二月二十七日(金曜日)男の誇り
ノルディックスキー複合団体逆転優勝
起きて外を見ると大きな牡丹(ぼたん)雪が落ちていた。水分をいっぱい含んだ重たい雪である。昨日であったら二月二十六日、つまり、一九三六年、昭和十一年に起きた陸軍内部の対立に因(いん)を発する皇道(こうどう)派青年将校による反乱事件が起きた日である。息絶え絶えな日本の民主主義にとどめがさされた日である。
その時世界の金融恐慌から日本を救ったとされる高橋是清(これきよ)大蔵大臣も他の政府首脳と共に射殺された。
純白な雪と流された血しぶき、それが二・二・六という日付と重なって健太郎の心には焼き付いている。それは恐らく日比谷芸術座で観た芝居の印象が強烈だったのであろう。反乱将校の女性への愛と国に対する愛の葛藤の劇であった。
今日のニュースでは、チェコで行われたノルディックスキー世界選手権で日本が複合団体逆転優勝を果たしという嬉しい知らせがあった。荻原健司以来十四年ぶりとの事である。
これは昨日の新聞で知った事であるが、まさに『これが人間の原形であって欲しい』と思われる記事があった。
ニューヨークのハドソン川にエンジンの止まった旅客機を緊急着陸させたサレンバーガー機長が、二十四日のアメリカ連邦下院議会航空小委員会で証言し、『経済不況に伴うリストラが航空会社にも及び、空の安全を脅かしている』と証言したのだ。
出席者の誰もが恐らく機長の奇跡とも言える英雄的な行動に関する言葉を聞きたかったに違いない。だが、機長の口から出たのは誰もが聞きたくない事であった。
ここには正に自分の職責を立派に果たした男の誇りがあった。機長は更に、自分の給与もここ数年で四割も削減されている事を明らかにした。淡々と事実だけを、自慢する事も、へつらう事もなく証言席で述べたのだ。
降っていた雪が霙(みぞれ)になり、小雨になった。健太郎もさすがに出かける気持ちになれず、手元の源氏物語を手に取った。『帚木(ははきぎ)』の、雨夜(あまよ)の品定(しなさだ)め、の中の一節に引き込まれた。
『話を長引かせているうちに、非常に精神的に苦しんで死んでしまいましたから、私は自分が責められてなりません』
マイの事がこの一節とダブったのだ。ずっと通っていた健太郎が、急に前触れもなく、ぷっつりと来なくなった。そしてそれは半年以上も続き、マイは店を辞めて、行方は知れない。
マイが辞めたのはつい一ヶ月前であった。まさに健太郎は自分を責めて、マイに詫びる思いであった。マイの健太郎を見る、いたずらっぽい任せきった目を再び目にする事はないのだ。
ニューヨークの株価は88ドル下げて、7,182ドルであったが、東京は110円上げて、7,568円で引けた。
一月の有効求人倍率が0・67の大幅悪化にも関わらず上げたのだ。
為替は1ドル97円、1ユーロ124円、金は1グラム3,182円であった。健太郎の東芝株は8円上がって240円、買った時よりまだ12,000円の損である。健太郎は株式ニュースの解説で良く聞く格言を耳にした。
『落ちるナイフは摑(つか)むな』と言うのである。勿論ナイフは株の事であるが、これが案外と難しいのだ。落ちていても、底に着く寸前なのか、まだ底なしに落ちて行くのかの見極めがプロでもつかない。言葉は正しいが運用が難しい。
二月二十八日(土曜日)奇跡の源氏物語
アメリカ株7,062ドル
明日から弥生三月。今日は如月の晦日(みそか)、晦(つごもり)である。日々の流れの早さは会う人ごとの口の端に上る。そして次に不況の話が続く。
久しぶりの薄日に誘われて健太郎は外に出た。歩けば道端に木瓜(ぼけ)の濃いオレンジの指先大の丸い花が目に付く。見つめると花も健太郎とにらめっこを始める。
健太郎は川べりを歩きながら思った。源氏物語が生まれて今なお読み継がれているのは、まさに奇跡であると。
ひとつには、五十四帖にも及ぶ物語を書いた紙である。紙は当時高価な貴重品であった。その和紙を式部は苦労した形跡もなく思う存分使っている。
二つ目に、書かれたものがすぐさま書写されて宮中で読みまわされた。
第三に、時の権力者藤原道長とその統治下の安定した世の中が無かったら、五十四帖まで書き継ぐ事は出来なかったであろう。
第四に、紫式部の文才を認める有能な人々に恵まれた事であろう。俗な権力者で、式部の書いたものを有害なものと決め付けてしまえばそれまでであったのだ。
五番目に、式部が道長の娘で一条天皇の中宮彰子(ちゅうぐうあきこ)に仕えていた事が宮中を描きうる素地となった。
そして最後に、式部の驚くほどの学識の深さであろう。その学識と相まって、歌人としての天才である。下手な歌は下手なりに、源氏の歌は気品に富んだ素晴らしいものに。また、他の歌もそれなりの人物に合わせて作っている。とても一人の人物で出来る技量ではない。
まさに源氏物語は現代、我々が手にしている奇跡であると、健太郎は定年になって初めて実感できた。
アメリカ政府は金融大手のシティ・グループの株三十六パーセントを取得し、筆頭株主になった。シティは当然、公的な管理下に置かれる。それに対する株式市場の反応は、119ドル安の7,062ドル、十二年ぶりの安値である。7,000ドルを割り込むと何が起こるのか全く予知の出来ない未知の領域となる。月曜日の東京の株がどうなるか緊張感が漂っている。
為替は1ドル97円、1ユーロ123円。金は1グラム3,153円、オイルは1バレル44ドルであった。
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0809健太郎日記 翁のつぶやき(12)
チベット族焼身自殺
前回の日記(2009・2・26)で書いたチベット族に対する強圧的な弾圧が今なお焼身自殺という形で続いている事(朝日2012・5.25)に一党独裁の暗闇を見せられた思いで慄然たるものを覚える。チベット国民に密かにエールを送りたい。
こういった記事があるから、全然見むきもしない漫画の掲載をえんえんと続ける朝日に我慢し続けているのだが・・・・・