遺跡好き弁護士の一(はじめ)法律事務所

遺跡好き弁護士射場守夫は現在奈良県大和高田市一法律事務所にて業務中!遺跡紹介とたまに法律や仕事のお話をいたします。

茅原大墓古墳

2015-07-26 23:45:33 | 日記
前回ご紹介した珠城山古墳郡から南に約1キロメートル進んだところに茅原大墓古墳があります。
珠城山古墳郡から近づくと緑の小山が見えます。この日は空気が澄んでいて緑がきれいでした。

ちょっと横から見ると・・・

帆立貝式の前方部がきれいに残っています。

この古墳は、平成20年以降発掘調査が行われてきました。
4世紀末ころの古墳とされております。
全長約86メートルの前方部が著しく小さい帆立貝式前方後円墳です。
後円部が三段築成、前方部が二段築成であり、周囲を周濠が巡っています。


これまでの発掘調査で墳頂部と二段目の平坦部に埴輪列、墳丘斜面に葺石が見つかっています。
平成23年から第5次の調査が行われた際には、後円部一段目の平坦部にも埴輪列が発見され、しかも円筒埴輪や壺形埴輪を転用した埋葬施設も発見されました。
下の二つの写真の内、下側の写真です。

以前の発掘で東側のくびれ部から最古の盾持人形埴輪が発掘され、しかもその埴輪がなんだか笑っているように見えるので話題になっていました。今でも、ネットで画像を見ることができます。

墳丘の頂上に登りました。後円部頂です。

後円部から前方部を見下ろします。


この地域の古墳は、古墳時代初期には箸墓古墳を初めとして、200メートルを超える巨大古墳が次々と築造され、まさに権力の中枢部を担ってきた地域であったことを明確に教えてくれるわけですが、この古墳が築造された時期は、規模が縮小し従来の巨大古墳の半分にも満たないサイズとなってしまいます。

そして、このころから、河内地域や奈良盆地北部に巨大古墳が出現するのです。これが奈良盆地内の従来通りの政権によるものであるのか、河内政権が勃興してきた証であるのかは分かりませんが、いずれにせよこの地域は政権の中枢から離れ、衰退していくのです。

忘れていましたが、昨年後円部頂で地中レーダーを実施したところ、石の反応はなかったものの堆積土のくぼみのような変化があり、粘土槨の存在が推定されるというニュースがありました。盗掘の形跡はなかったようですので、将来発掘されたときにはどのような結果となるのか大変楽しみです。

珠城山古墳群(たまきやまこふんぐん)

2015-07-20 21:29:40 | 日記
JR巻向駅から東に約1キロくらいのところに珠城山古墳群があります。
3基の前方後円墳からなり、いずれも古墳時代後期のものです。

巻向駅から東に進むと途中、路上にこんなタイルを見つけました。

山辺の道ですね。女性はシャーマンみたいですが、卑弥呼でしょうか?
卑弥呼は人前に顔を出さないという話もあって神秘的なイメージですが、これは親しみやすいですね。

1号墳

後円部頂には祠がありました。

おいなりさん?
後円部の南側に回り込むと・・・

横穴式石室発見!!
画像がぼやけているのは、私の指が映り込んでしまったのです。心霊写真ではありません。。。
正面から

ふと足下を見ると、先住民が群居していました・・・

アリジゴクです(^_^)
昔はここに蟻を放り込んで遊んでいました・・・・きっと来世は蟻でしょう。

内部の様子。
側壁・奥壁とも面取りをした不定形の石を積んでいます。きれいな台形にかたどられていますが、奥壁の石が小さいのや側壁の下段の石も小さいので、あまり首長墓的な印象を受けません。

天井石です。
いい感じに持ち送られていますね。


玄室から出口を撮影。太陽光で見えにくくなっていますが、片袖式です。
まるで群集墳みたいですが、前方後円墳ですので被葬者のランクは高いはずです。
しかし、アンバランスですね。

この石室には、箱式石棺が安置されており、これが橿原考古学研究所附属博物館の庭に移設されています。

また、石室の内部から金銅製勾玉、金環、環頭太刀、鉄鏃、挂甲、馬具、土器などが出土しました。
1号墳は、全長約50メートル、後円部径約24メートルです。
築造時期は6世紀後半と考えられています。

