平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

一周年シリーズ、「吟遊詩人は我が本意に非ず」後編。

2006年03月31日 | 私小説
親愛なるアッティクスへ

で、昨日の続きです。

あ、誤解のないように、ここで申し上げておきますと、私は、「吟遊詩人のような生き方を良し」とされている方を批判しているわけでも、こき下ろしているわけでもありません。
むしろ、どちらかと言うと、今は、少し、羨ましくもあります。
つまり、少年の日の私には、それだけ、野心が溢れていた・・・ということです。

「酔うては枕す美人の膝、覚めては握る天下の権」
これは、後藤田議員と、女優水野真紀さんの結婚式小泉首相が引用した桂小五郎作の漢詩だそうですが、こういうのを聞くと、久々、年甲斐もなく、胸が躍ってしまいました。
男と生まれたからには、やはり、できるものならば、こういう生き方をしたいものです。

「少年の夢、今何処 
       身は、もはや空蝉(うつせみ)となりて
                 ただただ唇を噛むのみ」
 
                             by平太独白・・・。

もっとも、小泉首相独身ですから、(建前上?)独り寝だそうですが・・・(笑)。

で、本題です。
昨日述べましたとおり、このブログを始める前、大いなる惑いの中にいた私でしたが、私がこうなったのも、実は、すべては孫 正義という天才毒気に当てられたからでした。
2004年後半、彼が福岡ダイエーホークス買収に名乗りを上げたとき、彼は「世界一の球団を目指す!」と言い、「そうでなければ日本のプロ野球アメリカの二軍になる。」とも言ったことに、私は、もの凄い衝撃を受けました。
まだ、「選手の給料が高すぎる」、「球団の数が多すぎる」などなどとケンケンガクガク言っていた頃の話です。

私はハッとしました。
確かに彼の言うとおりで、他に選択肢なんてないじゃないかと・・・。
彼は、新規参入だ、一リーグ制だ・・・と、まだ、混沌の中にある時に、快刀乱麻!「我々の目指すべきは、あそこだ!」と道を指し示した・・・、いや、指し示し得たわけです。
「凄い!」と慄然としました。
これこそが、将たる者に必要な能力だ・・・と。

では、振り返ってみて、我が身はどうかと。
当時、色々、考えました。
でも、み~んな、手段であって、方向ではないんです。
私が目指す方向性とは何なのか????
そう考えたときに、どうしても孫さんのような明確な答えが見つけ出せませんでした。
つまり、孫正義の毒気に当てられた・・・、それが惑いの原因でした。

で、昨日のアレキサンダーを見ての、「吟遊詩人は我が本意に非ず」になるわけですが、ここで、実業人の道へ歩みを戻そうとした私は、多くの人と交わり、アンテナを張り巡らせる為にも、やはり、何らかの会へ所属しようと思いましたが、ただ、某クラブや某会などの既存の会にはあまり、魅力を感じませんでした。
そこへ、友人から京都で開かれるある会に誘われたことから、まあ、観光がてら出席してみようと思い立ち、ついては、そういう晴れがましい会に参加させて頂く以上は・・・ということで、先日から述べております通り、そこから、ブログへと繋がったわけです。

もし、孫正義という人物が、プロ球団を買収しなければ・・・。
もし、アレキサンダーという映画を見なかったら・・・。
もし、拙著を出版していなかったら・・・。

まあ、もっとも、私は元来が、結構、退屈しない人間のようで、すぐに、何かを見つけてくるようです。
それだけに、今頃は、ブログ以外の何かをやっていた可能性が高かったかもしれませんね(笑)。

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一周年シリーズ、「吟遊詩人は我が本意に非ず」前編。

2006年03月30日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

李白だったでしょうか、以前、詩人が詩を詠んで放浪して廻っていたとき、経済的困窮し、その日の事欠きながら、危ういところで詩人仲間庇護されたという話を聞いたことがあります。
その仲間は詩人でありながら、代官か何かの官職を持っていた為、詩作活動をやりながら、同時に経済的にも恵まれていたとか・・・。

当時の芸術家は著作権というものがないわけですから、貴族などのパトロンタニマチ、あるいは、スポンサーと言い換えてもいいのでしょうか・・・。)というものを持たない限り、基本的に収入とは無縁だったのでしょうが、それでも、子供の頃、この話を聞いたときに、「放浪し飢えながらも、詩作に興じる吟遊詩人は、我が本意に非ず。私としては、武将として有能でありながらも、詩をそらんじ、文を巧みにする曹操やカエサルのようにありたい。」と強く思いました。
もっとも、今日、詩人として、その名を残しているのは、官職を持ちながら詩を巧みにしていたこの人物ではなく、飢えながらも一芸に身を投じた李白の方なのでしょうが・・・。

で、またもや、昨日の続きです。
一年前、このブログを書き始める前頃、不惑と言いながら、私には惑いがありました。
即ち、物書きとして生きていくべきか、実業人として生きていくべきか・・・というものでした。
この辺のことについては、以前、平太郎独白録 「我が心の師、大橋武夫氏の叱咤に想う秋霜烈日的ブログのヨロク!」の中でも、少し触れましたが、当時、笑われるかもしれませんが、初めての著書を出版したことで、私の気持ち的には、「字を書いて飯が食えるなら、少しくらいひもじい想いをしても、これこそが私にとっての天職だろう。」という感を強くしておりました。
しかし、現実には、糊口をしのぐという程度にさえ、ほど遠く・・・。
私も若くて、独身であったなら、李白のように孤高の中に身を投じたかもしれません。
が、残念ながら、それほど自由が利く身の上でもありませんでした。

以下は、当時、知己に当てて送った私のメールです。
日付は2005年3月7日となっております。
オオサンショウウオ・・・じゃなかったご参照下さい(笑)。
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本業の方も、決して、いいとは言えない状況の中、最近、考えれば考えるほど、改めて、やはり自分には物書きしかないのではないか?と思い始めたのです。
先般も申し上げたとおり、理論実践というのは車の両輪だと思っておりますが、それを併せ持った信長のような人物はともかく、なかなか、この二つを併せ持つというのは至難のようで、特に私は理論だけの人間のようで、その事を最近、強く痛感しております。
とは言っても、すでに、「自信作」で箸にも棒にも引っかからなかったわけですから、到底、お笑い草でしょうが・・・。

で、今の自分としては、
「煩わしい人間関係とはおさらばしたい!」という作家徹底内面掘り下げ→隠遁方向へ走ろうとする自分と、
「新しい人脈を開拓し、もっと、視野を拡げなくては!」という実業人情報開拓→積極外交方向という本来の自分に立ち返らなければという二人の自分が葛藤を繰り返しており、それがここ数ヶ月の悩みの元凶でした。
つまり、内向きになろうとする自分と、現実に目を向けようとする自分葛根湯・・・じゃなかった葛藤しておりました次第です。

今日、私は仕事をさぼってある映画を見に行ってきました。
「アレキサンダー」という映画です。
(この辺のことは、平太郎独白録 「アレキサンダー大王の強さの秘密、『時間差攻撃!』」及び、平太郎独白録 「『もったいない』は、現代日本に於いては罪悪である!」をご参照下さい。)
それを見ているうちに、おぼろげな像がはっきりと形を結びました。
即ち、それが「吟遊詩人ハ我ガ本意ニ非ズ」です。
私は、少年の頃から、衣食足りずしての芸術活動は私の理想とするところではない!とはっきりと思っていたはずではなかったか・・・。
「そうだ、俺にとっては、経済的な自立無くして芸術を追究するのは、我が本意ではなかったはずだ!」と・・・。
そう思い出しました・・・。
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続きは、明日のココロだ~ということで、ひとつ、よろしく、御同輩。

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一周年シリーズ、勝利の花火と老婆心的張本勲の打撃術。

2006年03月29日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

いやあ、昨日も勝利の美酒に酔いしれてしまいました・・・。


(まさしく、狂喜乱舞・・・(笑)。)

明け方、気が付いたら、テレビは付けっぱなし・・・、焼酎のコップは中身が入ったままで携帯と一緒に枕元に・・・(笑)。

危うく、携帯が焼酎漬けになるところでした・・(汗!)。

でも、西武も、明らかに抑え投手がいないんだな・・・というのがわかりましたね。
最終回なんて、ホークス打線、皆、端から見てもわかるくらいに自信満々で打ってましたから・・・。
まあ、西武も、それでなくとも優秀な人材は次々にFAして巨人メジャーに行っちゃう傾向にあるのに持ってきて、親会社はおかしな事になってるわ・・・じゃ。
何だか、かつての、ダイエーを見るような想いもして・・・。


(昨日も見ることが出来ました、ホークスが勝った日にだけあがる勝利の花火です。ドーム内で花火が見られるというのも凄いでしょ!)

