ミュー ・ 百花春至為誰開

月山・葉山・野菜つくり・短歌・スケッチ

初夏の朝日連峰 & 果樹園 ※寒河江市・柴橋

妻の入院・・・・・

2008-01-28 | Weblog
明日、妻が入院する。

昨年の春に丁度1ヶ月入院して以来、それから何度目の入院になるだろうか・・?

下肢静脈瘤という病気で、およそ1ヶ月に一度の割合で、手術と薬液注射治療、交互に治療するための一泊入院。

今度の入院は薬液注射治療の為の入院だ。

私の妻は、これまで風邪もあまりひかない位丈夫であったが、下の娘を出産してから、静脈瘤の症状が現れ、年を経る毎にだんだんひどくなって来た。

昨年、つま先から化膿し,とうとう下肢全体がひどく腫れ上がり、歩けないほど症状になってしまった。

現在はだいぶ症状がよくなって来て、温泉に入って温め過ぎたり、あまり過激な運動さえしなければ、ほとんど健康な人と変わらない位の日常生活が出来る状態まで回復してきた。

命にかかわる様な病気ではないにしろ、なかなか治りにくい病気らしい。

また,治療をしたからといって完全に治る病気ではないらしい。

診療科名は「心臓血管外科」という科名で、名前だけで考えると、本当に恐ろしい病気のような気がしてならない。

明日は一昨日から泊まりに来ている娘達が帰るとのことで、丁度病院が娘のアパートの近くにあり、一緒に病院まで乗せて行ってくれることに。

私も明日の晩、夜食用のおにぎり、お菓子、ケーキ、ジュース・・・ETC を買っ見舞いに行こうと思っている。

これまで、一晩の入院でこんなには食べきれないだろうといつも思いながらも、室に行く前に病院内の売店でたくさんの買い物をして置いて来ていた。

退院した日の夜、女房に見舞の「食べ物」のことを尋ねると、なんとなくみんなきれいに食べたり、飲んだりして家に持ち帰って来たことはなかったらしい。

そう考えると、入院するといつも少し太って帰ってくるような気がしてならない。

入院もこんな話ができるような入院だけなら心配も少ないのだが・・・

きっと明日の妻の入院も、治療がうまくいって、無事何事もなく退院できて、いつものように少し太って帰れますように・・・・・・



今日は暫らく振りで暖かな天気の一日。

今も雪が溶け、ポツン、ポツン、と滴が止むことなく樋に落ちる音が聞こえている。





写真の遠くに見える杉林が神社の杜、私の家はその神社の杜の前。

後ろ側にJR左沢線が走る。

私の家辺りが天気の分かれ目のようで、杜の左側が山形方面、こちら側は時々晴れ間が見えるのだが、杜の右側(西)鶴岡方面は一冬中こうした雪雲に覆われ滅多に晴れる事がない。


