平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

カヌー選手による薬物混入は明治では水銀!

2018年01月13日 | スポーツ
カヌーの選手が先輩からドーピング薬入れられたって話ですが、私は飲む方も飲む方だけど、良心が咎める方も咎める方で、まあ、いかにも今の時代らしいなと。
で、こんなこと考えるのは私だけかと思っていたら、しっかり、被害者側の意識の低さを指摘する声もあるとか。

元男子陸上競技で五輪出場経験者の為末大さんによると、「誰かから渡された飲み物は飲むな。ペットボトルはかならず開けた時に音がするか確かめろと言われた」と。

これを「スポーツの世界にあるまじき」などと思うのは、豊かさに慣れきった現代日本人ならではかと。

明治期の記録を読んでいると、謡曲だったかの世界では、ライバルの美声を潰すために、お茶に水銀を入れるのが横行していたと。
事実、それで、せっかくの美声がダメになって消えていった人がたくさんいたとか。
そのため、出された飲み物に軽々に手を付けることはなく、みんな、絶対に自宅から持ってきたお茶などを飲んだそうで、楽屋でも、当然、そこら辺に軽々しく置いておくなどということはなく、弟子や身内などの信用できる人に監理させていたとか。
これが、「プロ意識」ですよ。

この点は、昔は競争社会ではどこでもあったことなんじゃないでしょうか。
その背景にあって、見逃せない要因の一つが、「貧困」なのだろうと思います。

かつて、西鉄ライオンズの大投手・稲尾和久氏は、入団当初、打席でデッドボールを辛うじてよけると、自軍ベンチから「当たれ!」という声が聞こえたと。
当初は、「当たってでも塁に出ろ」という激励の声かと思っていたら、そうではなく、本当に「当たれ!」で、「ボールが当たって、あいつが怪我すれば、俺が試合に出られる」という意味だったとか。

稲尾さんが入団したのが昭和31年ですから、まだ、戦後11年。


「もはや戦後ではない」との言葉が白書に載った年ですが、人々の生活は本当に苦しく、同じ西鉄の主砲・中西太氏は行商でリヤカーを引く母に少しでも楽をさせたいと思ってプロ入りしたというし、毎日オリオンズの榎本喜八選手は戦時中に母は病死し、父はシベリア抑留にあったため、幼少期は祖母と弟と三人の生活を余儀なくされ、為に、時には穴が空いた屋根から霜が降りることもあったとか。
他の選手も、おそらく、多かれ少なかれ似たような境遇だったのでしょう。
であればこそ、巨人の川上哲治選手のように、チームの打撃練習時間の大半を一人で使ったという話も出てくるわけで。



つまり、誰もが生きるために必死で、他人を押しのけて取って代わることに何の疑問も持たなかった・・・と。

ただ、問題は、そんな昔のこと・・・などと言うのは現代日本人だけだということ。
世界の大半ではまだ、昭和の日本人と同じような環境で生きている人たちがたくさんいるわけで、そういう環境からオリンピックに出場してきた連中と戦うのに、「まさか、薬を入れた水を飲まされるなんて」とか言っている方が甘いわけです。
昔なら、「水銀じゃなくて良かったですね」・・・と声を掛けられたでしょうね。
                       平太独白

WBC日本対台湾戦で帰らない客が一番すげえと思った夜

2013年03月09日 | スポーツ
昨夜のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)、日本台湾戦は凄い試合になりましたねえ。
序盤までは、キューバ戦と同じような展開で、塁には出るけど点が入らないという嫌な展開、ただ、日本はこれまでの試合、終盤に得点する傾向が強かったことから、このまま、完封されることはないだろうなとは思っておりましたが・・・。

従って、同点となった時点で、日本は大喜びしてましたが、私はむしろ、糸井が三塁でタッチアウトになって2死となった事の方にがっかりしましたよ。
「あ、これで同点どまりだ」と。
で、その前まで物凄い気迫で投げ込んでいた田中まーくんも、この攻撃の間にテンションが下がってしまったようで、明らかに前の回までとは違いましたから、3番打者にあっさりと打たれた時点ですぐに変えなきゃ・・・と。
相手チームはカウントの途中だって、厳然と交代させてんですから。

その意味では、9回に好投したストッパーの牧田和久を、その回だけであっさりと引っ込めたのは正解ですよ。
摂津にしても、田中まーくんにしても、替わった直後は好投しても、回が進むと打たれる・・・という現実があったわけで、やはり、この辺の対応力は世界の代表チームはさすがです。
従って、リードを許した時点で相手にはリリーフエースが控えていたことを考えれば、「あ、これは負けたな」と。
(そもそも、打線も大幅に組み替えるとか言いながら、殆ど変わってなかったじゃないですか。結局、長野も途中から普通に出てたし。)

その、日本代表を救ったのは9回表2死からの鳥谷の盗塁と、井端の起死回生の同点打・・・と、そして何より、小フライを飛び込んで捕球した牧田のファインプレーでしょう。
(中田の決勝犠牲フライについていえば、日本はあれでもう勝ったつもりで大喜びしてましたが、無死1.2塁で犠牲フライの1点しかとれなかったんですよ。手放しで喜んでて良いのか・・・と思ったら、その裏、杉内が打たれて一打逆転サヨナラのピンチだったわけで。)
まず、鳥谷は良く9回2死から走ったなあと思いましたし、井端も良く、あの投手から打ったなあ・・・と。
おそらく、走者1塁でも、2塁で井端敬遠でも、内川勝負だったら負けだったんじゃないですか。
でも、それもこれも、牧田のあのファインプレーが全てだったと思います。
WBC第一回大会の時、韓国の美技の前に完全に封じ込められていた日本に対し、多村仁選手がフェンスに激突して捕球したプレーで、日本選手は皆、自分たちの泥臭さという原点を思い出したんじゃないかと思うのですが、牧田のファイト溢れるプレーも、それと同じ効果をもたらしたんではないかと・・・。

