教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

『教職員9条の会』の会ニュース原稿~憲法記念日を前に

2007年04月26日 | 平和について
改憲の危機を目前にした憲法記念日
憲法を守るための私たちの行動が必要

《改憲前夜を迎えている》
教職員の皆さん!4月13日、衆議院は憲法改悪に向けた『国民投票法案』を与党単独で採決させ、安倍内閣は憲法記念日での成立をめざしていると報道されています。世論調査(4月9日にNHKが実施)では、この法案への賛成は28%しかなく、「反対」「どちらとも言えない」という意見は64%に及びます。今国会で法案成立を望む意見は8%でしかありません。日本弁護士連合会はこの法案が国民主権の観点から考え重大な問題があるとして反対声明を発表しています。

《戦争への反省から戦後教育が始まった》
 「逝(ゆ)きて帰らぬ教え子よ 私の手は血まみれだ 君を縊(くび)ったその綱の 端を私も持っていた しかも 人の子の 師の名において」

 これは戦後まもなく高知県で行われた日教組教育研究集会で地元から参加した竹本源治さんが読み上げた詩の一節です。この詩が読み上げられたとき、教員のすすり泣く声が会場を包み込んだと記録に残っています。教え子たちを戦場に送り、死に至らしめた自分たちの戦争責任を問うたのがこの詩でした。教員が自分の手が血まみれになっているとの反省に立つことで戦後教育がスタートしたのです。「教え子を再び戦場に送るな!」という教職員の原点はここにあるのです。

《忙しさが世界を見えなくしていないか》
 朝日新聞のテレビCMに大きな衝撃を受けました。救助を求める難民や銃撃で傷ついた子どもを日本の日常生活の映像にダブらせたシーンを皆さんは覚えておられることと思います。最後のシーンは空爆で破壊される市街地を窓の外に見ながら、教室ではいつもどおりの授業が行われているというものでした。
 「無関心が世界を見えなくしている」というナレーターの声がテレビでは入りましたが、これは今の学校そのものでないでしょうか。教育基本法が改悪され、国民投票法案が強引に衆院を通過し、全国学力調査が実施されても、職員室の話題には上らなくなっています。職員室で同僚と話し合う時間がないほど、私たちは仕事に追われる毎日が続いています。
 忙しさが世界を見えなくしていないでしょうか。子どもたちを社会の担い手として送り出す以前に、私たちが社会の担い手として行動することを諦めているのではないでしょうか。

《先生という仕事と憲法》
 私たち教員は、採用に際して「憲法と教育基本法を遵守します」という宣誓書に署名・捺印しました。教育基本法では、「(憲法が掲げる)この理想は根本において教育の力にまつべきものである」と定めています。そして憲法が掲げる理想とは、平和主義・基本的人権の尊重・国民主権=いわゆる『憲法の3原則』なのです。
 改憲へ向けた潮流が大きなものとなっているということは、教育活動の一端を担った私たちの責任でもあると思います。残された時間は僅かかもしれませんが、憲法を守るため私たちがやり残していることはまだあるのではないでしょうか。

《日弁連が指摘する国民投票法案の問題点》
 主権者の国民意志を知るためにも国民投票は必要という意見もありますが、法案には最低投票率の規定がなく1割の投票率でも憲法改正が可能な仕組みが作られようとしています。国民主権に反する投票法は廃案にしなければいけません。


◎憲法改正手続に関する与党案・民主党案に関する日弁連意見書(要旨)   《投票方式及び発議方式について》条文ごと(さらに場合によっては項目ごと)に投票する個別投票を原則とし、複数条項を一括して投票することは、これらを一括で投票しなければ条項同士が相矛盾し、整合性を欠くことが明らかである場合に限定されるべきである。                       

