★★★ 伯 太 藩 (伯太陣屋) ★★★

伯太藩は、江戸時代和泉国泉郡伯太周辺を領有した藩。
藩庁は伯太陣屋(現:大阪府和泉市伯太町)
藩主:渡辺氏(譜代)

渡辺 綱

2100-08-31 | 概要1
渡辺 綱(わたなべ の つな)、天暦7年(953年) - 万寿2年2月15日(1025年3月17日))は平安時代中期の武将。嵯峨源氏の源融の子孫で、通称は渡辺源次、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。頼光四天王の筆頭。
武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺綱(わたなべ の つな)あるいは渡辺源次綱(わたなべ の げんじ つな)、源次綱(げんじ つな)と称し渡辺氏の祖となる。

摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲『羅生門』は一条戻り橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである。
その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。
先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。
大阪市北区の梅田界隈には源融ゆかりの太融寺があり、その近くにある露天満宮(近松門左衛門の『曽根崎心中』で有名な「お初天神」)の宮司家や、渡辺姓発祥の神社とされる座摩神社の宮司家は渡辺綱の子孫である。

徳川譜代の「渡辺守綱」にはじまる【伯太藩】渡辺氏もまたその子孫を称する。


徳川十六神将の一人(渡辺守綱)



野本藩

2100-08-01 | 概要1
野本藩(のもとはん)は江戸時代前期、武蔵国比企郡野本周辺を領有した藩。
藩庁は野本陣屋(埼玉県東松山市)。

藩祖は徳川家康に仕え「槍半蔵」の異名をとった渡辺守綱の嫡子・重綱の五男で、武蔵国比企郡に3000石を領有していた吉綱である。
吉綱は4代将軍家綱の側衆として仕えていたが、寛文元年(1661年)大坂定番に昇進し1万石を加増され大名に列した。
ここに野本藩が成立した。なお、渡辺宗家は、尾張藩 徳川家の家老として1万4000石を領している。

藩領は比企郡、河内国志紀郡・古市郡、和泉国大鳥郡・泉郡に分散していた。
2代方綱には嗣子が無く、尾張藩家老である宗家より養子として基綱を迎えた。
基綱は元禄11年(1698年)武蔵国内の所領の一部を近江国に移されたのを機に、
和泉国大庭寺に陣屋を移したため廃藩となった。

歴代藩主
渡辺(わたなべ)家
譜代 13,000石 (1661年~1698年)

1.吉綱(よしつな)
*渡辺 吉綱(わたなべ よしつな、慶長16年(1611年)- 寛文8年6月19日(1668年7月27日))は、武蔵野本藩の初代藩主。伯太藩渡辺家初代。

尾張徳川家の家老・渡辺重綱の五男。母は杉浦盛嗣の娘。正室は高木正成の娘。子は渡辺近綱(長男)、渡辺利綱(次男)、渡辺方綱(三男)、渡辺則綱(四男)、娘(内藤信通正室)、娘(山田常紀室)。官位は従五位下。丹後守。

幼名は大学。半丞。元和9年(1623年)から徳川秀忠に仕え、3520石の所領を与えられた。後に中央詰、御書院番士、小姓組番頭、書院番頭を歴任する。寛文元年(1661年)11月8日、大坂定番となり、河内国内に1万石を与えられて1万3000石の大名となった。幕臣として、その後も重用された。寛文8年(1668年)6月19日、58歳で死去し後を三男の方綱が継いだ。法号:浄閑吉綱院。墓所:愛知県豊田市寺部町の守綱寺。

2.方綱(まさつな)
3.基綱(もとつな)

重臣
*今井弥一右衛門
*向山利右衛門

伯太藩 譜代 

2100-08-01 | 概要1
 【参勤交代道中供立】(渡辺家文書)