でも、一番のMVPはあの時間になってもまったく帰らなかった観客でしょうね。
さすがに東京ドームの客は目が肥えている!
福岡ドームだったら、絶対にああいうことはないな・・・と。
家は近いはずなんですけどねぇ・・・。

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白

小林繁氏の急逝に振り返る「空白の一日」事件

2010年01月21日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

元プロ野球投手の小林 繁さんが急逝され、葬儀の模様がニュースで流れてましたが、この人は、やはり、我々の世代にとっては記憶に残る選手の一人でしょう。(合掌・・・)
昭和53年(1978年)11月に、あの「空白の一日事件」があったとき、当時、阪神ファンだった私が真っ先に思ったことは、「いずれにしても、巨人に批判の矛先が向かうことは間違いない」ということで、その後、世論の後押しもあって強行(?)されたドラフトで阪神が江川卓投手の交渉権を獲得し、さらに、コミッショナー裁定で当時、巨人のエース格だった小林氏との三角トレードとなったときには、「海のものとも山のものともつかぬ江川を獲るよりも、確実に15勝以上、うまく行けば22勝くらいはいけそうな小林が獲れた方が阪神にとっては効果的だ」と思いましたね。
(当時、江川投手は前年に我が福岡クラウンライター・ライオンズにドラフトで指名されたものの、それを拒否して、一年間、アメリカ野球留学しており、このブランクにより実績を残せないまま終わるのではないか・・・ということが言われてました。)

移籍一年目、小林投手は22勝を挙げ最多勝を獲得し、特に古巣・巨人には負け無しという大活躍だったんですが、この22勝というのは結構、凄いことなんですよ。
おそらく、私の記憶では、この時以来、22勝以上というのは出てないはずなんですよね。
(前年に、近鉄の鈴木啓示投手は25勝挙げてますが。)
一方で、阪神はこの年、掛布雅之選手が球団の本塁打新記録を更新する48本本塁打王に輝き、投打の主軸が最多勝と本塁打王という最高の結果を残しながらも4位・・・。
まあ、それも仕方がない話で、掛布さんも48本も打ちながら、打点はわずかに95で、やたらとソロホームランばかりの48本でしたからね。

ただ、翌年以降は江川投手との直接対決には見事に勝てなかったのですが、この組み合わせは明らかに小林投手には不利でしたよ。
小林という投手は2点くらいに抑えるものの、殆ど、完封というものがない投手なんですよ。
つまり、完封できる能力を持った江川と対戦すると、いくら良い投球をしても打線が完封されてしまうと勝てない・・・という構図が出現するわけです。
(この点は、少し前の松坂大輔投手に対する和田 毅投手などがそうでしたね。)

ついでに言うと、あのときの阪神は、元々、江本孟紀、古沢憲司、上田次郎・・・と、主力投手陣がサイドスローの投手ばかりでしたから、小林投手の加入によりサイドスローの投手ばかりになってしまったんですよ。
こういうことは、時々、編成上、まれに起こるみたいで昭和56年(1981年)の大沢啓二監督に率いられてリーグ優勝したときの日ハムがそうでしたね。
高橋一三、間柴茂有、江夏豊・・・と左投手ばかりになってしまい・・・。
まあ、それでも皆、それなりの成績を残したわけですから構わないのでしょうが、相手チームからすると対策が立てやすかったことには違いないように思うのですが。

ちなみに、小林投手と巨人で同僚だった高田 繁現ヤクルト監督は「投手という人種はあまり、付き合いたくない人が多いが、唯一の例外が小林 繁」と言ってましたが、その小林さんでも、子供の頃はメンコで負けたら、下駄で相手をぶん殴っていたそうですから・・・(笑)。
                                         平太独白

山本浩二選手と広島カープの昭和50年 その3

2008年03月14日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

遅くなりましたが、先週の続きです。

判定に抗議して、退場処分となった後もホームベース上に座り込んだ広島カープの指揮官・ルーツ監督ですが、これは、ルーツ監督にすれば、単なるパフォーマンスだったといいます。
しかし、当時は、なにせ、外人監督との接触自体が殆どなかった時代です。
従って、こういうアメリカ型のパフォーマンスに慣れていない日本の審判団は大いに困惑し、広島の球団代表に説得を要請したことから、ルーツ監督は一旦はそれに従いグランドをから出たものの、「グランド内でのことは監督に一任する」・・・という姿勢が出来ているアメリカでの常識からすれば、フロントが介入してくるという越権行為がどうしても許せなかったようで、ダブルヘッダーの第2試合を前に、「監督としての権限を冒された」として、選手たちに「今後、広島の指揮は執らない」と宣言。
球団からの慰留にもかかわらず、そのまま、帰国してしまう・・・という事態になってしまいます。
で、後任には古葉竹識コーチが昇格し、指揮を執り始めたわけですが、これには、当時、「やはり、広島は広島か・・・」と思った方も少なくなかったのではないでしょうか。

その後、広島は、古葉新監督の下、快進撃を続け、この年、悲願の初優勝を達成するわけですが、その原動力となったのが、3割30本を打って首位打者のタイトルを獲得した山本浩二選手だったわけですね。
で、先日も述べましたように、元々、それほどの選手ではなかった山本選手が、この年を境に突然、打ち始め、さらにリーグを代表するような本塁打王になったのには、おそらく、このルーツ監督との出会いが大きかったように思います。
(あるいは、ルーツ監督がアメリカから持ち込んできた何か・・・、たとえば、サイン盗みのようなものがあったのかもしれません。つまり、相手のサインを知ったことで、もともと、ヤマ張り打者だった山本選手の洞察力に磨きがかかった・・・と。この辺は、ここ数年の外人監督の躍進とだぶって見えるような・・・。)
本人は「払うような感じでバットを振ることを覚えた」と言っておられましたが、確かに、それもあるのでしょう。
しかし、私には、「なぜ、勝利を目指すのか」という根拠を与えられたことが何より大きかったように思えますが・・・。