《公務員・教育者に対する運動規制について》裁判官等についての全面的な運動禁止・公務員・教育者について「地位利用」した運動の規制をすることは、公務員・教育者の自由な活動・運動を規制し、萎縮させるもので反対である。    
《最低投票率について》最低投票率と絶対投票率を併用することが望ましいが、少なくとも、投票権者の3分の2以上の最低投票率を定めるべきである。   
《過半数について》憲法改正には少なくとも投票総数の過半数が必要とするべきである。

文部科学省が実施する全国学力・学習状況調査についての日弁連会長声明

2007年04月24日 | 教育行政・学校運営
文部科学省は、本年4月24日に、全国の小学校第6学年及び中学校第3学年の児童生徒を対象に全国学力・学習状況調査を実施しようとしているが、学習状況調査には、個人情報保護の観点から、看過しがたい重大な問題がある。

学習状況調査では、出席番号や氏名など児童生徒の個人を特定できる事項を記載させた上で、児童生徒の私生活に関する事項のみならず、児童生徒と保護者との関係や保護者自身の私生活に関する事項についてまで回答を求めている。国がこのような調査を行うことは児童生徒やその保護者のプライバシー権を侵害する疑いが極めて強いといわざるを得ない。

のみならず、同調査は、行政機関個人情報保護法にも違反する。今回の調査の目的は「全国的な義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から、各地域における児童生徒の学力・学習状況を把握・分析することにより、教育及び教育施策の成果と課題を検証し、その改善を図る」こと及び「各教育委員会、学校等が全国的な状況との関係において自らの教育及び教育施策の成果と課題を把握し、その改善を図る」こととされているが、いずれも、個人を特定できる事項を記入させることなく達成できる。「行政機関は、・・・利用の目的(以下「利用目的」という。)の達成に必要な範囲を超えて、個人情報を保有してはならない」(同法3条2項)のであるから、個人を特定できる事項を記入させることは許されないところである。また、個人情報の書面による直接取得の場合は、利用目的をあらかじめ明示して(法4条1項)、本人の同意のもとに提供を受けるのが原則であるが、判断力の不十分な児童生徒の回答をもって、同意があったとみなすことはできない。

さらに、今回の調査は、各地の教育委員会の協力を得て行われるが、調査への協力に当たって、教育委員会は、各地の個人情報保護条例を遵守しなければならない。とりわけ、個人情報の直接取得の原則を定めた条例が相当数あるが、保護者に関わる事柄を児童生徒に回答させるためには、その例外要件の充足(たとえば個人情報保護審議会から例外として許容する旨の答申を得ること)が必要である。

文科省は、平成19年3月29日付事務連絡で、質問項目の一部の削除を検討すること及び例外的に「氏名・個人番号対照方式」を許容することを通知した。しかし、市町村の個人情報保護審議会等から氏名を書かせることに支障がある旨の指摘を受けた場合などに限って同方式を許容するなどしており、極めて限定的であるばかりか、この方式を採用しても、各学校においては、回答した児童生徒を特定可能であることに変わりはない。

日弁連は、学習状況調査の実施にあたっては、質問項目を慎重に見直すとともに、回答した個人が特定されない措置がとられるよう強く求めるものである。

2007(平成19)年4月18日

日本弁護士連合会
会長 平山 正剛


縄文時代が消えた教科書

2007年04月22日 | 社会科教育
《弥生時代から始まる教科書》
 「円周率が3で良いのか?」との物議をよんだ小学校教科書ですが、6年生社会科教科書(歴史)を開いて驚きました。日本の歴史がいきなり弥生時代から始まるのです。縄文時代や旧石器時代は全国の小学校教科書から消え去っているのです。

《新たな発見が続く縄文時代史》
 ここ20年ほどの間で日本の歴史が一番塗り替えられたのは縄文時代です。私が教員になった1970年代の中学校教科書で教えていた縄文時代の生活は、洞穴や粗末な竪穴式住居に住み農耕は知らず狩猟と木の実を採集する暮らしをしていたと教えていたのです。一万年も続いた縄文時代は『停滞の時代』と考えられていたのです。

