4月28日
岩淵弘樹監督作品「サマーセール」。
ドキュメンタリー。
イライラしながら見た。
この中に映ってるもの、やってること、やらないこと、
言葉や感情含め、全部にイライラした。
久しぶりに映画館で足をがくがくさせながら見た。
なんなのなんなのと思いながら考えて、
結局はこういう女に結局は惹かれてしまう男がムカついて、
そういう男が寄ってくる類のこういう女が嫌いだという話になるのだけど、
でもこういう男の人自体は嫌いではなく、
うじうじしてんのの隣りにいる分には楽しいだろうから、
この監督と一緒にお酒飲んだら楽しそうだと思った。
でも女の趣味は悪い。
内藤瑛亮監督作品「お兄ちゃんに近づくな、ブスども!」。
この監督は美人が好きなんだろうな。というのが第一印象。
それ以降の印象がなかなかやってこなかった。
最後のへんで、かっこいい音楽が好きなんだろうな。という第二印象。
で、終わってまった。
どこへもつながっていないような、ぶちりぶちりと切れたみたいな映画。
女子高生と工場、女子高生と田園、という絵はかっこよかった。
多分、「先生を流産させる会」でも田園と制服女子出てくるだろうね。
今泉力哉監督作品「niko」。
この監督はやさしいのだろう。
そしてはったりでも残酷なことはできないのだろう。
そういう印象。
映画と作ってる側がもっと交錯するのかと思ったら
そうでなくてちゃんと別れた世界だった。
途中までは殺人集団を描いた映画を撮ろうとした監督が
たまたま本当にその殺人集団に捕まっていくみたいな構成になっていたので、
おお、おもしろいと思った。
最後、子どもが自転車から降ろされてどうなるのか
曖昧なままだったらもっと見え方が違ったと思う。
というか、あのままで終わって私はよくわからなくてほんとに台詞のままかと思っていたら、
最後のエンドロールで「助けられた子ども」って役名を出しちゃったのがよくなかったと思う。
曖昧さが一気に引いて、ああ殺人集団なのに助けちゃったと思った。
子どもは絶対的な善、とは思ってないだろうけど、
私は映画の中でも自分の子どもを犠牲に生き残ってしまった男を書いたほうが自分の苦しみに向き合えたのではないかと思った。
4月30日
手塚一紀監督作品「home home home」。
出てくるミュージシャンにあまり関心が持てなかった。
台湾のバンドのPVは結構好きだった。
キョンシーという記憶を私たちは日本と台湾で
80年代に子供だったから共有できていて、
そのキョンシーが出てきたので、
子どものころの記憶と異国の文化がかっちり今つながった!
という感動さえ感じた。
で、記憶=homeだと思ったので、
タイトルとつながり、思い出した感動と出会った感動とでいいなと思った。
他の二つのバンドももっとミュージシャンの個人的なアレでなくて
文化レベルのhomeがあればよかったのかもしれない。
が、それは日本人同士なので難しいのかもしれない。
吉田浩太監督作品「きたなくて、めんどうくさい、あなたに」。
ああ、これやったらその流れになるわ、という一点があり、
そこの一点がちょっと早すぎるような気もしたが、
でも短い作品だからしょうがないのかもしれない。
女優の背中きれいだった。
縦に立てかけられたコタツがまだ電気切れてなくて赤々してたのがよかった。
平波亘監督作品「労働者階級の悪役」。
ラブシーンがすごくよかった。
やはり音楽と恋愛はお友だちですね。
ギターぽこぽこ、そりゃあ一気に好きになるわ。
歌詞のない歌で歌いあうのがすごくよかった。鳥みたいだった。
長い髪に落ち葉がびっしりついていたのもよかった。
労働者達のところは、うん、なんかしらの
美意識というものでああ作っているんだろう。
違和感は感じるけど、リアルを求めて作ってるわけじゃないだろうから
あれはあれとして受け入れた。
にしてもラブシーンが。
お人形さんみたいなきれいさじゃないとこがまたよかったな。
舌ぺろぺろ出したりさ。
5月2日