夕べに隆盛を誇った者も朝(あした)には滅ぶ・・・じゃないですが、大企業と言えども、その理屈からは逃れられないようですね。

さておき、当ブログを書き始めるに当たっての契機については、前回、前々回で述べて参りました通りですが、何度も述べております通り、お陰様をもちまして、当ブログも、一年間、一日一件、コンスタントに書き続けて来られたわけですが、この点で、アドバイスというと少々、口幅ったいのですが、継続していく上において、私が気が付いた点、気をつけている点を、何かのご参考になればと思い、ここで述べさせて頂こうと思います。
重要なのは、まず、第一に、「人間、何事も充電というモノが必要と言うこと。」
それから、「書くことをプレッシャーだと感じないようにすること。」
この二点だと思います。

まず、私の場合は、根っからの文字人間なのでしょう。
心のどこかで、「あれ?!完全にネタに詰まったかな・・・。」などと思うときも、なるべく、そういうことを考えないようにして、昔、読んだ雑誌に書いてあった「いい話」などでお茶を濁したりしているうちに、(おっと、内緒ですよ(笑)。)車のラジオなどを聞いていると、ふっと、いいものが浮かんだりして、大体、2~3日で復活するようです。
これが充電完了なのかも・・・。

もうひとつ言うならば、私の場合、一日一件という姿勢を基本的に崩さないようにしております。
当初、この形が定まる前は、一日に3件UPしたこともありましたが、今では、今日2件書けるとしても、1件しかUPしません。
だから、せっかくの旬の話題数日遅れでUPされることも珍しくないようです(笑)。

また、人間ですから、いつもいつも、納得のいくモノが書けるというわけではないでしょう。
そういうときには、思い切って、手を抜きましょう
私は、「特に今回は書く内容がないな・・・。」というときは、書きためているもので、ちょっと、量が少ないなというものに、適当に「忙しいからこれで」というコメントと共に、画像などを載せて、量を確保します(笑)。
これが、「何か、いいものを書かなきゃ!」と思って、新聞、雑誌、ネット、テレビなどの媒体漁りに追われ出すと、これがノルマ課題のようになり、それが、やがてプレッシャーになってくるように思えます。
(でも、アンテナを降ろすわけではありませんから、いつも、メモペンは持ち歩いていますよ。パッと浮かんだときに、すぐに書けるように・・・。)
だから、絶対に、「あ、もう、書けないのかもしれない・・・。」などとは思わないようにしています。
つまり、全打席ホームランを狙わないということですね。

かつて、3000本安打日本通算最多安打記録を樹立した張本勲氏には、意外に知られていないもう一つの記録があります。
今では、多くがバースイチローに抜かれたとはいえ、現役時代、「安打製造機」と呼ばれたほど、ヒットを打つのがうまかった張本氏ですが、その氏でも、やはり、調子の悪いときがあり、そういうときには、張本氏は、わざとキャッチャーミットに当たるように振ったと言います。
つまり、打撃妨害ですね。
カ~ッツ!と言わないで下さい(笑)。)
で、これが、一番多いのが張本氏だそうです。
打撃妨害となると、当然、四球と同じく無条件で一塁へ歩けるわけで、本来なら、打ってもアウトとなり、1打数0安打となるはずのところが0打数0安打となるわけで、何差で熾烈な打率争いを繰り広げることが多かった張本選手にとっては、これが、後々、大きな意味を持ってきたと思われます。
(実際、張本氏は.333で首位打者を他の選手と分け合うという珍記録(?)もあります。)
これをアンファアな行為とみるか、職人芸とみるかは置くとして、彼が数々の打率記録を打ち立てる上では、一助になったことは間違いないことでしょう。
ということで、まったくもって、余計なお世話かもしれませんが、まずは老婆心とお笑い下さい。

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とりとめもない一周年の余韻と世界最大のオーロラビジョン。

2006年03月28日 | 私小説
親愛なるアッティクスへ

さて、当ブログは、先日から、既述しております通り、昨年の3月下旬から書き始めたのですが、書き始めた時点で、すでに書きたいことが山のように貯まっていたモノで、ちょいと、一ヶ月くらいさかのぼって3月1日から始めたような形で始めてしまいました。
ところが、そのうち、日が経つに連れて、やはり、実際に始めた日に合わせるべきでは無かろうか・・・と思い始め、改めて、調べてみたら、これがわからない・・・。
で、色々調べた結果、去年の手帳の3月25日の欄に「ブログ開始」の文字が・・・。
ということで、厳密にはわからないけど、そこは、何事もアバウトな県民性福岡人らしく、「まあ、これでいいや・・・。」と(笑)。

で、始めるに当たって、元々、ブログという物の存在は、以前、誰かが経済誌に寄せていた記事で知っていたものの、作り方や専門用語などはさっぱりわからず、いずれ、ヒマになったら始めよう・・・と思い、放り出したままになってました。
(結構、これが多いんですよ。必要に迫られないとやろうとしないという・・・(笑)。)

ところが、去年の四月に、友人から、京都での、ある会への出席を誘われたことで(この辺は、平太郎独白録 「月はおぼろに東山~♪秋田人ハセガワ氏と見る等伯の渾身の筆!」をご参照下さい。)
、まあ、そういう晴れがましいような会に出させて頂くのであれば「ブログやってます。」くらい言わなきゃな・・・と思い、それで、急に始めた次第でした。


(そのときの、京都の夜桜と舞子はんどすぇ。ちょっと、ピンぼけしてますけど、これもまた、風情があって、よろしおすどっしゃろ(笑)。)

で、まずは、とりあえず、書店に行って、ガイドブックを買ってきて・・・のスタートだったのですが、最初買ったガイドブックは、ライブドアのものしかなく、仕方なし(?)にライブドアで始めました。
(さすがに、最近は、トラックバックコメントくらいは理解しましたが、未だにPING送信などはよく理解していません(笑)。)

最初はガイドブックを睨みながら、格闘してましたが、数ヶ月ほどして、ようやくシステムに慣れてきて、色々と知恵がついてくると、ライブドアの他にも色々とブログがあることに気付き、幾つか試行錯誤した後に、まずは、同時並行でgooを始め、昨年の7月中旬よりライブドアからエキサイトに完全に移行しました。
タダというのは、気軽に始められるから、本当に有り難いです・・・。)
で、色々、使ってみての感想ですが、まあ、各ブログとも、善し悪し・・・というよりも、私の需要合う合わないがあるようで、それもあって、今では同じ内容ですが、gooとエキサイトを並立させております。
まあ、どちらでもいいのですが、どちらかと言えば、エキサイトの方がメインでしょうね。

あ、今宵も、今から、ヤフー・ジャパン・ドームソフトバンクVS西武を見に行かなくてはなりません。
これは、福岡市民の義務です(笑)。
ちなみに、今日は世界のMVPとなった福岡人の婿松坂大輔投手が相手のようです。
婿・・・、つまり、松坂投手の夫人は福岡人です。



あ、そう言えば、ヤフー・ジャパン・ドームのオーロラビジョンは、今年から、大きくなって、さらに、ハイビジョンとなったのですが、ハイビジョンの画面としては、これは、世界最大の物だそうです。
あ、写っているのは、日本の四番打者、松中信彦選手です。
あ、ちなみに、近くには、東洋最大の観覧車というのもあります。
あ、ひょっとしたら、最近、どこかに抜かれたかもしれません。
あ、これ以上書いていたら、遅くなりそうですので、続きは明日のココロだ~ということで、ご理解下さい、御同輩・・・。

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2006年パ・リーグ開幕!そして二年目突入\(^O^)/

2006年03月27日 | スポーツ
親愛なるアッティックスへ

WBC世界一の余韻さめやらぬ中、パ・リーグでは先週の土曜日、2006年ペナントレース開幕しました。
もちろん、ヤフー・ジャパン・ドームへ、行ってきましたよ。

我が福岡ソフトバンク・ホークスと、宿敵千葉ロッテ・マリーンズとの開幕戦です。

ということで、今回もテストを兼ねて、携帯からの投稿を編集した物です。


プレイボール、つまり、2006年ペナントレースが開幕した瞬間です!)

