自作の俳句

長谷川圭雲

0809健太郎日記健太郎の創作・挫折した旅(4)

2013-04-29 09:31:28 | インポート

挫折した旅(4)― 長谷川 圭一

 十一時四十九分に列車はいわきに到着した。駅から海岸まではかなりな距離である。そこから常磐線は海沿いに仙台まで延びているのであるが、津波と原発の影響で、五駅先の広野(ひろの)までしか行けない。

 18切符は広野にも使える。十二時二十分の広野行きの電車に乗った。昨年の同じ三月に健太郎は広野の二つ手前、久ノ浜(ひさのはま)まで来ている。そこが放射能の警戒区域南限のぎりぎりだったのか否かは分からないが、その時にはそこが終点であった。

 だが、今度は広野まで行ける。行ける所まで行って、そこに何があるか目で確かめたかった。

 広野に着いたのは十二時四十五分で、駅の改札を出ると、バスもタクシーも案内板も無かった。海に出る道を目探ししたが、それも見当たらず、健太郎はすぐさま、まだ構内に停車している自分が乗ってきた折り返しの電車に飛び乗った。

 いわきの駅に戻って、すぐさま、そこから東北本線と合流する郡山(こおりやま)の駅に行こうと思ったからだ。電車は直ぐに発車した。窓外から来るときには目にしなかった、放射能除染ゴミの入った大きな黒い袋が所々に見えた。捨て場の無い不気味なゴミである。

 十三時十四分にいわきに着いたが、郡山行きの電車は十五時四十一分である。健太郎は迷った挙句(あげく)、駅の列車案内表示で、十三時二十分の久ノ浜行きの電車があることを知った。そして久ノ浜からいわきにもどる電車が久ノ浜を十四時四十二分に出て、いわきに十五時一分に着く事も知った。往復した線路をまた久ノ浜まで戻る事にした。

 久ノ浜の駅で電車を降りた。駅舎とその前の地域は辛うじて津波を免れたのであるが、その先の海岸端の住宅地は全て跡形も無く流されてしまっている。

昨年の同じ三月に健太郎が訪れた時は、夕暮れ時で暗い海から吹き上げる風がびょうびょうとした家々の跡だけ残った空間を吹き荒れ、まさに津波にさらわれた人々の悲痛な叫びを耳にするようであった。

 だが、今度は日もまだ高く、家跡のコンクリだけが残った広大な空間を見渡す事が出来た。健太郎は陸側のコンクリの堤防の下で、風を避けながら、駅近くのコンビニで買ってきたビールと酒とおにぎりを取り出して、コンクリの上に腰掛けて昼食をとった。

 家跡に石を積み重ね、亡くなった人を弔う卒塔婆(そとば)が立てられている。そしてその一つでは五人程の人が座って、亡くなった人と話しをしていた。

時間通りに久ノ浜を後にしていわきにもどると、郡山行きの電車まで三十分ほどの時間があったので、駅外に出てぶらぶらと、山側へと足を向けた。坂を上って行くと銅像があり、そのあたりから市街地が見渡せた。

 ふと健太郎は駅近くに健太郎が良く利用するチェーンホテルの看板を目にして、健太郎はそこで郡山、福島、仙台のホテルの案内を貰おうと思い、再び坂を下りて、そのホテルへと入った。

 そこでそのホテルの全国の系列ホテルの案内をもらい、駅へと向かった。どこに宿を取るかは電車の中で決めることにした。

     (次回、5回目を以ってこの短編は終了します)

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ハセケイ コンポジション(8)・hasekei composition8

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0809健太郎日記健太郎の創作・挫折した旅(3)

2013-04-27 09:56:44 | インポート

挫折した旅(3)― 長谷川 圭一

大津港(おおつごう)を出ると、福島県いわき市である。そして勿来(なこそ)の駅に入る。勿来の関は古来、多くの歌に詠まれてきた。実際に勿来の関があったわけでは無いが、いつの間にか人々の間にその意味合いから親しまれてきたのであろう。なこそ、つまり、古語の「な~そ」、絶対~するな、と言う意味である。な来そ、「来る勿(なか)れ」。いわきの「菊多」という関が、勿来の関と、言われるようになったらしいが、滋賀県大津から京都に入る山間(やまあい)の「逢坂関(おうさかのせき)」と同じく好んで歌に取り入られたものと考えればよい。歌の数例をあげてみる。