愛知県美術館「魔術/美術」展。
気になったものの覚え書き。
坂本夏子「painters」
大作。見た瞬間からすごく不安にさせられる。
うねうねした線。歪み。足元がすくわれ、空間がねじれている。
あちこちで矛盾が生じていて、どろどろと深みにはまっていく。
そういった絵の中の出来事がそのまま現実世界にもやってきそう。
じわじわやってくる。まさに魔術的な。
狂言面 狸
笑っている。こわい。
口を開けているわけではない。
歯は食いしばっている。
木造獅子狛犬
肢体が長い。頭ちっちゃい。
モデルのような狛犬。
はげた茶色の中に緑や青がかった色が見える。
白隠慧鶴「吉田猿猴図」
猿が書を書いている。かわいい。
徒然草を書いているらしい。
白隠慧鶴「五位鷺図団扇」
線がへにょへにょでかわいい。
橋本平八「老子」
木像。とぼけた顔がいい。
加藤孝一「牛」
古典的な呪具みたい。
古墳から出てきてもおかしくないような。
ロドルフ・ブレスダン「善きサマリア人」
森がそこに住む動物達と同化している。
枝がイグワナの顔になる。
五十嵐大介の発想の源流のような作品をつくった人。
オディロン・ルドンの言葉が紹介されている。
とても興味深かった。
「神秘の感覚、それは常にあいまいさの中にある。
二重、三重に見えること、見えるものの疑わしさ
(イメージの中にまた別のイメージがあること)、
生成するフォルム、見るものの精神状態に従って生成するフォルム。
それは眼に見える形で現れるからには、暗示以上のすべてだ。」
甘もの会「はだしのこどもはにわとりだ」はこういう風な芝居にしたい。
シャルル・メリヨン「パリの海軍省」
すみの方で魔女たちが空を飛んでいる。
中村岳陵「都会女性職譜(看護婦)」
1933年の作品だが、実に現代的だ。
二重に歪んだ発想だけど、
現代の作家が、昭和初期の風俗をその当時の絵画様式ででも少し現代風にアレンジして書いたみたいな絵。
この感じで、CAとか女子アナとか書いたらおもしろそうだ。
谷中安規「飛ぶ首」「童子騎象」
この人の版画好き。
単純な感じなんだけど、ユーモアとか丸みがある。
山本芳翠「浦島図」
圧巻!
有名な壮大なお見送りの絵。
イルカにタヅナをかませている。
乙姫様がビーナスの誕生のような貝の上に乗っている。
煙が出る香を持った魚人の爺さんが書いてあって、
浦島のその後を暗示しているみたい。
背後にはかすみつつもそびえ立つ竜宮城。
壮大な物語の一幕。
マックス・クリンガー
アダムとイヴの因果というのは
繰り返し繰り返しモチーフになってきたんだろうけど、
やっぱイヴってのが愚かなんかね。
キキ・スミス「セイレン」
うは。顔があるこの鳥。
しかも小うるさそうな女の顔。
こいつ日本人だったら絶対A型だよ。
人のアラばっかり見つけていつもイライラしてるの。
それで自分がミスすると笑って流すの。
汚い女。
フェリシャン・ロップス
悪魔礼賛の絵。
おもしろいおもしろい。
ほうきに処女を奪われる絵や、
ヒールを履いた女が偶像に抱きついてる絵、
巨人が夜の街に人間をバラバラ降らせている絵。
おもしろいおもしろい。
悪魔的な趣味と思われようともこういうのは見てしまう。
1880年当初もそうだったんだろう。
イケムラレイコ「birdgirl」
不思議な絵。
黒の中に形がギリギリ定まらないものが書いてある。
横一文字に走る閃光が一瞬を切り取ったみたい。
岡崎乾二郎
なんか長々した題名がつけられた絵の具を画布につけただけの作品。
別になんとも思わなかったが、3作品目の抹茶色した絵の具がおいしそうだったので、
以降すべて食べ物を俯瞰してみたものと見える。
中澤英明
絵はわりと好きだけど、名前の付け方が安直で嫌。
「地蔵」という作品は他のより少し不吉でいい。
コレクション展。
ジャン・デュビュッフェ「二人の脱走兵」
素朴で粗野で力強くて静か。
吉本直子「鼓動の庭」
これは、今回一番の問題作。
白い古着を圧縮して糊で固定し、それをレンガみたいに積んである。