試合自体は、まあ、ロッテは主力投手が投入出来なかったこともあり、ソフトバンクの圧勝でしたが、でも投手陣、気合いが入ってましたねー!
エース斎藤は、安定感抜群でしたし、ストッパー馬原なんか、WBCで使って貰えなかった鬱憤がたまってたんでしょうね。
最終回三者三振でしたから・・・。

それよりも、試合前のセレモニーで、両軍の日本代表メンバーが呼ばれ、その前には世界一のトロフィーが・・・。


(少し、わかりづらいでしょうが、一歩前に出ているのが代表メンバー、そして、そのもう一歩前に置いてあるのが、トロフィーです。)

そして、スタンドには日の丸・・・。
生まれて初めて、日の丸を見て泣きそうになりました(`_´ )ゞ

さらに、驚いたのが、試合終了後グッズの店に行ったら、入店するのに行列・・・入場制限・・・。
「???」と思ったら、「日本代表グッズ、残りあとわずか!」の貼り紙・・・。
慌てて、並んだら、すでに、アジア・ラウンド公式レコードプログラム子供用のTシャツのみ・・・。
それも、川崎、松中は、とっくに売り切れで再生産の見込みも立ってないとか・・・。

さらにさらに、驚いたのが、ショップを出て、ちょっと歩いたら、「最後尾」の立て看板を持った係の人がいて、メガホンを持って、「ここが最後尾です!大体、一時間待ちです!」と叫んでいたこと・・・。
で、改めて、ふと見ると、その前には、もの凄い行列が・・・。
聞くと、「WBC優勝のトロフィーが飾ってあるんです。」という答え・・・。



並ぶのはさすがに断念しましたが、行列の先まで行ってみよう・・・、あわよくば、隙間から見えるんじゃないかと思い、行ってみましたが、確かに、チラッとは見えました(笑)。
「お一人様、写真は一枚まで!撮ったら、すぐに出て下さい!」を連呼して、この状態!
それにしても、まあ、もの凄い行列でした。


(ヤフー・ドームでは試合後、ホークスが勝つと花火が上がって屋根が開きます。天気がいい日は、最初から開けてればいいのに・・・という突っ込みはやめてください。一回開けるのに、300万円かかるそうです・・・(汗!)。「屋根が開くとやっぱ広いや、ヤフードーム」絵本調に決めてみました。メルヘン・・・でしょ(笑)。)
でも、気持ちはわかりますよ。
やっぱ、皆、感動したんですねぇ・・・。

当初、WBCはスポンサーがなかなか、付かず、多くが、「松井秀喜選手が出るんなら・・・。」と言うことだったとか。
で、当の松井は「長島ジャパンだったら出た」んだとか・・・。

野球人気を盛り上げようと、皆が一生懸命になっているときに、そういうのを聞くと、ちょっと・・・。
ま、どこまでが本当かわかりませんけどね・・・。



さて、気を取り直しまして、一昨日も申しましたように、当ブログも二年目に突入したわけですが、お顔も存じ上げぬ方が大半なれど、暖かいご支援(時には、ご鞭撻も(笑)。)、何よりの励みとなりました。

お陰様で、当ブログは、原則、平日一日一件、欠かさずに記事を投稿して来ることが出来ました。
これも偏に、このような取るに足らない当ブログをお引き立て頂きました皆様あってのことと、改めて、感謝致します。

実を言いますと、当初はブログというモノがよくわからなかったこともあり、論文みたいにムリヤリ、長文にし、さらに、馴れるに従って、今度は、「そんなことしなくていいんだ・・・。」とわかってくると、また、本来の内容同士に分割して、改めて新たに投稿したり・・・などということもあり、また、もちろん、人間(?)ですから、体調が悪い日もあれば、多忙で書けない日もあり、そういうときは、書きためていたモノ、一度書いた物の焼き直しで済ますことも有りました。
従って、当初から読んで頂いている方の中には、「やつもネタに詰まったな。」とか、「手を抜きだした。」などと思われた方もいらっしゃったかと思いますが、何卒、今少し、温かい目と暖かい懐で見守ってチョーダイな、御同輩・・・(笑)。

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祝、一周年記念に見るアッティクスの素性と意図の相関性!

2006年03月25日 | 私小説
親愛なるアッティクスへ

このブログも2005年の3月25日より書き始め、本日で何とか一周年を迎えることが出来ました。
取るに足らない妄想程度のものであるにも関わらず、根気強くお付き合い下さり、誠に有り難う御座いました。

一年を終わると言うことで、今回は、このブログの副題でもあり、毎回、冒頭に掲げられていた「親愛なるアッティクスへ」という言葉について、述べてみたいと思います。

これまでにも、実は、度々、「アッティックスって誰?」、「どういう意図があってここに掲げたの?」と良く聞かれていたのですが、アッティクスとは、共和制末期ローマ実在したローマ人です。
世代的には、カエサル(シーザー)やキケロ同世代であったようで、ローマでは、それなりの有力者であったようです。
(もっと、わかりやすく言うならば、キリストのお父さん(?)の世代。)

カエサルキケロオクタビアヌスなどから、「親愛なるアッティクスへ」という書きだしで始まる、彼に宛てた手紙が多数残されたことで、当時を知る上では一級の資料となっているそうですが、逆に彼からの返信は殆ど残されていないとか・・・。
従って、それらの手紙を残した側の彼がどういう人物だったかは、あまり、定かではないそうです。
おそらく、それには、二通りのことが考えられるでしょう。

まず、ひとつは、カエサルやキケロなどのビッグネームからの物は、歴史的資料価値も高いことは元より、それなりの高値が付くということで、資産価値の高さにも繋がり、人々の保存意欲を高めたのではないかということ。
つまり、アッティクスの名では古新聞と同じであり、廃棄されるのに余り抵抗がなかったのでは?ということです。
そして、もうひとつが、最初から余り返事を書かない人ではなかったのか?ということです。
当時は、カエサルが権力を握る過程の時期であり、キケロなどの共和制支持者との権力闘争が激しかった時代です。
そこへ、両方とうまく付き合っていかねばならない・・・、つまり、遊泳術に長けた人物であったとすれば・・・いうことです。
そして、得てして、こういう人物は用心深いものです。
証拠となるような文書は残さなかった・・・。
それなりの信頼於ける者に、返答記憶させ、先方へ差し向けたのではないか・・・あるいは、それなりの協力の裏付け(越後屋、そちも悪よのう・・・です(笑)。)と一緒に差し向けたということも予想されます。

私は、あるとき、この、霧に包まれた、それでいて、ビッグネームが色々な相談をしてくるこの人物へ宛てて、手紙を書いてみようと思い立ちました。
そこから、手紙形式で自分の考えていること、思っていることを述べてみよう・・・と。
無論、アッティクスは私への返信は書かない・・・。
あるいは、カエサルもキケロも、彼に返信を求めていたのではなく、彼に手紙を書くことで、自分の考えをまとめていたのかもしれません。
私も、最近、明らかに物忘れが激しくなってきたのですが、それでも、一度メモに書けば、割と忘れないのですが、これが書かないと、もう、まるでだめおくんだからです(笑)。

