自作の俳句

長谷川圭雲

0809健太郎日記本文公開(2009年1月)

2012-05-03 10:16:55 | インポート

一月十一日(日曜日)小説『雪国』疑似体験

 明日、健太郎は六十五歳の誕生日を迎える。横浜市から高齢者優待カードが送られてきた。くすぐったい感じである。一番の恩恵は横浜本牧(ほんもく)にある明治の生糸(きいと)商、原三渓が贅(ぜい)を尽くした邸宅と日本庭園のある三渓園(さんけいえん)が無料になることである。バス代だけで一日遊べる。それに、毎月第三月曜日、横浜美術館にただで入れる。年金生活の健太郎には非常に有り難い制度である。

いよいよ健太郎も高齢者と認定された訳であるから、まだ若い教え子等から相談があったら快く応じる事を肝に銘じた。勿論健太郎自身の家族は家族と呼ぶのを健太郎自身躊躇(ためら)うものである。だからこそ、現実に基づいた助言も出来るのかもしれない、と健太郎は前向きに考える事にしている。

 健太郎は六十五という区切りの歳を、谷川岳の南麓にある水上(みなかみ)温泉で雪見をして、人生に一区切りをつけたいと思った。

若いときは川端康成の『雪国』の疑似体験をした事もある。雪国はトンネルを越した湯沢の地であるが、水上はトンネルに入る前の利根川の水源である。  雪国程では無いが、融雪の噴水が道路中央にあるほどだから雪溜(ゆきだま)りでは胸まですっぽり入る位である。

小説『雪国』には駒子(こまこ)がいたが、健太郎の水上滞在にはやはり一人の芸者が居て、その置屋(おきや)の二階の女の部屋までつれて行かれた事があった。

 健太郎は暇(ひま)に任せてまた『源氏物語』を紐解(ひもと)いた。断片的に知っていた事が、繋がっていくのは、その度の発見で楽しい事である。京都、五条楽園(らくえん)の源融(とおる)邸宅跡とされる欅(けやき)の大木のあった河原(かわら)院あたりは、鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記』によると、安元三年(一一七七年)の大火でほぼ消滅したという。

源氏物語による第三十三帖『藤の裏葉』の冷泉院と朱雀上皇の、光源氏の邸宅、六条院行幸はその河原院をモデルにしたという。

源氏の母が亡くなった後に桐壺帝の側室となった藤壷(ふじつぼ)との密通、そして生まれたのが冷泉院であった。それと同じ報いを源氏は受ける。つまり、源氏の幼妻、女三宮(おんなさんのみや)と、親友頭中将(とうのちゅうじょう)の息子、柏木(かしわぎ)との密通により生まれた子供を源氏は自分の子として受け入れるのである。まさに源氏物語は滔滔とした人間の情念の大河物語である。

一月十二日(月曜日)谷間(たにあい)の温泉 水上

 『国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった』、川端康成の小説『雪国』の冒頭である。群馬県と新潟県を結ぶ清水(しみず)トンネルである。健太郎はローカル電車で国境の南にある温泉、水上に向かった。

高崎で水上行きに乗り換えた。晴れ渡った空に伊香保の山々と、その反対側に赤城(あかぎ)のどっしりとした山が見えた。山頂の雪は少なかった。駅舎に大きな赤い鼻をして天狗の面が飾ってある沼田の駅に着いてもまだ雪は無い。後閑(ごかん)あたりでようやく沿線に白いものが見え始めた。

列車は一挙に高度を上げてゆき、それに伴って平地の雪も厚さを増した。東京の水源ともなる利根川の岸壁を刳り貫いたトンネルをいくつか抜けると水上である。

列車を降りると体が冷気の中に投げ出された。健太郎は身を縮めて駅の待合室に逃げ込んだ。暖房の周りで手を暖める人もいた。ホームには長岡行きの列車が待っていた。

駅前の観光案内所で資料を貰い、公衆電話から前に泊まった事のある旅館に電話をすると、まだ十二時前で、チェックインが三時だとの事で、旅館までゆっくり歩き、荷物を預けてチェックインまで山間(やまあい)の村を散策することにした。

上越線の線路と利根川に挟まれた道路を温泉の方へと歩いた。川に架かった吊橋は老朽化のため通行禁止で、ここでも健太郎は歳月の流れを知らされた。

青い深緑(ふかみどり)の谷川の岸壁に架かった橋を渡ると、もうそこは温泉街である。除雪した道路中央のスプリンクラーの融雪器も作動を止め、舗道は白く乾いていた。

旅館に着くと、誰も居ない玄関で声を上げると、中から七十は優に超したと思える分厚い茶のセーターを着た主人が背を丸めて出てきた。無口で、差し出された宿帳に記入すると荷物を預け、身軽になって水上の町に飛び出した。

道を下って行くと、『諏訪峡(すわきょう)遊歩道』の表示があり、その先の河原の土手の急勾配で子供達がスノーボートで雪すべりを楽しんでいた。

岩の群れ おごれど阻(はば)む力なく 矢を射(い)つつ行く 若き利根川』、このあたりの情景を歌った女流歌人、与謝野晶子の歌である。健太郎のもっている源氏物語の訳者でもある。

晴れ渡っていた空に急に谷川岳だけの方から黒い雲が湧いてきたかと思うと、瞬(またた)く間にパラパラと白い雪が舞い始めた。そしてあっという間に山間の町は雪で包まれてしまった。

用心して持って出た旅館の傘も小さくて、健太郎の黒のオーバーの前は雪で白くなった。細い裏道で人のあまり通らない所は雪が降り積んだままであった。そういった道の上り坂に来た時、健太郎は昔、芸者の夕子が、健太郎を連れて来たのはこのあたりの家ではなかったかと足を止めたが、もう三十年も昔の事で、記憶も曖昧で、置屋(おきや)らしい所は無かった。

三十数年前、健太郎はふらりと、雪見にトンネルを越えて、湯沢に行ったが、スキー客が多く、水上に宿をとった。その時、夕食に芸者を呼んでもらった。その時の芸者が夕子で、それから二三回水上で夕子を呼んだ。やはり屋根や通りに雪の降り積んだ頃であった。夕子は突然健太郎を置屋の自分の住家(すみか)に誘った。

危ない坂を転ばないように下りて二階建ての古い民家に入ると、一階には白いごましお頭の六十年配の男がコタツでタバコをくゆらしていたが、健太郎と夕子には目もくれなかった。

夕子はたじろぐ健太郎を促して、二階の自分の部屋へと案内した。きちんと整えられた部屋であったが、寒々として、そこには女の哀しさが置かれていた。

その後数年ぶりに水上に行くと、もう夕子は新潟の港の方へ落籍(ひか)されたという事であった。

午後三時のチェックインまでまだ時間があったので健太郎は駅に戻り、待合所で暖を取り、近くの食堂で昼食を取ってから旅館に入った。

その日は成人式で、芸者屋も休みとの事で、健太郎は一人温泉の湯船の中で、ふと、山頭火(さんとうか)が感激した言葉を口に出した。

この湯は良い。本当に良い』、その言葉を口にした熊本日奈久(ひなぐ)温泉の湯にも健太郎は入った事がある。今日の六十五歳の誕生日を迎える事が出来た事に健太郎はそっと感謝した。