき前を通ります、スタッフに226の話を
すると喜ばれました。そのスタッフは宇佐見で空手の道場
を開いています。以前東京蒲田に住んでいて力道山の
命日には本門寺のお墓にお参りしていたそうです。
いろいろな人との出会いがあります。
すた

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