2号墳です。

これは、全長約90メートル、後円部径約45メートルで1号墳よりも大きいものです。

1号墳から2号墳の後円部を撮影したものです。

後円部頂です。

後円部から前方部を撮影しました。

前方部頂です。

続いて3号墳。

悲しいことに、3号墳は前方部の先端のみが残されています。
写真は、その残された部分です。
後円部と、前方部にそれぞれ南に開口した横穴式石室がありましたが、消失してしまいました。

これらの古墳は、2号墳→1号墳→3号墳の淳に築造されたと考えられており、同一の豪族の系列が追えるようです。
そう考えるとなおさら3号墳の消失が残念でなりません(T_T)

この日は、巻向駅から珠城山古墳群を回って、それから茅原大墓に向かいました。
途中、そうめんの製麺所がいくつもありました。


さすが三輪そうめんのふる里ですね。

二上山がよく見えました。


う~ん・・・ブログ更新に時間がかかりすぎだな~。

次回は、茅原大墓をご紹介したいと思います。

中山大塚古墳(天理市)

2015-07-12 13:44:07 | 日記
半年以上休みましたが、この辺で更新してみたいと思います。
弁護士になって10年経ちましたが、事件処理に慣れるわけではありませんね。ブログ更新が大変難しくなってきました(泣)
常に事件は個性的で同じ事件というのは存在しませんから、仕事に慣れるはずもないんですよね。
「慣れてきた」と思ったら、それは手抜きの危険信号なのかもしれません。

前回まで、西殿塚古墳、西山塚古墳と山辺の道沿いの古墳を紹介しました。今回もその続きで、中山大塚古墳をご紹介します。

この古墳は、奈良盆地の東側の丘陵部を南北に亘る山辺の道を南に下っていき、前回の西山塚古墳から約500メートルくらい進んだところにあります。

冒頭の写真は古墳を北から撮影したものです。
ちょうどこの日は大変天気が良く、古墳日和でした。

中山大塚は、全長約130メートル、後円部径約67メートル、後円部高約15メートルの中規模の前方後円です。後円部は二段築成であり、前方部は1段のみです。古墳全体が葺石で覆われていました。
後円部が高く前方部が低い、初期の前方後円墳の特徴を持っています。
さらに、後円部北側に張り出し部分が設けられており、西側くびれ部分にも張り出しが設けられています。
古墳に設けられていた解説板によれば、通路的な施設とありましたが、素直に理解するとこれらは、造出(つくりだし)であり、祭祀を執り行った場所である可能性がありそうです。
特に後円部北側の張り出しは、柳本古墳群の櫛山古墳との類似性が感じられ、櫛山古墳の造出部分(東側前方部)が祭祀場であったことを考えれば、よりいっそう祭祀関連施設との連想を働かせてしまいます。

後円部墳頂から全長約7.5メートル、深さ約2メートルの長大な竪穴式石室が発見されており、盗掘されて破片ばかりだったようですが、銅鏡片2点、鉄器36点が石室内から発見されています。
銅鏡は、二仙四禽鏡、鉄器は鉄槍、鉄鏃などです。

そして、埋葬主体を囲むようにして円筒埴輪が樹立されていたようであり、特殊壺形埴輪、二重口縁壺系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器、特殊壺形土器などが発見されています。
このとおり、中山大塚古墳は、古墳時代最初期の古墳であることが明らかになりました。
私は、文様などを細かく見比べてみたことはありませんが、箸墓古墳に続く時期に築造されたとのことです。
前々回紹介した西殿塚古墳と同時期でしょうか?
近藤義郎先生の講演集「前方後円墳に学ぶ」にもありましたが、特殊器台や特殊壺の起源が吉備に求められることは明らかなようですが、ちょうど弥生から古墳時代への移行期に相当する特殊器台(形埴輪)や特殊壺(形埴輪)は、吉備よりも大和で大量に見つかっています。
大和政権の成立に吉備がかかわってきたというのは、リアリティの感じられるところです。


これは、古墳の北側に広がる墓地から撮影したものです。
お墓参りの家族連れも多かったですね。

次回も山辺の道沿いの古墳を紹介したいと思います。


追記
最近後円部の写真を撮ってきました。

石室のあった付近に植木をしているのですね。

竪穴式石室はこんな感じです。

また、この古墳から出土した特殊器台の写真がありました。

右側のものがそうです。
宮山型の特殊器台です。

ちなみに中山大塚古墳に向かう途中こんな看板がありました。

ん~、あと2499メートルでセブンイレブンか~・・・・
ここの店長さんはきっととても細かい人か、完璧主義者なのでしょう(^^;)