一番有名なのが、東国(とうごく)源氏の基礎を固めた、源義家(よしいえ)つまり、八幡太郎義家の歌である。

 次の前書きで始まる。みちのくに まかりけるとき なこその関にて 花の散りければ 詠める。

「吹く風を なこその関と 思へども 道も せに散る やま桜かな」。

つまり、吹きつける風に対して、ここは「なこそ」、即ち、風で桜の花を散らせてはいけないのに、この「勿来の関」は道も狭くなるほど山桜の花が散り敷いている」。

もし、源義家を描いた絵を見る機会があったら、きっとこの勿来の山桜が描かれているはずである。

 紀貫之(きのつらゆき)の歌は、

「惜しめども とまりもあへず ゆく春を 勿来の山の せきもとめなん」

 そして次の和泉式部(いずみしきぶ)の歌が、歌人が勿来に対して抱いていた気持ちを素直に表している。

「なこそとは 誰かは言いし 言はねども 心に据うる 関とこそみれ」。

つまり、「なこそ」の謂(いわ)れは知らないが、歌人の心にある関なのであろう。

 西行は次のように詠んでいる、

「東路(あずまじ)の 信夫(しのぶ)の里に さすらいて 勿来の関を越えぞ わづらふ」 

 松尾芭蕉も勿来に行きたかったが、安全な道とは言い難く、交通の便の良い白河の方を選んだ。

このように各駅停車の旅では一つ一つの心の積み重ねが出来る。

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0809健太郎日記・翁のつぶやき(55)

  広島・長崎の市長が総理大臣になることを国民は望むのだろうか

 広島、長崎の市長が昨日(2013・4・25)日本が核不拡散条約に「いかなる状況のもとでも核兵器が使われる事があってはならない」と、いう文言(もんごん)の部分削除を求めて、それが聞き入れなかったためその共同声明の調印を見送った事にたいして、失望と、抗議の意を表明した。

 だが、私はむしろその対応にほっとした。「いかなる状況のもと」とは、日本が核攻撃を受けた場合、アメリカは日本に対してただ手をこまねいていなければならない、という事を意味する。日本は護るに値(あたい)しない国ということになる。

 日本の国民、老若男女、座して死を待つしかないのだ。それでもその覚悟を持って国民はそれを「よし」とするのであろうか。

 中国、インド、パキスタンそして北朝鮮も(北と南が統一すれば韓国も)核保有国となって核を自国の防衛、または他国への威嚇につかう。

 そういった中で、日本国民は長崎、広島の市長を日本の総理大臣に望むであろうか。日本を平和な国として存続させるためには現実にしたたかに対応していかなければならないと思うのだが。

 だが、今現在、日本にはもっと不気味な動きがある。国民の全てに番号をつけて管理するシステムである。こういった監視国家をつくろうとしている輩(やから)がいる限り、長崎、広島の市長を総理大臣にしたい気持ちもある。

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ハセケイ コンポジション(7)・hasekei composition7

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0809健太郎日記健太郎の創作・挫折した旅(2)

2013-04-25 09:11:47 | インポート

挫折した旅(2)― 長谷川 圭一

上野に着くと先ず目に飛び込んで来たのは常磐線勝田(かつた)行きの電車の電光掲示であった。勝田は水戸の一つ先である。七時三十二分の発車である。健太郎の心の中には、東北本線黒磯経由も消えていなかったが、時間も無くて、所期の目的を貫徹する意味からも常磐線のホームへと足を運んだ。

 ホームには「特急スーパーひたち」が停まっていた。二時間半でいわきに行ける。だが、18切符では特急には乗れない。乗るとすると普通乗車券と特急券を別に買い求めなければならないのだ。

健太郎は同じホームの普通電車に乗り込んだ。水戸で乗り換えて、いわきまで四時間少々かかる。ビジネスでも観光でもない健太郎の旅の仕方であった。

いわきには昨年2012年3月22日に郡山から磐越東線(ばんえつとうせん)で訪れている。そしてその時いわきから、福島第二原発の南、久(ひさ)ノ浜行きの電車に乗って、久ノ浜まで行ったのである。

 乗って二時間、水戸駅近くなると、線路間際まで水戸の偕楽園が高台から下りて来て梅林の一端を見せる。既に紅梅、白梅が満開のようであった。線路を挟んでその反対側には梅林に欠かせない千波(せんば)湖の風景が広がっていた。