で、そこへ、雑誌でブログという物を目にしました。
何だこれ?と思い、その道に詳しい友人に尋ねたところ、「アナタのような人には、ブログはいいよ。」と言われ、「無料」ということを確認し(笑)、始めた次第です。



(先日の亀山社中近くで撮った一枚です。私としては、何だか、昭和の臭いがする、理屈抜きに、結構、お気に入りの一枚です。まあ、特に文中とは関係ないのですが、一周年記念ですから、殺風景すぎるのも如何なものかなと・・・(笑)。何卒、ご理解ください・・・。)

ということで、そこから後のことは、またいずれ書くこともあるでしょう。
ということで、今後とも、ご贔屓に預かりますよう、伏して、御願い奉りまして御座りまする。
ということで、今から、パ・リーグ開幕戦「福岡ソフトバンクvs宿敵、千葉ロッテ」を見に行かねばなりませので、これにて、失礼させて頂きますが、昨日の夜になって、突然、取ったので、一緒に行く人がいない・・・嗚呼、世の無常を嘆くキケロ 梁庵平太でした・・・。

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春・・・そして、球春来たれり!勝負師としての智将三原脩。

2006年03月24日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

おかげさまを持ちまして当ブログも今日で丸一年が過ぎようとしています。
つまり、明日で一周忌・・・じゃなくて一周年!です。
ということで、本日は、テストとして、初めて、携帯から投稿してます。・・・って、今頃かよ!ですね(笑)。

ということで、ここからはPCからの編集投稿です。
やはり、携帯からだと、どうしても、字数に制限がありますね。
特に、今回のように画像を添付した場合、本当に一言、二言しか書けないという・・・。

で、春です!


春来たり。\(^O^)/ 陋宅よりの風景です。春!って感じが伝わってきますでしょうか・・・。)

「代表が 日本に春を 運びけり!」
             梁庵 平太         

王監督は、成田から帰国して4時間寝ただけで、昨日はもう、ホークスユニフォーム着て、報道陣の前に姿を現し、「こっちはもう、開幕戦に向けて、気持ち切り替えはできている。出来てないのは、選手たちの方じゃないかな?」と言われたとか・・・。

恐るべき、65歳!

いやはや、やはり、あの方は並じゃないですね(笑)。
私なんぞは、いまだ、世紀の一戦の二日酔いです。
やらなきゃいけないこと、たくさんあるのに、思い出しただけで、すぐにウルウル来ちゃって・・・(涙!)。

しかし、日本代表って、帰りのチャーター機の中って、イチロー大がいないとは言え、たぶん、修学旅行状態だったんでしょうね(笑)。
これって、修学旅行の後、一旦、学校で解散して、同じ方向に帰る者同士が、先生も含めて、同じ電車に乗ってるような感じでしょうか・・・。
この年になると、何だか、ものすご~く羨ましいというか、眩しいような・・・。
お金払ってでも、混じりたいって気分です(笑)。

で、気持ちを変えて、春と言えば、同じ春でも、球春来たれり!
甲子園では高校球児快音を響かせ、プロ野球では、パ・リーグは、明日、開幕です!
日本代表8人を送り出したロッテは、やはり、改めて、強い!と・・・。
日本代表5人の我がソフトバンクは、明日から、そのロッテとの対戦です。
この日本代表の数が、そのまま、パ・リーグは元より、今の日本国内での順位かと・・・。

でも、WBC、世界一の日本チームも帰国したことですし、開幕戦は、それでなくとも、チケットは入手困難なんですが、やはり、気持ちの高ぶりを押さえられそうにありません!

去年は、友人が前日に「スーパーボックスチケットが手に入ったから行なないか?」と言ってきたので、大喜びで行ったのですが、今年はどうやら、「ウサギが切株に激突したので、労せずして、うさぎを捕ることが出来た猟師が、いつまでも、その切株の横で待ってた。」状態ですね(笑)。(←長い!)。

ところで、当ブログの初期から、色々とコメントなどを頂戴しております、「またもや苦情ですか?ジンマーマンさん!」「WBC2次L韓国戦」という記事を拝見して思い出したことがあるのですが、将棋の十五世名人、大山康晴氏がA級を陥落する瀬戸際にあった時、吉報がもたらされたにもかかわらず、名人は「ファックスを送れ」と言ったとか…。
大山名人は、このとき、すでに自分の最終戦勝利で終えており、別の棋士の結果次第でA級残留が決まる・・・と言う局面でのファックス発言・・・。
それだけに、皆がいぶかるその中で、ひととおり棋譜を見終えた大山名人は「ふむ、反則はありませんな」と、一言、言って帰って行ったといいます。
つまり、自分に反則負けなどのミスが無いことを確認した上は、彼の勝敗などは自分に出来ることはないわけで、であれば、後の結果は、家に帰ってからでもいいというわけですね。
もし、「彼が勝って、貴方落ちましたよ。」と言われても、自分としては、それ以上、何も出来ることはないわけですから・・・。

この点は、私も学生時代、よく試験終了直後、同級生などが、「あそこ、間違った~。」「あの問題、出来た?」などと話しているのを聞いて、よく首をひねった物です。
終わった試験を振り返ったところで、その試験の成績が上がるわけでもなし、であれば、その分、次の試験に向けて勉強した方がいいじゃないかと・・・。

これを聞いて、私が思い出したのは、昭和33年巨人西鉄日本シリーズでのことです。
(おそらく、当時の福岡の街は、ちょうど、今回のWBCみたいな雰囲気だったのでは・・・。)
第五戦、伝説の名投手、稲尾和久氏の劇的なサヨナラ・ホームランで勝利した西鉄は、そのまま、勢いに乗り、3連敗の後の4連勝日本一という、これまた、劇的な結末に終わるのですが、この稲尾投手のホームランが出たときは、球場内には興奮したファンがなだれ込み、稲尾は自軍選手とファンによって、もみくちゃにされ、何が何だかわからない状態だったそうです。
で、稲尾さんの話では、このとき、ホームベース上では、もみくちゃにされてしまって、体が宙に浮くほどだったとか。
こんな、何が何だかわからない状態で、稲尾さんがふと、気づいたら、誰かが下で足を引っ張っているとか・・・。
「???」と思って、下を見ると、当時の西鉄ライオンズの監督で、智将と謳われた三原 脩監督が、宙に浮こうとする稲尾の足を、何とかホームベースに触れさせようとしていたと・・・。

こんな状態の時に、何たる冷静、何たる沈着!!
勝負師かくあるべし・・・。

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幻の都 安土をゆく その6 津田信澄の悲劇と明智一族の悲運。

2006年03月23日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

今日は、安土城シリーズに話を戻します。
私が行ったのは、2月14日のバレンタインデーでしたが、博多では雪などどこにもないときに、安土城を登っていくと、雪がちらほらあったのには驚きました。

で、先日、述べましたように、城跡をそのまま、登っていくと、織田信雄の墓の先に、私にとっては感慨深いものがあったのが、津田信澄屋敷跡があったことでした。


(この向こうに、秀吉が建てたと言われる織田信長の廟があります。元々は、信長の住居跡とか・・・。)

もちろん、これも、そう伝えられているだけで、はっきりと確定しているわけではないようですが、ただ、長男である信忠の屋敷よりも、この信澄の屋敷の方が、信長の屋敷に近いという・・・。
私が感慨深いといったのが、この点でした。

津田信澄とは、信長の家督相続時に、家督を争ったことで、兄、信長により暗殺された信長の実弟、勘十信行の実の息子、織田七兵衛信澄のことです。
(つまり、信長のになります。)


(復元された安土城天主最上階!7階。)

