世の中の二乗>75の二乗

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ちぢけたスポンジ

2011年03月17日 22時46分36秒 | Weblog
12日(土)夕方。
昨日の地震の後、自宅に戻りお風呂に入ってひと眠りしていると
父から電話。
「原発が爆発した。とりあえず一度帰っておいで」
急いでテレビをつける。1号機が爆発したらしい。
このときまだ爆発の映像なし。
情報なし。
とにかく、父の「帰っておいで」の電話にしたがって
急いで着替えを済ませ、必要そうなものをかき集めて自宅を出る。
このとき着替えも持たず、しかしなぜか年金手帳は持っていた。
午後5時半。
一番の心配は「東京駅まで着けるかどうか」。
昨日の交通網大混雑の後である。
「原発の爆発」に恐れをなした人たちが詰め掛けたりしていないだろうか。
祈るようにバスに乗り、祈るように中央線に乗る。
中央線、下りならともかく、上りはガラ空きといってもいいくらいだった。
新幹線の自由席券を買い、すぐ発車するのぞみに乗り込む。
動き出したときの安堵感。
周りを見渡すとのぞみの自由席はちょっと味わったことないような雰囲気。
ピリピリとも違う、ぐったりとも違う、
しかしなにか言いようのない不安感みたいなものが車内を埋め尽くしており、
さすがに立っている人はいないが空席は少ない。
昨日の今日である。
あと、どれだけの人が原発のことを気にかけての行動かはわからないが、
平日のこの時間にしては親子づれが多い。
誰もなにも言わない。静けさ。
私も冷静なつもりでピリピリしていたと思う。
ニュースなどの情報にかじりついたまま、名古屋へ。
駅に降り立ったとたん、同じ国とは思えなかった。
駅からして歩いてる人の雰囲気が違う。穏やか。
まるで私だけが焦っているばかもののよう。
まわりの空気に溶け込めないまま、在来線に乗り、実家の最寄り駅に。
タクシーに乗る。
何かしら人としゃべりたくてタクシーの運転手に
「こちら地震どうでしたか?」と聞く。
おじさんは一瞬、何を聞かれたかわからないみたいになって、
「あー、まあ多少揺れましたよ」と言った。
「最初、地震だって気づかなくってね、ゆっくりゆっくり揺れてたから、こりゃ、脳卒中の前触れかなと思ったね、それで、そしたら地震だったよ。」
私が東京から来たと言うと
「そうですか、私も弟が神奈川にいるもんでね」と言う。
ご無事でしたか、と言うと、「ああ、まあ。大丈夫だったみたいですよ。」とのこと。
降りるとき、もう一度「弟さん、無事でよかったですね」と言うと
そんな大げさな、という苦笑をされた。
やはり違う。受け止め方が。
実家へ帰り着く。午後9時すぎ。
父と対面。まあ、普通。
余りもののご飯を食べて、テレビを見る。
どこも地震地震。
11時すぎ、父の助言にうんざりしながら弟も名古屋入り。
お嫁さんは明日仕事あるので残ったという。
弟がいるというのではしゃげる。一緒にコーラなんぞ飲む。
母は台北に職員旅行中。穏やかな。

13日(日)
一日テレビを見続ける。
事態が治まればすぐに帰るつもりでいた。
その間、父が気を利かせてみたらし団子や、刺身を買ってきてくれる。
十分味わうがどこかうつろ。
月曜には仕事がある弟が昼に東京へ帰ることに。
父が用意した懐中電灯やランタンなど持っていく。
事態、治まらない。
夜9時過ぎ、母帰宅。
私がいることに驚く。
台湾へ行っていた間の日本のことを知る。
お土産のパイナップルケーキうまい。胡麻チョコ、烏龍茶チョコうまい。
故宮博物館がよかったとか、翡翠でできた白菜があったとかの話を聞くが、
気もそぞろ。
ニュースが気になる。
関東で計画停電なるものするらしい。
この、「らしい」の間に施設長に電話。
実家に帰っていること。月曜日は様子をみさせてほしい旨伝える。
ここでも、え、実家に?大げさな、というような反応。
計画停電のことも本社から特に通達なし、とのこと。
困るなあ、と言われ、胸が痛む。
やはり私だけばかもののよう。
だが、原発の収拾がついていないのと、体験したことのない計画停電にビビっているのは確実なので、私は私の身を最優先にする。
深夜、とんでもない量の地区が計画停電になることがわかる。
私の自宅も入る。
そのグループわけがややこしい。
しかもあと4時間とかで始まると言う。
メモをして、なんどもテレビと照会する。
明日には帰るつもりだから、その後のことが不安。眠れない。いや、3時間くらいは寝た。