それが一つの壁一面を覆っていて、近づくと首や袖口の黄ばみさえ見える。
これは。
他の作品はおもしろかった。
シャツの袖を伸ばしたままの状態で固定して向かい合わせ、
届くような届かないようなくっつくようなくっつかないような集合体にしてるのとかは
おもしろく見た。
古着を本みたいにして棚に置いてあるのとかもおもしろかった。
でも、壁一面のは、なんか、すごく嫌だった。
この嫌悪感は数に比例すると思う。
アウシュビッツとかを連想してしまう。
あと、レンガとか壁のような実用的なものに見立ててるのもやっぱり
石鹸とかにされた人体を思ってしまう。
嫌という感情は沸き起こるけれど、否定はしていません。
そういう強い感情を呼び起こさせるものを作ることは力であると思う。
が、あの部屋には二度と入りたくない。
総毛立つというのはこのことだ。
5月3日
ミシェル・アザナビシウス監督作品「アーティスト」。
おもしろかった。
けど期待はずれだった。
すごくものすごくわかりやすかったのがあんまり好みでなかった。
見せ方はすごく気が利いてた。
自分の声以外の音が全部聞こえるようになっちゃうとこは身を乗り出した。
でもそれから元に戻っちゃったから一回きりの感動だった。
これは、「カラー・オブ・ハート」の音版みたいだね。
あれは、モノクロからカラーに変わる世界の美しさを見せる映画だったけど。
あと特に好みでない理由は、
私は芸そのものにあまり魅力を感じないせいかもしれない。
すごいとは思うんだけど、そこだけをおもしろがる感性があまりないみたいだ。
最後、「名案があるの」のとこで、ああ、俺酒飲んでばっかだったからもうタップとかできねえやとなってたら、私はあの映画をもっとすごいと思ってた。
いや、別にいいんだけどね、大団円で。
5月6日
大塚英志「『捨て子』たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男」。
すごくおもしろかった。
起源の民俗学者たちがみんな自分の出生や来歴に幻想を持っていた
というところから、民俗学が立ち上がったという話。
だから民俗学はファミリーロマンスを発動しやすいし、
それ故に物語性があって魅力的であるとされてきたという話。
すごくなるほどと思う。
それにしてもラフカディオ・ハーンはおもしろい。
日本に来る前のことや書いたものとかもおもしろい。
もちょっと詳しく知りたい人だ。
5月7日
ラース・フォン・トリアー監督作品「アンチクライスト」。
こわい、といわれていた作品で
この監督の作品を見るのは毎回すごく勇気がいるので
見るのを延ばし延ばしにしていた今作だが、
結果、あんまりこわくない、嫌悪感をもよおさない、というものだった。
いや、映画見るのにこの2点が重要視される監督もどうかと思うが、
これは私、すっと入ってきました。
ごくごく当然の心理としてわかります。
というか、言われているほど性欲の過剰さに偏った作品ではないと思うんだけどな。
あれは、なんていうか誇張としていいとこなんじゃないかな。
性欲だけだったらあの奥さんは他の男をとっかえひっかえしてるよ。
そうじゃなくて、あなたと私、の話でしょう、やっぱり。
あなた、を取り込みたいんでしょう、彼女は。
取り込みたくて取り込めなくてという話でしょう。
一方の彼も違う形で取り込もうとしているわけだから、
行き違いの話だろう、やっぱり。
2匹の蛇がお互いの尾っぽを食べ進めていくような。
だから実は、あの子どもの死は全然関係ないんだよね。
きっかけなだけで。
だってどっちも最初から子どもなんて見てなかった。
森を怖いと言ったのも、
二人きりになりたい欲望というのがどこかで働いていて
森へ連れ込みたいという誘いの意味があったと思う。(「行きたくない」なんて一言も言ってないしね)
いま、わりと魔女というものを調べていて、
調べれば調べるほど、魔女というものは女とイコールなわけ。
