自作の俳句

長谷川圭雲

0809健太郎日記本文公開(2009年2月)

2012-05-31 09:58:41 | インポート

二月二十七日(金曜日)男の誇り

        ノルディックスキー複合団体逆転優勝

 起きて外を見ると大きな牡丹(ぼたん)雪が落ちていた。水分をいっぱい含んだ重たい雪である。昨日であったら二月二十六日、つまり、一九三六年、昭和十一年に起きた陸軍内部の対立に因(いん)を発する皇道(こうどう)派青年将校による反乱事件が起きた日である。息絶え絶えな日本の民主主義にとどめがさされた日である。

その時世界の金融恐慌から日本を救ったとされる高橋是清(これきよ)大蔵大臣も他の政府首脳と共に射殺された。

純白な雪と流された血しぶき、それが二・二・六という日付と重なって健太郎の心には焼き付いている。それは恐らく日比谷芸術座で観た芝居の印象が強烈だったのであろう。反乱将校の女性への愛と国に対する愛の葛藤の劇であった。

 今日のニュースでは、チェコで行われたノルディックスキー世界選手権で日本が複合団体逆転優勝を果たしという嬉しい知らせがあった。荻原健司以来十四年ぶりとの事である。

 これは昨日の新聞で知った事であるが、まさに『これが人間の原形であって欲しい』と思われる記事があった。

ニューヨークのハドソン川にエンジンの止まった旅客機を緊急着陸させたサレンバーガー機長が、二十四日のアメリカ連邦下院議会航空小委員会で証言し、『経済不況に伴うリストラが航空会社にも及び、空の安全を脅かしている』と証言したのだ。

出席者の誰もが恐らく機長の奇跡とも言える英雄的な行動に関する言葉を聞きたかったに違いない。だが、機長の口から出たのは誰もが聞きたくない事であった。

ここには正に自分の職責を立派に果たした男の誇りがあった。機長は更に、自分の給与もここ数年で四割も削減されている事を明らかにした。淡々と事実だけを、自慢する事も、へつらう事もなく証言席で述べたのだ。

 降っていた雪が霙(みぞれ)になり、小雨になった。健太郎もさすがに出かける気持ちになれず、手元の源氏物語を手に取った。『帚木(ははきぎ)』の、雨夜(あまよ)の品定(しなさだ)め、の中の一節に引き込まれた。

『話を長引かせているうちに、非常に精神的に苦しんで死んでしまいましたから、私は自分が責められてなりません』

マイの事がこの一節とダブったのだ。ずっと通っていた健太郎が、急に前触れもなく、ぷっつりと来なくなった。そしてそれは半年以上も続き、マイは店を辞めて、行方は知れない。

マイが辞めたのはつい一ヶ月前であった。まさに健太郎は自分を責めて、マイに詫びる思いであった。マイの健太郎を見る、いたずらっぽい任せきった目を再び目にする事はないのだ。

ニューヨークの株価は88ドル下げて、7,182ドルであったが、東京は110円上げて、7,568円で引けた。

一月の有効求人倍率が0・67の大幅悪化にも関わらず上げたのだ。

為替は1ドル97円、1ユーロ124円、金は1グラム3,182円であった。健太郎の東芝株は8円上がって240円、買った時よりまだ12,000円の損である。健太郎は株式ニュースの解説で良く聞く格言を耳にした。

『落ちるナイフは摑(つか)むな』と言うのである。勿論ナイフは株の事であるが、これが案外と難しいのだ。落ちていても、底に着く寸前なのか、まだ底なしに落ちて行くのかの見極めがプロでもつかない。言葉は正しいが運用が難しい。

二月二十八日(土曜日)奇跡の源氏物語

            アメリカ株7,062ドル

  明日から弥生三月。今日は如月の晦日(みそか)、晦(つごもり)である。日々の流れの早さは会う人ごとの口の端に上る。そして次に不況の話が続く。

久しぶりの薄日に誘われて健太郎は外に出た。歩けば道端に木瓜(ぼけ)の濃いオレンジの指先大の丸い花が目に付く。見つめると花も健太郎とにらめっこを始める。

健太郎は川べりを歩きながら思った。源氏物語が生まれて今なお読み継がれているのは、まさに奇跡であると。

ひとつには、五十四帖にも及ぶ物語を書いた紙である。紙は当時高価な貴重品であった。その和紙を式部は苦労した形跡もなく思う存分使っている。

二つ目に、書かれたものがすぐさま書写されて宮中で読みまわされた。

第三に、時の権力者藤原道長とその統治下の安定した世の中が無かったら、五十四帖まで書き継ぐ事は出来なかったであろう。

第四に、紫式部の文才を認める有能な人々に恵まれた事であろう。俗な権力者で、式部の書いたものを有害なものと決め付けてしまえばそれまでであったのだ。

五番目に、式部が道長の娘で一条天皇の中宮彰子(ちゅうぐうあきこ)に仕えていた事が宮中を描きうる素地となった。

そして最後に、式部の驚くほどの学識の深さであろう。その学識と相まって、歌人としての天才である。下手な歌は下手なりに、源氏の歌は気品に富んだ素晴らしいものに。また、他の歌もそれなりの人物に合わせて作っている。とても一人の人物で出来る技量ではない。

まさに源氏物語は現代、我々が手にしている奇跡であると、健太郎は定年になって初めて実感できた。

アメリカ政府は金融大手のシティ・グループの株三十六パーセントを取得し、筆頭株主になった。シティは当然、公的な管理下に置かれる。それに対する株式市場の反応は、119ドル安の7,062ドル、十二年ぶりの安値である。7,000ドルを割り込むと何が起こるのか全く予知の出来ない未知の領域となる。月曜日の東京の株がどうなるか緊張感が漂っている。

為替は1ドル97円、1ユーロ123円。金は1グラム3,153円、オイルは1バレル44ドルであった。

     *****

 0809健太郎日記 翁のつぶやき(12)

