霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

小谷城お馬屋敷跡

2011-04-30 18:02:02 | 交流/講演
すぐに登ると平坦なところがあります。驚くことに比較的大きな池があるのです。水がかすかに湧いていました。雨水がたまったものでしょう。

琵琶湖を眺める方面は土塁に囲まれて中央には井戸跡も発見されたということです。厩があったので馬屋跡といわれています。しかし証拠になるものは見つかっていないという話です。

小谷城御茶屋跡

2011-04-29 17:54:02 | 交流/講演
 本丸に続く郭の舌状に突き出した先端にあるようなところにこの郭はあります。郭の中間に低い土塁跡が残っていてその中に建物があった跡が残っていたそうである。そこが茶屋跡で庭らしきものがあったとのことであるが本当に茶屋であったかどうかまではわかっていないとのことでした。


虎御前山

2011-04-28 16:49:29 | 交流/講演
番所跡の郭をすぐ登ると景色の良い場所に出くわしました。ここからは虎御前山がよく見えます。この虎御前山には小谷城攻防戦のときに織田信長の本陣があったことで有名です。
永禄3年(1560)浅井軍、愛知郡野良田で六角氏と戦い勝利する
永禄4年(1561)浅井賢政、長政と改名する
永禄11年(1568)織田信長の妹お市を妻として迎える
          浅井・織田同盟の成立、ただし年号については諸説がある
永禄12年(1569)長政とお市の間に長女茶々生まれる
元亀元年(1570)次女初が生まれる
    長政、織田信長が越前の麻暮らしを責めることになり浅井朝倉同盟を破ることは    出来ず。長い間の同盟であり朝倉氏側に寝返ってしまう。
    6月28日姉川の合戦。朝倉浅井軍18千人、織田徳川軍28千人が姉川に会す    るが織田徳川軍に攻められて小谷城に退却したが和睦する
元亀2年(1571)織田信長、小谷城を攻め、木の本・余呉を焼く
元亀3年(1572)8月9日織田信長、虎御前山に本陣を置く
天正元年(1573)三女江生まれる
    朝倉義景(41歳)、一乗谷から大野に逃れ8月13日自刃(朝倉氏滅亡)織田信長、小谷城に総攻撃をかける久政(49歳)8月27日にに続き、9月1日長政(29歳)が小谷城内で自刃した(浅井氏滅亡)

正面に見えるのが虎御前山である
山の北尾根には当時の遺構が残っており、滝川一益、堀秀政、丹羽長秀の陣跡、秀吉、柴田勝家の陣跡もあるといわれている標高224メートルの低山である。



ここから竹生島も見えました。


竹生島の北東には山本山城跡が見えている。

江のふるさと小谷城址

2011-04-27 13:29:44 | 交流/講演
 浅井三姉妹の生まれた小谷城です。茶々と初は清水谷のお屋敷で生まれたが江は合戦のさなかに生まれたので小谷城内の桜馬場の屋敷で生まれている。
ここは番所跡です。追手道を登ってくると金吾丸と出くわすところにこの番所跡があります。ここで城郭に入る前の検問をしていた場所であったから名がついたとの説明です。スパイなどをここで見極めていたのであろう。

小谷・江のふるさと館

2011-04-26 13:16:44 | 交流/講演
 小谷・江のふるさと館の中は小谷城攻防線がわかるパネルや、当時使われた火縄銃、武具などが陳列されています。いずれも複製品です。商魂たくましく甲冑の前で記念写真を取って販売したり地場産の土産品売り場があります。小谷・江のふるさと館は伊部親水公園内にあります。

これは小谷城の縮尺の模型です。ここで観光ボランテイアの人が説明をしてくれます。


当時攻防戦に用いられたと思われる。国友の鉄砲に模型です。手にとって見ると軽くてこれはロケのときの小道具として使われたものかもしれません。

これはロケのときに使われた甲冑かもしれません。

長浜の味

2011-04-25 12:59:41 | 交流/講演
 小谷戦国歴史資料館から出て歩きながら5分ぐらいで小谷・江のふるさと館に着きました。すでに11時を回っていましたので11時30分に小谷城に登るバスを待つため、先ず腹ごしらいをしました。

 言わずと知れた長浜名物、長浜の味、焼鯖そうめんです。すでにテレビでは見ていましたがやはりそうめん露は全くありません。これならば旅先でも食べれる携帯可能麺といえましょう。戦国時代にはあったかどうか定かではないですがあったとしてもすぐ食べれるインスタント麺でしょうか。

