教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

父親そっくりに・・日航機墜落事故から25年

2010年08月31日 | ニュースを読む
【世界最大の航空機事故】
8月12日は、日本航空123便が群馬県御巣鷹山に墜落し25年目にあたる日でした。お盆の帰省客や旅行者、家路を急ぐビジネスマンで満席だったジャンボジェットは、羽田空港を夕方の6時に出発し、その約1時間後には、伊丹空港に到着するはずでした。乗員乗客合わせて520名もの命が失われた世界最大の航空機事故が起きようとは、誰も思っていなかったのです。

【事故が切り裂いた家族】
遺族となったのは、401世帯。そのうち22世帯は、一家全員が亡くなりました。一度に8人の家族を亡くした方もいました。母子家庭になったのは189世帯で、およそ半分を占めていました。妻だけになった家庭は37世帯、子供たちの一部を亡くしたのは35世帯、夫婦だけになった家庭が24世帯、父子家庭が13世帯、夫だけが残されたのが14世帯、そして子供だけが残された家庭は7世帯でした。

その中で、この日、テレビや新聞各紙は、今年24歳になった会社員小沢秀明さん(T市在住)の『25年』を報道していました。秀明さんは、母親である紀美さんのお腹にいたときに父親の孝之さん(当時29歳)を失いました。それ以来秀明さんは、毎年母親と一緒に慰霊登山を行ってきました。小さな頃は「僕のお父さんはいつ帰ってくるの?」と言って母親を困らせたとのことでしたが、「今になって、ようやく父の死後、一人で僕を産み育ててくれた母親の気持ちが、少しは考えられるようになった。」とテレビの中で話していました。お父さんに、そっくりになって・・・。

【伊丹空港に近いT市は日航機事故の「地元」だった】
秀明さんの父親である小沢孝之君は、私にとって中学校の同級生でした。バレー部に所属していたスポーツマンで、勉強も頑張っていました。奥さんの紀美さんとは、バレーボールを通じて知り合ったと聞いていました。出張先の東京から帰る際の思わぬ事故により、新婚生活を始めたばかりの小沢君は、生まれてくる子どもの顔を見ることなく無念の死を遂げたのです。

T市は、伊丹空港が地元なだけあって、多くの遺族が残されました。新聞には、一人息子・嫁・孫を一気に失い、独りぼっちになった市内在住83歳の女性の声も載せられていました。「昨年までは慰霊登山を欠かさず行っていたのですが、今年は山に登る体力が無く・・」本当に辛い言葉でした。

【御巣鷹山で開かれた日航社長記者会見】
25年という節目でもあり、御巣鷹山には前原国土交通大臣や日航社長も慰霊登山に出かけ(担当大臣も日航社長も慰霊登山に出かけるのは初のこと!)、手を合わせている姿が報道されていました。経営破綻(はたん)し、再建中でもある日航社長が慰霊碑の前で記者会見をしていました。社長は、「松尾静麿初代社長は『臆病者と言われる勇気を持て』、こう言ったんですけど、本当に我々はそれにもう一度、立ち返って安全を担保しきる、もうこれしかないと思っています」と声を振り絞るように語り終えると、マイクの前で号泣しました。大企業のトップが、カメラの前で気持ちをさらけ出し号泣するという場面は、あまりないことなので私は驚きテレビに釘付けになってしまいました。そして社長の顔をもう一度見て、「お前、大西やないか!」と叫んでしまいました。

日航社長大西賢は、やはり中学校の同級生だったのです。中学校ではサッカー部に属し、恵まれた体格で活躍していました。神戸市にあるN高校に進学し、T大学工学部に入学したとまでは聞いていました。

大西君について詳しい事情を知っている友人に聞くと、日航に入社後は整備部門を担当し、事故時には遺体収容所となった御巣鷹山地元の体育館に派遣され、遺族との対応に追われる日々が続いたそうです。当然、大西君は、小沢君の死も知っているだろうし、その後生まれた秀明君のことも十分承知していたはずです。安全を誓った社長記者会見の言葉の重みを信じたいと思うとともに、未だに様々な疑問を残していると言われる墜落事故の真相を、ぜひ究明して欲しいと思ったのです。




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