             チベット族焼身自殺

前回の日記(2009・2・26)で書いたチベット族に対する強圧的な弾圧が今なお焼身自殺という形で続いている事(朝日2012・5.25)に一党独裁の暗闇を見せられた思いで慄然たるものを覚える。チベット国民に密かにエールを送りたい。

 こういった記事があるから、全然見むきもしない漫画の掲載をえんえんと続ける朝日に我慢し続けているのだが・・・・・


0809健太郎日記本文公開(2009年2月)

2012-05-29 09:51:41 | インポート

二月二十四日 (火曜日) 火宅(かたく)の人

                  新感覚の画家

 二十三日のニューヨークの株価の大幅下落を受けて東京証券取引所も大きく下落して、一時221円安の、7,155円の安値をつけた。

健太郎はテレビを消した。株価を見てももう無感動である。『落ちる所まで落ちればいいさ』と、他人事のようにつぶやいた。

昨日ホンダはこの時期に黒字なのに、鮮やかな社長交代劇をやってのけた。次の社長がこの激動期を乗り切り、次の展望を切り開くための交代である。

不景気になった今、暇になった時間を社員の技術研修に当てている会社もある。だが、金が回らなければ事業の継続は出来ない。倒産する企業も増えている。日本の財政金融担当者もようやく大変だとの認識を示し始めた。自分の家が燃えているのに気がつかないで家の中にいる、まさに、字の通りの『火宅の人』であったのだ。

世界中が必死で経済対策で動いているのに日本は手をこまねいている。産業界も青くなったが、皮肉なことに世界から見放され始めた日本へ大きなメリットがあった。産業界が待ち望んだ円安傾向である。プラスがマイナス、マイナスがプラスになる事は世の中にありがちな事ではある。

 外国要人の初めての受け入れとしてアメリカのオバマ大統領の招待を受け、麻生首相が今日アメリカに渡った。

レーガンと中曽根、小泉とブッシュという個人的な信頼関係を築けたのは二人ともそれだけの力を持っていたからである。その認識が麻生首相には無い。

昼から健太郎は『おくりびと』を観に渋谷に行ったが、生憎(あいにく)渋谷ではやっている劇場が見つからなくて、文化村東急のアートギャラリーに行った。一階の広い特設会場には一人の日本人画家の斬新(ざんしん)な作品が壁に掛けられていた。

入り口に掛けられた百号の大作は、キャンバスいっぱいに一人の女性と思(おぼ)しきフォルムの人間が少々前かがみに坐っている。フォルム全体が横縞の赤と白の線で構成され、坐っている脚を良く見ると、座布団と見えたものも実は脚であり、脚が幾重にも折り重なっていた。そして足は体の後ろにあるはずなのに、体の正面にあるのだ。画面下に茶道の点前(てまえ)で使う茶碗が描かれ、濃い緑の抹茶が入っている。

会場に居たその絵の若い作家が健太郎に話しかけてきた。

絵の題は『茶道』であり、本来坐った足は後ろにあるが、足が顔と同じ正面に描いてあるのは、日本の茶道に『裏』と『表』がある事を表したものだという、健太郎は言われて納得した気になった。

もう一つは十号程の小品であるが、それには既に売却済みの紅丸(あかまる)の印がついていた。

「この絵はいいですね。海の小さな漣(さざなみ)に小船が一艘漂っていますよねえ…・、でも何故船の中に水が入っているんですか?」

「船の中に魚がいるからです」

作者はもう一つの面白い秘密を健太郎に教えてくれた。

「この波、よーく見て下さい。一つ一つの波が全て私のサインなんです」

紛れもそれは作者のサインであった。健太郎からすれば気の遠くなるような作業である。

だが絵全体から詩が生まれて来るような安らぎがあった。この絵を買った人は八十歳位の男性であったという。

ニューヨークの株価は250ドル下がり、7,114ドル、東京は107円安の7,268円で、7、000円台はキープした。為替は1ドル94円、1ユーロ120円、金は1グラム3,162円、オイルは1バレル38ドルであった。

健太郎の東芝の株は6円上がって、221円で買った時と較べて31,000円の損である。

二月二十五日 (水曜日) オバマ大統領施政方針演説

 氷雨(ひさめ)とまでは言わないが、冷たい小雨(こさめ)が露天の湯船に落ちてくる。時には、頭上の木々の葉から水玉も落ちてくる。健太郎は誰も居ない中伊豆の露天の風呂に一人で入っている。

つい二週間ほど前にも来たのであるが体の痒(かゆ)みに加えて、内腿の三十年来付き合ってきた一点の黒子(ほくろ)のような黒点の周囲が直径八ミリに赤く爛(ただ)れて痒いのである。

前立腺の手術前は、この温泉でその症状を抑えて治す事も出来たのだが、手術後はその効能が薄れてなくなったようである。

だが、ともかく長年の習慣に頼って健太郎はいつもこの温泉に来る。単純に見えるこの黒点の怖さは、十分に認識しているからである。

それはある時、出かけて歩き始めた時、当時は一ミリにも満たない、黒い点で、その中心がキューンと痛んで、右脚(あし)全体に力が入らなくなり、歩けなくなり、この黒点の重大性を知らされたのだ。

癌を疑ったが、そうでもなさそうで、たまたま雑誌で見つけた温泉と相性が良く、それからずっとその温泉の湯と付き合って来た。それも定年までは半年に一度の割合でよかったのだが、今は頻繁に来ている。

温泉を見つけた当初、泉質は弱アルカリだが、温度は低く、中に入るとまるで自分の体温で湯を温めるような感じであったが、今ではボイラーで湯を暖めて入りやすいようになっている。だが、昔体に良いとされた湯船の中で体全体に着く銀粒(ぎんりゅう)も今では注意して見なければ気がつかない程である。昔の源泉温度の頃は、体に着いた銀粒を指でなぞるとはっきりとした文字を書く事も出来た。