こわさ含め、きれいさやかわいさや、聡明さや愚かさや淫乱さや産んだり殺したり、
そういうもののどこかが突出したものが魔女と呼ばれていて、
じゃあそれって全部ひっくるめたら女、という存在そのものであるわけだ。
この映画と魔女については
彼女が調べてる内容が魔女狩りとかとからんでたり、
そもそも森が魔女的場所だし、
木の根のセックスシーンや最後の顔のない女の人たちとかも魔女っぽいんだけど、
何度も言うようだが、あの映画の性描写は重要だけど、
そこだけが本筋ではなくて、もう少し俯瞰して、
彼に言いくるめられて何にも言えなくなっちゃったり、
橋がこわくて急いで渡って逃げたり、
なんで彼はあんなに冷静でいられるのがどうしても理解できなかったり、
どうして子どもにあんないじわるしたのか自分でも理解できなかったり、
「君のことを一番わかってる」と言う自信がどこからくるものなのか疑ってしまったり、
そういうところも全部ひっくるめて魔女であり、女である話なんだろう。
ターセム・シン監督作品「ザ・フォール/落下の王国」。
好きな映画の一つ。
わくわくといい具合のすかしと映像美。苦味もある。
毎回同じとこで泣いてしまう。
ラストが好きなの。
ピーター・グリーナウェイ監督作品「ベイビー・オブ・マコン」。
すごい映画見ちゃった。
うわあ。
この感想書くにはちょっと疲れすぎてるのでまた今度。
ひとまず、終わり。
岩淵弘樹監督作品「サマーセール」。
ドキュメンタリー。
イライラしながら見た。
この中に映ってるもの、やってること、やらないこと、
言葉や感情含め、全部にイライラした。
久しぶりに映画館で足をがくがくさせながら見た。
なんなのなんなのと思いながら考えて、
結局はこういう女に結局は惹かれてしまう男がムカついて、
そういう男が寄ってくる類のこういう女が嫌いだという話になるのだけど、
でもこういう男の人自体は嫌いではなく、
うじうじしてんのの隣りにいる分には楽しいだろうから、
この監督と一緒にお酒飲んだら楽しそうだと思った。
でも女の趣味は悪い。
内藤瑛亮監督作品「お兄ちゃんに近づくな、ブスども!」。
この監督は美人が好きなんだろうな。というのが第一印象。
それ以降の印象がなかなかやってこなかった。
最後のへんで、かっこいい音楽が好きなんだろうな。という第二印象。
で、終わってまった。
どこへもつながっていないような、ぶちりぶちりと切れたみたいな映画。
女子高生と工場、女子高生と田園、という絵はかっこよかった。
多分、「先生を流産させる会」でも田園と制服女子出てくるだろうね。
今泉力哉監督作品「niko」。
この監督はやさしいのだろう。
そしてはったりでも残酷なことはできないのだろう。
そういう印象。
映画と作ってる側がもっと交錯するのかと思ったら
そうでなくてちゃんと別れた世界だった。
途中までは殺人集団を描いた映画を撮ろうとした監督が
たまたま本当にその殺人集団に捕まっていくみたいな構成になっていたので、
おお、おもしろいと思った。
最後、子どもが自転車から降ろされてどうなるのか
曖昧なままだったらもっと見え方が違ったと思う。
というか、あのままで終わって私はよくわからなくてほんとに台詞のままかと思っていたら、
最後のエンドロールで「助けられた子ども」って役名を出しちゃったのがよくなかったと思う。
曖昧さが一気に引いて、ああ殺人集団なのに助けちゃったと思った。
子どもは絶対的な善、とは思ってないだろうけど、
私は映画の中でも自分の子どもを犠牲に生き残ってしまった男を書いたほうが自分の苦しみに向き合えたのではないかと思った。
4月30日
手塚一紀監督作品「home home home」。
出てくるミュージシャンにあまり関心が持てなかった。
台湾のバンドのPVは結構好きだった。
キョンシーという記憶を私たちは日本と台湾で
80年代に子供だったから共有できていて、
そのキョンシーが出てきたので、
子どものころの記憶と異国の文化がかっちり今つながった!
