★★★ 伯 太 藩 (伯太陣屋) ★★★

伯太藩は、江戸時代和泉国泉郡伯太周辺を領有した藩。
藩庁は伯太陣屋(現:大阪府和泉市伯太町)
藩主:渡辺氏(譜代)

伯太藩 譜代 

2100-08-01 | 概要1
 【参勤交代道中供立】(渡辺家文書)





伯太藩 譜代 13,500石

伯太藩(はかたはん)は、和泉国泉郡伯太周辺を領有した藩。藩庁は伯太陣屋(大阪府和泉市伯太町)。立藩当初は大庭寺藩(おばでらはん)。

略史
武蔵国野本藩で1万3千石を所領する渡辺基綱は元禄11年(1698年)武蔵国内の所領の一部を近江国に移されたのを機に、和泉国大鳥郡大庭寺(大阪府堺市)に陣屋を構え、大庭寺藩が立藩した。その後、享保12年(1727年)には、陣屋を伯太に移し伯太藩が成立した。表高は野本時代と同じく1万3千石である。
基綱は大坂定番となり、「善将」と称せられる名君であった。以後、9代にわたり在封し、明治4年(1871年)廃藩置県により伯太県となった。その後、堺県を経て大阪府に編入された。なお、尾張藩重臣の渡辺家(寺部陣屋)の方が宗家にあたる。
藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列した。

歴代藩主

1.基綱(もとつな)〔従五位下、備中守 大坂定番〕
2.登綱(のりつな)〔従五位下、越中守〕
3.信綱(のぶつな)〔従五位下、豊前守〕
4.伊綱(これつな)〔従五位下、丹後守〕
5.豪綱(ひでつな)〔従五位下、越中守〕
6.春綱(はるつな)〔従五位下、大学頭〕
7.則綱(のりつな)〔従五位下、越中守〕
8.潔綱(きよつな)〔従五位下、備中守〕
9.章綱(あきつな)〔従五位下、備中守〕

重臣

長坂家
今井家
白鳥家
佐竹家
野々村家
中村家
武元家
小林家
*1870年(明治3年)貢進生となり、開成学校・大学南校(後の東京大学)に入学した小林有也(こばやし うなり)がいる。
幼名は小林 卯之助(こばやし うのすけ)。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。明治17年7月農商務省と東京物理学校を辞し、中学校教則取調委員となり、長野県に赴任する。9月長野県中学校を長野に創り、学校長と教諭を兼務。明治19年9月長野県尋常中学校校長として、松本へ赴任。明治維新後、松本城天守閣は住む人も、修理する事もないため荒廃していた、この時天守閣を修理、再建することに心血を注いだのが小林有也である。小林校長は天守閣保存を主張する地元町民、町議会および旧家臣団の六星会などの意志に深く思いを致し、天守修理を決心したと言われている。
杉浦家
小瀬家
向山家
*伯太藩向山(むこうやま)家は 武田勝頼の側衆(跡部昌忠・向山出雲守・小田切孫右衛門・安部宗貞・竹内与五右衛門・小原継忠・同下総守・秋山紀伊守)八人のひとり向山出雲守の子孫。伊兵衛、利右衛門、儀右衛門、儀右エ門、勝秀、勝高、勝良、勝/(廃藩)、秀二、健 、敏之、諒 。 天正10年(1582年)武田家滅亡後徳川氏に従った保科氏に仕えた。保科正貞が大坂定番の際、利右衛門は大阪へ入る。 寛文元年(1661年)保科正貞の後、渡辺吉綱が累進し大坂定番になり、利右衛門は吉綱の家臣となりその子孫は廃藩まで渡辺氏に仕えた。
伊庭家
*伊庭家は源氏佐々木氏の支流であり、経方の代より佐々木宮の神主になる。 経方の孫出羽権守重遠は、彼の宇治川の先陣として、戦記にある、四郎高綱と従兄弟の間柄であって、保元の乱に白川殿で戦没した。 この重遠の代に神崎郡伊庭邑に居住し、初めて伊庭氏と名乗る。 重遠の後、貞資、貞平、貞光、公貞、時高、氏貞、基貞、高貞、貞安、實貞、貞職、貞信、貞勝の14代を経て貞勝は蒲生郡桐原郷に身をよせ、後中小森で慶長12年没。 伊庭氏は吉綱に仕えて代官に挙げられ、江州における伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を支配するようになった。 佐々木源氏が伊庭氏を名乗ってから25代の後裔にあたる伊庭貞剛は明治12年裁判官から、住友本社に入社、33年2代目総理事として住友財閥の基礎を築いた 煙害で荒れた四国別子銅山への植林や精錬所移転は、環境問題の先駆者として評価される。 企業の進歩発展は青年にあるとして、トップ就任わずか4年で引退してその後、表舞台には立たなかった。


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