霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

藤林寺(とうりんじ)

2010-12-31 10:29:24 | 歴史/古文書
 藤林寺といっても余り知られていないお寺です。行ってみるともう田園地帯の山すそにひっそりとあるお寺で本堂も普通の住宅に近い簡素なものでした。場所は高知県宿毛市平田というところにあります。このお寺は土佐一条氏の菩提寺であったお寺です。土佐一条初代房家の菩提寺です。
着いた時は夕暮れ近くでしたが本堂には電灯をつけて迎えてくれました写真はその本堂です。
       

徳佐八幡宮記40(最後に)

2010-12-30 09:20:50 | 郷土史
 徳佐八幡宮の文書を中心に調べ考察してきたのですがそろそろネタが尽きました。もう終わりにしたいと思います。

 それはそうと、あるとき見た郷土の歴史研究会の記事では徳佐八幡宮は久守氏12代、久守氏の分家渡邊氏29代といっているが、これは寛元2年(1244)の亀鑑記に記されている系図を見てのことであろう。

 亀鑑記で久守氏の名がはじめて見られたのが寿永元年(1182)それから1244年までは62年間であるがその亀鑑記の系図では12代か13代まで書かれている。それをもって郷土の歴史研究会は久守氏12代といっているのかもしれない。

 私の調べた結果では、渡邊氏の名が出てくるのは毛利輝元の時代からである。

 久守氏は毛利元就が1571年に死して毛利家重臣の吉見正頼が1558年亡くなり、新しく吉見広頼の代になって吉見広頼が久守本家である縦筋目の久守氏を降ろして久守氏の名替え筋である渡邊氏を宮司に任じ替えていると思える。したがって久守氏が1590年ぐらいまで徳佐八幡宮の社司・社役を任じていたのではないかと考えられます。

 よって久守氏は1182年~1590年の約408年間宮司などの職にあったといえ約20代~25代、1590年~2000年まで410年余りが渡邊氏29代というのが正しいといえるのであろう。

 久守氏が宮司・社司を降りた後も社中のものとして残っており江戸時代の初期まで公文書にその名が残っている。また久守氏を祖とした家も渡邊氏、配川氏、永安氏、なども古文書の中から知ることができる。それ以外にも長い歴史の中では一族縁者は多いといえるのではないでしょうか。

 久守氏という苗字は県内では一軒のみ残っているが家の存続ほど難しいことはない、この久守氏という苗字はいずれは消えていくものといえよう。・・・・・・・これが世の常というものでしょう。

 最後となりましたが、これからも郷土の歴史を紐解きながら温故知新の新たな気持ちで研鑽を勤めると伴に、ますます同八幡宮が繁栄していくことを祈念いたします。ありがとうございました。

2010.12.31

時化の足摺岬

2010-12-29 12:35:15 | 歴史/古文書

足摺岬の眼下は台風一過でしたので波浪が高く浪しぶきも真っ白な大きなしぶきが遠目ではありますが見えています。写真に見える白亜の灯台は大正3年(1914)に設置され初点灯されて今で96年経ちます当時は灯塔は白亜の八角形の塔形でコンクリート造り。レンズはフレンネル式レンズが使用されていた。フレンネルはフランスの物理学者の名。今も白亜のコンクリート造りです。レンズはLB-90型灯器が使われ約38キロメートルの光達距離です。灯の高さは18.1メートル。灯火標高60.6メートルの高さにあります。これからも南海の重要な灯台となることでしょう。

足摺岬

2010-12-28 12:34:04 | 歴史/古文書

そうですね約25年ぶりの足摺岬です。岬の先端は自然の岩ですごく怖いところ、いかにも足がすり落ちそうなところでした。今が頑丈な鉄筋コンクリートによる展望台が作られていました。安全ではありますが岬のすごさが若干弱まったように感じました。でも広大な太平洋を眺めていますと心も大きくなってきます。心も広がっていくのがわかります。自然の景色のすごさはまさにこういった感動があるからなのでしょう。嬉しいひと時でした。

岐阜の富有柿

2010-12-27 16:38:35 | 園芸
岐阜の友人から突然送ってくれた岐阜・本巣の富有柿ですこの柿は大きくておいしいのが特徴で岐阜に行ってビックリするのです。当時はよく食べたものでした。懐かしい岐阜時代を思い出しながらいただいたのです。ありがとう。