伯太藩 譜代 13,500石

伯太藩(はかたはん)は、和泉国泉郡伯太周辺を領有した藩。藩庁は伯太陣屋(大阪府和泉市伯太町)。立藩当初は大庭寺藩(おばでらはん)。

略史
武蔵国野本藩で1万3千石を所領する渡辺基綱は元禄11年(1698年)武蔵国内の所領の一部を近江国に移されたのを機に、和泉国大鳥郡大庭寺(大阪府堺市)に陣屋を構え、大庭寺藩が立藩した。その後、享保12年(1727年)には、陣屋を伯太に移し伯太藩が成立した。表高は野本時代と同じく1万3千石である。
基綱は大坂定番となり、「善将」と称せられる名君であった。以後、9代にわたり在封し、明治4年(1871年)廃藩置県により伯太県となった。その後、堺県を経て大阪府に編入された。なお、尾張藩重臣の渡辺家(寺部陣屋)の方が宗家にあたる。
藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列した。

歴代藩主

1.基綱(もとつな)〔従五位下、備中守 大坂定番〕
2.登綱(のりつな)〔従五位下、越中守〕
3.信綱(のぶつな)〔従五位下、豊前守〕
4.伊綱(これつな)〔従五位下、丹後守〕
5.豪綱(ひでつな)〔従五位下、越中守〕
6.春綱(はるつな)〔従五位下、大学頭〕
7.則綱(のりつな)〔従五位下、越中守〕
8.潔綱(きよつな)〔従五位下、備中守〕
9.章綱(あきつな)〔従五位下、備中守〕

重臣

長坂家
今井家
白鳥家
佐竹家
野々村家
中村家
武元家
小林家
*1870年(明治3年)貢進生となり、開成学校・大学南校(後の東京大学)に入学した小林有也(こばやし うなり)がいる。
幼名は小林 卯之助(こばやし うのすけ)。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。明治17年7月農商務省と東京物理学校を辞し、中学校教則取調委員となり、長野県に赴任する。9月長野県中学校を長野に創り、学校長と教諭を兼務。明治19年9月長野県尋常中学校校長として、松本へ赴任。明治維新後、松本城天守閣は住む人も、修理する事もないため荒廃していた、この時天守閣を修理、再建することに心血を注いだのが小林有也である。小林校長は天守閣保存を主張する地元町民、町議会および旧家臣団の六星会などの意志に深く思いを致し、天守修理を決心したと言われている。
杉浦家
小瀬家
向山家
*伯太藩向山(むこうやま)家は 武田勝頼の側衆(跡部昌忠・向山出雲守・小田切孫右衛門・安部宗貞・竹内与五右衛門・小原継忠・同下総守・秋山紀伊守)八人のひとり向山出雲守の子孫。伊兵衛、利右衛門、儀右衛門、儀右エ門、勝秀、勝高、勝良、勝/(廃藩)、秀二、健 、敏之、諒 。 天正10年(1582年)武田家滅亡後徳川氏に従った保科氏に仕えた。保科正貞が大坂定番の際、利右衛門は大阪へ入る。 寛文元年(1661年)保科正貞の後、渡辺吉綱が累進し大坂定番になり、利右衛門は吉綱の家臣となりその子孫は廃藩まで渡辺氏に仕えた。
伊庭家
*伊庭家は源氏佐々木氏の支流であり、経方の代より佐々木宮の神主になる。 経方の孫出羽権守重遠は、彼の宇治川の先陣として、戦記にある、四郎高綱と従兄弟の間柄であって、保元の乱に白川殿で戦没した。 この重遠の代に神崎郡伊庭邑に居住し、初めて伊庭氏と名乗る。 重遠の後、貞資、貞平、貞光、公貞、時高、氏貞、基貞、高貞、貞安、實貞、貞職、貞信、貞勝の14代を経て貞勝は蒲生郡桐原郷に身をよせ、後中小森で慶長12年没。 伊庭氏は吉綱に仕えて代官に挙げられ、江州における伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を支配するようになった。 佐々木源氏が伊庭氏を名乗ってから25代の後裔にあたる伊庭貞剛は明治12年裁判官から、住友本社に入社、33年2代目総理事として住友財閥の基礎を築いた 煙害で荒れた四国別子銅山への植林や精錬所移転は、環境問題の先駆者として評価される。 企業の進歩発展は青年にあるとして、トップ就任わずか4年で引退してその後、表舞台には立たなかった。