《否定された縄文時代の後進性》
 その後、縄文式土器の底から炭化した米の発見が相次ぎ、更に1992年青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡の発掘調査によって縄文時代のイメージは一変します。弥生時代以降(約2000年前)の建築物と考えられていた高床式倉庫が、実は5000年も前から作られていたのです。そればかりではなく高さ20mはある神殿とも楼閣(ろうかく)とも考えられる『高層建築』さえもが建てられていたことが分かりました。更に人工的に作られた栗林などの果樹園も発見されたのです。
 縄文時代の後進性は否定され、豊かな古代文化が日本列島の各地で育(はぐく)まれていたことが明らかになりました。

《学ぶことの面白さ》
 確かに縄文時代の研究は始まったばかりで不明な点も数多くあります。しかし大陸から米作りが伝わる前に、縄文人が日本列島の各地で気候や自然環境に適した文化を力強く創り上げてきた事実を知ることは、歴史学習を始める上で大切なのです。古代人には21世紀を生きる私たちも及ばないような知恵や技術があったことを知ることが、歴史の面白さに触れることになると思うのです。
 古代史は新たな発見や研究によってそれまでの『常識』が覆されることの連続でした。現在進行形の学問だからこそ、学ぶことの大切さを子どもたちが理解することにつながるのです。

《待たれる教科書の改定》
 教科書の作成は文部科学省の定める学習指導要領(全国的な学習目標の基準)に則して行われます。スリム化や精選を頭から否定するつもりはありませんが、基本までもがそぎ落とされてしまっては子どもたちにとっても不幸です。次回の学習指導要領改定により、小学校教科書に縄文時代が復活する日が来ることを望みます。


鍵盤叩く

2007年04月19日 | 短歌・詩
嫌いだった習わせられたこのピアノ 鍵盤叩く母亡き今も (東京都高校2年 萌子17歳)

子どもにピアノを習わせることが親たちのささやかな夢であった時代がありました。青春時代に戦争と飢えを体験した1920年代生まれの親たちは、高度経済成長の恩恵を受けた1960年代に子育て時期を迎えました。当時の親たちにとってピアノは平和と豊かさの象徴だったのではないでしょうか。近所で女の子がいるどの家からもピアノの音色が聞こえました。(そのとばっちりは私にも来そうになった)

家計に大きな負担を強いて購入されたピアノも10年も経てば大抵ほこりをかぶったり、物置台になっていきます。ところが孫(特に女の子)が生まれると、再びピアノに陽の目が当たります。母が弾けなかったピアノを娘に(母に弾けたのだから娘にもという場合もある)そんな願いが、プレッシャーにもなったと思います。

しかし母親から勧められた(強制された?)ピアノの練習が、いつしか自分の心を満たしてくれるようになる場合もあります。あれだけ嫌だった練習が亡き母親と自分を繋ぐ糸のように思えるのではないでしょうか。

そういえば卒業式の歌の伴奏をしてくれたN君。普段はサッカー部で活躍し真っ黒に日焼けした君がピアノを弾く姿に、参加したお母さん方から「カッコいい!家に連れて帰りたい!」という感嘆の声があがっていました。普段はパッとしなかった(失礼!)音楽科S先生の口癖は「クラブでピアノの弾き語りをするとモテルんだ」でした。下心は別として、男のピアノも素敵です。


