自作の俳句

長谷川圭雲

0809健太郎日記健太郎の創作ー帰りたい(8) 長谷川 圭一

2015-05-31 11:02:45 | 自作の俳句
   帰りたい (8)

              長谷川 圭一

 道路脇に車を止めると、健太郎は車を下り、見慣れた高さ2mほどの苔むした四角の石柱の門の前に立った。その両脇の門の内側が健太郎の家であったのだ。
 懐かしかった。昔のままであった。門の所に生えた桜の古木も、細くて深い切れ込みの葉をつけ見事な紅葉を見せる「いろは紅葉(もみじ)」もそのままであった。そして健太郎と兄が空き家の家に帰る度に手入れをした道路沿いの生垣もそのままで健太郎はまさに家に帰って来た心地であった。だが、勿論表札は変わっている。
「新村(しんむら)」とあった。瀬川から、新村へと受け継がれたのである。
 兄は何のためらいもなく門を入って行った。玄関先の勝手口で声をかけると奥の畑の方から六十前後とみられる女の人が畑作業(はたさぎょう)を止めて姿を見せた。買主と売主であるから顔はお互いに知っている。
 兄は墓参りに来た旨を告げ、ついでに寄ってみたと言い、宮崎から持参した土産を手渡した。主人の姿は無かったが、女性は兄に、裏山に竹の子が生えている事を告げ、良かったら持って行かないかと、嬉しい誘いの言葉をかけた。 
 女性の先導で裏山に行くと、かっては畑であった所に落ち葉が溜まり、そしてその落ち葉を持ち上げるように孟宗竹(もうそうちく)の竹の子が頭をもたげていた。健太郎には分からなかったが、女性は落ち葉の中から目ざとく竹の子を探し当てた。地上に長く伸びたものより、地中にあって、わずかに頭を地上に見せる位のものが良いとの事であった。
 兄は三本の竹の子をもらうと、礼を言ってその家を辞去した。そしてその家の道路真向かいの家を訪れた。
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ハセケイ コンポジション(189)・hasekei composition(189)

0809健太郎日記健太郎の創作ー帰りたい(7) 長谷川 圭一

2015-05-29 10:22:26 | 自作の俳句
   帰りたい (7)

              長谷川 圭一

 健太郎は「ふれあいセンター」の駐車場に戻り、また兄の車に乗り込んだ。
「ちょっと墓の事で石材店に寄ってみる」と、兄の話しは具体的なものになっていった。
「俺はあの墓に入ろうと思っていたんだがな」と、健太郎はふと本音を漏らした。
「誰が墓の面倒を見るんだ。お前だけの代じゃすまないぞ」と、兄に言われて健太郎は返す言葉を飲み込んだ。
 石材店はすぐ近くにあり、仕事場で座って仕事をしていた小柄だが頑丈な体付(からだつ)きの色の黒い五十代とみられる男が健太郎と兄に目を向けた。
「今日は」と、兄は見知っているらしく親しく挨拶をした。石材店の店主であった。
 店主も兄を覚えていたらしく手を休めて兄に挨拶を返した。父の戒名(かいみょう)を刻んでくれた人であった。
 兄は墓を宮崎に移転する事を話した。その話の中で、墓石の事が話題になり、現在の墓石の九割が中国から輸入されていると聞き、健太郎は驚いて耳を傾けた。価格の安さであった。
 結局、石材店の主人が後から実際に瀬川家の墓を見て、それから兄に見積もりを送るということとなった。
その石材店の近くには葬儀場があり、そこで父の葬儀が営まれたのである。
 いよいよ健太郎は兄の車で売却された自分の家を見に行くのだ。今はリフォームされ、知らない人が住んでいる。兄の話では近畿に住んでいた人が、定年退職で鹿児島に帰って来たが、売りに出された瀬川の家を一目で気に入り、購入を決断したとの事であった。
 健太郎の心は揺らめいていた。これが最後の我家の見納めと思えばうっすらとした寂しさが健太郎の心に広がった。
 今は出水(いずみ)方面への迂回路が出来、交通がまばらになった県道を北の方へと上って行くと、右手に懐かしい寺への参道入り口が見えた。
 その寺では健太郎が小学生の頃、日曜学校があり、そこで釈迦にまつわる紙芝居を見たり、ソロバンを習ったりした。そしてその寺の住職の子供と健太郎は同じ小学校で同じ学年であり、仲も良かった。
 だが、小学校を卒業してから健太郎は中学一年で転校し、その後その寺の事は知らない。
 健太郎が大学生の頃、その友達が自殺したという話を誰からともなく耳にした事があった。そしてその真相は未だに健太郎にとっての謎である。
 さらに先に進んでいくと道路に面した壊れた門と、廃屋がいくつかあった。そのいずれの廃屋にも健太路の懐かしい子供の頃の思い出があった。そしてぱっと開けた白木(しらき)川に面した所に健太郎の今は人手に渡った家があった。数軒の農家が立ち並んでいる。健太郎の家の隣は屋根も半分崩落した廃屋である。だが、すぐ近くには新しく建てられた家もある。昔小学校の分校があった跡地である事を示す「分教場跡」の石碑もあった。
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ハセケイ コンポジション(188)・hasekei composition(188)

0809健太郎日記健太郎の創作ー帰りたい(6) 長谷川 圭一

2015-05-26 09:56:43 | 自作の俳句
  帰りたい (6)

