遺跡好き弁護士の一(はじめ)法律事務所

遺跡好き弁護士射場守夫は現在奈良県大和高田市一法律事務所にて業務中!遺跡紹介とたまに法律や仕事のお話をいたします。

馬見古墳群その4(巣山古墳)

2012-07-23 19:28:16 | 日記
7月例会のご報告。今回は巣山古墳のみです。
巣山古墳は、馬見古墳群最大の古墳です。
墳丘長約230メートル、墳丘の形はよく保存されており、後円部にとりつく形の造り出しが左右に設置され、前方部には島状の遺構が確認されています。

これは造り出しです。私がイメージする造り出しは、前方後円墳のくびれから少し前方部にずれたところに四角く張り出しているといったものですが、ここの造り出しは、後円部がまるでエラのように四角く張り出していますね。
解説によると、これは造り出しの古い形式なんだそうで、時代が下ると共に造り出しも前方部の方にずれていくそうです。
へ~~~。


これが島状遺構です(多分)。
ちょっと手前の藪がじゃまをしてわかりにくくなっていますが、前方部から伸びてくる遺構があります。ここには、水鳥形埴輪が出土しています。なんとまあ、凝った演出ですね。
築造当時は、真っ白に輝いていた墳丘に周濠には水をたたえて、島状遺構には水鳥埴輪をたてていたんですね。イメージするときれいですね。


これは、前方部の周濠です。造り出しや島状遺構もそうですが、部分的に補修をしているようです。

巣山古墳の前方部の先、外堤上に「古墳状高まり」があります。「古墳状高まり」には埋葬施設や円筒埴輪列があります。
・・・・要するに古墳じゃないの??
こんな感じです。

左が円筒棺が埋葬されていた施設で、右が円筒埴輪の復元です。
「円筒棺」というのは、円筒埴輪に似せたような作りでして、こんな感じです。

埋葬されたのは4世紀末で、鉄剣などの鉄製品が副葬されていたようです。
巣山古墳も4世紀末ですし、陪塚(ばいちょう。首長墓の周りに造られた部下の墓と考えられるもの。)でしょうかね?

次は7月例会のご報告の最終回です。

馬見古墳群その3

2012-07-22 16:29:00 | 日記
橿考研友史会7月例会の続きです。
炎天下の昼下がり、7月例会は続きます。

まずは「ダダオシ古墳」。なんでこんな・・・(ry

先生が解説してくださっています。しかし、見えるのは緑の林ばかり。でもとりあえず写真をパチパチ・・・
しかし、ここで思わぬハプニングが!?
「ゴメンナサイ。ダダオシ古墳はこっちでした。さっきのは間違いです。」
お~~~~。弘法も筆の誤り。真夏の日差しがなせるハプニングでしたね。
ちなみに真実のダダオシはこちら。

・・・やっぱりよくわかりません。黙っていればわからなかったかも知れないのに、素直に自白して訂正したのは、さすが学問に生きるお方ですな。
ダダオシ古墳は、墳丘長約50メートルの前方後円墳で、6世紀初頭に築造されたと推定されています。周濠から須恵器埴輪がでているそうです。ただ、前方部が削平されてしまっています。

引き続き、竹取公園です。公園にはいると異常に目立つかぐや姫の壁画が・・・(冒頭写真)
なんと、このあたりは竹取物語の舞台と考えられているそうです。
公園の池の畔を歩いていると・・・な・なんと!?

龍が・・・
さらに歩くと、

高床式倉庫と竪穴式住居が・・・。これは、この付近の箸尾遺跡の古墳時代の住居を復元したもののようです。

さらに進むと三吉石塚古墳と新木山古墳です。
三吉石塚古墳は、墳丘長約50メートルのホタテ貝式前方後円墳です。

これはきれいに復元保存されています。
発掘調査の後、現存墳丘に土をかぶせ、その上から想定される墳丘を復元し、葺石と埴輪を並べたようです。
すごいのは、葺石の石材も発掘から判明した土地の石材を使っているところですね。
築造時期は5世紀後半と考えられています。

これは後円部から前方部の南西側を写したもの。ちっちゃい前方部がわかるでしょうか?
次は、

前方部の南東側です。
解説板によると、前方部の南東側隅には張り出し部分があり、そこが外側との通路となっていたようだとのこと。
よく見ると隅っこが少し外に張り出していますね。
次に、新木山古墳