伯太藩概要

2100-07-12 | 概要2
概要:和泉市史紀要第14集 伯太藩関係史目録より

伯太藩

伯太藩は、譜代大名渡辺家を藩主とし、約13500石の領地を有していた。この伯太藩の変遷について詳しく知ることの出来る資料はそれほど多くない。「寛政重修諸家譜」第八巻によれば、当初渡辺家は武蔵の国比企郡野本を本拠点としていた。寛文元年(1661年)11月渡辺重綱の子で、側用人の渡辺吉綱が大坂定番(大坂城警護役)となり、河内国志紀郡・古市郡・丹比郡、和泉国大鳥郡・泉郡の五群に新たに一万石を加増される。これにより所領は一万三千五百石となり、野本藩として立藩する。現存する寛文四年(1664年)の渡辺吉綱宛て朱印状・領地目録(国立公文書館蔵「泉大津市史」第二巻収載)によると、この時点での泉郡内の領地は、現和泉市・泉大津市域に属する伯太村・板原村と下条大津村、黒鳥村、池上村、の計五ヶ村、総高二千七十石余となっている。なお、後に藩領となる春木川村は、この時にはまだ幕領代官の支配地であった。さらに元禄十一年(1698)、藩主渡辺基綱のときには、武蔵国の所領を近江国野洲郡・粟田郡・蒲生郡・高島郡の四郡に移された。その結果、領地の散在性はいまだに強いものの、すべての領地を畿内に有することになった。またこの時、居所についても武蔵国を後にし、和泉国大鳥郡大庭寺村へ移っている(大庭寺藩)。享保十二年(1727)四月、再び本拠地を大庭寺から和泉国郡伯太村に移し、ここに伯太藩が成立した。以後、伯太藩の陣屋は、幕末まで伯太村に置かれることになる。明治四年(1871)七月、廃藩置県により「伯太県」となり、藩主は罷免の上、上京を命ぜられ、県知事が派遣される。そして同年11月には伯太県も廃止され、堺県へと合併された。

伯太藩の所領となった全三十九ヶ村は、十八~十九世紀を通じて五つの地方支配単位「郷」に分けられ、統治されていた。陣屋を含み、その近辺に散在する泉郡内六ヶ村(伯太村、黒鳥村、池上村、下条大津村、板原村、春木川村)で構成される「下泉郷」、近隣の大鳥郡上神谷一帯十二ヶ村からなる「上神谷郷」、河内国に散在する十ヶ村からなる「河州郷」があり、近江国の領地では、「東江州」、「西江州」という二つの地方支配単位が存在した。そして、これら「郷」の枠組みを通じて、年貢上納の際三分一銀納値段・石代銀納値段の通知や、その年の新出の武家奉公人の微発、御用銀の収納、倹約・風俗の取締りなどが行われていた。各郷のあり方や運営については、「下泉郷」に属した村々における郷入用などの史料から、やや断片的にではあるが、具体的な中身をうかがうことが出来る。また、郷入用の内容からは、各郷ごとのまとまりだけではなく、和泉・河内の三郷を合わせて、「泉河三郷」という枠組みが存在していたことも見て取れる。

なお、藩領となって間もない十七世紀から享保期にかけての間には、各郷に一人ずつ「触頭」が置かれていたようである。この「触頭」は、郷内の有力な庄屋が就任し、郷内の村に対して新開の許可を下すことが許されるなど、比較的強い権限をもっていた事が確認されている。「下泉郷」の場合には、板原村の(根来家)が勤めていたようである。ただ十八世紀以降「触頭」はみられなくなり、以後は、「郷惣代」という役職に変わっていく。「下泉郷」の場合には、十八世紀には黒鳥村庄屋(黒川武右衛門)、十九世紀には、伯太村庄屋(青木甚右衛門)、や黒川家の後に庄屋役を引き継いだ(浅井市右衛門)などが惣代を繰り返し担っていたことを確認でき、おおよそ郷内の有力な庄屋が勤めたものと推定される。例えば、伯太藩には宝暦期発行の藩札が現存しているが、その札元として(黒川武右衛門)が見えるのも興味深い。
以上のとおり、伯太藩について分かることは少ないが、近年の大阪市立大学文学部日本史研究室との合同調査などを通じて、伯太藩下泉郷内外一帯におけるやや特殊な「村」のあり方が明らかにされつつある。例えば「下泉郷」においては、郷境によって区切られた村請制村のあり方がそのまま領主支配の枠組みに残され、池上村などのように、人別の支配を受けないような特殊な「村」を含んでいた。今後、こうした地域社会の特質の中で、伯太藩や伯太陣屋がどのように存立していたのかを明らかにしていくためには、藩政や家臣団の組織・機構とともに、伯太藩の「村」とはそれぞれどのような地域であったかについて、より分け入って考えなければならないだろう。・・・