露天風呂は小さな渓流に面していてせせらぎの音も聞こえる。帰りの二時の送迎車までに一時間ずつ二度風呂に入る。二回目は内湯の大風呂に決めている。

 温泉宿の広間のテレビでオバマ大統領の施政方針演説を聴いた。就任演説より分かりやすく、具体的で説得力があった。議場では感激した議員達が立ち上がり拍手をする場面が繰り返された。

日本の首相の施政方針演説は内容はおろか、心に刻まれるものは無かった。この時、健太郎はアメリカが羨ましく思えた。オバマ大統領は力強く言った『我々は再生し、より強力になる』と。

健太郎は露天の風呂で次の句を詠んでいた。

如月(きさらぎ)の 小雨(こさめ)の中の 露天風呂

ニューヨークの株価は236ドル高の7,350ドル、東京は192円高の、7,461円。為替は1ドル96円、1ユーロ123円。金は1グラム売値3,178円、オイルは1バレル40ドルであった。

健太郎の買った東芝は11円上がって、232円で、まだ20,000円の損である。

二月二十六日(木曜日)風俗の女

 人の心は時々(じじ)刻々と変化する。その一日一日の心の移ろいを乗り越えようとしたのが漱石の『則天去私(そくてんきょし)』ではなかったのか。

つまり、ちっぽけな私心を捨てて、天の摂理のままに、とでも言うのであろうか。だが、漱石は別の反面をも口にする。

『世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない』、小説『道草(みちくさ)』の中のこの台詞(せりふ)は漱石が終生(しゅうせい)持ち続けた実感であろう。だからこそ『則天去私』を標語として掲げ続けたのではあるまいか。

漱石にとって『則天去私』は自分で掲げた山門の額のようなものであった。

 健太郎はテレビを見たり、本を読んだり、株価の速報を見たりしながら、いずれにも気持ちが乗らないままに過ごしていた。外のぐずついた天気そのものであった。一日をこのまま終わりたくは無かった。傘を持って外に出た。路面は濡れていたが、雨は降っていなかった。

「辞めました」、風俗店の店員の電話での応対であった。

『辞めたのか』、健太郎は歩きながら、その言葉を口にした。早渕(はやぶち)川を流れる水も幾分濁っていた。

何とも言えない悲しみにも似た寂しさが健太郎の心を襲った。昨年の夏、前立腺の手術をしてから当然風俗からは遠ざかっていた。そして久しぶりで会いたくなって電話をしてみたのだ。健太郎は何度も心の中で詫びた。『ごめんね』、悲痛な叫びに近かった。

最後に会ったのが手術前の十日程前であった。何にも言わずに店を出たから、マイはその後もずっと健太郎を待ったかもしれなかった。

だが、半年以上も健太郎は姿を見せていない。健太郎は詫びた。居なくなったマイが寂しそうに健太郎を見つめた。

健太郎はマイを探したかった。だが、それは出来なかった。マイにとって健太郎は客の一人に過ぎなかった。だが、健太郎とマイは二言、三言の会話で充分にお互いの心の中に入り込めた。

そしてマイはいつも健太郎の腕の中で眠った。あどけなさの残ったその寝息に健太郎は抱いたままじっと動かなかった。

越後に帰ったのであろうかと、健太郎はマイが自分の心と体に与えてくれた安らぎを懐かしみ、悔やんだ。

あざみ野駅近くの図書館に行くと、今日の英字紙は珍しく誰かに先を越されており、やむなく昨日のものを手にして席についた。

新聞には、チベットの若い僧が大宰府(だざいふ)天満宮の石畳に正座して読経(どきょう)している姿の写真があった。

新年を祝うべきチベットの正月であるのに、今年は一切の祝賀行事を取りやめ、昨年チベットで起きた僧侶と中国治安当局との騒乱で出た犠牲者に哀悼の意を表すだけにしたとのチベットの僧の説明であった。

本来なら宗教的な民族の祝賀行事は治安当局によって弾圧されるのが歴史の常である。だが、チベットの現地では、中国当局がチベットの新年の祝賀行事を奨励し、チベット人がむしろ行事を控えているという。

祝いたい気持ちを押し殺して祈る人々。権力で人々を躍らせて、それを世界に発信し、胸を張ろうとする人々。

 ニューヨークの株は80ドル安の、7,270ドル、日経平均は上昇で始まったが、引け際、急に下げに転じて、3円安の7,457円。為替は1ドル97円、1ユーロ124円、金は1グラム3,180円、オイルは1バレル44ドルであった。

東芝の株は一時上昇したが、引けでは変わらずの232円で、健太郎の20,000円の損失は変わらない。

健太郎の所に税務署から早々と還付金の振込み通知が届いた。


0809健太郎日記本文公開(2009年2月)

2012-05-27 09:30:28 | インポート

二月二十一日(土曜日)取り壊されるコマ劇

            麻生内閣支持率13パーセント

 新宿歌舞伎町にはまた人が戻ってきた。土曜日の午後六時、人いきれで寒さが押しやられている。一時(ひととき)、渋谷に押されるように人が少なくなったが又人の流れが戻ってきた。赤裸々な人間の欲望の坩堝(るつぼ)である。

 健太郎は昭和四十一年九州から東京に出てきた時、新宿柏木(今の北新宿)のモルタル安アパートに住んでいた。その頃歌舞伎町の歌声喫茶からロシア民謡のカチューシャなどが通りにまで流れてきて健太郎も入って歌った覚えがある。田舎から出てきた健太郎にとって新宿はまさにスリルと興奮に満ちた危険なジャングルであった。

その時は丸の内線中野坂上の駅で降りて、神田川を渡り、中野から新宿に入ったあたりに健太郎のアパートがあった。会社から帰った健太郎は背広からカジュアルなものに着替えて、そこから歩いて夜の新宿へと向かった。