三吉石塚の墳頂から撮影しました。
新木山古墳は、陵墓参考地に指定されているため、中に入ることはできません。
しかし、宮内庁が発掘調査をしたところ、墳丘上に埴輪列が発見され、襟付短甲形形象埴輪が出土しているとのこと。築造時期は5世紀半ばだそうな。
一緒に歩いていたIさん曰く「古墳の周濠が近隣住民から浸食されているが、これは宮内庁が取り返せないのか?買い取るしかないものでしょうか?」とのこと。
私は「残念ですが、それは無理でしょう。取り返すとすると所有権があるからということになるでしょうが、私有財産制ができたのは明治以降の話ですから。浸食された土地も、以前は寺社領だったり荘園領だったりしたはずです。皇族の誰かの所有であることを証明するものがないでしょう。」とお答えしました。珍しく法律家みたいなことを言いました。
「やっぱり時効ですか?」とも聞かれましたが、時効の話にはなりません。

新木山古墳は、墳丘長約200メートルの前方後円墳で周囲には周濠が巡らされていますが、写真を見てのとおり、周濠内には畑が作られており、立ち入り禁止の柵も墳丘だけを巡っています。

次回も7月例会の様子をご報告します。次回は、古墳群最大の巣山古墳などをご紹介します。








馬見古墳群その2

2012-07-17 19:30:09 | 日記
昨日に引き続き橿考研友史会7月例会の様子をお届けします。
昨日は乙女山古墳まででした。
その後、カタビ古墳群を見学しました。「カタビ」って何でしょうかね?
毎度毎度同じような疑問ですが、何で古墳の名前にはこういう謎めいたものがあるのでしょうか?
この古墳群は4基の円墳と方墳から成り立っています。1号墳3号墳が古く、5世紀中頃で、2号墳4号墳が6~7世紀とのこと。
まずは、1号墳

これは方墳なんですが・・・・
次に3号墳。

これは円墳なんですが・・・
いずれもわかりにくいです。木を切ってきれいにしているのですが、いわれれば何となくわかるという程度の墳丘です。

次に別所下古墳です。

うーんこれもわかりにくい・・・・
別所下古墳は、直径60メートルの円墳だろうとのことです。ここからはヒレ付円筒埴輪が出土しています。ヒレ付円筒埴輪は、まだ円筒埴輪が丁寧に作られていた古い時期に出現するものらしく、4世紀後半頃の築造だと考えられています。

それから佐味田石塚古墳です。これは、県道工事に伴い移築されたものです。
まずは1号墳

墳丘はすでになくなっており、竪穴式石室がむき出しになっていました。
しかし、驚いたことにこの石室の床には飛鳥時代の平瓦が敷き詰められていたそうで、7世紀中頃の築造であろうとのこと。
竪穴式石室ってそんなに後の時代まで作られたんですか??
そのころは、横穴式石室しかないものとばっかり思っていました。

それから、2号墳

これは横穴式石室です。1号墳も小さかったですが、これも小さいですね。
使われている石材も他の石室で見るような巨大な石を使っていません。
どうやらこの付近は石がとれないそうで、そのせいではないかとのこと。

その後ナガレ山古墳に行きました。冒頭の写真はナガレ山古墳の遠景です。
この古墳は、1975年に一部が破壊され、緊急の発掘調査が行われました。その後、1997年に整備工事が終了し、東半分だけ葺石や埴輪列の復元が行われました。全長約105メートルで、5世紀前半の築造です。
しかし、解説の先生に言わせると復元は、「やり過ぎ」なんだそうで、そんなに調査されておらず、資料も乏しいのに勝手に復元しているそうです。
確か「悪い例だ」と言っていました。

これは前方部の上から後円部を撮ったもの。炎天下にたくさん人がいます。墳丘の左側には葺石を葺いていないのがわかります。

これは前方部で発見された埋葬施設です。粘土槨(木棺を石室や石で覆って安置するのではなく、粘土でくるんで安置する方法。)が使われており、木棺の外から刀形・鋤先形・鎌形鉄製品等が出土したようです。

これは後円部から前方部を見下ろした写真です。
皆さんが階段で下りている場所は、円筒埴輪列が切れているのですが、実は、ここはもともと円筒埴輪列がきれていたそうです。すなわち、築造当時からこの場所は通路として使われていたそうです。

通路が必要なことは当然ですが、ほかの古墳で同じような話は聞きませんね?
古墳に登るときにはどうしていたのでしょうか?