という感動さえ感じた。
で、記憶=homeだと思ったので、
タイトルとつながり、思い出した感動と出会った感動とでいいなと思った。
他の二つのバンドももっとミュージシャンの個人的なアレでなくて
文化レベルのhomeがあればよかったのかもしれない。
が、それは日本人同士なので難しいのかもしれない。
吉田浩太監督作品「きたなくて、めんどうくさい、あなたに」。
ああ、これやったらその流れになるわ、という一点があり、
そこの一点がちょっと早すぎるような気もしたが、
でも短い作品だからしょうがないのかもしれない。
女優の背中きれいだった。
縦に立てかけられたコタツがまだ電気切れてなくて赤々してたのがよかった。
平波亘監督作品「労働者階級の悪役」。
ラブシーンがすごくよかった。
やはり音楽と恋愛はお友だちですね。
ギターぽこぽこ、そりゃあ一気に好きになるわ。
歌詞のない歌で歌いあうのがすごくよかった。鳥みたいだった。
長い髪に落ち葉がびっしりついていたのもよかった。
労働者達のところは、うん、なんかしらの
美意識というものでああ作っているんだろう。
違和感は感じるけど、リアルを求めて作ってるわけじゃないだろうから
あれはあれとして受け入れた。
にしてもラブシーンが。
お人形さんみたいなきれいさじゃないとこがまたよかったな。
舌ぺろぺろ出したりさ。
5月2日
愛知県美術館「魔術/美術」展。
気になったものの覚え書き。
坂本夏子「painters」
大作。見た瞬間からすごく不安にさせられる。
うねうねした線。歪み。足元がすくわれ、空間がねじれている。
あちこちで矛盾が生じていて、どろどろと深みにはまっていく。
そういった絵の中の出来事がそのまま現実世界にもやってきそう。
じわじわやってくる。まさに魔術的な。
狂言面 狸
笑っている。こわい。
口を開けているわけではない。
歯は食いしばっている。
木造獅子狛犬
肢体が長い。頭ちっちゃい。
モデルのような狛犬。
はげた茶色の中に緑や青がかった色が見える。
白隠慧鶴「吉田猿猴図」
猿が書を書いている。かわいい。
徒然草を書いているらしい。
白隠慧鶴「五位鷺図団扇」
線がへにょへにょでかわいい。
橋本平八「老子」
木像。とぼけた顔がいい。
加藤孝一「牛」
古典的な呪具みたい。
古墳から出てきてもおかしくないような。
ロドルフ・ブレスダン「善きサマリア人」
森がそこに住む動物達と同化している。
枝がイグワナの顔になる。
五十嵐大介の発想の源流のような作品をつくった人。
オディロン・ルドンの言葉が紹介されている。
とても興味深かった。
「神秘の感覚、それは常にあいまいさの中にある。
二重、三重に見えること、見えるものの疑わしさ
(イメージの中にまた別のイメージがあること)、
生成するフォルム、見るものの精神状態に従って生成するフォルム。
それは眼に見える形で現れるからには、暗示以上のすべてだ。」
甘もの会「はだしのこどもはにわとりだ」はこういう風な芝居にしたい。
シャルル・メリヨン「パリの海軍省」
すみの方で魔女たちが空を飛んでいる。
中村岳陵「都会女性職譜(看護婦)」
1933年の作品だが、実に現代的だ。
二重に歪んだ発想だけど、
現代の作家が、昭和初期の風俗をその当時の絵画様式ででも少し現代風にアレンジして書いたみたいな絵。
この感じで、CAとか女子アナとか書いたらおもしろそうだ。
谷中安規「飛ぶ首」「童子騎象」
この人の版画好き。
単純な感じなんだけど、ユーモアとか丸みがある。
山本芳翠「浦島図」
圧巻!