伯太藩領 石高

2100-06-03 | 概要2
総石高:1万3702石

和泉国 泉郡 伯太村 503 石
和泉国 泉郡 黒鳥村 364 石
和泉国 泉郡 池上村 114 石
和泉国 泉郡 池上出作 208 石
和泉国 泉郡 大津村 652 石
和泉国 泉郡 板原村 435 石
和泉国 泉郡 春木川村 99 石

和泉国 大鳥郡 上神谷下条太平寺村 378 石
和泉国 大鳥郡 上神谷大庭寺村 551 石
和泉国 大鳥郡 上神谷小代村 316 石
和泉国 大鳥郡 上神谷豊田村 760 石
和泉国 大鳥郡 上神谷片蔵村 475 石
和泉国 大鳥郡 上神谷釜室村 366 石
和泉国 大鳥郡 富蔵村 117 石
和泉国 大鳥郡 逆瀬川村 179 石
和泉国 大鳥郡 鉢峯寺 324 石
和泉国 大鳥郡 畑村 210 石
和泉国 大鳥郡 田中村 372 石
和泉国 大鳥郡 三木閉新田村 111 石

河内国 志紀郡 大井村 930 石
河内国 志紀郡 北木本村 266 石
河内国 志紀郡 林村 423 石
河内国 志紀郡 国府村 428 石

河内国 丹北郡 一津屋村 151 石

河内国 古市郡 蔵内村 168 石
河内国 古市郡 古室村 110 石
河内国 古市郡 駒ヶ谷村 420 石
河内国 古市郡 飛鳥村 395 石
河内国 古市郡 大黒村 348 石

近江国 高鳴郡 大供村 413 石
近江国 高鳴郡 上弘部村 402 石
近江国 高鳴郡 蘭生村 111 石
近江国 高鳴郡 岸脇村 630 石
近江国 高鳴郡 南深清水村 314 石
近江国 高鳴郡 永田村 267 石

近江国 野洲郡 戸田村 197 石
近江国 野洲郡 虫生村 821 石

近江国 蒲生郡 竹村 156 石
近江国 蒲生郡 西宿村 86 石

近江国 粟太郡 蜂屋村 132 石

伯太陣屋絵図

2011-08-03 | 概要3

「泉州伯太陣屋之図絵」      「和泉国泉北郡伯太御陣屋跡」  「和泉国泉郡伯太元陣屋図面」
岸和田高校所蔵           大阪歴史博物館蔵         伯太町向山家文書

伯太藩陣屋は江戸時代、熊野街道(小栗街道)より山手で信太山丘陵の西斜面に位置し、南北約四百米、東西約六百米、約五万坪を占め、周囲には赤土の土塀がめぐらされていたと言う。「伯太元陣屋図面」でみると、小栗街道に平行して、大手門と搦手門があり、この二つの門の間を白壁の土塀が結んでいる。大手門の前には深さ約一間ほどの掘割が設けられ、石垣も組まれていたということである。
中央には藩士の屋敷を縦断して急勾配の道(大手坂)で、現在の信太山野外活動センターまでつづいていたらしい。当地の高台からの眺望は南は岸和田~泉州地域、北は大阪平野はじめ大阪湾を一望出来る。往時は小栗街道はじめ、紀州街道の人馬の動きまで望めた事だろう。この地に陣屋を構えた徳川幕府の地理的な大名政策を見るようである。
陣屋内の中心には、「御屋形」と呼ばれていた藩主邸兼政庁があり、その周囲を藩士の邸宅がとりまいていた。御屋形の位置は、「泉州伯太陣屋絵図」(立藩初期の図)では丸笠神社の南側に描かれ、「和泉国泉郡伯太元陣屋図面」(廃藩以降の図)では丸笠神社の西側、即ち現在「伯太営址碑」が建っている辺りに描かれている事から、基綱の時代から廃藩までの間に少なくとも一度は移動している様である。