ちなみに、新チームの改革を推し進め、チームに新風を吹き込んでいたルーツ監督が突然、辞めて帰ってしまうというアクシデントに、「やはり」という感があったという話については、奇しくも、昭和35年のときの大洋ホエールズも、開幕戦の試合前の練習中に、対戦相手である中日の杉下 茂コーチのすっぽ抜けたノックバットが、大洋のエース・秋山 登投手の頭部を直撃し、病院送りになってしまう・・・という前代未聞のアクシデントが発生したことで、動揺した大洋は開幕戦を落としたばかりか、中日との開幕3連戦に全敗し、さらに、チームはその影響で開幕から7連敗という苦しいスタートを切ることになったたとか・・・。

このことは、中日側にしても、自軍のコーチが相手のエースに怪我をさせての開幕ダッシュというものには、相当、心苦しいものがあったようで、シーズン終盤、ほぼ、優勝争いが、巨人と大洋に絞られ始めた時期での大洋との3連戦では見事に3連敗して借り(?)を返しています(笑)。

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山本浩二選手と広島カープの昭和50年 その2

2008年03月07日 | スポーツ
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昨日の続きです。

過去、前年最下位のチームが翌年、一転、「初優勝」を飾ったというのは、昭和35年の智将・三原 脩監督に率いられた大洋ホエールズと、この昭和50年広島カープしかないと記憶しているのですが、いつの時代でも、万年下位チームを初優勝させる為に、指揮官が一番に手を付けなければならないのは負け犬根性の一掃と、勝つことへの執念を植え付けることだと言われています。

この点で、昭和50年の広島を任されることになったルーツという人は、「集団は確固たる指導方針を持った強烈なリーダーによって変わる」という信念を持っており、まず、最初のミーティングで選手らに対し、「君たち一人一人には、勝つことによって広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある!」と喝破したといいます。
これは一見、見過ごされがちなことですが、「なぜ、勝利しなければならないのか?」・・・ということの根拠を明示する・・・ということは集団を率いる上では、外してはいけない大事なポイントだと思います。
つまり、「自分たちはなぜ、この商品を売るのか?」・・・ということですね。
「金さえ儲かればいい」ということでは人は納得jしない・・・と。
(かつて、松下幸之助翁は、「松下製品を世界中に行き渡らせることで生活を便利にし貧困をなくす」というようなことを掲げましたし、どこだったかの金融会社は「我々は、お客様にお金を貸すことによって生活に夢を与えている」ということを掲げたことで、それまで、「サラ金」と蔑まれていた自分の仕事に対して誇りを持つことが出来るようになったというような話と同じだと思います。)

その上で、三原 脩監督が、大洋のおとなしいチームカラーに喝を入れるべく、それまでの大洋にはいなかった、職人肌でありながらあくの強い個性を持つ鈴木 武遊撃手をシーズン半ばで近鉄から獲得し、「超二流選手」というフレーズを与えて活用したように、ルーツ監督も、シーズン前、日本ハムから、激しい気性の大下剛史二塁手を獲得し、主将を任せ、新チームの精神的な支柱とします。
そして、その象徴として、帽子の色をそれまでの紺色から燃える闘志を表す赤色に変更・・・。
当然、選手には全力を出し切ったプレーを求め、消極的なプレーをしている選手に対しては容赦なく罵声を浴びせたし、さらにコーチ陣に対する要求にも厳しいものがあったとか。

ところが、そのルーツ監督が、開幕から間もない4月27日、ボールの判定に激高し暴行を働いたとして審判より退場処分を命じられたものの、それに従わず、ホームベース上に居座ってしまうという事件を起こします。

来週にでも続きます。

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山本浩二選手と広島カープの昭和50年 その1

2008年03月06日 | スポーツ
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先日、元広島カープ監督で、「ミスター赤ヘル」と呼ばれた山本浩二氏が野球殿堂入りしてましたよね。
この人については、西武との日本シリーズで、9回2死から東尾 修投手の外角低めの難しいスライダーをライトスタンドに同点ホームランしたことが印象に残ってます。
99%負け試合だったわけですから、まさしく、「起死回生」のホームランだったわけで・・・。
でも、私の記憶では、野球殿堂入りなどというのは、私が生まれる前に活躍した大昔の人がもらうもの・・・というイメージがあったのですが、いつのまにやら、時代がそこまできてたんですね・・・。

で、この山本浩二氏ですが、この人については昭和43年のドラフトでは、田淵幸一、富田勝両氏と並んで法政三羽ガラスの一人としてドラフト1位で鳴り物入りで広島に入団したものの、私の子供の頃の記憶ではあまり、パッとした選手ではありませんでした。
実際のところ、この人が突然、花開いたのは昭和50年からで、それ以前は、本塁打は20本前後、打率は.250程度の普通の打者でしたね。
(当時は、広島の「山本」と言えば、山本浩二選手ではなく、左の強打者で四番打者だった山本一義氏でした。)

それが、昭和50年(1975年)に4番に就くと、この年のオールスターゲーム第1戦で、セ・リーグの3番打者として登場するや、6番に入った同僚の衣笠祥雄選手とともに2打席連続アベックホームランを放ち、その勢いに乗りこの年、自身初打率3割30本塁打を記録し、首位打者MVPのタイトルを獲得。
山本選手は一躍、「ミスター赤ヘル」と呼ばれるチームの顔になりました。
もっとも、この年を見た限りでも、元々、足は速く、守備も上手かったので、今後は、それなりに打率は残す打者になるだろうな・・・とは思いましたが、まさか、5年連続40本塁打(この記録を持つのは山本選手の他には王 貞治氏のみ)を記録し、4度の本塁打王、3度の打点王を獲得するほどの大打者になるとは夢にも思いませんでしたね。
(実際、通算536本塁打の大卒日本最多本塁打記録を持っているものの、その半数以上が30歳を越えてからのものだとか。)