              長谷川 圭一

 線香をあげると丁度昼時で兄と今一度、ふれあいセンターに戻り、そこの駐車場に車を置くと、近くの小さな、だが洗練された感じのレストランに入った。実際中に入るとふんわりとしたくつろげる雰囲気があり、ほど良い装飾も感じの良いものであった。
 窓際奥の席には五人の女性客が同じテーブルを囲んで楽しそうに話しに打ち興じていた。
 健太郎と兄は同じ和風ランチを注文した。七百五十円の安いランチであったが、惣菜や野菜サラダは豪華で、まさに十二分に健太郎の腹を満たした。
 兄がふと母について話をした。
「お前から電話がある筈で、『健太郎から電話があるでしょう?』と訊くと、母はいつも『電話など来ないよ』と言ってるよ」
 健太郎も言った。
「兄貴がいつも来てるでしょう?」と訊くと『誰も来ないよ。誰も来てくれない』っていう返事だよ」
だが、健太郎は電話の度に母が「帰りたい」と言うのは口にしなかった。母が本当に帰りたい北薩伊佐市の家はもう無かった。知らない人が住んでいるのだ。
 一時間程食事をしながら話しこむと奥の女性グループが腰を上げたのを潮に健太郎と兄も店を出た。
 道路の向かい側にあったバスセンターのビルは取り壊され見通しの良い、更地になっていて、過疎化がすすんでいるのが見てとれた。
 すぐ近くの道路の北側の突き当たりに昔賑わった国鉄の大口(おおくち)駅があったのだが、そこも更地になり、今は手入れのされた空間になっていた。
 昔、JRが国鉄であった頃、大口駅を中心に、水俣、大口、栗野(くりの)、そして現在の肥薩線吉松(よしまつ)までをつなぐ山野(やまの)線が走っていた。大正10(1921)年9月11日の開業で、昭和63年(1988)2月1日に廃線となったのだ。
 そしてもう一本の路線もあったのだ。それは大口から川内(せんだい)までをつなぐ宮之城(みやのじょう)線であったが、それは山野線より一年早い昭和62年(1987)1月10日に廃線となった。
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ハセケイ コンポジション(187)・hasekei composition(187)

0809健太郎日記健太郎の創作ー帰りたい(5) 長谷川 圭一

2015-05-23 10:16:24 | 自作の俳句
  帰りたい (5)

              長谷川 圭一

 田圃(たんぼ)の中に突如出現した大型スーパーを左に見て、川内川の支流、羽月(はつき)川を越えると、瀬川家の墓は昇り勾配の左手にあった。
 その勾配の下の空き地に車を置くと、健太郎と兄は急な勾配を上った。母が誰の助けもなしに上るには危険すぎる勾配であった。母が兄に引き取られるまで、即ち享年九十六で父が亡くなった後六年間ずっと一人でその家を護ってきたわけであるが、墓の手入れは宮崎の兄がしてきて、母が一人で来ることはなかったのかもしれない。
 「これが最後の墓参りになるかもしれない」と健太郎は瀬川家の墓石に手を合わせた。健太郎自身も、帰った時、草取りや、近くに繁った木の枝を鎌で払ったりしていた。
 その墓も長男である宮崎の兄の下(もと)に移される。幅十五六メーター、奥行き二十メーター程のその墓地には、新しい豪華な墓石もあったが、無縁仏となり、半ば埋もれた墓石もあった。
「帰ってきたよ」と、健太郎は父の墓石の前で手を合わせながら小さくつぶやいた。
 実は健太郎自身、この土地、この墓には捨てがたい愛着があり、自身ももう七十一で老い先短い身であり、ここの墓で眠りたい願望を持っていたのだが兄が墓を宮崎に移すということで健太郎の淡い望みも絶たれたのである。
 健太郎自身、複雑な家族関係からここの墓を受け継ぎ、護っていく自信は無い。心情的にはこの墓を護りたいが、現実には維持管理はとても無理である。健太郎が元気でいる間は良いが、墓参りが出来なくなり、健太郎がここの墓に入るとしても、三十代になる健太郎の長女と長男がこの墓に参ることは先ず考えられなかった。
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ハセケイ コンポジション(186)・hasekei composition(186)

0809健太郎日記健太郎の創作ー帰りたい(4) 長谷川 圭一

2015-05-21 10:33:07 | 自作の俳句
  帰りたい (4)

              長谷川 圭一

 水俣行きのバスに乗り懐かしい、見慣れた風景を眺めながら、今日、日本で唯一の金鉱山のある菱刈(ひしかり)の町に入ると、そこはもう伊佐市である。年間七トンを超す金を産出するが、その黄金の輝きはどこにも無かった。
 もともと伊佐市には金鉱脈がある。健太郎が子供の頃、それは牛尾(うしお)金山とよばれていた。その金山の動力として川内(せんだい)川の上流に位置する曽木(そぎ)の滝に水力発電所が出来、その余った電力で水俣のチッソ肥料の会社が設立され、その会社が旭化成、積水化学へと発展していったのだ。
 伊佐市の昔の大口(おおくち)駅前の、今は取り壊されたバスセンター近くのバス停に着いたのは午前10時40分であった。きっかり一時間の乗車であった。乗った時には一人であったが、途中乗ってきたのは一人で、少し腰の曲がったお婆さんであったが、途中で下りていった。
 バス停から携帯で兄に連絡すると兄は近くの市の福祉センター「ふれあいセンター」に居るとのことで健太郎はその広い大きな建物の中へと入った。
 広々とした空間の下、休憩用のスツールに腰かけて兄は携帯メールに眼をやっていた。
 薄灰色の軽いジャンパーを着て、白くなってきた頭には地味な野球帽があった。健太郎と違い、兄は眼鏡をかけていない。
 声をかけた健太郎に兄は笑顔を見せて立ち上がった。既に墓の掃除は終わった旨を告げ、健太郎を車に乗せると再び墓へと向かった。
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ハセケイ コンポジション(185)・hasekei composition(185)