信長は、今日でも、他人には見事に割り切った態度を取る一方で、身内の結婚式にはどえりゃあ金を掛ける名古屋人らしく、他人にはもの凄く酷薄な態度をとるのに、身内には意外に細やかな情を見せています。

この点では、拙著、「傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯」の中でも書いたように、隣国である三河出身の徳川家康は、我が子に対して、対照的なまでに酷薄な態度をとり続けます。

家康の子供たちを、列挙してみるならば、長男は自殺、次男は飼い殺し、三男はイジメ、七男は追放・・・。
後は、早世したか、赤ちゃん(後の御三家)だったかですから、この点では、信長は父親としてみた場合には、やかましい面はあったにせよ、いい親父です。
自分が亡き後、相続争いが起こらないように、長男、信忠を立てて、宗家相続を名言し、さらに、念入りなまでに、次男、信雄は伊勢の名門、北畠家へ、三男、信孝は同じく神戸家へ養子に入っております。


(復元された安土城天主閣内部。6階部分。)

信長には、全部で11人の息子が居たと言いますが、嫡男信忠にも、すでに、息子がいたことから、信孝以下の子供たちは年の開きが大きかったことを考えれば、臣籍降下路線既成事実化していたでしょう。
信忠としては、長男のことをよく考えてくれている、有り難い親父だったでしょうね。
他にも、信長は、父、信秀の晩年に出来た子供たち(つまり、信長の弟)も、見捨てることなく、きちんと庇護しており、意外な面倒見の良さを見せております。

で、その津田信澄ですが、彼も、父、信行横死後、殺されてもおかしくなかったのに、信長によって、ちゃんと庇護されたばかりか、成長するに伴って、それなりの地位を与えられています。
(もっとも、信長が愛おしがったのは、織田家の血筋だけで、妹、御市が嫁いだ浅井家の血を引く甥や、政略結婚で嫁がせた叔母などには、残酷なまでの死を与えています。)
一門とは言え、あの!「人を能力でしか見ない」信長が、側近中の側近として重用、いや、寵愛という表現がぴったりのような処遇をしていることから、あるいは、相当に有能な人物だったのかもしれません。
ただ、この信澄と言う人は、父、信行暗殺という暗い影ゆえか、大変、運が悪い人で、信長の庇護の元、成長した信澄は、織田家重臣、明智光秀の娘を嫁に娶っており、この為、本能寺の変が勃発したとき、信澄は、岳父、光秀からは何の相談にも預かっていなかったにも関わらず、これまた、運が悪いことに、四国方面軍副司令官として出征しようとして畿内にあり・・・。
その結果、「光秀の娘婿だから!」と、勝手に決めつけた信孝によって殺害されています。
享年25歳だったとか・・・。

この信澄の人生を思うとき、伯父に殺され自身謀反人の婿となっていた為に、父を殺した伯父の子によって、問答無用で殺されるという・・・何ともやりきれないものを感じます。
本当にいるんですねぇ・・・。
不幸に生まれ、懸命に生きて、やっぱり、不幸な最期を遂げるって人・・・。
嗚呼無常って感じです。

思えば、明智一族というものは、その、美しすぎる名前がよくなかったのか、呪われてるんじゃないかというくらい運が悪いようです。
先日も述べましたように、光秀の長女は、荒木村重の息子に嫁ぐも、村重謀反離縁され、その後に、明智秀満再婚するも、父、光秀は主君、織田信長を討ち、謀反人として山崎合戦敗死
それに伴い、逃げ延びてきた夫、秀満を始め、一族もろとも、燃えさかる業火の中で死亡。
さらに、別の娘は、細川忠興に嫁いでおり、このときは、お咎めはなかったものの、後年、関ヶ原の戦いの折りに石田方の人質にされることを拒んで、これまた、業火の中に散華・・・。
これが、有名な細川ガラシャ夫人です。
そして、信長の甥にして、光秀の娘婿であったこの信澄・・・。
どこか・・・、どこか、一つでも、何かの歯車が違っていれば・・・って気が。
戦国乱世に、一族郎党もろとも城を枕に討ち死・・・なんてのは、別に珍しくはないんでしょうが、ただ、こんなに、親戚中が運のない一族ってのも何だか・・・。

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WBC、世界一に想ったアストロ球団のひたむきさに昭和を見た!

2006年03月22日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

昨日の、WBC(国別対抗野球)、決勝戦の瞬間最高視聴率は56%だったそうですね!
当方も、未だ、興奮さめやらずです(笑)。
でも、これって、ケーブルテレビの視聴率は入ってるんですか?
私なんか、最初から最後までケーブルテレビで見てましたから、実際はもっといってるんじゃないでしょうか?

少し前に、アストロ球団という、昭和47年頃のマンガを実写版にしたドラマをやってましたが、覚えておられますでしょうか?
平太郎独白録 アストロ球団にみる、「男ってどうにも単純因果な稼業」・・・の巻。でも述べさせて頂きましたが、最初、「有り得ねー!」って感じで、殆ど、少林サッカーを見るような目で見ていたのですが、段々、その非合理的な練習方法や精神力というものを見ているうちに、無条件で感動して来ちゃいまして・・・。
で、それをみていてつくづく思ったのが、「今の日本人は妙にお利口さんになってしまったな。」と・・・。

戦時中の見事なまでの精神主義への反動なのか、あの時代の持っていた、泥臭い、「がむしゃらさ」というものが、見事なまでに身の回りから消えてしまっていることに気が付きました。
「巨人の星」では、年端もいかない子供に大リーグボール養成ギブスなんてのを、飯を食うときにさえ付けさせてたし、「男ドアホウ甲子園」は、鉄の球を投げて、肩を鍛えてたし・・・。
今、そんなことをしたら、二昔前の言葉で言うところの、ナンセンス・・・ってやつですよね。
「ちゃんと、ストレッチしなきゃ、危ないよ。」なんて言われたりして・・・(笑)。

でも、我々が子供の時代は、それを何の抵抗もなく見てましたよ。
理屈じゃないんだみたいな・・・。
思えば、私も、亡父などから、「精神力!」などと言われるたびに、反発していたものです。

先日も書きましたが、今回のWBCでの一番のターニングポイントとなったのは、日韓戦での、あの多村レフト・ファールグランドへの大飛球フェンスに当たりながらもキャッチした、あの、余りにも泥臭いファインプレーではなかったでしょうか。
韓国側の余りにも綺麗な・・・、スマートな守備の前に、なかなか、点が取れず、また、このまま、過去二回と同じになるんじゃないか・・・という重苦しい雰囲気が出てきたところでの、多村の、あの、韓国守備陣とは違う、泥臭い、がむしゃらな好守・・・。
これで、日本ナインは気づいたんじゃないでしょうか。
理屈じゃない、がむしゃらさを・・・。

昭和40年代の終わり頃だったと記憶しているのですが、当時、引退間際で選手としては晩年であった長嶋茂雄氏に対し、九回裏、阪神ベンチは三番王を敬遠しての四番長島勝負!を指示。
これに対して、長島選手は、阪神、谷村投手のシュートにどん詰まりながらも、意地でボテボテのサヨナラヒットを打ったことがありましたが、そのときのヒーローインタビューで、「いやあ、世の中に中年の意地ほど怖い物はないですよ。」と上機嫌で語ったことがありました。

当時、長島選手は30代の後半。
思えば、私は今、その長島選手の年を遙かに超えてしまっているわけですが、そもそもが、「中年」という意識はあまり、ありませんが、当時は、三十代後半は立派な中年だったように記憶しております。
そう言えば、最近では、「中年」という言葉自体、あまり、耳にしないような気がしますね。

あ、話が違う方向に・・・(笑)。

しっかし、あの多村のプレーで、皆、気づいたんじゃないですか。
昨日のキューバ戦でも、ヒザに爆弾を抱えている松中は浅い犠牲フライで懸命に走ってましたし、エラーをした川崎も怪我を恐れずに本塁突入してましたよね。
がむしゃらさは、ひたむきさに繋がる。
結論。
「怪我をしないようにプレーをするのがプロではなく、怪我をするかもしれないようなプレーで怪我しないのがプロ」
パ・リーグのセ・リーグへの吸収合併問題、ファンサービス云々・・・、こういったことの以前に、プロの選手は、すべてはこの原点を忘れていたのではないでしょうか。

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WBC、OH!JAPAN、世界一!!!どうよ!

