霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

曽我兄弟の幼像

2007-05-31 08:14:18 | 歴史/古文書
 小さな社の片隅のこの像がある。あまり人々が御参りしない八幡宮ではあるが境内に納屋がある。父が討たれたとき兄弟は兄が5歳弟が3歳とそんな幼い兄弟が敵討ちを志したときの様子であろうか。鷹岡地区の曽我八幡宮の5月の例祭では曽我兄弟供養祭が行われる。鎌倉時代の武士の衣装を着て練り歩く祭りである。おそらく納屋には曽我兄弟供養祭の武士の衣装が保管されているのだろう。

曽我八幡宮

2007-05-30 08:11:55 | 歴史/古文書
 曽我兄弟の父を思う心に感動して敵討ちの4年後建久8年(1197)に源頼朝が家臣岡部泰綱に命じて建立させた八幡宮である。天文年間今川、武田、北条の攻争で廃墟となったが慶長14年(1609)伊奈備前守が神領を与え再建されました。天保2年(1831)雨宮丹後守守弘が社殿を現在地に移し今日に至っている。

 敷地は狭いが大木が植わっていて日陰はある。しかし鎮守の森というほど樹木はなく2から3本程のの樹木だけである。

曽我兄弟の墓

2007-05-29 08:09:43 | 歴史/古文書
 曽我兄弟はおおよそ800年前征夷大将軍となった頼朝が富士のまき狩りにきたとき、父の敵である頼朝の家臣、工藤祐経が一緒に参加していたのである。機を見て見事に敵討ちを遂げたのですが兄十郎はその場で打たれ、弟五郎も捕らえられて打ち首となりました。十郎22歳、五郎20歳であった。この寺には樹齢数百年のカヤの木とシイの木とがいずれも市の天然記念物として大きく茂っている。

曽我兄弟の像

2007-05-28 07:47:59 | 歴史/古文書
 工藤祐経の家来によって闇討ちされた父、河津三郎祐泰の敵討ちのために源頼朝の行った富士の裾野の巻き狩りの陣屋を襲った曽我兄弟。18年の敵討ちのために精進を重ねて本懐は遂げたが。捕らえられたりして打ち首となった。

 曽我兄弟が親を思う気持ちと勇気をたたえ武士の鑑とたたえて建立した像である

 今の時代は親殺しとか母親を誰でもよかったから殺してみたとか、理解できない隔たりがある。

曽我寺

2007-05-27 07:46:18 | 歴史/古文書
 曽我十郎・五郎の敵討ちで有名なお寺である。十郎・五郎兄弟のお墓があるのであるがそのほかの檀家の墓がないのが不思議である。曽我家の子孫とか云う墓は一つあったのみ、誰が管理保存しているか定かではない。富士市にあるが富士駅よりのやや北西にある。行くには身延線の入山瀬駅から15分のところにある。

甲府城稲荷櫓

2007-05-26 19:52:21 | 歴史/古文書
 城の鬼門にあとる北東にあるので良櫓とも呼ばれていた。江戸時代は武具庫として使われていた。明治2年まで現存していた。発掘した結果土地の安寧を祈るための輪堂が5点みつかている。平成16年に古図を見ながら再現された。

甲府城天主台

2007-05-26 16:54:31 | 歴史/古文書
 武田氏滅亡後約70年間は今の武田神社の後ろに天主台を築きそこでこの地域の政事をやっていた。その後信長・秀吉の時代になり甲府城を築き徐々に甲府城は拡張され柳沢吉保の代になり今の規模になる。

 この地は秀吉時代までは徳川氏ににらみを利かせ、徳川時代は徳川家か譜代の大名が江戸を守るための拠点としての位置づけとなっていた。一時は幕府領にもなっている。大名不在の期間が大半で代理人が収めていた。天守閣は初期の7年間だけあったが火災で焼失しその後は天守閣のない城であった。

長禅寺

2007-05-25 19:48:58 | 歴史/古文書
 甲府五山の最高位のお寺である。開基は武田信玄の母大井夫人である。夫の信虎が駿河から追放された後、仏門の入った。躑躅が崎の館の北の曲輪に住んでいて「御北様」と呼ばれていた。
永禄2年(1559)信玄もここで剃髪出家している。

 はじめ大井庄(甲西町)にあったが天文21年(1552)大井夫人が亡くなってここ甲府に移した。信玄は亡き母を開基に、岐秀和尚を開山にし建立した。

 確かに五重塔や三重塔など境内の中のつくりは立派なものが多い。

大泉寺総門

2007-05-24 19:46:44 | 歴史/古文書
 この総門は境内のほかの建物とちょっと違った雰囲気を出していて全体として寺のバランス状、違和感を感じるものである。というのはよく案内板を見れば他所のお寺のものを移築しているのである。

 永慶寺という甲府城藩主柳沢吉保が宝永7年(1710)に菩提寺として創建したが享保9年(1724)国替えがあり大和郡山に転封となってこの永慶寺の総門はここに移築となった。永慶寺は黄檗宗であったのでこのような雰囲気の総門である。

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