そろそろ、午後の暑さがピークに達してきました。
次回、馬見古墳群その3です。


馬見古墳群その1

2012-07-16 15:26:54 | 日記
念願の橿原考古学研究所友史会の7月例会(遺跡見学)に参加してきました。
朝から晴れていて非常に暑かったにもかかわらず、ざっと見て200人くらい集まっていました。
すっごい!!
集まってこられた方の中には県外からといった方もおられ、関心の高さが窺えます。

しかし、念願だったとはいえ、初めての参加で知り合い全くなし。の状態でしたが、隣の方が紳士そうな感じでしたので話しかけてみると、実際非常に感じのよい方でした。この日はこの方(Iさん)といろいろ話しながら回りました。

集合時間が来て、参集者の方々に向けたオリエンテーションが始まりました。炎天下の中・・・・・。
久しぶりに小学校や中学校の校長先生の挨拶を思い出しました。話している人って暑くても意外と平気なんですよね。こっちはキツイんですが(^_^;)

最初は、河合町文化財展示室なんですが、何しろ人が多くてせわしなく見て過ぎるだけに終わってしまいました。
解説の先生が言われていた「ギョウザ形土製品」そのほかの食品形土製品は是非とも写真に撮っておきたかったのですが、そんな時間もありません。また今度任意に訪れることにしましょう。
他にもナガレ山古墳出土といわれているヒレ付円筒埴輪などいろいろありました。


次に、馬見二の谷遺跡ですが、この写真がその遺跡の場所なのかどうかわかりません。ごめんなさい。解説の先生がこの場所を背にして解説していたのできっとそうだろうと思って写真を撮っただけです。
この遺跡は、後期旧石器時代の遺跡で、この谷の下からナイフ形石器など6500点もの出土がありました。ということで谷の上には石器工房があっただろうとのことです。石材は、二上山から出てくるサヌカイトという石を使っています。鋭利な刃の形に割れやすいため黒曜石と同様好んで使われていた石です。


次は池上古墳です。これは説明を受けている参加者の方々。多いですね。

しかし、この古墳は、木に覆われていて全然見えません。人の出入りを禁止して、手をつけずに放置するという遺跡保護のやり方なんだそうです。
池上古墳は、いわゆるホタテ貝式前方後円墳です。ホタテ貝式前方後円墳とは、後円部の大きさに比べて不釣り合いなほどに前方部が小さい前方後円墳のことを言います。
しかし、この古墳は、前方部が小さいにもかかわらず、全長約92メートルもあります。やたらと頭でっかちな古墳です。
ホタテ貝式前方後円墳は、一見造出し付円墳と似ているため、造出し付円墳の造出しが大きくなった物か、前方後円墳の前方部が小さくなった物かという学説上の争いがあるそうです。
この古墳は、墳丘の大きさにしては、埴輪が小さく、しかもまばらで、前方部の方では切れているみたいです。また、葺石も小さめの石なんだそうです。
そんなわけで、巨大な円墳と考えると何となくわびしすぎるので、この古墳は前方後円墳何だけど、規制によって前方部の大きさを削られてしまったかわいそうな古墳であろうということでした。

その後昼食をIさんと一緒に摂りました。Iさんは、吹田の方で郷土史研究会の活動で頻繁に文化財見学を企画しているとのこと。すばらしい!!
こういう方がいるところにはいるもんですな~~。
それに引き替え、私の職場ではほとんど関心持たれないものな~~(T_T)


昼食後乙女山古墳見学。これもホタテ貝式前方後円墳です。
冒頭の家形埴輪はこの古墳から出土した物です。
この古墳は池上古墳よりさらに大きく、墳丘長約130メートルで奈良県最大のホタテ貝式前方後円墳です。(日本最大は西都原古墳群の男狭穂塚古墳)
上の写真は前方部の方から撮影したものです。何とか墳丘だと言うことがわかるでしょうか?
この古墳も、手をつけない式の保存方法を選択したようです。
ちなみに後円部付近で撮った写真はこれ、

全くもって何が何だかわかりません。
少しは、木を間引きするとか手を入れた方がいいのでは?