有名な壮大なお見送りの絵。
イルカにタヅナをかませている。
乙姫様がビーナスの誕生のような貝の上に乗っている。
煙が出る香を持った魚人の爺さんが書いてあって、
浦島のその後を暗示しているみたい。
背後にはかすみつつもそびえ立つ竜宮城。
壮大な物語の一幕。
マックス・クリンガー
アダムとイヴの因果というのは
繰り返し繰り返しモチーフになってきたんだろうけど、
やっぱイヴってのが愚かなんかね。
キキ・スミス「セイレン」
うは。顔があるこの鳥。
しかも小うるさそうな女の顔。
こいつ日本人だったら絶対A型だよ。
人のアラばっかり見つけていつもイライラしてるの。
それで自分がミスすると笑って流すの。
汚い女。
フェリシャン・ロップス
悪魔礼賛の絵。
おもしろいおもしろい。
ほうきに処女を奪われる絵や、
ヒールを履いた女が偶像に抱きついてる絵、
巨人が夜の街に人間をバラバラ降らせている絵。
おもしろいおもしろい。
悪魔的な趣味と思われようともこういうのは見てしまう。
1880年当初もそうだったんだろう。
イケムラレイコ「birdgirl」
不思議な絵。
黒の中に形がギリギリ定まらないものが書いてある。
横一文字に走る閃光が一瞬を切り取ったみたい。
岡崎乾二郎
なんか長々した題名がつけられた絵の具を画布につけただけの作品。
別になんとも思わなかったが、3作品目の抹茶色した絵の具がおいしそうだったので、
以降すべて食べ物を俯瞰してみたものと見える。
中澤英明
絵はわりと好きだけど、名前の付け方が安直で嫌。
「地蔵」という作品は他のより少し不吉でいい。
コレクション展。
ジャン・デュビュッフェ「二人の脱走兵」
素朴で粗野で力強くて静か。
吉本直子「鼓動の庭」
これは、今回一番の問題作。
白い古着を圧縮して糊で固定し、それをレンガみたいに積んである。
それが一つの壁一面を覆っていて、近づくと首や袖口の黄ばみさえ見える。
これは。
他の作品はおもしろかった。
シャツの袖を伸ばしたままの状態で固定して向かい合わせ、
届くような届かないようなくっつくようなくっつかないような集合体にしてるのとかは
おもしろく見た。
古着を本みたいにして棚に置いてあるのとかもおもしろかった。
でも、壁一面のは、なんか、すごく嫌だった。
この嫌悪感は数に比例すると思う。
アウシュビッツとかを連想してしまう。
あと、レンガとか壁のような実用的なものに見立ててるのもやっぱり
石鹸とかにされた人体を思ってしまう。
嫌という感情は沸き起こるけれど、否定はしていません。
そういう強い感情を呼び起こさせるものを作ることは力であると思う。
が、あの部屋には二度と入りたくない。
総毛立つというのはこのことだ。
5月3日
ミシェル・アザナビシウス監督作品「アーティスト」。
おもしろかった。
けど期待はずれだった。
すごくものすごくわかりやすかったのがあんまり好みでなかった。
見せ方はすごく気が利いてた。
自分の声以外の音が全部聞こえるようになっちゃうとこは身を乗り出した。
でもそれから元に戻っちゃったから一回きりの感動だった。
これは、「カラー・オブ・ハート」の音版みたいだね。
あれは、モノクロからカラーに変わる世界の美しさを見せる映画だったけど。
あと特に好みでない理由は、
私は芸そのものにあまり魅力を感じないせいかもしれない。
すごいとは思うんだけど、そこだけをおもしろがる感性があまりないみたいだ。
最後、「名案があるの」のとこで、ああ、俺酒飲んでばっかだったからもうタップとかできねえやとなってたら、私はあの映画をもっとすごいと思ってた。
いや、別にいいんだけどね、大団円で。