目標が一日一日を支配する

2007年04月18日 | スポーツ
 イチローと松阪の勝負は野球ファンだけではなく、多くの国民の関心を引き付けました。1999年の西武入団から8年を経て日本プロ野球界を代表する投手となった26歳の青年が、果たしてアメリカで通用するのか、活躍する先輩イチローとの対戦はどうなるのか、見る人の話題は尽きません。
 しかし華々しいニュースの陰で私には忘れられない思い出があります。それは1998年大晦日のニュースです。松阪大輔が西武の東尾監督(当時)と連れ立って除夜の鐘を突いた後、色紙に書いた言葉が「目標が一日を支配する」というものでした。明確な目標を持つことが毎日の暮らしを有意義なものにするという意味です。聞けば松阪にとってのメジャー入りは、子どものころからの夢だったと言います。甲子園での優勝や『平成の怪物』と呼ばれたプロ野球界での活躍に一喜一憂することなく、常に目線は太平洋の彼方にあったのだと今更ながらに思い知らされたのです。
 振り返って私たちはどうでしょうか。特に中学生の皆さんは、自分の目標を持ち続けているでしょうか。小学校の卒業式で皆さんが語った将来の夢を中学1年生の皆さんは覚えていることと思います。皆さんの毎日は、将来の夢に向かって前進を遂げているでしょうか。新学期に今一度自分の目標について考えてみて下さい。

NHK放映『5年後への手紙』~中学校の取り組み

2007年04月10日 | 進路保障
《5年後への手紙を始めた親たちの思い》
中学校の卒業へ向けた取り組みが3月25日(日)NHK『にっぽん紀行・5年後への手紙』として放映されました。5年後の自分に手紙を送る取り組みは、10年前に保護者の働きかけで始まりました。卒業を前に『白いポスト』に投函した手紙が成人式の日に『おやじの会』の手で配達されるのです。

『おやじの会』の中心となったAさんが(テレビでも登場していました)PTA役員会でこんな話をされていたのを覚えています。「私は勉強も学校も大嫌いでした。息子も勉強が好きではないのですが、とても楽しそうに学校へ行くのです。私にはそれが不思議でなりませんでした。PTAの役員をやらないかと言われたとき最初私は断ろうと思ったのですが、勉強嫌いな息子があんなに楽しそうに学校に通うのは何故なのかを知りたくて役員を引き受けることにしました。」この服部さんの思いは「15歳のときに描いた夢を忘れず卒業後も希望を持って生きて欲しい。」という願いとなり、『5年後への手紙』の取り組みが生まれたのです。

《オリンピック出場という夢》
中学3年生のときに各自が描いた夢は必ずしも実現できるわけではありません。登場した二人は、いずれも順調とは言えない道を歩んでいました。水泳部で頑張っていたWさんは「オリンピック出場」という夢を手紙に書いていました。簡単にオリンピックという夢を書いたWさんは、高校・大学で多くの強豪選手に出会うたびに夢が遠のいていくのを実感します。そしていつしか中学のときのような『ひたむきさ』が自分の中から消え去ろうとしていることに気づきます。

そんなとき二十歳の同窓会で『5年後への手紙』を受け取るのです。Wさんは大学生になった今も水泳を続けていますが当面の目標は『関西学生選手権大会』。この試合で上位に入れば「オリンピック」には遠いとはいえ全国大会への道が開かれるのです。練習中に起きた右肩の故障、当日襲った38℃の熱の影響もあり結果は5位で全国大会出場はなりませんでした。にもかかわらずWさんの笑顔は爽(さわ)やかでした。今より上を目指し全力を尽くすという中学のときと同じ思いで泳げたことが試合後の笑顔につながったのです。

中学3年生のときに各自が描いた夢は、必ずしも実現するわけではありません。登場した二人は、いずれも順調とは言えない道を歩んでいました。水泳部で頑張っていたWさんは「オリンピック出場」という夢を手紙に書いていました。簡単にオリンピックという夢を書いたWさんは、高校・大学で多くの強豪選手に出会う中で夢が遠のいていくのを実感します。そしていつしか中学のときのような『ひたむきさ』が自分の中から消え去ろうとしていることに気づきます。そんなとき、二十歳の同窓会で『5年後の手紙』を受け取るのです。大学生になっても水泳を続けていますが、当面の目標は『関西学生選手権大会』。この試合で上位に入れば「オリンピック」には遠いとはいえ全国大会への道が開かれるのです。練習中に起きた右肩の故障、当日襲った38℃の発熱の影響もあり結果は5位で全国大会出場はなりませんでした。それにもかかわらずWさんの笑顔は爽(さわ)やかでした。今の自分より上を目指し全力を尽くすという中学のときと同じ思いで泳げたことが試合後の笑顔につながったのです。