西口駅近くの青梅街道にはいつも男娼が立ち、声を掛けた。歌舞伎町の中心、コマ劇場では有名な歌手や役者の絵が大きく飾られ田舎から上京した健太郎にとって、そこだけは別世界に見えた。

 だが、そのコマ劇場が今取り壊される運命にあり、大きな囲いがなされて、閉ざされている。そして囲った壁にコマ劇に出演した名優達の写真が飾られていた。

健太郎は旅行会社を辞め、一度九州に戻り、教師として再度東京に来た時、このコマ劇場で森昌子の芝居を見た事がある。まだ独身の初々(ういうい)しさであった。

森昌子が品川の私立女子高に入学した時、健太郎は勤め先の中学に行く途中毎朝決まって彼女の学校の校門の近くですれ違っていたのだ。

一度は、健太郎のクラスの女子生徒が森昌子にサインをねだっているのを目撃したが、健太郎はそのまま通り過ぎた。健太郎が向かう中学は、その三年前に郷ひろみの卒業した中学で健太郎はそこで教えていた。

今日は朝刊で麻生首相の早期辞任を七十一パーセントの人が求め、内閣の支持率はわずか十三パーセントだとの記事があった。

志(こころざし)と信念があって、国民の批判に耐えているのであればまだ救いはあるのだが、それは微塵も感じられない。国を愛するよりも自分を愛していて、しかも首相の座に恋々(れんれん)としているようにみえる。

ニューヨークの株価は100ドル安の、7,365ドル。金は1グラム3,125円の小幅の上昇であった。

二月二十二日(日曜日)金賢姫(キム・ヒョンヒ)と拉致家族

               各国中国での生産販売に軸足を移す

 あざみ野駅に向かう早渕(はやぶち)川沿いの遊歩道を歩いていると、ピリッ、ピリッ、ピリッとまるで鈴を転がしたという表現がピッタリの鳥の鳴き声が聞こえてきた。

川中で四羽のコガモの雄がくるくると一羽のメスの近くを円を描いて回っている。メスは円の外で盛んに川苔を啄(つい)ばんでいる。雄は綺麗な鳴き声で、頭はこげ茶に白い線を入れ、目から首へは太い緑の線を描く。雌は自分で誘う必要も無いのか他の種類の鴨の雌と同じで体全体が地味で、薄茶に白の斑(まだら)があるだけである。十年ほど前はオナガガモも来ていたが、ぱったりと来なくなった。

道端にはアロエの花が赤橙(だいだい)に咲いている。白梅、木瓜(ぼけ)、椿が川沿いの民家の庭で花を咲かせてる。今日は散歩がてらに駅近くの図書館に行くだけで、渋谷に出る気は無い。

新聞のラックから英字新聞取り出したが、誰かが読んだ後らしく、少し歪んで置いてあった。奥の四人掛けの机の席に坐ると、健太郎は近くの書棚から大きな英和の辞書を取り、机の上に置いた。

特別にセンセーショナルな見出しは無かった。ただ地味ではあるが健太郎の目を捉えた記事があった。

一九八七年の大韓航空機爆破事件で一時は死刑囚となった金賢姫(キム・ヒョンヒ)と北朝鮮に拉致された家族との面会予定の記事があった。金賢姫は韓国の大統領の特赦で赦免(しゃめん)され政府の保護観察の下に置かれている。その彼女が北朝鮮に拉致され、彼女に日本語を教え込んだとされる田口八重子さんの息子や親族に会いたいとの事である。

田口八重子さんは一九七八年、大韓航空機爆破の九年前に二十二歳で、一歳の男の子を日本に残して拉致され、いまだに帰されていない。その一歳の子が今は三十二歳になっている。母の顔は勿論知らないし、最初彼は自分が母に捨てられたものだと思っていたと言う。

北朝鮮の屈強なプロの男達に突然麻袋を頭から被せられ、小さな船で荒海の中を、北朝鮮に拉致されたのだ。袋から出された二十二歳の若い母親はまるで悪夢としか感じられなかったであろう。

その母の面影を三十二になった息子が金賢姫から直接聞きたいというのは人間の情であろう。

ヒラリー・クリントン国務長官は日本の拉致被害家族の思いが、自分も母親であるだけに理解できると述べたが、日本の為政(いせい)者からの悲しみは伝わってこない。

世界経済は今、大きな質的な変動を迎えつつある。スウェーデンのGM傘下の乗用車メーカー、サーブが経営破たんした。欧州は自国の自動車産業を守るため補助金の交付に乗り出した。日本の液晶テレビのシャープは円高で中国での生産販売に軸足を移す。アメリカも経済の軸足を中国に置き始めた。

二月二十三日(月曜日)『おくりびと』

           アカデミー賞外国語映画部門受賞

 今日、与謝野晶子訳の源氏物語『桐壺(きりつぼ)』を読んだ。十二歳で元服、少し年上の左大臣の娘を妻に迎える事になり、母の住んでいた内裏(だいり)の西北の隅、桐壺を宿直所(とのいどころ)として与えられた。つまり天皇の住む御所の偉い人達が泊まって仕事や警護を行う所である。

元服と同時に父桐壷帝より『源(みなもと)』の姓を与えられる。姓を与えられたと言う事は、皇位継承権を失うという事である。桐壺帝は目に入れても痛くないほどに可愛い息子が、先に生まれて第一継承権の決っている右大臣の娘の子供との政治的なトラブルが起こるのを未然に防いだのである。

源氏はその美貌と豊かな才能故にいつの間にか『光(ひかる)の君』と呼ばれるようになった。元服までは父と共に母亡き後に桐壺帝の後宮(こうきゅう)に入った藤壺(ふじつぼ)の所にいつも行っていた。だが元服後はそれも許されなくなり、母に似ていると言われる藤壺を慕う気持ちが源氏の中では強くなっていく。これが源氏物語五十四帖(じょう)の始まりの第一帖である。健太郎は注釈付きの原文を手元に置いている。与謝野晶子の訳だけでは分からない所が多々あるからである。