午前中、孫と娘と私の3人で隣町「河北町」に行った。

昨年出来たばかりの地域交流センターの中にある子供コーナー。



1時間ほど3人で遊ぶ。

平日とあって、さすがに人はあまりいない。

帰り、この町名物「肉そば」を食べて来た。



昼時間の盛りを過ぎていたせいか、店の中には私たちの他に客は誰もいなかった。

日曜日ともなればこの店はいつも2~300人くらいの客でごったがえす。



この町の「肉そば」、山形県内ではかなり有名、特に「冷たい肉そば」は他県(宮城県)からわざわざ食べに来る客がいる。

人口2万人弱の町中いたるところに蕎麦屋がある。それもほとんどが「肉そば」専門店。

もちろん氷点下の気温の今の季節でもほとんどの人が、何故か、「冷たい肉そば」

ばかりを食べる。



薄味で、シコシコ、つるつる・・いつ食べても本当においしい蕎麦。

昔、豚肉を使っていた店もあったようだが、今はほとんど,親鳥の硬肉を厚くスライスしたものを使っている。

センターで遊んで、おいしい蕎麦をご馳走になって、最後に今晩の夕飯のおかずを買って来た。



さすがに孫は遊び疲れたらしく、最後は眠くなってしまったが、無事買い物も済ませ家に帰ったのは夕方4時を過ぎていた。

家に着いた時、孫はもうぐっすりと寝込んでしまった。

今日の昼寝はそのまま7時位まで続いた。

だいぶ遅い時間からの長い・・?お昼寝。

夜、今日の1日が終わった孫の寝顔には、満足感いっぱいの表情が溢れていた。

私は・・・・もちろん私も満足感いっぱいの1日だった。

孫と娘に感謝しなければ、・・・・・・ありがとう・・・と・・・・・



※ ・・・・ この記事は昨晩書いたもの。午前11時過ぎ妻はもう娘達と元気に病院へ出掛けてしまった。

無事治療がうまくいきますように・・・と

なぜか心配そうな表情をして私の傍から離れない愛犬「ナナ」と一緒に祈ることに・・・・



「○○○ばあちゃん・・・?  がんばってきてください・・・・・」

黒川紀章&岡本太郎・・・(2/3)

2008-01-26 | Weblog
今日も寒河江市は雪降り。



私の家の裏を走るJR左沢線の線路。 

すっかり雪に覆われて来た。

この線路の遠くはるかに見える「月山」の雄姿、このところ雪雲に覆われて姿を隠したままだ。



上の写真は昨年11月頃同じ所から撮影したもの。



これまで雪が降らず手持ち無沙汰のようにしていた我が家の庭の雪囲い、やっとその役目を果たせるようになって来た。

昨日マイピクチャーを整理していたら、昨年の夏頃、仙台に住む姉が送って来てく

れた私の描いた40年前の1枚の絵の写真があった。

この絵との再会、別れた恋人と40年振りの再会のように嬉しかった。

それよりも弟の描いた愚作絵を、こうして40年間も捨てずに持ち続けてくれ
た姉夫婦に感謝。

私の心の片隅に僅かにこの絵のことは残っていたが、姉の家が新築された後は飾られることも無く、私もすっかり忘れていた。



遠くを見つめる澄んだ大きな眼、清純で溌剌とした表情、真横に固く結んだ

唇・・・何もかもが新鮮でじっと私の夢大き将来の輝きを見つめているかのようだ・・・・・・?。    

私の20歳そのものの表情のように溌剌とした表情。・・・・自画自賛・・・・?

それからの40年・・・・・・・

一陣の風があっという間に私の眼の前を駆け抜けて行った・・・・・・。

しかし、「過ぎ去った時」を今更取り戻したいことなど何もない。

でも、・・・でも・・・

もう少し燃焼尽くし切れていないものが有りそうでならない・・・・。


「黒川紀章&岡本太郎」・・・(2/3)



写真はN食品寒河江本社工場 1965年頃完成

前回はここで終わっている・・・

黒川紀章は丹下研究室に在籍しながら、マンションの1室を借り、設計事務所を設立。 
             
メタポリズム理論、東京湾空中都市計画、数々のコンペ1位入選を果たし、設計

界では輝かしいデビューを果たす。

・・・が、実際の設計の仕事の依頼は無く、生活費に窮する時期もあった。

そのことを新聞記事で読んで自分の本社工場の設計を依頼したのが、寒河江市に

本社があるN食品会社の社長だった。



この写真はN食品工場の鉄骨柱のディティール。

メタポリズム理論とは、一口で言えば「新陳代謝」を意味している。

「新陳代謝」・・・・増殖する都市の破壊と新生との共生

しかし、黒川紀章はやはり只者の設計屋ではなかった。

食品工場に当時の建築界最先端理論「メタポリズム」を取り入れ(ユニットの連続

→中銀カプセルタワー1972年完成)、コアを意味する柱のガセットプレート(ビル

テクノポリス 2005年竣工)も、よく見ると一つの未来都市を表現しているかのよ

うだ。



上の写真は中銀カプセルタワー1972年竣工UNESCO 20世紀世界遺産重要現代建築20のリストに掲載される



超高層ビル テクノポリス・@ONE-NORTH・シンガポール 2005年竣工



同上断面図 寒河江市庁舎と同じスーパースラブを採用。



国立新美術館 2007年竣工

さて話を元に戻すことにして、何故寒河江市庁舎を黒川氏が設計することになった

のか・・・?



