先日、新聞でコラムを見つけて読んだ…
入試不合格恐れずに
お茶の水女子大学 名誉教授 外山滋比古
受験生が緊張して追い込みの勉強をするのは当然ながら頼もしい。ただ、周りが本人以上に力を入れ、そわそわするのは考えものである。
もともと受験生はそれほど入試を怖いとは思っていない。周囲が騒ぎ立て、「絶対に受かってよ!」などと励ますのがいけない。それがプレッシャーになって、試験が恐ろしくなる。
そこへいくと、昔は良かった。大人たちが入試のことをよく知らないから、ほっておいた。子どもは伸び伸び受験できた。下手に応援されると逆効果である。オリンピック代表選手でもメダル間違いなしなどとマスコミで騒がれると、本番で実力を出せず惨敗する例が少なくない。逆に話題にされなかった選手が勝つ。受験生もそうで、騒がれ過ぎると実力が出ない。
だいだい入試の失敗、不合格を大事件のように思うのが間違っている。競争試験で不合格になっても恥じることはない。落ちる者があるからこそ受かる人もあるのだ。そう考えれば、落ちて卑屈になる必要のないことが分かる。
試験を怖がり、失敗してオロオロするのは、受験生本人ではなく、家庭である。大人は世間体を気にして、子どもに不当な期待をかける。これがいけないことだと自覚しないのが多い。
そうして知らず知らずのうちに、家庭が受験恐怖症に陥って、それが子どもに感染する。入試などというものがあるからいけない。試験なしで入学させたいと、親たちが考える。
少子化で志願者の減少を懸念する学校側がこれを見逃す訳がない。受験しないで入学できる推薦入学制度ができた。受験を怖がる者がそちらに流れるのは当然で、これで入学する者が年々増えてきた。ところが入学後の成績が芳しくない、というので見直しの機運にある。
その埋め合わせではないが公立高校で中高一貫教育に踏み切るところが現われ始めている。これだと高校入試を受けなくてよくなり、受験恐怖の人たちからありがたがられるのである。
農作物で同じところへ同じ種類の作物を栽培すると収穫が落ちる連作障害はよく知られている。子どもは野菜ではないが、連作障害に似たことは認められる。同じところで長く勉強していると、だんだん伸びが悪くなる。小学校6年がすでに長過ぎる。中・高でまた6年同じところで勉強するのは学力の伸びからしても望ましいことではない。ときどき学習環境が変わるのが望ましい。
入試を嫌がる大人たちは、失敗、不合格を大変悪いことのように誤解している。もちろん合格できれば、それにこしたことはないが、落ちても得るところはあるということには思い及ばない。
努力した上での失敗であるから、口惜しいのは当たり前だが、敗北は成功にない人生的意義を持っている。失敗を乗り越えようとする気力、つらいことの我慢、自分に対する謙虚さなど、いろいろ良いことを教えてくれる。
さればこそ、昔の人も言った…「若いときの苦労は買ってもせよ」。人生後半になって大きな失敗をすれば、それを回復するのは難しい。たくましい若者なら、入試の失敗ぐらいすぐにでも克服できる。一度でなく何度も落ちれば人生経験の厚みを増す。そんなふうに考えるのである。
かつてと違い、今の子どもは概して恵まれている。苦労らしい苦労がないのが普通である。苦労不足で成人するのは決して幸福ではない。入試は、ことにその失敗はチャンスであると考えるのが聡明な家庭である。
獅子はわが子を千畳の谷に落とす、という。子に試練を与える親心である。入試に落ちるなど椅子から落ちたくらいである。オロオロしてはみっともない。
人間の一生の失敗、不幸の量はあらかじめ総量が決まっているように思われる。早いうちにマイナス総数を卒業しておけば、以後の人生において、それだけまずいことの起こるのが少なくなると考えれば、失敗歓迎だ。
そんなふうに思えば、入試など少しも怖くない。
今年は我が家に受験生はいないが
来年は受験生がいる予定…
家庭がこのことを大切に憶えていないといけないなぁ…
ちなみに…
こんな文章だったら普通は数分で入力してしまうのだろうけど
金魚は左手の人差指で30分以上費やしてしまった…
あ~ぁ、つかれた…