 健太郎は調べる事があり、久しぶりで永田町の国会図書館に行った。

道路から正門の方へと階段を下りきった庭の右隅に少女像がある。大きな御影石に腰を下ろした銅像である。

少女はラフなダッフルコートのようなものを羽織っただけの裸婦像に近い。首を上げ何かを見つめている。髪は風に吹き晒されたままである。組んだ両手は内腿(うちもも)に置かれて、左の乳房がはだけた襟元からこぼれていて、乳首がはっきりと立っている。ごつごつとした荒削りな像にはすっきりとした綺麗な像には無い、荒々しさと若々しい息吹が感じられる。

健太郎とほぼ同じ大きさのその像は小雨に濡れて冷たい雫(しずく)を垂れていた。この少女像と会って話をするのが健太郎が国会図書館に来る楽しみの一つともなっている。像の足元には『Pause 1984 津田裕子(ひろこ)』と説明がある、

 今日、日本中を湧かせるニュースが飛び込んだ。滝田洋二郎監督の『おくりびと』が、アカデミー賞の外国語映画賞を取ったのだ。

亡くなった人の体を清め、綺麗に化粧して棺に納める納棺師の話である。日本の葬式のしきたりが世界の人々の心を捉えたのである。

死者に対する礼儀、しきたりは中国の大地震で救助隊が日本から派遣され、犠牲者に黙祷を捧げる姿をテレビで見た中国の若者が、日本人を侵略国のジャップと侮蔑(ぶべつ)的な言葉を投げていたが、『ジャップを見習え』と、言った事と共通するものがある様な気がした。

家に帰るとNHKテレビが、『金賢姫と拉致家族面会実現へ』という番組を流していた。この中で健太郎が空恐ろしく思ったのは、民衆の味方を声高(こわだか)に叫んで大統領になった人が、北朝鮮との融和という政治政策のために、自国の大韓航空機を爆破、韓国に捕まった金賢姫と、北朝鮮に拉致された自国民に対するマスコミ報道をピタリと止めさせた事である。その次の大統領も民衆の味方を標榜(ひょうぼう)していたが、一番弱い立場に居る韓国の北朝鮮への拉致被害者への配慮はなく、それどころか、金賢姫は、実は自国のスパイで、北との関係をこじらせるための自作自演の芝居であったとする報道がマスコミからまことしやかに流されるままにしたのである。

そして現在の李明博(イ・ミョンバク)大統領になって金賢姫は北の工作員だったとの再確認を国民に与え、その流れが日本の拉致被害者との面会に繋がった。

アカデミー賞の受賞といい、こういった真摯な報道が出来る日本という国に健太郎は誇りを持てる自信が湧いた。

今日の東京の株価は40円安の7,376円。為替は1ドル93円、1ユーロ121円、金は1グラムの売値3,162円、オイルは1バレル40ドル。健太郎が千株買った東芝は15円安の215円で、37,000円の損になっている。

ホンダは社長交代を発表した。負の交代ではなく、むしろ積極的な交代との事である。トヨタは六月に交代するらしい。

     *****

 0809健太郎日記 翁のつぶやき(11)

  当然の数土(すど)辞任

 

 数土氏がNHKの経営委員長を辞任したのは当然である。国民の思ったより厳しい反応に驚いた人達―数土氏に東京電力の社外取締りを要請した人達―が保身に走った事と、経営委員の中の健全な意見の結果によるものであった。

 数土氏本人は「李下(りか)」で人目もはばからず手を大きく上に上げたのである。


0809健太郎日記本文公開(2009年2月)

2012-05-25 09:25:11 | インポート

二月十七日(火曜日)イタリアG7 財務相酩酊(めいてい)会見

 今朝ごみ出しに行き、帰りのエレベーターの中でたまたま新築マンション入居当時からの住人が一緒になった。一人は主婦で、もう一人は定年か、会社の休みでごみ出しに行く事になったご主人である。マンションが建設されてからもう二十年を越す。新住民も着実に増えている。「揃(そろ)いましたね」、主婦が笑って言った。

十二階の棟で、健太郎が八階で後の二人が、六階、四階である。気温の落差の激しい事へのぼやきの会話だけであった。「揃いましたね」は、古い昔ながらの住人に対しする言葉として、言い得て妙である。

健太郎は午前の株価を見ていて東芝の株が252円で、底値に近いと判断し、1,000株の買い注文を出し、手に入れた。午後は245円まで下げた。

株は結果で買うものではなく、予測で買うものであるから個人の判断の力量が試される。

東芝はビデオの製品規格の問題でソニーに負けて撤退を決めた。赤字も膨らんでいて、それが株価下落に拍車をかけた。だが、東芝は生き残りに確たる信念を持ち、世界戦略を打ち立てている。原発へのいち早くの対応がそれである。それに対して健太郎は既に2,000株の投資を行っている。今回の1,000株は安すぎる株への投資ではなく、投機である。100円値上がりしたらすぐ利ざやを稼ぐ算段である。

 昨日、ヒラリー・クリントン国務長官が来日した。初めての公務来日である。北朝鮮への拉致被害の家族と面会したり、皇居に天皇皇后を訪ねたり、明治記念館を訪れたりしている。

 今日イタリアから目を疑うニュースが飛び込んできた。イタリアで主要七カ国財務相、中央銀行総裁からなるG7の会議が開かれた。深刻化する世界経済危機に対応するための非常に重大な会議である。

会議後の記者会見で日本の財務相が呂律(ろれつ)のまわらない酩酊状態で記者会見場に臨み、質問に応じたのだ。世界が唖然とした。

今日の株価はニューヨークが休みで、東京は104円安の7,645円。為替は1ドル91円、1ユーロ117円、1バレル34ドルであった。円が売られてもいい状況なのにしっかりしているのはまさに皮肉な世界の思惑(おもわく)である。