乙女山古墳は、小さくなった前方部の他に造出しが設けられており、「ホタテ貝式は前方部が小さくなった前方後円墳説」の証拠となっているそうです。造出しでは、埴輪列が互い違いになっており、墳丘に入る経路が蛇行するようになっていました。そして、壺形埴輪や家形埴輪などが設置されていました。
どうも、造り出しが外部からの入り口でありながら、外敵を排除しつつ選択的に入場できる構造となっていて、かつ、祭祀の場でもあるという意味を持っていたようです。

次回も引き続き7月例会の様子をお話したいと思います。

メスリ山古墳後円部

2012-07-14 18:25:45 | 日記
以前メスリ山古墳はご紹介したことがありますが、そのときは時間の都合で前方部に登っただけでした。今回は、後円部とその遺物をご紹介したいと思います。
メスリ山古墳は、全長約224メートル、後円部径約128メートル、高さ19メートルという古墳時代前期の巨大古墳です。箸墓古墳よりも新しいのですが、箸墓古墳と違って前方部がバチ形に広がっていません。いわゆる柄鏡形の前方後円墳です。

まずは、前方部の下から撮ってみます。段築が少しわかりますね。

登る途中で葺石を発見。

墳頂に登ると竪穴式石室の跡らしきものが!! 何かすごい!

メスリ山古墳の後円部には遺体を埋納した主石室と、副葬品のみ納めた副室があったそうです。これはどっちでしょうか?

メスリ山古墳は主室はひどく盗掘を受けていたそうですが、副室は逃れており、おびただしい遺物が出土しました。
また、後円部の墳頂には方形基壇があり、また、円筒埴輪列が巡っていたそうです。その中には冒頭の写真にあるような巨大な物もあったようです。写真だとわかりにくいかも知れませんが、これ、私の身長よりも高いです。
そして、主室には主として装飾品又は呪術用の遺物がありました。

盗掘を受けてもこんなにあります。左上のものはいす形の石製品、左下にある変わった形をした物は、櫛形石製品のようです。いずれも碧玉製でしょうか?
そして、副室にあった武器類。

すっご~~~~い!!
まさに武器庫のような様相を呈していますね。本当はもっとありますが。
左の写真の弓矢は茶色くなっていますが、これ鉄弓と鉄製矢ですよ!?
さすが大王級の古墳と言われるだけありますね。
これほどの豪華な遺物が盗掘を受けていなかったのは非常に幸いでしたね。
副室作ってて正解でしたね。
逆に盗掘団は主室だけ掘って満足してくれてよかったですね。

談山(たんざん)神社大鳥居・忍坂坐生根(おっさかにいますいくね)神社・石位寺

2012-07-12 21:54:05 | 日記
友史会遺跡見学会に行けなかった恨みを晴らすシリーズは今回で最後です。
まずは、談山神社大鳥居です。
談山神社(たんざんじんじゃ)は、以前ご紹介した兜塚古墳からさらに県道37号線を南下して多武峰を登ったところにあります。そのふもとである浅古新町付近に大鳥居があります。これは、1722年に建てられたようでして、特に古い遺跡と言うほどでもないようです。しかし、ここは、談山神社の参道みたいでして、貝原益軒、本居宣長、松尾芭蕉、与謝野晶子といったそうそうたる歴史上の人物がここを通ったそうです。

高さ8.5メートル、幅11.5メートルの巨大鳥居です。石材は花崗岩で御破裂山の山腹から切り出してきたそうな。
しかし、御破裂山って「ごはれつざん」と読むそうです。すごい名前ですね。火山でしょうか?

次に忍坂坐生根神社です。

これは、さきほどの大鳥居から鳥見山を越えて忍阪のほうにいきます。国道166号線と外鎌山との間に挟まれた集落の中にひっそりとたたずんでいます。
この神社はご神体が背後に聳える外鎌山でして、拝殿はありますが、本殿はありません。上の写真は拝殿です。この神社は天平時代の「大倭国正税帳」や延喜式に名前が登場するらしく、相当古い神社のようです。
この忍阪の地名は記紀にも頻繁に登場するみたいで、日本書紀の記載に剣1千口を「忍坂の邑」に納めたとあり、王権の武器庫としての性格があったと見る研究者もおられるようです。
難しい話にはついて行けませんな~~~~~

拝殿の横には自然石十数個を並べた磐座(いわくら)があります。これでしょうか?

磐座というのは神様が降り立つところでしたっけ? すごい適当ですみません。

最後に石位寺(いしいてら)です。忍坂坐生根神社から数百メートル南に行くとあります。

ここには国内でもっとも古い石彫りの仏像があります。これを見るためには事前に調整が必要でして、いきなり無計画に訪れた私が拝めるような物ではありませんでした。
しかし、ネットで写真を見ると、なかなかいい仏像です。って全然芸術のことなんかわかりませんけど!
一度実物を拝みたいものです。

今度の15日(日)には友史会の7月例会ということで、遺跡見学会があります。今度こそ行って遺跡を満喫してきます!

