平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編

2006年06月14日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

松平健主演の映画、 バルトの楽園という映画が近日公開されるそうですね。

この映画は、改めて言うまでもなく、大正3年(1914年)、第一次世界大戦において日本軍の攻撃の前に中国戦線捕虜となったドイツ兵たちと島収容所所長、松江豊寿との触れあいを描いたモノだそうですが、松江豊寿は戊辰戦争において賊軍として、青森への改易を命じられた経験を持つ会津の出身ゆえ、捕虜たちの気持ちがわかった・・・と、この映画では言われているようですが、実際には、この松江所長ほどではなかったにしろ、日本各地に収容されたドイツ兵4,700名は、どこの収容所でも、そこそこに人権尊重され、それなりに寛容待遇を受けたようです。
これは、何も、当時の日本人が皆、いいやつばかりだったわけではなく、日露戦争勝利していたとは言え、まだまだ、日本に対する欧米の偏見は強かったことから、「極東の未開な国」と見なされられることを畏れた、「日本政府全体の方針」でもあったと聞いております。

で、当時、実はドイツ人捕虜の収容地に福岡も指定されたのですが、島の「バルトの楽園」と違い、福岡ではとんでもない事件が起こっております。
それが、「ザルデルン夫妻事件」です。
意外に・・・というか、まったくと言っていいほどに、知られていない事件なのですが、ある意味、この事件の処理次第では、日本政府の思惑など、吹っ飛ばしかねないような事件でした。

まず、福岡では、ドイツ兵捕虜の収容が決まると、約1,050名の受け容れをメドとして、まず、収容場所確保することから始まりました。
収容所には、日本赤十字社福岡支部、福岡県物産陳列場、旧柳町遊郭跡地が指定され、収容所長は24連帯歩兵中佐、久山又三が拝命。
中でも、赤十字社は、皇族宿泊にも使われるような贅を尽くした建物であった為、ここには、ワルデック総督高官たちを収容することに決定します。

一方で、江戸時代初期から栄えた遊郭博多柳町遊廓がありましたが、ここは、すでに「大学の授業に差し障りがある」との理由で、知事命令により、強制移転させられており、その跡地にはまだ15軒女郎屋空き屋が残っていたとか。
女郎屋だから小部屋も多かったため、四畳半または六畳の部屋に2人ないし3人を入れることとし、ほかにも、浴室、便所、洗濯場、さらには運動場も必要とのことで、これらの新設のために、付近の18棟居住者強制移転させられたと言いますから、如何に彼らが歓待とまではいかなくても厚遇されていたかがわかると思います。

そして、大正3年11月15日、ドイツ人捕虜の第一陣、567名は、国鉄博多駅に到着します。
2日後、第二陣272名が到着。
捕虜と言っても、その堂々たる体躯持ち物豊富さ、衣類立派さなどに、当時の福岡市民は目を見張ったと言います。
日本は、戦勝国とは言え、まだまだ、貧しかったんですね・・・。

で、それら、収容されていた中の一人にザルデルン大尉(当時36歳)という人物がいたそうですが、彼は大尉とは言え、男爵であり、その妻イルマ (当時30歳)のは現役の海軍大臣の娘だったそうで、そのイルマは大正4年、夫のあとを追って上海から福岡に来て、家賃35円住吉の蓑島土手(現福岡市博多区美野島)に借家住まいを始め、週に一度の夫との逢瀬を楽しみにしていたとか・・・。
住居は借家と言っても、前福岡県知事 深野一三別邸だったと言いますから、そこそこの家だったのでしょう。
(この深野という人物、ちゃんと官舎があるのに、こんな淋しい所にわざわざ別邸を持つということが、何を表しているかは言わずもがな・・・ですね(笑)。この人は、愛知県知事になってからも遊廓移転失敗して失脚しているそうで、この家も色々と曰く因縁があったようです。)

イルマは6歳次男と女の家庭教師3人で住み、邸内の離れにはコック一家が住んでいたと言います。
ただ、ここは、絃歌ざわめく新柳町遊廓対岸でもあり、まあ、遊郭の移転地になるくらいですから、その当時は、あまり人通りもないうら寂しい所だったと言います。

そして、そんな、大正6年3月25日の深夜、事件は起こります。

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