二月十八日 水曜日)中川財務相辞任

            麻生首相 サハリン2稼動式典へ

 今宮崎ではWBC(ワールド・ベースボール・クラシックス)参加の日本代表選手が合宿練習を行っている。一般公開で、健太郎の宮崎の兄も観に行っている。

お目当ては、松坂、イチロー、ダルビッシュである。その事を健太郎は鹿児島の母への電話で知った。

朝刊トップはイタリアのG7で醜態を演じた財務相の辞任である。アメリカのウォールストリートジャーナルも『G7での土曜日の仰天する言葉と、トンチンカンな答え』との見出しと写真、それと、もう一枚『その醜態後の酔い覚め』との小さな題で、陳謝する顔写真を掲載していた。

これに対して麻生首相は最初、体調を問題として、財務相の職責をまっとうする様に本人に指示し、次は、二十年度の本予算が成立するまでとしていたが、最後には昨日夕刻中川財務相の辞職を受け入れる事となった。

その麻生首相がロシアのメドベジェーエフ大統領の招待で、サハリン2の稼動式典に行った。低い国民の支持率で北方領土で何らかの成果を目指した事は誰の目からも明らかである。手の内を誰もが知っている事で難しい外交を行おうとしたのは、明らかに国益に反するものであろう。

国よりも自分である。案の定、手ぶらのままで帰って来て、ロシアには、日本の民間企業が開発投資した石油の権益を完全に奪われ、それをお粗末にも首相が自ら式典に臨みロシアに後顧(こうこ)の憂いを無くさせたのである。

 面白いのは、小泉首相もロシアを訪問している。そこで元首相は、参議院で否決された国民給付金法案は衆議院で三分の二の再議決さるべき重要法案に当たらないとして、決議の際は欠席すると宣言した事である。

アメリカではオバマ大統領が七十二兆円の財政支援法案に署名し、効果が生じる事となった。また、自動車大手、フォードとクライスラーもぎりぎりのタイミングで再建計画を政府に提出し、更に二兆円の追加融資を求めた。

経済的にも一番ひどい状況の日本が、一番ひどい政治状況になっている。しかもこの状況を最初、『たいした事では無い』と、言っていた経済・財政担当大臣が中川氏の財務・金融相を兼任するという。

ニューヨークの株式は297ドル下げて、7,552ドル、東京は111円安の7,534円。為替は1ドル92円、1ユーロ116円。金はジリジリと値を上げて、売値で1グラム3,000円台に乗せ、3,009円、オイルは1バレル35ドルである。

健太郎が火曜日に252円で買った東芝の株は今日16円下げて、236円。現在、16,000円の損である。

二月十九日(木曜日)アジア開発銀行総裁 黒田東彦(はるひこ)氏

 健太郎が二十二で上京し、小さな旅行社に勤めているとき、イギリスに留学する財務省(当時の大蔵省)若手キャリア事務官の書類手続きに行った。

その時、たまたま知り合ったのが黒田氏であった。黒田氏も入省して間もなくの若手事務官で、経緯は覚えていないが、その後黒田氏と当時のアングラ劇場に足を運んだ事があり、その時二三列前に三島由紀夫氏も女性同伴で来ていた。初日だったのであるいは三島氏の書いた劇だったのかもしれない。

一度だけ新婚の黒田氏の宿舎に招かれた事があり、その時当時は珍しいカティサークのウィスキーを貰って帰った。そのカティサークは四十二年経った今も健太郎の棚に飾ってある。

その黒田氏がテレビで世界経済についてのインタビューを受けていた。今ではアジア開発銀行の総裁である。

彼はイギリスに留学し、帰国してから二十代にして税務署長で地方に転出し、その後『ミスター円』の、榊原氏の後を継ぎ、財務省の財務官になった。

黒田氏はインタビューで、アジアは中国の目覚ましい発展で5パーセントの経済発展が望めると述べた。

世界経済が極度に落ち込み、日本は暗い底が見えない状況で、健太郎は黒田氏の楽観的な発言を心配した。

 健太郎は山内図書館に行き英字新聞を読むと、アメリカは死刑制度を見直すという。

それは、経済危機にあって、財政負担を減らすためであるという。つまり、死刑執行にはいろいろな手続きや費用がかかり、終身刑より十倍の金がかかるという。

人道を声高に叫び、日本に死刑制度の廃止を求めるアメリカが、金勘定で制度の廃止を検討しているのである。

悲惨、陰惨な事件は死刑制度の有無に関わらず起こる。なら、死刑制度そのものが人々の心の拠(よ)り所ともなるのではと、健太郎は考える。言葉が正に意味を成さない恐怖、苦痛を味わわされた被害者の無念ははるかに想像を超えたものであろう。

アメリカのオバマ大統領は七十二兆円の景気対策法案に署名し、また住宅ローンの借り換え補助等矢継ぎ早に対策を打ち出している。日本からはお粗末な政治状況に悲鳴すら聞こえ始めた。

ニューヨークの株価は3ドル上げて、7,555ドル、東京は23円高の7,557円。為替は1ドル93円、1ユーロ117円、金は1グラム3,146円、オイルは1バレル34ドルである。金の上昇は経済対策で紙幣が増刷される事に対する資産防衛の一つである。

健太郎が買った東芝は6円高の245円で、今の所7,000円の損である。

二月二十日(金曜日)薩摩隼人(さつまはやと)

一つの事を決めて実行するには一日一ミリでも事を進める努力を絶やさない事である。

 健太郎は書き終えた『漱石と龍になった少年』をプリントアウトして、ホッチキスで留め、十冊の綴じ本にした。誰に、何処(どこ)に送るかを考えた。雑誌社に送っても見向きもされないであろう。飛び込み原稿は絶対に受付けない事は分っていたが、五月二十日二日の藤村操(みさお)の命日が近づいていて、その雑誌社が藤村操の特集でも組めば、参考になるかも知れないと数社に送るだけはしてみる事にした。