14日(月)
帰るつもり。昨日の施設長との電話が響いている。
父と買出し。
電池やランタン、非常食など。
弟の家の分も買って、ダンボールに詰め、コンビニで送る。
関東への輸送は大丈夫なのかと思い「どれくらいに着きますか?」と聞いたら、
なぜわざわざ?という顔で「え?明日ですけど?」と言われる。
この温度差。
テレビでは三鷹や吉祥寺といった普段使う駅がえらいことになっている。
計画停電はしていないようだが、
この駅の混み方がこの先毎日続くとなるとかなり不安。
不安が募る中、
父がとってくれた新幹線の時間に間に合うように出ようとしていると、
3号機が爆発。
私の中で、こりゃだめだスイッチがぽちっと押される。
人生2度目。1度目はおなか痛くなって救急車を呼んだとき。
職場に電話。施設長に今日の子どもの登園状況、スタッフの出勤情報聞く。
自宅保育できる家庭には自宅でとお願いしている。
多少の遅れはあるがスタッフ、子どもとも職場にいる。
電気は停電の区域外なので通常通り。
「正規のスタッフじゃないので無理強いはできない。どうしたいかそちらで決めてください。」とのこと。
きついなあ、そんないい方しなくてもいいのになあとさみしかったが、
私はもうこりゃだめだスイッチが押されているのだ、
「もう一日だけ、様子を見させてください」とお願いする。
心がきりきりする。
その後、テレビを見続ける。
2つも爆発してしまった。
そして私は明日こそなんとしても戻って明後日には職場復帰しなければいけない。
テレビを見続ける。
父とスリランカカレーを食べる。
テレビを見続ける。
夜8時過ぎ。
次、施設長になる人から電話。
「今週はお休みでいいですよ。ご実家でゆっくりしてください。」とのこと。
こんなにほっとしたことはなかった。
丁寧な言葉遣いとこちらへの気づかい。普段と変わらぬ明るさとユーモア。
この判断をくれた次期施設長に感謝。
この人にはついていけると思った。
東京は物の買占めが進んでいるようなので、
足りないものがあればこちらから送る意志のあること伝える。
それも受け止めてもらえた。
安堵。
安堵。
そしてこれからとことん情報を集めることに徹しようと思う。
自分が納得できるだけの情報が集まれば一週間の期限を待たずに帰ろうとも。