2006年03月21日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

WBC日本、遂に世界一になりましたねぇー!!
今日は、テレビの前から動きませんでしたよ!
早くから知ってたら、ホント、サンディエゴ行きたかったですね(笑)。

しかし、アメリカテレビ局カメラワークもすばらしいですね。
最後の王監督のインタビューなんか、あまりの臨場感に思わず、マジで画面に向かって拍手してしまいましたよ(笑)。
特に、打者走者が走るのに付いて、カメラ平行移動するなんてのも、内野からの送球走者の動き一目瞭然、関連づけて見えるし、もの凄く、新鮮でよかったですよ。
あれ、日本でもやればいいのに・・・。

キューバも、韓国と比べると、守備が粗いし、あ、これはワンサイドゲームになるかな・・・って感じもありましたが、我がソフトバンク川崎の二つのエラーのときは、一体、どうなることやら・・・って気がしました(汗!)。
シーズン中から、川崎は、よく、和田が投げるときもエラーするんですよ。
技巧派の投手とタイミングが合わないんですかね。

でも、川崎も、あの松坂の横を痛烈に抜けると思われた打球を好捕して、一塁で刺した、あの好守もすばらしかったでしょう!
彼は、プロに入ったとき、ホークスの二軍のあまりのレベルの高さに愕然として、初日に、食事に連れて行ってもらったそうですが、目も当てられないほど落ち込んで、「さあ、気にしないで食べなさい。」と言われても、まるで箸がつけれなかったとか・・・。
それが、今や、世界一のチームのショートですからね!

それから、MVPは松坂でしたし、実際に引っ張ったのはイチローだったとしても、自分を殺してチームバッティングに徹した四番松中の存在もすばらしかったですよね。
川崎と共に、ソフトバンク代表として、よく頑張ってくれたと思います。

特に、今日に限って言えば、松坂、渡辺、藤田、川崎、松中、西岡、今江、小笠原、里崎と、パ・リーグの選手の活躍が、私にはうれしかったですね。
松井も、井口も、城島も、「やっぱ、オレも出れば良かった・・・。」って思ってんじゃないですか!

しっかし、いやー、苦しんだけど・・・、いや、苦しんだがゆえに、世界一ってのはすばらしいですね。
日本の野球が地球上で一番って事ですから!
日本人、どうよ!って感じです。
しかし、年のせいか、思わず、少し、ウルウル来ました・・・(笑)。

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坂本龍馬の亀山社中に想うソフトバンク発祥の地!

2006年03月20日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

去る3月18日、つまり、先週の土曜日ですが、折悪しく、天気も悪かったにも関わらず、私は、一念発起して長崎に行って参りました。
まあ、私は福岡ですから、長崎まででしたら、必ずしもそれほど遠いというわけではないのでしょうが、他の熊本、大分、山口などの近県と比べ、どういうわけか、長崎へはあまり、行ったことがありませんでした。
(長崎市へは16年ぶり。ていうか、ちゃんと市内観光したとなると、おそらく、昭和48年小学校の修学旅行だけでしょうね(笑)。誰か、私を長崎に連れてって・・・ってやつで・・・。)



で、何故、そこまでして行こうと思ったかと言うと・・・、あの坂本龍馬海援隊の母体となった亀山社中の公開が土曜で打ち切られると聞いたからでした。

私も、亀山社中が、今も民家として現存しており、所有者の方の好意で一般にも開放している・・・とは聞いておりました。
だから、「そのうち機会があったら・・・。」とは思っていましたが、先週の初め、新聞で、「閉鎖されるので、もの凄い人が押しかけた。」という記事を見て、あ、これは何としても行かなくては・・・と思い立った次第でした。

それにしても、16年間、無料で公開されていたそうですが、まさか、閉鎖されるとは・・・。

以前、平太郎独白録 オリンピック誘致で想う都市の景観保護の中でも述べたことですが、伊藤博文旧邸が解体されることになったので、慌てて、山口県が買って山口に移築したって言うし、日本人って、こんな意義のある旧跡という物の重要性に対する認識って低いですよね。
ああいうものは、普通は、史跡なり何なりにならないんですかね・・・。
龍馬・・・が史跡の基準に当てはまらないというのなら、日本初の会社発足の地ということでもいいんじゃないですかね・・・。

で、その亀山社中跡、行ってきました。
行ったのはいいのですが、なぜ、私が長崎には、それほど、行ったことがなかったかというと・・・、とにかく、長崎市内は道が狭いんですよ!


(すぐ近くには、こういう川が・・・。この右脇には、神社がありましたから、おそらく、龍馬の時代から、この風景はそう変わらないのでは・・・と思われます。あるいは、亀山社中の面々も、夏の暑い時期などは、この小川で夕涼みなどをしたのかも・・・。)

ただ、長崎の場合は、道が狭いっていうだけならまだいいんですけど、山の中腹住宅密集している土地柄ですから、道が狭い上に階段が多く、未だに、宅急便は、玄関まで人力で運んでいるという・・・。

長崎市も、福岡辺りからの修学旅行のメッカということを考えれば、もう少し、他県からの観光客にも優しい町作りをして欲しいですね。
カーナビが指示した場所からは、目的地までは幅1m弱の階段を下っていかねばならず、車を止める場所もわからず・・・。
おまけに、狭い上に、家が密集しているから、トイレどころか、立ち***さえするところもないという・・・。
(あら、私としたことが・・・。少し下品でしたかしら。いとをかし・・・。)

で、家を出たのが12時前、ようやく、亀山社中付近と思われる坂の上に到達したのが14時過ぎ・・・。
公開時間は15時まで・・・ということでしたので、仕方なしに、路上に車を止めて、そこから、まるで蟻の巣みたいな迷路・・・、いや、を、会う人ごとに道を尋ね尋ねしながら下っていくと・・・。
    

・・・すべてはこれでした。
ちなみに、これって、最後尾ではないですよ。
見えてる範囲内での真ん中くらいです。
おそらく、実際には、この3倍くらいの行列だったのでは・・・。
一番入口付近に並んでおられた方に、「どのくらい並んでおられますか?」と聞いたら、「30~40分くらいですかね。」とのこと。
しかも、見学に制限時間なんてないみたいで、中の人が満喫するまで出て来ないとかで、「全然、進まない!」何ても声も・・・。
参考:亀山社中跡:見納めに長蛇の列--公開終える /長崎:MSN毎日インタラクティブ

さすがに、中に入るのは諦めましたが、しっかし、坂本龍馬の人気は、やっぱ、凄いですねー!
改めて、思い知りました。



ところで、以前、平太郎独白録 「幻の都 安土をゆく その1 龍馬と司馬遼太の読み違えに見る安土。」の中で、龍馬が長崎を拠点に選んだことについての司馬遼太氏の意見と、それに対する、「福岡市が今や、龍馬が期待したその役割を担おうとしている」という私見について述べましたが、今回、亀山社中の前に立ってみて、改めて、やはり、長崎のこの平地の狭さが、龍馬の思惑置き去りにしてしまったという感を強くしました。
ていうか、龍馬は、平太郎独白録 「海図から見る博多港今昔から想いを馳せる金印!」で述べましたように、当時の博多湾水深が大型船の入港には浅すぎることを知っていたのでしょうか・・・。


私は長崎の地理はあまり、詳しくないのですが、実際に行ってみて思ったのは(実際は下の道から上がってくるようなのですが、私は上の道から下りてしまいましたから、少し、感覚が違うのでしょうが)、亀山社中のあった場所は、結構な丘陵地の上に有る・・・と言う以前に、当時の長崎の市街地というものがどの程度拡がっていたのかはわかりませんが、決して、立地的には一等地というわけではなかったようにも思えます。