《看護士になりたいという夢》
看護学校不合格後、病院で介護の仕事をしていたYさんは、昨年手紙を受け取り、中学生からの夢であった看護士になるための勇気をもらいました。しかしその後手紙の中身が重荷となり、毎日持ち歩いていた手紙を読み返すこともカバンに入れることもできなくなります。看護士の資格を取るまでの間だけすると考えていた介護ヘルパーの仕事に、やりがいを感じるようになったからです。しかし一方で介護の仕事をすることは看護士になりたいという夢への裏切りではないかと悩みます。そんなとき相談にのってくれたおばあちゃんの「人の世話をする立派な仕事をしていると思うよ」という言葉に心を動かされます。自分が求めているのは肩書きではなく「人の世話をし安心を与え信頼される仕事」「やりがいを感じられる仕事」だったことに気づくのです。迷いを乗り越えたYさんは介護の専門学校に通うことを心に決めるのです。

《目標を叶(かな)えられずも目的を叶える》
看護学校不合格後、病院で介護の仕事をしていた高山さんは昨年手紙を受け取り、中学生からの夢であった看護士になりたい決意を新たにしました。しかしその後手紙の中身が重荷となり、毎日持ち歩いていた手紙を読み返すこともカバンに入れることもできなくなります。看護士の資格を取るまでの間だけと考えていた介護ヘルパーの仕事に、やりがいを感じるようになったからです。しかし一方で介護の仕事をすることは看護士になりたいという夢への裏切りではないかとも悩みます。そんなとき相談相手となったおばあちゃんの「人の世話をする立派な仕事をしていると思うよ」という言葉に迷いが吹っ切れます。自分が求めているのは看護士という肩書きではなく「人の世話をして信頼される仕事」「やりがいを感じられる仕事」だったことに気づくのです。迷いを乗り越えた高山さんは介護の専門学校に通うことを心に決めるのです。

《25/2000分~真実へたどり着くことの難しさ》
私は「中学3年生のときに各自が描いた夢は必ずしも実現できるわけではありません」と書きました。将来の夢、それは目標のようなものと思います。私たちは目標実現のため力を尽くしますが、目標の「標=しるべ」とは目指すべき「的=まと」へむけての道標(みちしるべ)にしか過ぎません。目標の向こうに目的があります。オリンピックという目標の向こうには今の自分より上を目指し全力を尽くすという目的があり、看護士という目標の向こうには人に信頼されやりがいのある仕事をするという目的があるのです。目標を叶えられるにこしたことはありませんが、たとえ目標を達成できなくとも目的を叶えることは可能です。そんなことを二人の卒業生は教えてくれていると思うのです。


教育や子育ても、また同じではないかと考えます。15歳で見える義務教育の成果は僅(わず)かなものでしかありません。二十歳になって、やっと見えてくるものもあるのです。

卒業生の進路を聞く会

2007年04月06日 | 進路子どもの声
 ○○高校定時制課程2年の○○○○です。僕はずうっと進学したいと考えていましたが、中学3年生の夏頃はあまり真剣に進学や勉強のことを考えていませんでした。でもクラブは野球部で最後まで一生懸命頑張りました。

 僕の家はお店をしていましたが、私立高校は親に負担をかけるので受験しませんでした。公立高校だけに目標を絞っていたのです。僕と同じように公立高校の入試だけに賭けている者は他にいました。

 受験が終わり、一緒に受験した友だちと合格発表を見に行きましたが、僕の受験番号だけありませんでした。不合格だったのです。すぐに学校に報告しましたが、ものすごくショックで目の前が真っ暗になりました。みんなが声をかけてくれているのですが、僕には聞こえませんでした。自分独りだけが取り残された気になり、その場から逃げ出すように一人で帰ってしまいました。でもつらくてすぐに家に戻ることができず、家に帰ったのは夕方でした。心配した担任の先生が何度も家に来たと聞きました。その後に聞いた話やけど、同じ学校を受験した友だちが、僕の落ちたことをすごく悔しがっていたと聞きました。