忍坂古墳群(おっさかこふんぐん)その2

2012-07-09 22:17:39 | 日記
2日連続で忍坂古墳群をご紹介します。今日は8号墳と9号墳です。
8号分は、墳丘もほとんど失われ、石室も南半分が失われてしまいました。
しかし、残りの半分から石室がなんと6角形であり、石室を作っている素材も煉瓦状の石という大変珍しい古墳です。
まずは煉瓦状の石をご覧ください。

見た感じてっきり煉瓦と思ってしまいましたが、実はこういう扁平な形に割れる性質を持っている石を利用しているのですね。
地元の「榛原石」(はいばらいし)というそうです。
すごいな~~~~!!
こういう風にして作られた古墳を「磚槨墳」(せんかくふん)と呼ぶみたいです。磚(せん)というのは中国で作られていた煉瓦ですね。
次に、6角形になっている角をアップしてみます。

一つめ

二つめ

三つめです。大変わかりにくいですね。

この8号墳からは、ガラス小玉約100個(すごい!)、銅製釘、須恵器等が出土しているそうです。7世紀中葉から後半にかけて築造された古墳です。
もう少し保存状態がよければなーという惜しい古墳です。

次に9号墳です。

この古墳は見た感じ、石室の一隅しか残っていない古墳でして、さらに惜しい古墳です。
8号墳と同じく磚槨墳のようですが、石室の形は普通の四角形みたいですね。
ちょっと角度を変えてアップで。

きれいな石組みですが、ちょっと変ですね。隅の方をアップで見てみます。

隅の方の石組みがどうなっているのか大変興味があったのですが、フェンスがあるので近づけません。段違いに組み合わせている訳ではなさそうです。すると奥壁か側壁が見えないところまで伸びているのか?

この9号墳は、同じ磚槨墳で8号墳と共通する部分が多く、同一の工人集団によって築かれたのではないかと考えられています。
これも、7世紀中葉から後半にかけて築造されたと考えられています。

忍坂古墳群は、桜井市近鉄大阪線大和朝倉駅近くの朝倉台団地の北側に残る小高い山の頂上付近に移築されています。
私はこれを自転車で登ったのですが、本当に大変でした。汗だくだく・・・・

忍坂古墳群(おっさかこふんぐん)その1

2012-07-08 19:16:13 | 日記
今回は忍坂古墳群を2回に分けてご紹介します。「忍坂」と書いて「おっさか」と読むんですね。
忍坂古墳群は、外鎌山を宅地造成したときに発掘調査され、現在の場所に移築保存されています。
要するに一度破壊されてしまったわけです。もともとそこにあった遺跡と主要な材料だけ取り出して、別の場所に作り直した遺跡は全く別物と考えなければならないでしょう。

忍坂1号分は、すでに墳丘がなく、羨道もなくなっていたそうです。上の写真は、玄室の入り口から奥を写したものです。
次に、左側側壁

右側側壁

壁面に沿って石が平らに削られている様子がわかりますでしょうか?
今度は奥壁後ろに登って撮ります。


1号分は、石室の内部から馬具、鉄鏃(てつぞく。鉄のやじりこと。)、鉄製飾金具、須恵器、土師器が出土しています。
古墳自体は6世紀中頃の築造だと考えられていますが、その後7世紀中葉に新たに床を敷いて再利用し、なおかつ9~10世紀に室内を3度整備して埋葬が行われたようです。

古墳の埋葬施設は、古い時代には竪穴式石室が使用され、後に朝鮮半島からやってきた横穴式石室が使用されています。横穴式石室の特徴は、何度も追葬ができるということで、この古墳は、実際に何度も追葬がされた例と言えるのでしょう。古墳時代風のエコなんでしょうか・・・
という冗談はさておき、200年300年にわたって追葬を続けたと言うことは、追葬時期には前の方のご遺体は相当なカオスの状態になっているわけで、その石室に入るというのは勇気いりますよね~~~。イザナギ、イザナミ神話を地でいっている感じですよね。