(龍馬が見たであろう、亀山社中付近からの風景。坂の上から見る景色は、夜にはいわゆる、100万ドルの夜景になります。)

頻繁に往来があった武器商人だったグラバーの屋敷までだと、車やバイクがない時代ですから、歩くと、やはり、坂と言うことを考慮したら、1~2時間かかったのではないでしょうか。

つまり、当時の龍馬らの財政状態では、この辺りしか借りられなかった・・・と。
亀山社中を立ち上げた当時、薩長越前などの大藩の間を泳ぎ回っていたとしても、決して、資金的に裕福というわけではなかったのでしょうね。

思えば、今、「史上最大の買収」として新聞紙上を賑わせている孫正義氏も、最初に、ソフトバンクを立ち上げた場所は、福岡市博多区・・・と言っても、博多の中心地である博多駅中洲などからすれば、同じ博多区とは言えないような、正反対の位置にある雑餉隈(ざっしょのくま)という雑多な繁華街だったことを考えれば、龍馬に限らず、大志を胸に抱く若者に、スタートの立地はそれほど考慮する問題ではないのでしょう・・・。



で、仕方ないので、長崎に来た以上は長崎チャンポン食って帰らねば・・・と(笑)。
で、これ。
以前、テレビで紹介されていたところに行きましたが、やはり、こういうのは地元の人に連れて行ってもらわないとダメですね・・・。

で、折角、長崎まで来たのですから、本来であれば、もう少し、ゆっくりしたかったのですが、夕方までに戻らなければならない用事が有り・・・。

まったくもって、「誰か私を長崎に連れてって」ってやつでした(涙!)。←ていうか、このフレーズも、すでにわかる人が少ないような・・・(滝涙!)。
でも、この日も終日、雨が降ってましたけど、長崎で雨が降ってると、すぐに、「長崎は今日も雨だった~♪」と歌い始める世代は、もう、縄文人扱いなんでしょうね・・・(笑)。

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WBC!日本、韓国に快勝!!溜飲を下げるとはまさしくこのこと!

2006年03月19日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

WBC準決勝!
日本、ようやく、韓国に勝ちましたね!!
溜飲を下げるとは、まさしく、このことでしょう!
参考:国別対抗野球:日本が決勝進出 韓国を零封-ワールド・ベースボール・クラシック:MSN毎日インタラクティブ
今日は、久々、テレビにかじり付いてみてましたよ。

多村送りバント失敗したところで、いや~な予感はしたんですが、王さん、シーズン中から、明らかにバント出来ないやつにも、一旦、バントと決めたら、絶対、バントさせますからね・・・。
でも、その後で、福留まさかまさかでしたが、よく打ちましたよ。

でも、今日の勝敗を決したのは、私は、福留よりも原よりも、その多村だと思いますね。
もちろん、送りバント失敗のことでも、今日打ったホームランのことでもないですよ。
レフトへの大きなファールフライフェンスに当たりながらも、好捕したじゃないですか。
あのプレーです。

それまで、過去二回の時と同じような韓国の堅い守りを見せつけられるような展開で、また、負けるんじゃないか・・・みたいな、重苦しい雰囲気が出てきそうな感じがあったところへ、あの多村のファインプレーですよ。
あの多村の泥臭い・・・、気迫の溢れるファインプレーが、王ジャパンに、韓国のような、キレイな・・・、スマートなファインプレーをする必要はない、日本は日本流のプレーをすればいいんだ!と・・・。

まんざら、的はずれでもないような気がしますよ。
あの次の打球は、ライトへ飛びましたが、イチローだったら、楽勝で追いつくような打球でしたが、行きすぎてしまうような勢いで捕りに行きましたから(笑)。

あ、でも、勝ったから言えますけど、やっぱ、韓国も強かったですねー。
エラーがゼロってのは、やはり、凄いですよ。

それと、今日の主審は素晴らしかったですね。
あの小笠原へのデッドボールに対しても、「警告試合」を宣言するのが早かったこと・・・。
ところで、警告試合って何ですか?(笑)。
日本では見たこと無いんですけど・・・。

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光秀天海説はむしろアントニウスの血筋的秀満説!

2006年03月18日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

WBC!日本、奇跡の準決勝進出!!!ですね(笑)。
今度こそ、韓国に勝って欲しい!
もう、負けたら生きて日本の土を踏まない!ってくらいの気持ちで頑張って欲しいですね。
(あ、あくまで、気持ち・・・ですね(笑)。誤解の無いよう・・・。)
しっかし、アメリカは、また、ずるやって負けて・・・って、ホント、しょうがない国ですね・・・。

ところで、以前、ある友人から、「明智光秀は実は山崎合戦後も生存していて、江戸幕府の草創期に辣腕を振るった怪僧 天海になったという説があるがどう思うか?」と尋ねられたことがあります。
参考:新説・日本の歴史第23弾 明智光秀と天海
しかし、私は光秀天海説には懐疑的です。
まず、年齢などの点でも、少々、無理があり(天海は100歳以上生きたと言いますが・・・。)、何より、主君殺しという、下克上の当時とはいえ、モラルに反する行為をした光秀を、秀吉はもとより、世間が見逃してくれるとも思えず・・・。
ただ、天海が明智家と何らかの関わりがある人物であるということは、否定できないと思います。
であるならば、天海は、むしろ、光秀ではなく、先日から述べております、明智秀満ではなかったかというのが私の考えです。
秀満ならば、あれほどまでの鮮やか極まる武将ですから、その能力を惜しみ、密かに召し抱えたいというものがいても不思議ではなく、秀吉という人物も、元来、あまり粘着型の人でもないようですから(何も光秀個人にそれほどの恨みがあったわけでもないでしょうから)、光秀の首さえ挙げれば、後は、それほどに明智一族への苛烈な追求はしなかったのではないでしょうか。

現に、秀満の2人の遺児は、その後も生き延びたという話もあり、江戸初期の島原の乱の折、細川家から唐津藩に移り、天草四郎一揆軍と戦って戦死した天草富岡城代、三宅藤兵衛重利は、秀満の子であると言う話もあります。
ついでに言うと、あの!坂本龍馬の祖先は、山崎合戦後、当時、明智氏と親類であった土佐長宗我部氏を頼って落ち延びた秀満の子孫であり、坂本家の「坂本」とは、明智氏の本拠があった近江坂本城に由来するという話があったとか・・・。
まあ、この手の話に、事の真偽をとやかく言うのも野暮な話で、私が言いたいのは、江戸時代を通じて、明智光秀は、石田三成と並んで武士の間では忌み嫌われる名だったと言うことです。
にも関わらず、秀満の子孫を名乗ることはよかったと・・・。
さらに、もし、坂本家のこの伝説が、普通に未だによくある取って付けたようなはなしであるならば、わざわざ、秀満の流れを採ったということは、秀満の子孫を称することは誇れることだったんだな・・・と。

秀満は、武士の間では、「左馬助の湖水渡り」で知られる勇名と相まって、その水際だった鮮やかな出処進退と共に、「敵ながら天晴れ!」となっていたんでしょうね。
であるとするならば、光秀と違い、彼ならば、その後も生き延びられたという可能性も無いではないでしょう・・・。
そして、これほどの人物であれば、江戸幕府の確立に辣腕を発揮したというのも、うなずけない話ではありません。

まるで、古代ローマに於いて、オクタヴィアヌスアントニウスが戦い、敗れたにも関わらず、何だかんだ言って、エジプトの女王クレオパトラの色香に迷って祖国ローマを売った形となったはずのアントニウスの血筋が、何だかんだ言ってもその後のローマ帝国中枢に有り続けたのを見る思いがするのは、私だけでしょうか・・・。