 親と担任の先生と話し合って定時制高校を受験しました。今度は合格できましたが、気持ちは少しも晴れません。せっかく合格した定時制高校で頑張ろうという気持ちなかったのです。みんなより一年遅れてでもいいから、来年もう一度昼の高校を受けなおそうと思っていました。

 定時制高校は、夕方の5時半から9時まで勉強するので、昼は家の仕事を手伝っていました。でも半年ほどしてから今の会社(コピー機の販売とメンテナンス)に勤めるようになりました。職場でとても良い先輩に会うことができ、だんだん仕事にも自信がついてきました。そして一年がたった時、昼の高校をもう一度受験しようという気持ちはなくなっていました。合格した定時制高校を卒業しようという気持ちに変わっていたのです。こんな気持ちになれたのは、職場や学校でよい先輩や友だちに会えたからだと思います。

 高校進学という進路のひとつに定時制高校というものがあることを覚えておいてください。

就職激励会に参加した保護者の感想①

2007年04月04日 | 進路保障
 就職激励会が行われると聞いたとき、予定されている人の何人が出席してくれるのか、本当に激励会が子どもたちのためになるのだろうかと不安でした。人間はいずれ働くのだろうけど、15歳で就職することは今の世間の考えからすれば「どうして・・・高校に行かないの?」と思うのが当たり前になっているからです。私もそう思っていたものですから、本当はそっとして巣立たせてやったほうがいいのではと思っていました。

 しかし初めてこういう場に参加して、今まで学校を休みがちだったA君がこの場にいるのを見て涙があふれました。担任の先生がA君の家に足を運び、一緒に登校している姿をふだんから見ていたからです。そのA君がしっかりと自己紹介し自分が働く決意を語っているのを聞き、この激励会に参加させていただき先生や子どもたちから多くのことを学び感動を与えられたことに本当に感謝しました。就職していく一人ひとりが自分の幸せをつかんでほしいと心から祈りました。

就職者激励会に思う~友人への手紙

2007年04月01日 | 進路保障
 I君。同窓会の企画・運営、本当にありがとうございました。中学校卒業後30年を経て、懐かしいみんなとの再会を作ってくれたI君に心から感謝します。全国から150人を超える出席があったことには、本当に驚きました。13クラス、500名を超える同期メンバーの連絡先を調べ、手紙を送付し、先生方への招待を行った作業は、考えただけでも気が遠くなるものだったと思います。K電力の技術者として忙しい毎日を過ごすなか、よくぞ大役を引き受けてくれたことと思います。本当にありがとう。

 しかし亡くなった友人たちの黙祷で同窓会を始めなければならなかったことに30年という月日を感じました。若手医師としてスタートしたばかりのA君が夜勤明けに交通事故を起こし亡くなっていたこと、独特の魅力を持ち多くの男子生徒の気を引いていたB子が東京で自死していたこと、日航機御巣鷹山墜落事故犠牲者の中にC君がいてその死後に子どもさんが生まれていたこと、D子が誕生する子どもの命と引き換えるように出産で亡くなっていたこと、逝ってしまった同窓生はどのクラスにもいました。会いたかった友人にもう二度と会えなくなっていた現実を知らされたのです。

 人の寿命は私たちの力の及ばない側面もあるのですが、私にはもう一つ気になることがあるのです。それは「同窓会に出席するのは、それなりに幸せな生活を過ごしている者だけなんかな」という君が電話でつぶやいた言葉です。私はこの言葉を聞いた瞬間、遠い昔の光景が思い出されたのです。

