ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

体罰と躾・・・法律で縛れるものなのか?

2011-05-02 21:01:49 | 社会
親による子供の虐待。日本ではこれに育児放棄が加わることもあります。それに近い例として、両親がパチンコに出掛けている間、自宅に放置された10か月の子が死亡したという事件が最近ありました。こうした親による子供の虐待は、いうまでもなく、日本だけのものではなく、フランスでも問題になっています。

親による体罰が日本以上に残っているフランスだけに、日本以上に深刻な面があるのかもしれません。ドーデ(Alphonse Daudet)が『最後の授業』(La Dernière Classe)の中で、遅刻した少年が、教師に鞭打たれるのではないかと心配する場面を描いていますが、この作品を収めた短編集『月曜物語』(Les Contes du Lundi)が出版されたのは1873年。そう遠い昔ではありません。

しかし、今や21世紀、鞭打ちはさすがになくなっているのでしょうが、それでもお尻を叩くこと(la fessée)は行われているようで、数年前にもその是非が問題になったほどです。教育の一環として認められるべきなのか、虐待として禁止されるべきなのか。子どもは動物のままであり、人間となるようしっかり躾けなければいけない。そうした考えが背景にあるせいか、体罰はある程度容認されているようですが、問題は、教育的体罰か虐待か、ということです。

そうしたことに関連し、お尻を叩くことの禁止とその法制化をめぐる問題を、4月27日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。テレビやラジオの番組に積極的に出演し、精神分析医の視点から様々な意見を述べているクロード・アルモス氏(Claude Halmos:1946年生まれ)による文章です。

親の暴力により子どもが死亡したという出来事が次々と起こり、社会的事件として関心を呼んでいる。体罰禁止を法制化しようという最近の提案は、こうした虐待死という痛ましい出来事に終止符を打つことができるのだろうか。答えは、「ノン」だ。なぜなら、子どもを虐待から守れないのは、法律がないからではなく、法律の適用に問題があるからだ。法律自体はいくつか存在している。

普通の家庭の子どもたちにとって、体罰を法的に禁止することは良いニュースとなるのだろうか。必ずしも、そうとは言えない。体罰は、決して無害な行為ではなく、教育の一環とは決してみなすことはできない。体罰は、完全に反教育的行為だ。子どもに体罰を与える大人は、その不平等な関係を利用して子どもに暴力を振るい、罵倒し、残酷さと強者の法則を押し付けている。

しかし、普段は子どもを愛し、その個性を尊重し、よく対話を交わす親が、ある日、口論の果てに子どもに体罰を与えた場合、その親は虐待する親として非難されるべきなのだろうか。虐待する親としない親の差は、体罰を加える頻度によるのではなく、その理由や内容によるのだ。何ら罪の意識もなく、ただ自らの憂さ晴らしや楽しみのために故意に子どもを虐待するような親とは異なり、一般的な親は体罰を加えることに何ら楽しみを見出さず、つねに罪の意識に苛まれている。罠に落ちてしまったという罪の意識だ。

体罰へと親を誘う状況はいつも同じだ。例えば、もう10時を過ぎたから早く寝るように、といったありふれた指導をするが、子どもがどうしても従おうとしない。対立は避けられないが、この対立は責められるべきものではない。そのことを親が理解していれば、子どもは最終的には言いつけを受け入れ、譲歩するものだ。しかし逆に、もし親が親子の対立を受け入れない場合、子どもの反抗はエスカレートし、耐え難い争いとなる。最後には、どうしようもなくなった親が、自分が子どもに否定されたように感じ、最後に自分に残された利点、つまり体格の差に訴えることになる。こうしたことを法律で止めさせることができるのだろうか。「ノン」だ。ある作業を通してのみ、可能になる。親が、教育的指針と同じように、自ら行うことに正当性を見出すための作業を通してだ。また、子どもとの対立を通して、親が無意識にせよ再生すること、親が成長するということを理解することが大切だ。

暴力を振るう親は、法律から逸脱しており、法律は子どもと同じように親にも痛みを与えることになる。親たちをさらに罪の意識によって悩ませ、無力感に陥らせることは、子どもの教育を一層困難なものにするからだ。しかるに、今日、子どもたちへの脅威となっているのは、体罰ではなく、教育・躾の欠如だ。教育や躾がなければ、世界の決まりから子どもたちを追い出し、欲望のままに行動するようにしてしまう。今日において体罰を禁止する法律を提案することは、戦い方を誤ることだ。

・・・ということで、今日、問題なのは体罰そのものではなく、親の適切な教育・躾が行われていないことだ。体罰を法律で禁止することによって、親がいっそう厳しい躾を回避するようになる。そのことによって、却って、体罰を必要とする子どもが増えてしまう。それが、問題だ!

子どもを愛し、受け入れ、対話を欠かさず、それでいて厳しく躾けるときは躾ける・・・「言うは易く、行うは難し」の典型ではないでしょうか。

以前、日本では「友だち親子」が推奨されました。まるで兄弟のような、仲の良い親子関係が、進んだ親子関係。つねに、楽しく、明るく。説教とか叱るとかは、もってのほか。それでよかったのでしょうか・・・

最近では、○○ちゃん、忙しい所、ごめんね、宿題やってくれるかな、とお願いする親も増えているとか。兄弟ではなく、精神的には主従関係、子どもが主の関係が生まれているようです。卑屈になる親・・・

と同時に、後を絶たない、虐待、ネグレクト。問答無用で、対話もなく、高圧的に接するしか術を知らない親たち・・・

子どもは宝、なのか、子どもは動物、人間になるよう躾けなければいけないのか。国が違えば、考え方も異なります。文化が違うのですから、育て方が異なるのも当然でしょう。どこかの国の子育てをそのまま移植すれば事足りるということではない筈です。自分にふさわしい方法は、自分で考えだすべきなのでしょう。

そして、最近思うことは、日本は本当に格差社会になったなということです。自分の意見をしっかり持ち、それでいて他人に迷惑をかけず、自分の道を自分の足で逞しく歩んでいる素晴らしい若者もいれば、その逆のような例も多い。その違いが、以前とは比較にならないほど広がっている。「人間の品格」に以前とは比べ物にならないほどの大きな格差がみられるようになった、そのような気がします。

しかし、今の若者たちは、戦後の日本社会が創り出した製品、戦後日本の結晶とも言えるでしょう。もし若者たちに問題があるなら、それは若者の責任というよりは、製造元である私たち先人の責任であり、私たちが修正・変更していかなければならないのではないでしょうか。

子育て・・・「永遠のテーマ」と呼んで逃げたくなるほど、重いテーマではあります。
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