■本日の言葉「final resting place」(永眠の地)■
英語メディアが日本についてどう伝えているかご紹介するこの水曜コラム、今週は群馬県の八ツ場(やんば)ダムについてです。外国メディアはあまり大きく取り上げていないのですが、ニューヨーク・タイムズが先週、詳しい記事を掲載しました。前文からいきなり、「墓場と十字架」のイメージを喚起して。(gooニュース 加藤祐子)
○八ツ場は戦後日本秩序の墓場か
八ツ場(やんば)ダムに関するニューヨーク・タイムズ記事は15日付。マーティン・ファクラー特派員自ら、群馬県長野原町へ足を運んで取材している、詳細な記事です。
前文からいきなり、こう。「森深い山間には今でも、深い建設重機の金属音が響き渡る。ここでは固い作業帽をかぶった大勢の男たちが忙しそうにコンクリートを流し、斜面を切り開き、巨大な、そして未完成の橋を築き上げる。谷底にそびえ立つコンクリートの橋梁(きょうりょう)は、まるで巨大な墓場にいくつも立ち並ぶ十字架のようだ」と。
「巨大な墓場の十字架のよう」と描写するのは「ふさわしいたとえに思える(It seems an apt analogy)」とファクラー記者。というのも新政権は八ツ場ダム予定地のこの渓谷を、「莫大な公共投資に依存していた日本の戦後秩序にとって、実に象徴的な永眠の地にしたのだから(symbolic final resting place for the nation’s postwar order, which relied on colossal public works spending)」と。
記事は、人口6400人の町が、巨大な新政権に真っ向から反対していることをとらえて、「David and Goliath battle」と呼んでいます。旧約聖書で青年ダビデが巨人ゴリアテを打ち倒した旧約聖書の物語にちなんでの表現ですが、宗教的な意味はまるでなくても「大きなものに小さなものが立ち向かっていく」という比喩でよく使われます。
特にこの「小さな町が巨大な政府に反抗する」という筋書きは、それだけなら多くの(特に保守層の)アメリカ人の大好きな展開です。ただし日本の場合、「政府は自分たちの生活に介入するな」と反発しているのではなく「(公共投資という)介入を続けてほしい」と政府に反発している。
これは(一部の保守派の)アメリカ人からするとちょっと分かりにくいはず。なので、この記事は全体状況を詳しく説明し、長野原の住民のダム賛成派と反対派の声をいろいろと紹介。
いかに地元経済がダム建設の公共事業に依存してきたか。新しい生活基盤の計画も全て、ダムができてダム湖ができるという前提で組み立てて来たのに、それを一気に白紙に戻されたのだと。
記事は「ダムが中止されたらどうやって食っていくんだ?」という住民の声を紹介する一方で、「ダムのおかげで毎年、金が湯水のように流れ込んできた。ダムは麻薬みたいなもの」という住民の声も紹介。また実はダム建設に反対だという農家の声も紹介した上で、「重ねてしつこく尋ねると(when pressed)」、「ダムが好きだと認める地元住民はほとんどいない。しかしダム計画なしでどうやって町が存続できるのか、想像できる住民もほとんどいない」と。
そしてダム推進派と反対派の対立の中心にあるのは、日本の巨大な公共投資による「いちばん厄介な遺産(thorniest legacy)」のひとつだと。つまり公共投資を中心に据えて回ってきた日本の戦後秩序の、何よりも厄介な遺産は、「中央政府の財布の紐にほぼ完全に依存しきっている地域社会(the near total dependence of local communities on the purse strings of the central government)」なのだと。
○政権交代のある国だから
これを読んで、アメリカ人はどう思うのでしょう。アメリカでも、地元権益(農業灌漑とか漁業とか)を守るためのダム建設に中央政府が介入するというのは、ない話ではありません(最近では米西岸地域で、農業利権を優先して川の流れを迂回させたブッシュ政権に対して、生態系と漁業権保護のためにオバマ政権がこの決定を覆したというやりとりがありました)。
けれどもニューヨーク・タイムズ記事によると、日本では2005年現在で建設中の大型ダムは60基で、世界4位だったと。国土面積はカリフォルニア州よりも狭いのに。狭い日本そんなに急いでどこへ行くではありませんが、そんなに狭い日本にそんなにダムを造ってどうするんだ——と、私がアメリカ人読者なら途方に暮れると思います。
アメリカでは今、「変化」を掲げた新政権発足から10カ月がたって、「変化なんてイヤだ」という本音を口々に唱える保守層の反動でかなり混乱しています。自分たちの大統領がノーベル平和賞に選ばれても、諸手を挙げて歓迎するどころか、好意的な人でさえ(そして当人も)「……え……?」と当惑し、反対派は「なんじゃそりゃ!」と激高するというくらいに。
特に医療保険改革をめぐっては前も書いたように、選挙中は、保守・リベラルを問わず誰もが「医療保険は改革しないと」と言っていたものが、いざ改革案がいくつか提示されてみると「こんなのはダメだ」と反発するという、揺り戻しが起きているのです。
4~8年ごとの政権交代に慣れっこのアメリカでも「国民皆保険」なんていう自分たちは経験したことのない、むしろ社会主義的でヨーロッパ的(ここでいうヨーロッパ的とは決して褒め言葉ではありません)なものを前に、拒否反応を示すわけです。
だとしたら、戦後ずっと政権交代がなく、公共事業で地方に金を落としてそれで集票して政権維持するという仕組みが50年以上続いた日本ではどうだろう。ああやっぱり。政権交代から1カ月でさっそく反発が噴出している……という視点が、そうは書かれてはいないものの、何となく感じられる記事です。
長年にわたって当たり前のものとして与えられていた既得権益とか、もっと広範に、何十年にもわたって染み付いてきた暮らし方そのもの・生活に対する考え方そのもの(our way of life)が、こうやって一気にひっぺがされてしまうこともある。政権交代のある国というのは、そういうところなんだよという言葉にならない声が、何となく聞こえるような、そんなニューヨーク・タイムズ記事でした。
八ッ場ダム
これが政権交代と言う事はアメリカも同じようようだなー!?