で、この昭和50年という年に、一体、何があったか・・・ですが、実はこの年は、大変な変化があった年でした。
即ち、この年、チームが初優勝したのです。
もっとも、ここまでの広島は三年連続最下位であり、開幕前に広島が初優勝するなどと予想した人は皆無だったわけで、さらに、間の悪いことに、この年、球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツ氏が就任したものの、同監督は日米の文化の違いから開幕してわずか15試合で退団・・・。
急遽、古葉竹識ヘッド・コーチを昇格させて監督としたものの、古葉監督の手腕は未知数・・・。
何とも、期待薄な船出だったわけです。

明日に続きます。

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豊田泰光のチェンジアップ人生論に思う一言居士

2008年03月04日 | スポーツ
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こちら(←)は我が家のひな人形です。
おそらく、妹が生まれたときに買ったんじゃないか・・・と思いますので、ウン十年物なのでしょうが、今時、飾るスペースもないし、何より、近来まれに見るほどの不精者家人が出すのを露骨に嫌がりますし・・・。
で、この20年くらいはしまったままになってたのを、日本の風習劣化させてはいけない・・・という想いから、久々に出してきました。
昭和時代までは、毎年、この季節になれば飾ってたんですがね・・・。

当然、うちの子供たちも初めて見る我が家のおひな様です。
本当は、七段飾りなのですが、台が無くなっているのと、スペースの問題で、ここに乗せてもらえるのは五人囃子まで・・・となっております。
ここにも、格差社会リストラの波が押し寄せているような・・・(涙)。

昨日今日と福岡地方は黄砂の影響でも何も真っ白!
朝起きたときから、偉く暗いなーと思っていたんですよ。
雨だからか・・・とは思いましたが、それにしても暗いなと思っていたら・・・。
黄砂は、福岡には昔から飛んできてましたので、季節の風物詩ではあったのですが、これほど酷くはなかったですよ・・・。

で、気を取り直して、本日の本題です。
先日、豊田泰光という人の書いた「豊田泰光のチェンジアップ人生論」という本を読みました。
氏は、昨年、直言苦言を厭わない一言居士としての活動が認められ、野球殿堂入りされましたが、この人の著作は、顔に似合わず(?)(失礼(笑)。)、結構、考えさせられることが多いんですよ。
昭和の頃に読んだ著書では、「プロ野球には引き分けというものをなくすべきだ」というのと、「日本のプロ野球の球場はもっとメジャーリーグ並にグラウンドを広くするべきだ」という主張に強く共感しましたが、そのことは、「延長時間の延伸」と、福岡ドームの誕生、甲子園からのラッキーゾーン撤廃という形となって現実の形となったことを考えれば、プロ野球機構にもそれなりの耳を傾けさせるものがあったように思いました。
で、今回、この人の著作を読んで、またまた、考えさせられる点がありましたので、後日・・・。

P.S そういえば、先日の夕方・・・、たまたま、先頃絶版になった拙著、「傾国の烙印」のアマゾンのHPを覗いたところ、中古品が1品出てました。
定価は¥1,800なのに、何と、¥21,477の値段・・・。
思わず、噴き出して大笑いしてしまいました(笑)。
貴重品扱いかよ・・・とw
で、夜、もう一度、見てみました。
すると、消えてましたので、もしかして売れた・・・ってこと???
今度は驚きでした・・・・。

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球団経営も青い目に依頼してみるべきなのかも・・・の巻

2008年02月20日 | スポーツ
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ご存じでしたでしょうか?
今年はうるう年だから、2月は21日2回あるのを・・・。
嘘ではありません。
こちら(←)をご覧ください。



手元のカレンダーでは、2月は21日が2回あるようになっています(笑)。
最初、見たときは暗かったので、「21に見えるなぁ・・・」と思っていたのですが、明るいところで見ても、今日、水曜は21日でした。

で、野球ネタです。

もうひとつ、我が福岡ソフトバンクホークスですが、パウエルの二重契約問題でまたまた、お騒がせ・・・だったようですね。
ソフトバンク球団経営不在については、以前から、たびたび、申し上げておりますので、改めて、言うことは致しませんが、外国人選手についてはパウエルなんか獲ってないで、韓国台湾からイキが良いのを連れて来いよ・・・と。
で、福岡ドームの中に、ハングル中国語の表記のものを増やし、場合によっては、インフォメーション・スタッフくらいは言葉も習得させるべきだ・・・と。
ま、それ以前に、ファンの不満にもっと耳を傾けることが第一でしょうけどね・・・。

もうひとつ、話は変わりますが、福岡から最も近い別のプロ野球球団と言えば、広島カープですが、同球団から、主砲・新井貴浩選手がFAして阪神に行っちゃいましたよね。
これは私的には、少し、複雑な感があります。
今年、同じく、広島の黒田博樹投手がFAしてメジャー・リーグへ行くのや、かつて、東京出身の、主砲・江藤 智選手が同じくFAして巨人に行ったときとは、少し、ワケが違うんですよ。
つまり、先に、阪神に移った金本知憲選手といい、今回の新井選手といい、この二人・・・、共に、地元・広島出身の主力選手なんですよ。
その連中に同リーグの阪神に移籍されるというのは何とも・・・。
金がないと言ってしまえばそれまでなんでしょうが、こちらも、ソフトバンクホークスと一緒で、もう少し、経営努力で何とかできないものかな・・・と。
まあ、老朽化した広島市民球場に変えて、新球場の建設計画も随分前から立ち上がっているように聞いてますが、未だに、成就していないところを見ると・・・。
(すでにJR広島駅裏に用地を確保しているのに、御茶屋さん(?)の反対で容易に進まないという話も聞いていますが・・・。)
その辺を考えれば、しがらみが深い「マツダ」ではなかなか難しいのかなとも思いましたが、この辺も、青い目ゴーンさんに来てもらわないとどうしようもなかった日産に被ってくるような・・・。
そう考えれば、外人監督というのは今時、珍しくはないのでしょうが、球団経営のトップであるオーナーも一度、外国人に任せてみるべきなのかもしれません。