5月6日
大塚英志「『捨て子』たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男」。
すごくおもしろかった。
起源の民俗学者たちがみんな自分の出生や来歴に幻想を持っていた
というところから、民俗学が立ち上がったという話。
だから民俗学はファミリーロマンスを発動しやすいし、
それ故に物語性があって魅力的であるとされてきたという話。
すごくなるほどと思う。
それにしてもラフカディオ・ハーンはおもしろい。
日本に来る前のことや書いたものとかもおもしろい。
もちょっと詳しく知りたい人だ。
5月7日
ラース・フォン・トリアー監督作品「アンチクライスト」。
こわい、といわれていた作品で
この監督の作品を見るのは毎回すごく勇気がいるので
見るのを延ばし延ばしにしていた今作だが、
結果、あんまりこわくない、嫌悪感をもよおさない、というものだった。
いや、映画見るのにこの2点が重要視される監督もどうかと思うが、
これは私、すっと入ってきました。
ごくごく当然の心理としてわかります。
というか、言われているほど性欲の過剰さに偏った作品ではないと思うんだけどな。
あれは、なんていうか誇張としていいとこなんじゃないかな。
性欲だけだったらあの奥さんは他の男をとっかえひっかえしてるよ。
そうじゃなくて、あなたと私、の話でしょう、やっぱり。
あなた、を取り込みたいんでしょう、彼女は。
取り込みたくて取り込めなくてという話でしょう。
一方の彼も違う形で取り込もうとしているわけだから、
行き違いの話だろう、やっぱり。
2匹の蛇がお互いの尾っぽを食べ進めていくような。
だから実は、あの子どもの死は全然関係ないんだよね。
きっかけなだけで。
だってどっちも最初から子どもなんて見てなかった。
森を怖いと言ったのも、
二人きりになりたい欲望というのがどこかで働いていて
森へ連れ込みたいという誘いの意味があったと思う。(「行きたくない」なんて一言も言ってないしね)
いま、わりと魔女というものを調べていて、
調べれば調べるほど、魔女というものは女とイコールなわけ。
こわさ含め、きれいさやかわいさや、聡明さや愚かさや淫乱さや産んだり殺したり、
そういうもののどこかが突出したものが魔女と呼ばれていて、
じゃあそれって全部ひっくるめたら女、という存在そのものであるわけだ。
この映画と魔女については
彼女が調べてる内容が魔女狩りとかとからんでたり、
そもそも森が魔女的場所だし、
木の根のセックスシーンや最後の顔のない女の人たちとかも魔女っぽいんだけど、
何度も言うようだが、あの映画の性描写は重要だけど、
そこだけが本筋ではなくて、もう少し俯瞰して、
彼に言いくるめられて何にも言えなくなっちゃったり、
橋がこわくて急いで渡って逃げたり、
なんで彼はあんなに冷静でいられるのがどうしても理解できなかったり、
どうして子どもにあんないじわるしたのか自分でも理解できなかったり、
「君のことを一番わかってる」と言う自信がどこからくるものなのか疑ってしまったり、
そういうところも全部ひっくるめて魔女であり、女である話なんだろう。
ターセム・シン監督作品「ザ・フォール/落下の王国」。
好きな映画の一つ。
わくわくといい具合のすかしと映像美。苦味もある。
毎回同じとこで泣いてしまう。
ラストが好きなの。
ピーター・グリーナウェイ監督作品「ベイビー・オブ・マコン」。
すごい映画見ちゃった。
うわあ。
この感想書くにはちょっと疲れすぎてるのでまた今度。
ひとまず、終わり。
今後も楽しい展示企画待ってます。