常識で動いていたら何も出来ない。種は蒔かなければ芽を出さない。動かなければ進めない。動いて健太郎が失うものは何も無い。

結局自分と日頃連絡を取り合っている人達に送ることにした。皆、健太郎が小説を書くなどとは夢にも思っていない。もう健太郎も教師を引退したのであるから本来の自分を表に出しても良いのではと思うようにもなった。

鹿児島にこう言った場合に決断を促す諺がある。

『跳(と)ぼかい 泣こかい 泣こよか ひっ跳(と)べ』。勇気をだして跳ばなければ前へ進めない場所があり、しり込みして泣くよりも、男なら思い切り良く跳んで前に進め、という教訓である。健太郎は薩摩隼人である。

ニューヨークの株価は89ドル安の7,465ドル、東京は141円安の7,416円。為替は1ドル94円、1ユーロ119円、金は1グラム3,146円とじりじりと値を上げている。オイルは1バレル37ドルであった。

アメリカで金融危機という大地震が起きた時、日本は対岸の火事の扱いで、評論家は日本はもうアメリカに左右されない、デカプリングという言葉さえもてはやした。デカプリングとは、二つを切り離す、つまり、アメリカはアメリカ、日本は日本で、もうアメリカの影響は受けないと言う事である。津波は静かに海を越え日本を飲み込もうとしていたのだ。警鐘を鳴らした人も居たが、異端視された。

 健太郎が十七日に252円で千株買った東芝は今日は15円安の230円で、健太郎は現在22,000円の損である。

     *****

 0809健太郎日記 翁のつぶやき(10)

「落ちる所まで落ちた社民党福島党首発言」

 天下国家を論じるべき社民党福島党首がイレズミにまで口を出した。(2012・5・24 朝日新聞による)。問題の本質を隠して、人を扇動する幼稚な発言で。

 人権感覚が無いのは拉致問題をないがしろにしてきた社民党自身ではないのか。


0809健太郎日記本文公開(2009年2月)

2012-05-23 10:23:12 | インポート

二月十四日(土曜日)肥薩線嘉例川(ひさつせんかれいがわ)駅

 春一番の翌日は暖かいと言うが、その通りに全国的に暖かい一日で、横浜は二十四・八度まで気温が上がった。

健太郎はひねもすコタツに足を入れたまま、ごろりと横になり、テレビを見ながら過ごした。悠々自適とはまさにこんな生活かなと健太郎は思ったりするが、それとは違う感じの方が強かった。悠々と言う言葉はこの頃高齢者に使われる事が多いが、もともと年齢には関連が無い。

テレビでアンコール特集『肥薩線真幸(まさき)駅』とあった。熊本の八代(やつしろ)から球磨(くま)川を遡り、人吉(ひとよし)に出る、そこから熊本、宮崎、鹿児島の分水嶺を持つ山を越えて日豊線との合流地点、鹿児島県の隼人(はやと)までがJRの肥薩線になる。その線の駅の中で一駅だけが宮崎県にはいる。それが『真幸』の駅である。

この駅が有名になったのはインターネットによる書き込みによるとも言われている。つまり、漢字の真の幸福という意味にこの駅名が捉えられたのである。

駅のホームには『幸せの鐘』が設けられていて、乗客はそこでいったん降りて鐘を鳴らし願をかける。列車はそこに停車したまま乗客が鐘をつき終わるのを待つ。三回までが限度で、一度撞く度に幸福の度が増すというが、一度で終える人が多い。

このあたりにはパラグライダーの基地があるのか、空中を飛んでいるのを見かける事もある。

明治、鉄道敷設(ふせつ)の際、政府は外国との戦争を視野に入れ、砲撃され易い沿海部を避け、内陸部に鉄道を通した。それが最初の鹿児島本線である。その後、便利な沿海部に鉄道は新設され、それが後の鹿児島本線となった。

更に今では、鹿児島本線を新幹線が走り、新八代と薩摩川内間の昔のJR区間は、今では民間委託の第三セクター運営のオレンジ鉄道と名を変えている。つまり、この区間の鹿児島本線は新幹線だけになった。まさに時代の流れをそのまま映したものとも言える。

肥薩線の旅で乗客は車内で不思議な光景を目にする事になる。前で列車を運転していた運転手が、列車を止めると、乗客の中を通って後尾に行き、そこで又運転を初め、列車を逆に走らせるのだ。いわゆる、スイッチバックのZ型走行である。それに加えて、この線は山を一周するループ鉄道にもなっている。

地元の乗客は少なく、鉄道を楽しむ人が殆どである。

肥薩線の終点は桜島を浮かべた錦江湾の奥、隼人であるが、そこは健太郎が高校二、三年の時、通学で乗り降りした駅でもあった。だが、高校一年の時は、今は木造駅舎で有名になった嘉例川駅からの通学であった。

今は無人駅であるが、健太郎が近くに住んでいた頃は、高校生や通勤客で人は多かった。それからもう半世紀ほど経っている。

ニューヨークの株は、82ドル安の7,850ドル、金は1グラム2,917円の上昇基調である。だが、健太郎が証券会社から買ったETFのゴールドは、1グラム3,000円の値の時であった。

二月十五日(日曜日)血を吐いて辞めていくIT派遣社員

 今日長男が来た。世田谷三軒茶屋の貸しマンションに住んでいる。昨日携帯メールで今日来るとの事であったが、来たのは夜の七時を過ぎていた。来たら障子の張替えをと思っていたが、遅いので止める事にした。

夕食にすき焼きを準備していて鍋をつつきながら、とつとつと話を始めた。長男はこの四月で二十七になる。健太郎が教師になった年齢を既に超えている。

コンピュータの専門学校に行き、そこから神田のIT技師派遣会社に勤め、そこから要請のあった会社に派遣される。

長男は鍋の肉をつつきながら、溜め込んだ不満を少しだけ吐き出した。

日本の一流企業のIT部門への派遣であるが、外からは華やかに見えるが、職場の内部は殆どが派遣社員で構成され、酷使されているとの事である。中には血を吐いて辞めていく者もいて、給料は上がらない。その苦しさに加えて、派遣されて行った先の上司が威張り散らして派遣社員をまるでゴミのように扱うと言う。健太郎は絶対に励ましはしない。