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スナック・ドーベル閉店に想うは池永氏のジャンボ尾崎評

2008年02月08日 | スポーツ
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西鉄ライオンズ投手の池永正明氏のスナック「ドーベル」が昨年末の12月29日に閉店したと耳にしました。
閉店する・・・とは聞いていましたので、一度、足を運ぼうかな・・・とも思っていたのですが、ずーっと行ってなかったので、何か今更・・・って感じもあり、結局、行きませんでしたね。

ちなみに、池永正明という人物は、以前からたびたび、平太郎独白録 : CM契約にみる毀誉褒貶、その2 伝説の名投手 池永正明。、及び、平太郎独白録 : CM契約に見る毀誉褒貶その3 伝説の名投手 池永正明などでも述べておりますとおり、昨年亡くなった稲尾和久氏とは違う意味での西鉄ライオンズの伝説的名投手です。
特に、福岡市昭和40年代少年時代を送った子供たちにとって、この人の名前は、少々、複雑回想と同時に思い出される名前であり、この人が中洲で店をやっているということは耳にしていましたので、機会が有れば、是非、伺いたいと思っておりました。
で、今から20年くらい前でしょうか、バブル真っ盛りの頃に、縁在って、池永氏がやっていた店に行き、以来、何度か足を運んだことがありました。

で、当時、同氏に、聞いたことがあります。
「(投手として、西鉄ライオンズ同期入団だった)ジャンボ尾崎(プロゴルファー・尾崎将司)は野球選手としてはどうだったんですか?打者としては、なかなかの素質を持っていたと聞きましたが?」と・・・。
すると、普段、余計なことは言わない池永氏が、カウンターの中から、「いやいや!投手としても素晴らしかったですよ」ときっぱりと一言・・・。

この点は、少し、意外でした。
尾崎氏は、元々、高校時代には徳島県立海南高校の投手として、昭和39年(1964年)春の選抜高校野球大会初出場初優勝を成し遂げたほどの投手で、(ちなみに、前年春の選抜高校野球優勝投手が、当時、下関商業の2年生投手だった池永氏。)、尾崎氏は、翌昭和40年に、池永氏と二人同時に西鉄ライオンズ入りしたものの(当時は、ドラフト制施行前)、入団後、ことごとく、池永氏と比べられたことで、同じ甲子園の優勝投手と言っても、そのあまりの才能の差に愕然とし、「こんな凄い投手がいたんじゃ、俺なんかが飯が食える訳が無い」と思い、打者に転向した・・・と聞いていたからです。

ただ、投手として・・・といえば、確かに思い当たるところもあります。
入団間もなくからゴルフに目覚めた尾崎氏は、昭和43年(1968年)に正式に西鉄を退団し、二年後の昭和45年プロテスト合格、正式にプロゴルファーとしてデビューするわけですが、西鉄球団在籍当時、大した成績も残していないにも関わらず、ゴルフ三昧の尾崎氏に、周囲の視線は冷たく、風当たりも相当強かったと聞いています。
その点では、やはり、その辺を気にもしない・・・、よく言えば、強靱な精神力、悪く言えば、傲岸不遜な性格があったればこそ・・・の今日の成功だったでしょうか。
この辺は、よく、ラウンド中にたばこを吸うなどと、マナーを批判されながらも、平然とどこ吹く風で成績を残し続けたことが想起されますが、この辺などは、確かに投手向きだったのでしょうか・・・。

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大相撲千秋楽結びの一番にみる観衆は本物に飢えている!

2008年01月29日 | スポーツ
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   「大相撲 原点見たり 意地と意地」
              平太独白

今更ではありますが、一昨日の大相撲千秋楽結びの一番、つまり、白鵬対朝青龍同星決戦は、久々に、見応えがありましたねぇ・・・。
・・・、意地意地・・・。
気魄気魄・・・、想念想念・・・、背負っている物と背負っている物とのぶつかり合い・・・。
それでもって、勝った方が優勝というとり直しが利かない、この一番の緊張感・・・。
場内も、満員御礼の垂れ幕に、もの凄い数の懸賞・・・。
そして、そのあげくの、白鵬が朝青龍を力で頭から土俵にねじ伏せる・・・という、素人目にも八百長などではない相撲内容で、あれぞ、まさしく、大相撲の原点を見た!って感じでしたね。

注目すべきは、時間前のにらみ合いの段階で朝青龍の方が先に目をそらしましたよね。
ああいうときは、往々にして、先に目をそらした方が負けるんですよ。
だからと言って、「これで、白鵬が勝つと思った・・・」とは言いませんが、つまりは、「何だ、朝青龍が帰ってくると、やっぱ、朝青龍には勝てねえじゃねーか!」、「所詮、朝青龍が居ない間だけの横綱だ!」などとは、決して、いわれてはならない白鵬の意地の方が上回っていた・・・ということではなかったでしょうか。
ともあれ、昨今、相撲人気の低迷が叫ばれる中、「相撲は日本人がいないから盛り上がらない」などという話をよく耳にしますが、日本人がいないから・・・というのは、ちと、本質を見誤っているのでは・・・と思わせられるほどの熱気でしたね。

この点では、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本世界一の時だって、あの盛り上がりに対し、それを、日本が世界一になったことに対する「結果論としてのナショナリズムの高揚」に求める人がいましたが、でも、思えば、昨今のK-1プライドなどでは、別に日本人が絡まなくても、外国人対外国人の対決にあれだけの観衆が熱狂してるわけですよね。
だったら、日本が世界一になったから、国民的熱狂を知らない日本人が・・・というのは、少し、違うのではないですか・・・と。

要は、力士は、これまで、観衆が熱狂するほどの物を提供してこなかったということなのではないでしょうか。
それは、日本のプロ野球も又然り・・・。
たびたび、引き合いに出しています、西鉄ライオンズ稲尾和久投手の熱投のようなものを、現在の選手たちはファンに提供しているのでしょうか。