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幻の都 安土をゆく その5 私的にみる安土城放火の真犯人。

2006年03月17日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

安土城放火は織田信雄でも明智秀満でもないとすれば・・・。
おそらく秀吉でしょう。

重要参考人、羽柴秀吉には、この時点で、織田家の天下を簒奪しようと言う明確な意図があったことは間違いなく、となれば、安土に代わって、自家の「大坂に人々の耳目を集めるような城を造る」という構想云々以前に、人々の耳目を集めるような前政権の遺物があるということは、至極、迷惑な話であり、かといって、表だって、大恩ある亡き主君の城に火を掛けるということも憚られ、それなら、事態が混沌としているうちに・・・と。

こういうと、「いくら何でも考えすぎでは・・・。」と思われるかもしれませんが、あの、目端の利いた秀吉なら、このどさくさの中で、いや、どさくさの中だからこそ、配下に命じて、火を掛けるなんてことやりかねませんよ。
それに、燃えたのは山崎合戦光秀が敗れた後ですから、この時点でなら、秀吉じゃなくとも、ちょいと機転が利いた人間ならば、「こんな余計な物、今のうちに燃やしてしまえ!」と考えたとしても、それほど驚くには値しないように思えます。


(↑安土城天主閣跡・・・。)

実際、発掘調査では、天主閣の一部が大きく燃えているそうですから、即ち、城下から火が出た失火などではなく、あくまで、ここに火を付ければ天主閣が自重で崩壊するという、周到な計算の元で、誰かが意図的に放火したと言っていいのではないでしょうか・・・。
だとすれば、犯人は、相当に城の構造計算に熟知している人物か、もしくは、城への放火に慣れた人物(というよりも集団)だったか・・・。
少なくとも、姉歯建築士の関与はないようですね(笑)。

秀吉には、それを裏付ける状況証拠もあります。
先日も述べましたように、この後、安土を領有した秀吉の甥、秀次は、安土に拠点を構えず、隣の近江八幡へ新たな城を築きますが、そのとき、安土では、天主以外の建物のいくつかはまだ残っていたそうです。
秀次は、それらを(石垣なども含め)解体して移築したのは元より、不可解なのは、城下町ごと近江八幡へ移住させたとか・・・。
当時の城の建築には、よく、他の廃城の部材を再利用していたそうですから、建物や石垣の再利用自体は別に驚くことではないのですが、城下町ごと移転となると、普通に考えるなら、そこまでするくらいなら、安土城を修復した方が早いんじゃないのって気が・・・。
それをせずに、町ごと移転させるなどというのは、まるで、織田家というものがそこにあった痕跡さえ隠滅させる意図があるかのような印象さえ受けます。
まあ、秀吉でなくとも、専制君主にというものにとっては、圧政への裏返しで、民心に前政権時代を懐かしんでもらっては困るわけで、そうなると、いずれにしても、遅かれ早かれ安土城というのは消されてしまう運命だったのでしょうね。
(その意味では、明治新政府は、まあ、天守閣こそ無かったものの、よく、江戸城をそのまま、残しましたよね。)

ついでに、城の火災という点では、日本三名城の一つ、熊本城西南戦争開戦前夜、突然、不審火にて、炎上しております。
これは、犯人は未だに不明ということになってますが、ほぼ、間違いなく、熊本城に籠もっていた熊本鎮台司令官谷 干城の指示によるものだと思われます。
加藤清正が築いた戦国の名城も、明治の御代ともなると、兵器の進歩などで、石垣はまだしも、天守閣は逆に戦闘中に敵の砲撃などで自軍兵士の上に崩れ落ちる危険極まりない、まったくの無用の長物となっていたようです。
となれば、鎮台兵としては、何としても開戦前にこれを取り除いておく必要があり・・・。
つまり、城の不審火というものが、基本的にどういうものなのかが、おわかり頂けたかと思います。

もっとも、新政府側も、隠密裡に事を運ばないと、それでなくとも扱いにくいので有名な熊本人を敵に廻す恐れがあったことから・・・となったとか。
現に、熊本城が炎上したときの熊本市民の怒りは凄まじく、一気に、「薩摩憎し!」の気運が高まったと言います。

ということで、明日はどっちだ~♪(←昔持ってた「あしたのジョー」のレコードの中の「ジョーの子守歌」の一節です。・・・って、誰も知りませんよね・・・。やっぱ、違う話題がいいような気がして・・・。)

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幻の都 安土をゆく その4 安土城を燃やした男、明智秀満編。

2006年03月16日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日に続き、本日も放火犯捜しです(笑)。

その前に、当時の城がどの程度、燃えやすいものだったのか・・・という点で、後年、関ヶ原合戦の後の時代、徳川家康の隠居城となっていた駿府城も、たびたび、原因不明の出火を起こして炎上しており、特に、やっと修復したばかりの駿府城が再び炎上したときには、さすがの家康も激怒して、女中数名の責任を問い、これを虐殺しています。
現代と違い、避雷針などもありませんから、落雷などでも、よく、炎上したと言いますし、当時の城郭建築が、何だかんだ言っても、燃えやすかったということはおわかり頂けるでしょうか・・・。

で、織田信雄と共に安土城放火容疑者とされているのが、明智光秀の娘婿、明智秀満です。

丹波福智山城主 明智秀満・・・。
信長在世中の天正6年(1578年)、織田家の軍団長の一人であった重臣、荒木村重が信長に離反し、村重の嫡男、村次に嫁いでいた明智光秀の長女は離縁されて実家に戻ってきます。
その後、光秀が、この不憫な娘を再嫁させたのが、一説によると、光秀の甥とも言われる、この秀満(光春)でした。
秀満という人物は、能力の点でも、人格の点でも、相当に優れた人物だったようで、それだけに光秀の信任も厚く、本能寺の変の時は先鋒を、その後は、首都、安土の押さえを任されています。

従って、光秀が秀吉に一敗地にまみれた山崎合戦の時は、安土城にあり、主君にして義父でもある光秀の敗戦を知って救援に向かう途中、秀吉軍の先鋒、堀 秀政瀬田遭遇し、戦上手で知られる秀政と激戦を繰り広げるも、勢いの差は如何ともし難く、ついに、救援を断念
単騎明智一族の妻子の籠る坂本城へ向かいます。
この時、追いすがる秀吉軍に対し、秀満は打出浜(大津市)から琵琶湖に乗り入れ、そのまま、琵琶湖を渡りきるや、上陸後も、群がる敵をモノともせず、単身、坂本城入城に成功・・・。
これが、講談などでも有名な「左馬助の湖水渡り」です。
しかし、衆寡敵せず、もはやこれまでとなったとき、秀政に対し、城内の財宝茶器などの名品を目録と共に差し出した後、一族と共に城を枕に自刃して果てたとか・・・。
昨日述べました織田信雄とは、ある意味、同じ放火容疑者でありながらも、世の中には、ここまで対照的な人生があるのかとさえ思わされるほどに、惚れ惚れするほどに天晴れな武将天晴れな最期だったでしょう。



(安土城天主閣跡地より見た琵琶湖方面。麓に拡がっている平地はすべて戦後になって埋め立てられたもので、当時は、一面、琵琶湖だったのだとか・・・。本能寺の変の後、明智軍の一翼として安土城に入った秀満は、どういう想いで、この景色を眺めたのか・・・。)

しかし、秀満には、信雄と違い、軍事的な意味から安土に火をかけるという動機があります。
ただ、坂本城での最期の時に、敵将に宝物を差し出すなどという秀満の性格からして、果たして、自軍が不利になったとしても、火を掛けるようなことはしなかったのではないか・・・という気もします。
それならば、もし、信雄でも、秀満でもないとしたなら、放火の真犯人は誰か・・・。
別にそんな容疑者がいるのか・・・?
います。
恐ろしく、動機と可能性が或る人物が・・・。

と、ここまで述べたところで、ちょうど、時間となりました~♪
ということで、続きは明日のココロだ~・・・。

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