【現航空写真・伯太町4丁目3番付近】
 

信太山丘陵の地形を最大限有効に活用した陣屋設計だ。高層の天守は無くとも三階立てほどの櫓立て御殿であれば、高層天守に及ばぬ眺望を確保出来たと推測できる。また、周りには数多くのため池を配置し、自然の強固な濠が出来上がっている事が現在の写真からも判断できる。
海抜50m内外とはいえ、湾岸平野に大きく張り出した信太山丘陵の西端の地に、北に放光池、平池、谷池、丸笠池を、南に前奈池から高津池に至る一郡の池を抱え、西には、熊野街道(小栗街道)沿いに掘割を備えていたという事であれば、陣屋敷地五万坪は、岸和田城(五万三千石)の敷地にも匹敵する広さであり、自然の池や谷を堀とする一城郭と見ることができる。





















陣屋土塀

2011-08-03 | 概要3
赤土の陣屋土塀


陣屋の周囲をめぐらされていたと言う赤土の土塀。
旧藤沢会館(現在の野外活動センター)の東側に、陣屋最東部の土塀の形跡が
残っている。姿形は既に崩れているが、赤土の残骸が塀のあとである。
現在市道が整備され、近代的なコンクリート塀がなんとも対象的である。

 














伯太藩札

2011-08-02 | 概要3
伯太藩 銀一匁 宝暦札

 



藩札というのは、江戸時代、各藩が発行し、藩内で流通させた不換紙幣で、金札、銀札、米札、銭札があった。藩札の発行については、幕府はできるだけ制限を加えたようであるが、幕府の力が衰えはじめると、その許可を得ず藩札を発行したので発行高が増大し藩札に対する信用は失墜し社会不安をもたらした。
伯太藩でも藩札を発行した。現存しているものとしては1755年(宝暦五)発行の銀札で、黒鳥村の黒川武右衛門が引受け人になっているものなどがある。徳川幕府が倒れ、明治政府が発足すると、これらの藩札処分に苦心したようだ。明治2年旧幕府の許可を得ずに発行した藩札と明治以降に発行した藩札は紙幣として認められない旨の布告が出た。そして伯太藩にもその消去方を命じたのである。
さらに明治四年の廃藩置県の後、政府は新貨幣との交換を布告しそれに要する準備金を旧伯太藩に負担させた。そして翌年より藩札の交換を行った。明治十二年には全ての伯太藩札を消去したとして以降は無効になった。











伯太営址碑(御屋形跡の碑)

2010-11-03 | 概要4


伯太町に立つ御屋形跡の碑(和泉市伯太町4丁目3番付近)




現在、JR阪和線信太山(しのだやま)駅から近い御屋形跡地には「伯太営址碑」が建てられている。
「搦手門」は堺市豊田の小谷城郷土館(元庄屋小谷家)に移築され現存している。



搦手門


■小谷城郷土館
堺市南区豊田1602-1
072-296-8435








伯太営址 記念碑除幕式(昭和12年12月12日)


祭主:渡邊恭綱公

参列者(順不)
*旧藩士有志名
河原田正清、太田 淳、井田浩太郎、杉浦重彦、今井 永、今井 東、井田俊子、
小瀬忠賢、小瀬 弘、向山 勝、向山秀二、向山 慶、青木仁作、和田政太郎、
岸田正雄、竹内 力、井伊 直、西川秀次郎、野々村 保、片山正作、片山乙馬、
片山 甫、鍋島潤三、小林 有、杉浦 寛、山中 望、小谷方明、武元 晋、
天野忠慶、小畑角治、山中茂一、山田丸人、浅井 享、岡安五一朗、藤本静三朗、