次に2号墳です。

この古墳も同じく墳丘がなく、羨道もありませんが、周濠を持つ直径13メートルの円墳だったようです。

左側壁の隅です。石がきれいな平らになっていますね。

右側壁の隅も同じく。
最後に奥壁の後ろから撮ったもの


石室内部からは、鉄刀、金環、瑪瑙(メノウ)製丸玉、刀子、金銅製責金具、鉄釘、須恵器、土師器が出土したそうです。
築造時期は、6世紀末~7世紀初頭にかけてだと考えられています。「責金具」というのは、刀の柄や鞘を締めて固定する金具みたいです。

これらの古墳は群集墳のようでして、すでに盗掘なんかされているのでしょうが、それでも出土遺物に豪華さの片鱗が窺えますね。
古墳の大きさは制限されてあまり大きな物は作れなかったのでしょうが、その分中身は豪華にしようという当時の新興階層の心境を感じます。

次回は忍坂8号、9号です。6角だったり8角だったり・・・

兜塚古墳(桜井市)と八坂神社

2012-07-07 20:33:52 | 日記
兜塚古墳は、桜井市浅古、県道37号線を南に下って浅古の信号を通り過ぎ、八坂神社という小さい神社を通り過ぎた最初の細い路地を右に曲がった先にありました。駐車場はありません。
八坂神社のところに小さな駐車場がありますので、そこに駐めて行きました。

これがなかなかわからなくて、あっちをウロウロこっちをウロウロ迷い続けました。
迷いついでに八坂神社にも寄ってきましたが、そこにあったあじさいがきれいでした。

写真の腕なんか全くありませんから、きれいに撮るなんてできないのですが、それでも雨に濡れたあじさいはちょっとした感動を覚えるくらいですね。

古墳へ向かう路地を進むと、看板で「兜塚古墳」の案内があります。しかし、私有地にあるものですから、土地の所有者の方にとっては必ずしも好ましい来客ではないようです。いろいろ警告の看板もありました。多分古墳見学者で不心得者がいたのでしょう。悲しいことです。

墳頂に登ると家形石棺がむき出しになっていました。

正面の大きな穴は盗掘坑でしょう。
こんどは横から

反対から

ここにも小さな穴がありますね。
この家形石棺は屋根がかまぼこ状をしています。以前ご紹介した島根県出雲市の築山古墳や同じ桜井市の赤坂天王山古墳の家形石棺の整った稜線とは趣が違います。
これも1つの特徴なのでしょう。
また、この石材は阿蘇の凝灰岩でして、ピンク色をしています。よく見ると赤っぽいのがわかるでしょうか?
はるばる阿蘇地方からこんな重い物を持ってきた意味は何でしょうかね?

引き続いて内部を見ます。

蓋石の内側もかまぼこ形に整形されていますね。

しかし、この家形石棺は竪穴式石槨に納められているとのことでして(友史会会報)、少しびっくりです。家形石棺は古墳時代の後半に出てくる物だと思っていまして、「家形石棺=横穴式石室にある」と思いこんでいたので、すごく新鮮です。

この古墳は、全長約40メートルの小型の前方後円墳でして、玉類、鉄鏃、馬具が出土したそうな。5世紀末から6世紀初頭の築造だと考えられております。

コロコロ山古墳(桜井市)

2012-07-05 13:51:50 | 日記

メスリ山古墳前方部の先にコロコロ山古墳があります。と言っても移築されたものです。
「メスリ」の横には「コロコロ」があるのです。どうしてこんな名前なのか?

この古墳は1984年に古墳であることがわかったそうで、1987年に移築保存されたとのこと。
とりあえず、中に入って見ます。

天井石はすでになかったそうでして、コンクリートで覆われています。

右側側壁です。

左側側壁です。

床には敷石が敷かれてますね。川原石のようです。

左側袖です。

右側袖。

この古墳は、一辺約30メートル、高さ約3メートルの方墳で、全長約11メートルの横穴式石室です。玄室長約5.5メートル、幅2.5メートル。羨道長約5.5メートル、幅約1.5メートルだそうです。
埴輪や葺石はなかったとのこと。
6世紀後半の築造だと考えられているようです。


しかし、解説板がこんなでしたので、読み取るのが難しいですね。

天井石がなくなっており、側壁が途中まで残っているので、横からみると石組みの内部の状況がわかります。

これって落ちそうですね。何だか絶妙なバランス的に位置を保っているのでしょうか?

実は、現在米子出張中です。出張先で作成しているのですが。重い書面ばっかり書いてヒイヒイ言ってます(笑)