15日(火)
当分の余裕ができてよく寝られるかと思ったが、
全くそんなことはない。やはり4時間くらい。
夜遅くまで予断を許さない状況を見続けてしまう。
朝は計画停電の始まる時間(6時20分)の前に起きて
今日は本当にやるのか、やるとしてどんな感じかを
テレビやツイッターで集めたいので起きることにしている。
原発はよくない。
2号機の破損が見つかる。
東京にいる友達2、3人と話す。
逃げるほどではないが、皆不安だという。
みゆみゆに頼まれた電池を送る。
昨日のコンビニ。
荷物を送りたいと言うと、
「関東とか東北は荷物の収集をしていないんですよねえ。東京と神奈川だけは集めるは集めるがどのくらいで着くかはなんとも言えませんよ。」
昨日とずいぶん違うじゃないか。
送る住所は東京なのであずかってもらうはもらう。
着の身着のまま、着替えも持たずに来たので、
そろそろ着替えたい。
来たときは一泊のつもりだったからしょうがないけど、
実家といっても家を出て10年くらいでもう既に私の着替えなんぞ置いてない。
弟の車を運転してイオンへ行く。
下着と靴下、ざくっと着れる長袖買う。
寿がきやでラーメン食べる。
なんて穏やかなイオン。
なんて穏やかな愛知。
地震直後から体験したこと、揺れたり、子ども連れて避難したり、小学校で一夜を明かしたり、
そして情報としてだけれどもっとひどいことを体験してる人がいるという現状。
この二つの世界が同時に存在することがどうもまだうまく飲み込めないみたいだ。
それを感じてだと思うけど、ここで、帰ってきてからいままで感じてきた温度差とかひずみのようなもののピークがくる。
頭がかっかと熱くて、頭がぼんやり、
気分が悪くなって、ふらふらする。
思えば地震起きてから今までまともな時間寝てないし、
安堵や周りとのギャップになかなか身体が追いつかないみたい。
事故を起こさないように帰って、とにかく布団に入って寝た。
テレビは見ないようにした。
情報を集めなければという危機感みたいなのに抗って、身体を休めさせることにした。
起きたら父が帰ってきていて、「寝てたの?」と聞かれたので
今日のこのことを拙い言葉で伝える。
きっと拙すぎたんだろう、一笑にふされる。
「毎日テレビ見て食っちゃ寝してるくせに」と言われて、きゅっと悲しくなる。
いつもはそんな言葉くらいには負けないのに。
弱っているんだなあとまた自覚する。
昨日、荷物を送った弟から届いたと電話あり。
愛知―東京はいつものように翌日に届いたよう。

16日(水)
一日テレビやツイッター、ネットで情報集め。
放射能は出た。
これからはどの程度出たかだ。
モニタリングの情報、個人でガイガーカウンタ設置している人の記録、どの程度が危険で、今どの程度なのか。
東京の自宅付近の様子や通勤に使う路線情報、職場周辺も徹底的に調べた。
調べていくと今起きていることもわかってくる。
どんどん安心する。
東京に目立った混乱はない。
東京に放射能は危険レベルまではならない。
4号機で火災があった。
麻痺しているんだろうか、それくらいではもう動じない。
信用できる情報を自分でより分けながら集めていく。
自分で集めたものを自分で判断するとどんどん落ち着いていく。
今回のことで私は
自分が納得できるまでは決して意志を曲げない頑固者であることがわかった。
16日の夜、
ここにきて初めて私はこれからの生活への安心を得た。
情報を集めまくってようやく納得した。
みゆみゆに荷物届いたよう。
やはり、ちゃんと翌日には着く。

17日(木)
朝、両親に東京へ戻るつもりであると伝える。
安全であると判断した根拠を説明する。
両親の了承を得る。
帰る準備をする。
職場に電話をかけ、今日東京に戻る、明日出勤できる旨伝える。
もう私抜きのシフトが組まれていたようだが、
「ありがたい」とのこと。
こちらもそうやって思ってもらえてありがたい。
明日7時半から出勤することに。
がらがらの新幹線に乗る。
中央線に乗ったら、やっぱり愛知とは空気が違うのだった。
みんな疲れてうつむいている。
少し重苦しいこの空気。
帰ってきたなと思う。
よし、と思う。
これからひとりで生きていく。
近所のスーパーは品薄だが、不足はない。さすが東京。
近所のガソリンスタンドから家の前までそのもっと先まで永遠と順番待ちの車が並んでいる。
この光景はすごかった。
今回の帰省で母から教わったなますを作る。うどんを茹でる。帰京と明日からの奮起のためにビールを飲む。
食器を洗おうとしてつかんだスポンジが水分がとんで硬くちぢけていた。
何日も使わなかったものなあ。
留守にした時間と、その間に起こったさまざまなことを思う。
よし。
やるぞ。
まずは節電。
ヤシマ作戦。私は節電のこのネーミングは大好きだ。
なによりインパクト。
そしてこんな状況下でもちょっとゲーム感覚。
でもそれが逆にやる気を起こさせている。
ちょっと不謹慎で、ものすごくまじめ。
賛同する。
東京にいる限り、やる。

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