*来賓
澤田信治、小川和泉町長、大津警察署長、辻村伯太小校長、伯太駐在
伯太区長、大阪府山本主事、南 繁則、辻村徳治、榎本義廣、高寺 政、
木下斎主、若林音吉、小野澤五郎









大手坂 (旧長野街道)

2010-10-03 | 概要4

元大手門付近:(小栗街道と旧長野街道の交差点)
正面が大手坂入り口、左右が小栗街道。


【大手坂】
坂道に沿って武家屋敷が並んでいたようである。現在はその面影は殆どないが、
現存する旧家の土塀や生垣に見られるクリ石が往時をしのばせる。



旧伯太藩武家屋敷の碑が立っている










伯太藩武家屋敷
(旧 向山邸)







(旧 片山邸)



旧武家屋敷の絵
現:伯太町4丁目3番付近にあった旧伯太藩武家屋敷の絵
タイトル:土蔵のある道(中川忠司 作)


タイトル:朽ちた土蔵(中川忠司 作)
 




「大手坂を下る、正面は大阪湾」















藩主菩提寺 南溟寺

2009-07-02 | 概要5
南溟寺(浄土真宗本願寺派)

所在地:泉大津市神明町6

■(泉大津の史跡と文化財より)
本寺の創建は「泉州志」などの文献によれば、天正年中(1573~92)法橋明寂によると伝えられているが、所蔵文書「元文四年寺社御改帳」では、文禄四年(1595)僧明寂の開基とされている。また、別の古文書では、本寺はもと宇多大津村にあったが、文禄三年下条大津村の荒地を申し請けて移転したものといい、その地は戦国の土豪齋藤氏、真鍋氏などが拠った大津城(真鍋城)の跡であるとも伝えられている。・(中略)正保二年(1645)以来、幕末まで伯太藩主渡辺氏の菩提寺でもあった。(中略)本堂右手余間に安置されている渡辺家位牌厨子は、様式からみて近世初期を下らないものと思われる。
伯太藩渡辺氏 累代の墓所は、庫裏の右手から裏側へ廻ったところにある。「大津町志」(昭和七年)には、広さ「一一三坪、墓碑ニ三基」とあり、苔むした碑が歴史をしのばせる。









伯太墓地

2009-06-05 | 概要5

伯太墓地

現在は、伯太町(伯太墓地委員会)の管理墓地となっており近隣在住の住民の墓地となっている。
その昔は、伯太藩士専用墓地であった。現在も元藩士の末裔所家が残っているが、無縁仏状態の古い墓石も多く見られる。


墓地内
















上伯太 下伯太 だんじり祭り

2009-05-06 | 概要6
歴史・伝統・志・魂


現在では、武家屋敷や石垣などその他、陣屋のなごりをとどめているものは殆どなく、世間ではこの和泉伯太の地に大名がいたことも、陣屋が置かれていたことも忘れさられようとしている。がしかし・・・
現在この地の”秋まつり”には、上伯太と下伯太という伯太町内で弐町による「だんじり祭り」が毎年盛大に行われている。
上伯太の地車の彫刻には、なんと伯太藩主、渡辺氏の元祖(渡辺 綱)の武勇伝、綱の鬼退治。京・丹波の大江山の鬼(酒呑童子)を討伐したという物語の彫り物が見事に再現されており、また下伯太の地車小屋や、そのだんじりの引き手達が纏う衣装(はっぴ等)には、祭り時の町紋に、なんと渡辺星(渡辺氏家紋)がデザインされ、老若男女が身に纏って秋の祭りを飾っていた。
この弐町の「だんじり祭り」を見たとき、時代は変われども、現在の和泉市伯太町には、和泉国 泉郡 伯太村の時代から脈々と受け継がれている歴史や伝統、志や魂というものを感じずには居られない。


























伯太藩陣屋後発掘調査公開

2009-05-05 | 概要6

伯太藩陣屋後発掘調査公開
平成26年10月4日

平成26年10月4日





公益財団法人大阪府文化財センター


「伯太藩陣屋跡 現地公開資料」平成26年10月8日