 焼き鯖もおいしく、そうめんにも焼き鯖の出しが染み込んでいて露がなくても何か鯖の味がしていておいしく食べることが出来ます。一度は食してみるものです。庶民お味が口の中で一杯になります。




これは、うどんとこの地方の山菜入りのお結びです。この地方の味を楽しむことが出来ました。


小谷戦国歴史資料館

2011-04-24 11:08:33 | Weblog
ようやく10時近くになりましたので長浜観光案内所近くにある。江・浅井三姉妹博覧会場行きのバス乗り場に行きました。もう50人ぐらい並んでいるのです。私はかろうじて座れましたが連れは立ったまま出発です。途中国友鉄砲の里に下車する人は一人もなく皆博覧会場に行く人々たちでした。30分乗車し小谷戦国歴史資料館前で約半数が下車しました。

 ここは入場料が300円必要ですが240円で入れました。歴史ボランテイアの人が会場で説明してくれました。大変詳しく全部聞くと他の会場に回れなくなるので途中で退きましたが京極氏の領地であった湖北を浅井亮正政初代が頭角を現し京極氏を傀儡的にしていってしまうのであった。二代久政は湖南の六角氏の傘下に入ることで内向きの内政を中心に司った人でした。

 三代長政は永禄4年(1561)織田信長の妹お市の方と結婚をして同盟関係になります。その間万福丸と三姉妹を生んだといわれていますが、市は23歳で結婚しておりそのときすでに万福丸は生まれていた。万福丸の生年からして側室の子ではないかといわれています。また万福丸の成敗が「はりつけ」にされるということはいくら戦勝した信長でも市の子であれば磔には処さないと思えると語っていました。また側室も同じように磔になっているそうです。それらの根拠から語り部の人は万福丸は市の子ではなかったと思われるとの説でした。
 
 市のだんなの長政はどんな人であったのか?長政の妹が出家してお寺に古文書が残っているがそれによると身長は170センチメートル位、体重は百貫といわれていたそうであるが百貫は大げさであるが、かなり太っていたそうである.それからすると長政も恰幅のよい骨太の人物であったろう。長政の自刃後2年目の法要のときに描かれた長政像の掛け軸を鑑賞したが太っていて恰幅にいい姿であった。長政は身長175センチメートル、体重100キログラムの大身であって当時は大男であったといわれている。ここは清水谷といって小谷城に囲まれた清水の出る谷間で、初代、2代の平時のとき長政の平時のときは城主や重臣の屋敷があったところである。

写真は小谷戦国歴史資料館である。


長浜城天主からの眺め

2011-04-23 10:28:08 | 交流/講演
 長浜城は今は歴史博物館となっています。元和元年(1615)廃城となった長浜城の石垣、櫓材などは彦根城などに運ばれ、長浜城は完全になくなったのですが、その痕跡は長浜大通寺の台所門や知善院表門・彦根城の天秤櫓などに残っているそうである。
 
 館内は「竹生島と浅井三代・蓮華会」の展示があります。浅井家は初代から竹生島との信仰にかかわりがあり有徳者が行う蓮華会の頭役を勤めています。いわゆる興行の資金の出し手であったのです。長政は若くて頭役はやっていませんが、長政の母は弁財天を寄進し今もあります。浅井亮政書状、浅井長政書状や蓮華会頭役文録などが陳列されていました。
 「小牧・長久手合戦と浅井三姉妹」では江戸時代後期に作られた。小牧・長久手合戦図がありました。人物が数多く描かれたました。武具も細かく描かれていて旗指物でどこの軍かも良くわかります。秀吉軍の武将池田恒興・元助父子や森長可の戦死場面もかかれてありました。

 江の大河ドラマでは江が初めて嫁いだいとこの佐治一成が小牧の役で勝利するも、信勝の和睦で家康が三河へ退くとき大野川を渡る船がなく弱っていたところを。大野城を守っていた。大野の渡しの権益を守っている佐治一成が船を貸し与えたすけたことで秀吉の怒りを買い、秀吉から茶々が大病であるという文で大阪城に江は連れ戻され一成とは離縁となったのです。
 ほかに秀吉の朱印状や羽柴秀吉の判物などの陳列がありました。

 写真は浅井家とかかわりのあった竹生島が見える方向を天守閣からとったものです。果たして竹生島がみえますかねー?