「そんな所は辞めろ」と、長男が帰る時、健太郎が病院で貰って飲まずに居た漢方の胃薬を無理やり持たせた。

帰りかけた長男に健太郎は、せっかく帰って来たのだから、母には挨拶して帰るように言うと長男は締め切った母の部屋へと入って行った。しばらくして部屋から出てくると、母と近くの喫茶店で話をすると、一緒に外へと出て行った。

自分の家では出来ない話だろうと健太郎は思ったが、特段の関心も無かった。

一時間ほどで妻は帰って来たが、健太郎は自分の部屋で午前中に仕上げた、『漱石と龍になった少年』を手に取り、もう一度読み返した。誰に送ろうかと、読んでくれそうな人をあれこれと頭で思い描いた。

三月十六日(月曜日)上野東照宮 冬牡丹(ぼたん)祭り

 あざみ野駅へ向かって早渕(はやぶち)川を歩いていると、目が痒くなり、何度も何度も目の所を手で掻いた。立て続けにクシャミが出て、粘着力の無い鼻水がポロリと流れる。春一番が吹き、暖かくなると、杉が一斉に花を開かせる。若い時ほどでは無いが、スギ花粉症は今でも春の憂鬱である。

道行く人も、電車の中でも顔半分をマスクで覆った人が居て、痛々しい感じがする。

健太郎が家を出たのは家に居たくないからであった。こういった時健太郎はよく、ロシアの文豪、トルストイを思う。彼は家を逃れるようにして、家出同然のなか行き倒れ、駅舎で亡くなった。

行くあても無いままに電車に乗った。渋谷を過ぎて、行く先を決めかねていると、急に隣の老人に「この電車は表参道に行きますか?」と聞かれ、混沌とした自分の心の状態のまま「行きます」と、答えてようやく次が表参道なのを知覚した。

老人は健太郎の返事に不安を感じたらしく、きょろきょろと落ち着かない素振りであったが、「次が表参道です」との、健太郎の言葉に安心して体を座席に委ねた。

健太郎も表参道で下りて、銀座線に乗り換えた。まだ行き先の決まらないまま、終点の浅草まで行ってしまったが、体はいつものように改札を出ず、折り返しの電車にそのまま乗っていた。

 上野公園に入った。その中ほどから不忍(しのばずの)池へと下りて、弁天堂を経て、池向こうの横山大観美術館、さらにその奥の竹久夢二美術館に行こうと思った。

公園の中にはもう桜が咲いていて、公園に寝泊りするホームレスの人達が十人程集まって花見の宴を張っていた。皆楽しそうであった。桜は寒桜(かんざくら)で二月に咲く桜である。二月に咲く桜は健太郎の知る限りにおいては、熱海桜と、伊豆の河津(かわづ)桜である。

都立美術館の方へと歩いていくと『冬ぼたん祭』の看板が出ている。期間は一月から二月中旬で、逃すと来年まで見られない。

奥まった東照宮境内にその場所はあった。入り口で六百円を払って中に入ると、早速紅い綺麗な牡丹の出迎えを受けた。

ヘアピンの通路に沿って牡丹の花が並んでいる。『立てば芍薬(しゃくやく) 坐れば牡丹、歩く姿は百合の花』と言われる程牡丹は美の象徴である。きらびやかなショー・ダンサーのようなものもあるし、処女のような恥じらいを見せる初々(ういうい)しい花もある。

園内の茶店の先に咲いた一輪の白い牡丹が健太郎の目に留まった。なよやかで柔らかく、一点の曇りも無い純粋さであった。それは他の牡丹の中にあって一輪だけ高貴に思えた。

健太郎の足は止まったままである。風でかすかに揺れる様さえも健太郎にはいとおしく思えた。その可憐さに気付いたのか、白髪の女性カメラマンが坐ったり、立ったり、体を捻ったりしてその牡丹を撮り始めた。牡丹の名前は『白神(しらかみ)』とあった。

この牡丹園の牡丹の殆どに藁(わら)の霜囲いがしてあって、その横に立てた短冊形の板に『寒牡丹』『冬牡丹』を季語にした俳句が詠みこまれていた。ここの来園者は俳句の愛好者が多いのであろうか、即興の自作を短冊に書き、画鋲で留められるようになった所もあった。

健太郎が覗いてみると、短冊の中には、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語、韓国語と様々な国の言葉で詠まれた句が書いてあった。

健太郎も一句捻(ひね)った。

なよやかに 牡丹白神(しらかみ) 琴の音(おと)

 夕方になり日も落ちて寒くなり、健太郎はまたポケットからティッシュを取り出して、何回も鼻水を拭き、園をでた。

帰ると夕刊に、GDP(国内総生産)年率十二・七パーセント減、の文字が大きく踊っていた。経済担当の大臣が「戦後最悪、戦後最大の経済危機」と言い切ったとも記事にあった。健太郎の長男も派遣社員である。このままではすまないだろうと健太郎は思った。

ニューヨークの株価は82ドル下げて、7,850ドル、東京は29円安の7,750円。為替は1ドル91円、1ユーロ117円、金は1グラム2,936円、オイルは1バレル37ドルであった。

     *****

かげろうの詩(60)

    浅草三社祭

浅草に

三社祭りの笛、太鼓。

三つの神輿(みこし)が練り歩く。

男ふんどし

祭りの半纏(はんてん)。

狂乱怒涛の担ぎ手を

親方抑えて

練り歩く。

それを取巻く見物は

神輿に押されて

揺れ動く。

それでも強く手をたたき

荒くれどもの掛け声に

我を忘れて

のめり込む。

今年も夏は

もうそこだ。

(2012・5・20)