つまりは、ワールド・ベースボール・クラシックのときのような、本物のプレイに、今のファンは飢えているのだと思います。
だから、それを提供してくれるのであれば、人種は問わないよ・・・と。
判官贔屓というのはあっても、かつて、力道山アメリカ人レスラーを片っ端から投げ飛ばした時代とは違うんだよ・・・と。

そういえば、先日、福岡市城南区にある稲尾スポーツに行ってきました。
言うまでもなく、昨年亡くなった、その稲尾氏の店ですね。



実際に、経営には携わっておられなかったようですが、店頭には、しっかり、これ(←)が・・・。

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ホークス・プレミアムパーティに毎度の経営不在を見た

2008年01月18日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

今更・・・の話題ではあるのですが、昨年末、友人に誘われ、福岡ソフトバンクホークスプレミアム・パーティに行ってきました。
ホークスOBなども来る・・・との触れ込みでしたが、元々、私はあまり、こういうものには興味がない人間ですので、それほど気乗りがしていたわけではありませんが、行ってみて、「やはり・・・」という失望感を強く致しました。
この辺は、以前から、平太郎独白録 : 経年低下の傾向すらあるソフトバンクホークスの顧客満足度などでも以前から申し上げておりますように、ソフトバンク球団は、とにかく、気が利かない・・・。
まるで、商売をやったことがない人が商売をしているような・・・。

何か思いつくのは良いのですが、毎度、肝心の所がまったく、気が利いていない・・・。
ダイエーの頃の方が、金はなかったけど、もっと気が利いていたんですよね。

で、まず、行ってみたところ、受付があったのですが、受付開始のときに、「この受付はお一人様の方のみ、こちらはお二人様、こちらは三人様以上で御願いします」と係員が大声で宣告・・・。
ところが、受付開始後、時折、誰かがその旨をアナウンスしていたものの、張り紙しているわけでもなく、かといって、切れ目無く終始、アナウンスしているわけでもないことから、後から来た人は空いている列に並んでしまい、自分の番が来たら、「あ、お二人様は隣の列に御願いします」と言われ、また、並び直し・・・。
そもそも、システムが複雑すぎるんですよ。
「二人」というのが、会員まで含めて二人なのか、それとも、含めないで二人なのか、はたまた、二人とも会員だったらどうなるのか・・・etc。

さらには、席が埋まってしまったのか、後から来た人の中にはグループで来たのに別々のテーブルになるなどの手際の悪さ・・・。
おまけに、一人で来た人は、主催者側の都合だけで、テーブルの空いた席にムリヤリ割り振られたようで、その結果、単身来場者は殆どが、カップルの間にポツンと一人・・・。
(こうするために、受付で「一人で来た人はこちら!」・・・とやっていたわけですね。)
一人で来た人なんか、元々、誰も話し相手は居ないわけだし、一生懸命、カップルに話しかけても、まるで相手にされない・・・。
聞けば、前もって、出欠の葉書を出していたのだそうですから、だったら、もう少し考えて席順してやれよ・・・と。

さらにさらに、「この席には、ホークスOB藤原 満さんが何時何分から何時何分まで廻ってこられます」と書いてあったものの、結局、藤原さんは、一番最初のテーブル付近で掴まってしまい、他のテーブルにはまったく来ないまま・・・。
私のような連れが居る人間はまだしも、一人で来ている人なんか、することもないわけですから選手OBの人から面白い話でも聞けないと来た意味ないでしょ・・・。

そもそも、ホークスOBなんて、毎年、何人も辞めているわけですから掃いて捨てるほどいるわけでしょ・・・と。
だったら、こういうときにこそ、たくさん、動員してきなさいよ・・・と。
最低、1テーブルに一人くらい居なきゃ・・・。

結局、こういうイベントやったところで、「もう、会員になんてなるか!」という気持ちにさせて帰る人を作っているだけで、これ即ち、「経営不在」だと思うんです。
(聞いた話では、それほど安い会費でもなかったようですし・・・。)
もちろん、孫正義氏自身がいちいち、経営の末端までタッチしているわけではないでしょうが、これほどに、あらゆる切り口で気が利かないというのは、やはり、経営不在としか言いようがない・・・と。
こんなことばかりやっていたら、本当に野球を見に来ているファンは離れていってしまいますよ・・・。

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イチローが言う「ファンに背けない」に三原脩の信念を想う

2008年01月15日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

正月に、NHK「プロフェッショナル」という番組で「イチロー・スペシャル」というのをやってましたが、ご覧になりましたでしょうか。
その中で、イチローが、「ファンの人・・・、自分の生活の一部を捧げて見に来てくれる人に背くことなんて出来ないですよね、僕らは。その人たちがいなければ、僕らの存在意義なんてないんだから」とコメントしているシーンがありました。
曰く、「だから僕らも、自分の生活の中の何かを犠牲にするというのは当然のこと」・・・だと。
さすがに、イチローはよくわかっている・・・と思いましたね。
まさしく、昨年の鉄腕・稲尾和久氏の急逝以来、私が述べてきたことと同義のことだと思いましたよ。

で、この点で、私には思い出すことがあります。
昭和33年日本シリーズ・巨人対西鉄ライオンズ戦・・・。
このシリーズは、巨人が冒頭の三試合で三連勝し、王手を掛けたものの、雨で一日順延となった後、西鉄が逆に四連勝して、奇跡の大逆転日本一を手にした、まさしく、「世紀のシリーズ」だったわけですが、その西鉄の奇跡の原動力となったものこそ、「恐怖」だったといいます。

