霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

池田城祉虎口

2010-01-31 09:15:10 | 歴史/古文書
 池田城祉虎口は中世に存在したのです。発掘調査で見つかったとのことです。ここの虎口は一つ曲がっているのでなく二回に曲がって創られていて特色があるそうです。

この模型は池田城の一番規模の大きい時代です。三重の空掘りが掘ってあってその中を能勢街道が通っているのです。いざ戦のときはこの街道を止めて封鎖するのです。通信や兵站などいろいろの理由があって街道を封鎖する利点があったといえましょう。

池田城祉空掘

2010-01-29 09:00:05 | 歴史/古文書
 池田城祉公園は平成6年ごろから整備されてきましたその間、発掘調査も行われたのです。この空掘りはそのように発掘されて発見された池田城の空掘り跡です。こんなに深い空彫りが中世にはあったのです。これならなかなか騎馬では越えられません人海戦術になり攻めにくいでしょう。写真はその空掘りです。

池田城祉公園

2010-01-28 08:46:16 | 歴史/古文書
 これからは応仁記をめぐる探訪を初めまあしたので、その記録を書いてみます。先ず大内政弘が上洛の途中にこの池田城を攻め落としたということでこの池田城から探訪を始めました。

 大阪の池田市にあるお城です。この城の特徴は、中世の城はふつう山城というのが一般的であるがここの城は標高50mの平山城です。お城のすぐ北に天然の深い川が通っているのです。

 1400年代初めに築城されてたと推定されています。廃城となったのは天正2年(1574)ですので約120~140年間ぐらいお城として存在していたのです。

 中世の城としては三重の空堀のあるため攻めにくい城であったそうです。この天守閣の櫓は兵庫県の丸岡城をモデルの平成12年に建築されたものです。本当に丸岡城に良く似ていますね。見た瞬間この形はどこかで見たなと思いました。

瑠璃光寺には国宝が二つある

2010-01-25 11:14:40 | 歴史/古文書
 山口市にある瑠璃光寺の五重塔は国宝として有名ですし日本の三名塔とも言われていますが、実はこの寺にはもう一つ国宝がありました。それは瑠璃光寺資料館の中にあります。

 大正4年の瑠璃光寺五重塔解体修理の際、5層目の北の組み物の枡に墨書が見つかったのです。書かれている内容は「嘉吉2年2月6日この筆主は27才の某 この年の干支はみづのえいぬ きたのすま ます」と当時の大工が書いていたのです。この枡が国宝なのです。

 現物を目の当たりに見ることができます。是非見てください。歴史を証明する唯一の物的証拠として価値があります。

住宅見物

2010-01-24 11:00:18 | Weblog
昨日は暇なんで、近くを自転車でサイクリングを兼ねて回りました。価格帯は4千万円~五千万円です。40~45坪でです。地価は下がっているのにこの地域は値上がりしてるそうです。本当ですかね?

兼重暗香

2010-01-24 10:53:45 | 歴史/古文書
 何度か洞春寺に行っているとこの兼重アンコウという人のお墓もあるということがわかりました。この地方では比較的有名な日本画家です。その絵が県立美術館にも保存されていると思います。

 山口市矢原の出身で明治25年に生まれ昭和21年になくなっています。
墓碑には書家 兼重暗香と刻まれています。本名は梅とのことです。

金毘羅神社

2010-01-23 10:35:48 | 歴史/古文書
 昨年の5月に瑠璃光寺へ行ったときにこの神社を見つけました。というか以前から知ってはいましたが写真には撮っていなかったのです。

 この金毘羅神社も大内家が四国の琴平の琴平宮から勧請したものです。海の神様で著名なこの神社ということは皆さん周知のことですね。
 
 そうです大内家も朝鮮貿易や明国との貿易を活発に行って国の富を稼いでいたわけでして、海難防止のためにどうしても金毘羅さんにすがるしかなかったのでしょう。大内氏は貞治3年(1364)の琴平本宮から勧請しています。

 この小さな金毘羅様は元は大内家の重臣である陶弘護が文明3年(1472)仁保にある頃の瑠璃光寺に寄進したものが江戸時代に移ってきたものです。この社は江戸時代、山口の商人「鍋屋」の岡本家が再建したものが現存しているものです。
宝永の頃再建されたものです。