 I君は私たちが高校に出願した日のことを覚えているでしょうか。あの日私たちは寒い体育館に集められました。出願を前にした私たちは、かなりの興奮状態だったと思います。そのときマイクを握った先生が「口と目を閉じなさい」と言ったのです。当時の先生は私たちが静かに話を聞かなければならないときによく目を閉じさせました。私は出願に向け先生の大切な話が始まるものと思い目を閉じました。ところが先生の口から思いもよらない言葉が出たのです。

 「就職する者は体育館の出口に集合しなさい」

 何人かが立ち上がる衣擦れの音がし、やがて私たちが座る列の間を通る静かな風が起こりました。体育館出口に置いてあったスノコがカタンカタンと音をたてたのが私の耳の奥に残っています。

 「口は閉じたままで目だけを開けなさい」

 目を開けそっと周りを見たときいくつかの空席ができていました。そして何事もなかったかのように出願に向けた先生の話が始まり、私たちは学校別に整列し直し高校へと向かったのです。電車に乗りそれぞれの出願に向かう私たちは、目を閉じている間に消えた同級生たちのことを誰も口にしませんでした。いえ受験のプレッシャーの中にいた私たちは、自分の意識から無意識のうちにこの出来事を消し去ろうとしていたのかも知れません。

 私がこの日のできごとに向き合わされたのは高校入学後でした。「三無主義」を吹き飛ばそうと精力的に取り組んでおられた高一の担任は、夏休みを利用し私たちをクラス合宿に連れ出したのです。夜のミーティングで先生が現実逃避的な私たちを変えようと熱っぽく語っているときに、私は「僕たちってそんなに変わらんやろ。」と軽く言ってのけたのです。真面目な論議を揶揄した私の一言を先生は聞き逃しませんでした。「何を甘ったれたことを言うてるんや。変わらへんのは自分が変えようとしないからやろ。君らの中学校時代の同級生は全員高校に行ってるんか。働いている同級生はいないんか。君らは変わるチャンスを与えてもらってるんと違うんか。」

 このとき私は自分の冷たさを知り、初めてあの出願のときの出来事に向き合おうとしたのです。君も覚えているように、当時は高度経済成長の只中で高卒労働者は『金の卵』ともてはやされ、中卒労働者にいたっては万博の人気者に因んで『月の石』とも言われました。しかし私たちの多くは『金の卵』や『月の石』に望んでなろうとは思いませんでした。受験生ブルースを歌い受験体制を批判しつつも、私自身はその枠の外にいる同級生たちから目を逸らしていたのです。

 なぜ先生は目を閉じるように言ったのか。就職する同級生たちはどのような思いで体育館を後にしたのか。私はこの二つのことを考えました。そして、この二つの疑問に自分なりの答を出そうとして中学校教員という道を選んだように思います。

 私なら就職する子どもたちをどのように送り出すことができるのだろうか。

 これに対する私の一つの答が『就職者激励会』でした。就職する仲間の決意から学び、仲間が働いているという現実から自分が学ぶ意味を考える、これが就職激励会の目的です。私は30年前に同級生の口から聞くことができなかった言葉を就職する教え子から学ぼうとし、試行錯誤を経ながら学年協議会(生徒会)主催の就職激励会を始めたのです。

 あの夜は偶然にも、しし座流星群が数百年ぶりに日本列島へ大接近した日でした。私は同窓会の興奮と酒の酔いを醒ますため、東の空が白むまで毛布に包まりながらテラスで流星を眺めていました。懐かしい友人との再会は心弾むものでしたが、会えなかった、いやもう二度と会えなくなった友人たちへの想いが、私を夜空に釘付けにしたのだと思います。

 お礼の手紙がすっかり感傷的なものになってしまいました。しかし君が言った「同窓会に出席するのは、それなりに幸せな生活を過ごしている者だけなんかな」という言葉に私が返事に詰まったのには、こういった訳があったのです。体育館でのあの別れが、私たちの今に繋がっているのではないかと思うのです。

                 200×年 しし座流星群の明けの日に