場面は、三連敗した試合後の当時の平和台球場のロッカールーム・・・。
ここまで、一人気を吐いていた闘将・豊田泰光選手がぼそっと呟きます。
「おれたち、ストレートで四連敗したら、生きて帰れんかもしれんぞ・・・」
その瞬間、皆の手が、ぴくっと止まったと・・・。
当時の西鉄ファンというのは、日本の重要資源であった炭坑で働いている人も少なくなく、そういう人たちは、明日、落盤事故があって死ぬかもしれないわけですから、実入りも良い反面、荒くれ者が多く、熱狂的を通り越して、もう、狂信的でさえあり・・・。
それは、今の阪神ファンなどよりももっと過激で、投手が打たれようものなら、球場にビール瓶一升瓶などが雨あられと降り注いだといいます。
従って、この豊田選手の言葉も、あながち、大げさな話ではなく、一勝も出来なかった・・・などということになった場合、本当に暴動でも起きかねず、選手は皆、「生命の危険」を感じ、ここから、奇跡の逆転日本一が始まったと・・・。

ところが、このことは、何も選手だけが感じていたことではなく、当時の西鉄監督であった三原 脩翁も真剣にその危険性を肌で感じていたのでしょう、三原監督は、王手を掛けられた時点で、残りすべての試合にエース・稲尾和久投手を登板させます。
周囲から見れば乾坤一擲名采配・・・に見えたかもしれませんが、監督の本音は、「稲尾で負けなければファンは納得しない」というものだったそうです。
来る日も来る日も、マウンドで一人投げ続けている稲尾であれば負けても誰も、「このヤロー!」とは言わないでしょうし、稲尾が疲労困憊し、矢折れ力尽きようとも、誰も、「だらしない!」とは言わないであろう・・・と。
おそらく、「有り難う、稲尾!」 とは言わないまでも、「稲尾で負けたのなら仕方ないか・・・」だったのではないでしょうか・・・。

後年、三原翁は、稲尾さんと会った際、「稲尾君、実は私は君に詫びなければならないことがある」と言い、「あのシリーズ、私は負けるつもりで君を投げさせた。これは、監督として、絶対にやってはいけないことだった」と頭を下げられたとか。
この、三原翁の信念・・・、そして、負けても納得できた稲尾さんの姿こそが、イチローが言う「存在意義」をわかりやすく体現した物ではなかったでしょうか・・・。
少し舌っ足らずですが、少し、長くなりすぎましたので、このことは、また、後日、補足させて頂きたいと思います。

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今年言い残したことを語る その3 プロとは感動を売る稼業

2007年12月27日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

このシリーズ第三弾ですが、これもまた、プロ野球ネタです。
なかなか、他の話題にまでたどり着けそうにありません(笑)。

私にとって、昨年のスポーツ界が、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)での日本プロ野球世界一の年であったのに対し、今年は・・・と言えば、先日から申し上げておりますとおり、西鉄ライオンズの大投手、稲尾和久氏が亡くなった年でありました。
(私は、未だに、飲んでこの人の話をすると、「不覚にも落涙致しおり候・・・」です(笑)。)

その稲尾さんが亡くなって間もない今月初め、奇しくも、稲尾さんの精神を再認識させるようなイベントが行われました。
「WBCの感動をもう一度」と思い起こさせるような北京オリンピック・アジア予選です。
今大会は、オリンピック進出のためには一敗も出来ないという状況で、WBCにおいて二度までも苦杯をなめさせた韓国と、その韓国を破って前オリンピックでは本選進出を果たした台湾との戦い・・・となるわけで、否応なく、予断を許さない試合展開になるだろうということが予想されました。

結果的に、日本はこの二試合に連勝し、本選進出を果たしたわけですが、結果は別にして、この大会を見た限りでは、日本のプロ野球は、「プロとは何か?」ということに、少し、目覚めたのではないかと思えた内容でした。
即ち、中日・岩瀬は、シーズン中にないロングリリーフを見せ、日ハム・稲葉フェンスに当たりながらもボールを獲りに行く。
初戦で牽制死したロッテ・サブローは、帰塁するときに滑り込まなかったことをキャプテン、ヤクルト・宮本から叱責され、その宮本は懸命の走塁を見せる。
極めつけは、横浜・村田の、背中を直撃されてのデッドボールで、村田は、これに対して、文句を言うどころか、雄叫びを上げて「謝謝!」とばかり、一塁へ出塁した、この姿勢にあったでしょう・・・。
まさしく、WBCのときの多村(当時、横浜)を彷彿とさせるプレーで、これこそが、ヨコハマ魂だったでしょうか。

・・・これこそが大和魂ですよ。
彼らが客に売っているのは「数字」でも「技術」でもない、「感動」なんだ・・・と。
かつて、稲尾さんが、メジャーリーガーから、「クレイジー」と言われるほどに、来る日も来る日も投げ続けたことと同義であったでしょう。
おそらく、今の選手たちは「稲尾」という名前を知らない人もたくさんいたのではないかと思いますが、あるいは、「亡くなった」というニュースで、自分たちの本業を再認識したということもあったのではないか・・・と。
まことに、手前勝手な物の見方ですが、昨年の「WBC世界一」と、今年の稲尾和久という人の死こそが、オリンピック進出への意識改革の原点であったように思えてなりません。

もっとも、我が福岡ソフトバンク・ホークスから選ばれたのは、川崎ムネリンだけ・・・というのが、今のホークスの置かれた現実を雄弁に物語っているのでしょうが・・・。


(←数日前の福岡ドームです。さすがに閑散としてますね。「つわものどもが夢の跡・・・って感じでしょうか。)

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今年言い残したことを語る その2 功労者に冷たい福岡人

2007年12月25日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

その2と言いながら、日程的に、多くを語れそうにないのですが、にもかかわらず、またもや、プロ野球ネタです。

今年の日本のスポーツ界は、私にとっては、浦和レッズアジアチャンピオンになった年でもなく、中日ドラゴンズ53年ぶり日本一になった年でもなく、松坂・岡島ワールド・チャンピオンになった年でも、ましてや、亀田親子朝青龍、時津風部屋事件が話題になった年でもありません。
「鉄腕」の異名をとり、日本プロ野球史に大きな足跡を残した元西鉄ライオンズ投手監督・稲尾和久氏が亡くなられた年なのです。