ジョン万次郎について

2010-12-27 12:33:18 | 歴史/古文書
足摺岬と金剛福寺の間にこの像が建っています。万次郎は遭難に会って鳥島に漂着その後ハワイを経由してアメリカのフエアヘブンについたのですが日本を出航して約2年3ヶ月掛かっています。フエアヘブンで3年を過ごし、恋人もいたのですがまた捕鯨船に3年4ヶ月間乗って帰ってくるのです、恋人が事故で亡くなっていることを知り、フエアヘブンに2ヶ月滞在後帰国を決意しカルフォニアの金鉱山で3ヶ月帰国資金を稼ぎハワイにいる日本人4人と伴に帰国の途に着いたのですがこれも捕鯨をしながらの航海ですので帰るのに1年掛かっています。10年2ヶ月も掛かって日本についたことになります。しかも密航の罪で琉球、鹿児島、長崎と続いた取調べ、さらに牢屋へと長い日時を費やし、故郷の土佐清水の中の浜に帰れたのは約2年の月日がっ立った後でした。約12年間の長い過酷な旅行といううか漂行であったのです。若いからよく頑張れたし体力にも自身があったのでしょう。何か感動しますね。

初積雪

2010-12-27 12:02:07 | 随想
 昨日は今年始めて里に積雪があった。大陸の高気圧が張り出し福島県の国道では1メートル近く積雪し車輌が立ち往生となり夜中中もストップしたままという状況にある。猛夏の次は猛寒となるのであろう。最近の気候変動は激しく迫ってくるので大変だ。
 ガルテンでは陰きりを小雪がコンコンと降る中の作業であった。雪の解けた地肌は滑りやすく、ついに滑って転んでしまった。中刈り鎌とか剪定バサミとかを持ってのすってんころりんであり危険極まりない。昨日は命拾いの一日でした。
2010.12・27

人形

2010-12-26 16:32:53 | 随想


 この人形は叔母さんがその姉のために作った人形です。その姉はすごくこの人形を大切に扱い自らの赤ちゃんのように可愛がりながら且つ遊び相手としていつも自分の傍において生活しているのです。高齢化すると段々と幼児化するといいますがまさにそんな現象です。

ジョン万次郎

2010-12-26 12:32:29 | 歴史/古文書

ジョン=万次郎、中浜万次郎は足摺岬の中の浜の生まれのため中浜と名字をつけたそうである。14歳のときに土佐の宇佐港からおそらくカツオ漁に出たのではないかと思います。そのとき大きな時化にあい遭難してしまいます。1841年のことです。今の鳥島という無人島に漂着して143日間無人島で5人と暮らしているところを捕鯨船ジョン=ハウランド号が海がめの卵を鳥に着眼し漂流者を救出してくれたのです。日本は鎖国でしたので返すと資材となるためハワイのホノルルに保護されました。その後ジョン=万次郎は若くて物覚えが速くホイットフィールド船長に気に入られ、船長の故郷フエアヘブンに行き船長の養子となって勉強に励んだのです。養子にしたのはいいのですがカトリック教会は東洋人の入会はだめだと断られたためプロテスタントに宗派を変えてでも養子にしたのです。学校と、個人教授で言葉を覚え勉学に3年半励んだのです。宇佐港を出航して10年後に日本に帰りました。当時は黒船等の外国船が日本の近海に来航が多く異国との交渉が必要な時代でしたので、万次郎は早速それらの仕事をしていくことになったのです。時代の流れが万次郎を助けたといえます。万次郎は軍艦教授所の教授、英会話書を作ったり、航海書の翻訳など文明開化の仕事をしていきました。またヨーロッパ使節団の一団としてアメリカにも立ち寄りそのときフエアヘブンの養父であるホイットフイールド氏と再会し一泊してひと時の父子の再会を交わしています。ホイットフイールド氏は1886年82歳で亡くなっています。万次郎はその12年後に71歳で世を去ったのです。

「花天のしだれ桜」(著者久守 進)発刊のお知らせ

2010-12-25 17:33:03 | 郷土史
 著者久守氏が今年の5月から取り掛かった郷土史がようやく校了し、発刊となりました。中国山地のある拓けた盆地のなかで大内氏、吉見氏、毛利氏と続いた為政者側とのさまざまな関わりなどをほんの一握りではありますが古文書を礎に紐解きながら地方の神官一族や里人たちの生き様を掘り起こしています。
 盛者は必ず衰亡する。諸行は常ならず。衰亡を積み重ねたものが歴史といえよう。
 ここでも、衰亡がみられるが激戦のうえ衰亡する勇将もいれば、戦わずひっそりと消えていく衰亡も見られる。
 郷村の埋もれた歴史をが少しは発掘できているのではないかと思います。中世を中心とした郷村の歴史が垣間見られて面白いと思います。



 「花天のしだれ桜」 宝清山八幡宮文書と守護久守氏
        ー古文書による徳佐郷の歴史を探るー
    著 者 久 守    進 (ひさもり すすむ)
    定 価  1500円(消費税込)