★★★ 伯 太 藩 (伯太陣屋) ★★★

伯太藩は、江戸時代和泉国泉郡伯太周辺を領有した藩。
藩庁は伯太陣屋(現:大阪府和泉市伯太町)
藩主:渡辺氏(譜代)

伯太藩概要

2100-07-12 | 概要2
概要:和泉市史紀要第14集 伯太藩関係史目録より

伯太藩

伯太藩は、譜代大名渡辺家を藩主とし、約13500石の領地を有していた。この伯太藩の変遷について詳しく知ることの出来る資料はそれほど多くない。「寛政重修諸家譜」第八巻によれば、当初渡辺家は武蔵の国比企郡野本を本拠点としていた。寛文元年(1661年)11月渡辺重綱の子で、側用人の渡辺吉綱が大坂定番(大坂城警護役)となり、河内国志紀郡・古市郡・丹比郡、和泉国大鳥郡・泉郡の五群に新たに一万石を加増される。これにより所領は一万三千五百石となり、野本藩として立藩する。現存する寛文四年(1664年)の渡辺吉綱宛て朱印状・領地目録(国立公文書館蔵「泉大津市史」第二巻収載)によると、この時点での泉郡内の領地は、現和泉市・泉大津市域に属する伯太村・板原村と下条大津村、黒鳥村、池上村、の計五ヶ村、総高二千七十石余となっている。なお、後に藩領となる春木川村は、この時にはまだ幕領代官の支配地であった。さらに元禄十一年(1698)、藩主渡辺基綱のときには、武蔵国の所領を近江国野洲郡・粟田郡・蒲生郡・高島郡の四郡に移された。その結果、領地の散在性はいまだに強いものの、すべての領地を畿内に有することになった。またこの時、居所についても武蔵国を後にし、和泉国大鳥郡大庭寺村へ移っている(大庭寺藩)。享保十二年(1727)四月、再び本拠地を大庭寺から和泉国郡伯太村に移し、ここに伯太藩が成立した。以後、伯太藩の陣屋は、幕末まで伯太村に置かれることになる。明治四年(1871)七月、廃藩置県により「伯太県」となり、藩主は罷免の上、上京を命ぜられ、県知事が派遣される。そして同年11月には伯太県も廃止され、堺県へと合併された。

伯太藩の所領となった全三十九ヶ村は、十八~十九世紀を通じて五つの地方支配単位「郷」に分けられ、統治されていた。陣屋を含み、その近辺に散在する泉郡内六ヶ村(伯太村、黒鳥村、池上村、下条大津村、板原村、春木川村)で構成される「下泉郷」、近隣の大鳥郡上神谷一帯十二ヶ村からなる「上神谷郷」、河内国に散在する十ヶ村からなる「河州郷」があり、近江国の領地では、「東江州」、「西江州」という二つの地方支配単位が存在した。そして、これら「郷」の枠組みを通じて、年貢上納の際三分一銀納値段・石代銀納値段の通知や、その年の新出の武家奉公人の微発、御用銀の収納、倹約・風俗の取締りなどが行われていた。各郷のあり方や運営については、「下泉郷」に属した村々における郷入用などの史料から、やや断片的にではあるが、具体的な中身をうかがうことが出来る。また、郷入用の内容からは、各郷ごとのまとまりだけではなく、和泉・河内の三郷を合わせて、「泉河三郷」という枠組みが存在していたことも見て取れる。

なお、藩領となって間もない十七世紀から享保期にかけての間には、各郷に一人ずつ「触頭」が置かれていたようである。この「触頭」は、郷内の有力な庄屋が就任し、郷内の村に対して新開の許可を下すことが許されるなど、比較的強い権限をもっていた事が確認されている。「下泉郷」の場合には、板原村の(根来家)が勤めていたようである。ただ十八世紀以降「触頭」はみられなくなり、以後は、「郷惣代」という役職に変わっていく。「下泉郷」の場合には、十八世紀には黒鳥村庄屋(黒川武右衛門)、十九世紀には、伯太村庄屋(青木甚右衛門)、や黒川家の後に庄屋役を引き継いだ(浅井市右衛門)などが惣代を繰り返し担っていたことを確認でき、おおよそ郷内の有力な庄屋が勤めたものと推定される。例えば、伯太藩には宝暦期発行の藩札が現存しているが、その札元として(黒川武右衛門)が見えるのも興味深い。
以上のとおり、伯太藩について分かることは少ないが、近年の大阪市立大学文学部日本史研究室との合同調査などを通じて、伯太藩下泉郷内外一帯におけるやや特殊な「村」のあり方が明らかにされつつある。例えば「下泉郷」においては、郷境によって区切られた村請制村のあり方がそのまま領主支配の枠組みに残され、池上村などのように、人別の支配を受けないような特殊な「村」を含んでいた。今後、こうした地域社会の特質の中で、伯太藩や伯太陣屋がどのように存立していたのかを明らかにしていくためには、藩政や家臣団の組織・機構とともに、伯太藩の「村」とはそれぞれどのような地域であったかについて、より分け入って考えなければならないだろう。・・・








最新の画像もっと見る