で、先日、同氏に対し、旭日小綬章が贈られたそうですね。
意外なことに、元プロ野球選手の叙勲は、川上哲治元巨人監督、故鶴岡一人元南海元監督に次いで3人目だとか。
それを聞いて、これこそが、ある意味、稲尾さんにもっとも相応しい処遇ではなかったか・・・という気がしています。
即ち、国民栄誉賞というものは、「個人」の業績の結果であることが多いことから、どこか、浮ついたような感があるのに対し、叙勲の方は、「三人目」ということを考えれば、選考者側にも、しっかりと、稲尾という人の功績が認識されていたということであり、見ている人は見ているんだな・・・と。
それに、何だかんだ言っても、川上・鶴岡の両氏が東京・大阪という中央の二大都市を拠点としていたのに対し、稲尾さんは、一地方球団の、それも、今や地上から抹殺されてしまった球団でのそれだということを考えれば(現在の西武ライオンズは、前身である西鉄ライオンズの歴史を継承しておりません。)、この叙勲の持つ価値の意味は、改めて、価値を持ってくるように思えます。

そこまで思って、ふと、思いました。
どうして、福岡市には、西鉄ライオンズ記念館のような物がないのでしょうか?
先般、ある友人から、「福岡には、郷土の偉人を顕彰するような施設が皆無である」という指摘を受けました。
確かに、言われてみれば、近世だけでも、明石元二郎、金子堅太郎、栗野慎一郎、頭山 満、広田弘毅、山座円次郎、緒方竹虎、中野正剛・・・etcと、偉大な足跡を残した人たちを輩出しておきながら、地元にはそれらを顕彰するような施設は殆どありません。
わずかに、「OOOO邸跡」などという石碑が、時折、道を歩いていると、目に付く程度・・・。
ある取引先に、その話をしたところ、「本来であれば、稲尾さんのそれくらいは、福岡にあってもおかしくないんでしょうが、別府に持って行かれましたしねぇ」と。
郷土にあれだけの勇気誇りを与えてくれた方なんですから、もっと早く、福岡財界の誰かでも、地元旦那衆でも、思いついていてもよかったんじゃないですか?
そう考えれば、西日本鉄道さんは最適なんですよ。
何のために買ったかわからないような土地がたくさんあるんですから、そこに、「西鉄ライオンズ記念館」を建設するのもわけないことでしょうし、入場料をとる以上、事業の一つであり、であれば、株主から訴えられることもないのではないでしょうか。
数年前、募金を募って、わずかに、平和台球場跡の一部に記念碑を建設しましたが、それだけでは少し、寂しすぎません?
もう少し、何か考えてもいいんじゃないの・・・という気がするんですけどねぇ。

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今年言い残したことを語る年末 その1 なぜ梨田・高田?

2007年12月18日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

今年もいよいよ、押し迫ってきましたね。
またひとつ、年を取るのか・・・と、何ら為し得ないまま、いたずらに馬齢を重ねていくことに、忸怩たる想いやまず、馬上少年今いずこ・・・・・って、ま、いっか(笑)。
ということで、今年の荷物を来年に持ち越してはいけないということで、書こうと思っていて、ついつい、書けなかったことを、この際・・・書いてしまおうと思い立ちました。

まず、プロ野球からです。
来年、ヤクルトに高田 繁、日ハムに梨田昌孝という新監督が誕生しますが、私としては、すでに、一旦、現場を卒業したような観がある人たちであり、「なぜ、高田・梨田なの?」という気がしております。
無論、単に年を取っているという点でいえば、ソフトバンクの王 貞治監督や楽天の野村克也監督などは、もっと、高齢なのでしょうが、あの人たちは何だかんだ言っても、ずっと、現役の監督だったわけで、何より、名声手腕という意味で、周りが放っておかない存在意義をしっかりと持っているわけですよ・・・。

その点では、梨田さんにしても、5年間の監督経験で優勝1回という程度の実績であり、楽天の野村監督のように、名監督としての図抜けた実績があったわけでもないわけで、であれば、古巣に復帰(?)するとか、地元・北海道出身・・・などというものがあるのならまだしも、なぜ、日ハム球団の監督なのか?と。
高田さんに至っては、監督としては4年間で勝率5割を突破したのが一度だけ・・・という程度の実績であり、現役時代は、V9巨人スター選手であったとしても、世界の王ほどには名声という点では高くないわけですよ。
(確かに、「高田の背番号も知らないくせに~♪」とさだまさしの歌にうたわれたほどの人ではありましたが、来年63才であり、すでに、球団フロント入りしていた人なわけですから・・・。
(昨年、オリックス球団の常務としてフロント入りしていた、元阪神監督の中村勝広氏が、11年ぶりに監督として現場復帰したということがありましたが、このときは、前年指揮を執っていた当時の仰木 彬監督が病状悪化の為に急遽、退任してしまった・・・という事情があり、この点では、一応、繋ぎとしての「必然性」はあったでしょうか。)

もっとも、「大した戦力もなく連覇してのけた後の日ハムの監督」や、「人気者・古田敦也前監督の後を引き継ぐことになるヤクルトの監督」などというものは、貧乏くじ的な面が強く、なかなか、監督の引き受け手がいなかった・・・という面はあったのかもしれませんが、それにしても「何でこの人たちなんだ」・・・と。
監督なんて、狭き門なわけですから、いくらなり手がないといっても、誰か居たでしょう・・・と。

まあ、御両所については、「恐竜次代の化石」とまではいいませんが、「旧石器時代の遺物」と言われても仕方がないような面があり、であれば、球団は、なぜ、この人なのか、この人のどこを評価して、どういうチーム作りの方向性を睨み、監督就任要請をしたのか・・・ということをもっとファンに説明するべきではないかと思うのですが、如何でしょうか・・・。

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