 九時三十三分に水戸に着き、十時五分の水戸始発の電車に乗り継ぐ。だが待ち時間が勿体ない。この時に青春切符の最大の威力が発揮される。

 そう、切符を駅員にかざして見せて、そのまま駅外へと遊べるのだ。水戸黄門の像を眺め、観光案内で水戸藩の藩校弘道館の所在地も確認できた。時間ぎりぎりまで駅前広場を楽しむと、また乗り換えの電車へと戻った。

電車は水戸から北西へと進み、鹿島灘の海へと向かう。11・3・11の東日本大震災の文字通りの被災地である。

 このあたりで健太郎の体はようやく旅に馴染んできた。十時四十分、日立に近づくと太平洋の海が間近に見えてきて、日立の工場群が沿線に建ち並ぶ。十一時十八分、茨城の最北、大津港(おおつごう)である。この駅から五キロ程の五浦(いづら)の海岸には明治、お雇い外国人教師として来日、帰国後アメリカボストン美術館の東洋部長となったフェノロサと共に東京美術学校、後の東京藝術大学の創立に尽力した岡倉天心が住み、海に突き出た岩地に六角堂を建てた。それも今度の津波で流され、昨年、平成二十四年の四月に再建されたのである。

 天心を慕って、横山大観、菱田春草、下村観山などの日本画家がそこに移り住み一時日本美術院の中心となった所でもある。日本美術院は今でも公募による作品の展示会、即ち「院展」として親しまれている。

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0809健太郎日記・翁のつぶやき(54)

  個人番号制度を常に頭に置いてその良し悪しを考えていこう

 物事には必ずプラスとマイナスがある。原子力の発電にはクリーンが強調されて、ゴミ処理やメルトダウンの危険性は闇の中にあった。そして今度は人間の尊厳に関わる「個人番号制度」である。闇の部分を闇に置いたまま、プラスの部分だけを喧伝する。個人番号があれば、国民一人ひとりの動きはたちどころに把握できる。例えば街頭のモニターカメラの画像を使えば個人番号制度を使って、たちどころにその人物を特定できる所まで来ているのだ。それでもあなたは「犯罪者の逮捕」「犯罪の抑止」に役立つと言われて納得するのであろうか。問題はカメラだけではなく思想までも番号に組み込まれる可能性があるのだ。可能性は想定外ではない。

ハセケイ コンポジション(6)・hasekei composition (6)

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0809健太郎日記健太郎の創作・挫折した旅(1)

2013-04-23 09:21:03 | インポート

挫折した旅(1) ー 長谷川 圭一

2013年3月7日、健太郎は思い切ってまた東北三陸の震災被災地に行く事にした。

 〈草の戸も 住み替わる代(よ)ぞ 雛(ひな)の家〉と松尾芭蕉が自分の家を人に譲って奥の細道の旅に出たときのようなふと心細い心地にも襲われた。

 もう数え年で七十歳、実年齢で六十九の古稀(こき)であるから体調にも不安がある。

 六時にマンションを出て東急田園都市線あざみ野駅から電車に乗った。

 まだ早い時間なのに混むとまではいかないまでも立つ人の数も多かった。

 渋谷でJRに乗り換え、改札で青春18切符に一回目のスタンプを押してもらい、青春18の旅が始まった。

 残り四回である。青春と名がつくが年齢の制限は無い。五回使える切符一枚が一万一千五百円であるから、一回二千三百円ということになる。普通列車のみの使用で、午前零時から次の午前零時までが一回分となり、その間は普通列車乗り放題で距離は関係ない。つまり、どこの駅でも乗り降り自由で、改札で切符のスタンプを確認してもらえば、フリーパスで出入りが出来る。

 健太郎は学生の、春休み、夏休み、冬休みと連動して発行されるその切符を使って旅をするのが慣わしともなっている。

 2011年3・11の東日本大震災以来、その切符で健太郎はもう二度も被災地に行っている。今度は津波に襲われた太平洋の沿岸部に沿って行く事にしたのである。

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   ハセケイ コンポジション(5)・hasekei composition ( 5 )

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0809健太郎日記健太郎の創作・自作の俳句(68)(69)

2013-04-21 09:28:40 | インポート

春眠は まさに胎児の 心地かな

          (2013・3・17)

夜桜は ライトアップで 夜化粧

        (2013・3・21:本駒込六義園にて)

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 次回は短編「挫折した旅」を五回に小さく分けてお送り致します。

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ハセケイ コンポジション(4)・hasekei composition (4)

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