寒河江市庁舎ホールにあるオブジェ 岡本太郎作「生誕」

この続きは・・・・・お楽しみに・・・・。

次回は最終回



黒川紀章&岡本太郎・・・(1/3)

2008-01-24 | Weblog


昨日(1月23日)の寒河江市庁舎。

1月のこの時期、周りにはほとんど雪がない。本当に珍しい事だ。

でも今日は朝から猛吹雪。下の写真は今日の寒河江市庁舎。



下の写真は1969年(昭和44年)≒40年前の竣工時の庁舎。

2~3階が約8メートルのキャンティレバー(はね出し)になっているが、現

在は事務スペースが手狭になってきたため、2階部分は増築されている。



さて、タイトルの「 黒川紀章&岡本太郎 」だが、この寒河江市庁舎は、建築
家、故黒川紀章氏の設計で、建物の玄関ガラス扉押板鋳物と、内部中央吹抜に故 岡本太郎氏のオブジェがあるところからそう名付けてみた。



写真の玄関ガラス扉押板鋳物・・・・に注目。





黄金色をした宇宙を飛び回る火の玉、生命の躍動感さえ漂わせる形状は、大阪万国博「太陽の塔」のイメージと重なる。



この建物の完成後間もなく、1970年に大阪万博が開催されており、まさしく「太陽
の塔」と製作時期を同じくしている。

この押板は竣工当時に比べ退色し、中央部分の鍍金も擦れ、今から≒40年前(昭
和44年頃)に竣工して以来、毎日、市民に利用されて来た歴史の重みを感じる。

玄関ガラス扉から見える庁舎内部の床タイル模様はどこかで見たような気がする。

建築家、故前川國男氏設計東京文化会館の床タイルと、色、材質、形状、模様が全く同じだ。

故前川國男氏は東大建築科卒業後渡仏、 ル、コルビュジエに師事、故建築家、丹下健三氏の師で、日本の現代建築家の代表的な建築家の1人でもある。

その丹下氏に師事したのがこの黒川紀章だ。

この建物は2003年 DOCOMOMO JAPAN  日本近代建築100選に選ばれた日本
の現代建築にとって著名な建築物の一つでもある。

そう・・・回顧してみれば、この建物は正に世界の近代建築の原点でもあるル、コルビュジエに繋がっていく、歴史的建造物の生き証人なのだ。



写真はル・コルビュジエ設計のチャンデーガル(インド・バンジャーブ地方の州
都)のファサード。どこか寒河江市庁舎のファサードに共通しているところがある。





この続きは、お楽しみに・・・・。


 最上川

2008-01-20 | Weblog
昨日の最上川(山形県)の風景。



例年に比べると半分にも満たない位の積雪。

東の方に奥羽山脈の雄姿が、夕刻のひと時の晴れ間を縫って蒼空の中に聳えている。

そしてあの山の向こうは宮城県だ。



川面の色は外気温の変化に連動して変化する。

昨日は外気温が氷点下のせいか、紺碧の色をしていた。

温度が下がれば下がるほど川面の色は濃さを増す。

濃い蒼さの川面の色は、いかにも水の冷たさを物語っているかのようだ。

写真一番右手の山が樹氷で有名な蔵王。



堤防を降りてみた。

この辺りはおよそ最上川の中流だ。

江戸時代には舟運が盛んで、米の運搬は河口の酒田港までこの川面を帆掛け舟が往
来した。

写真の撮影場所は、寒河江市(さがえ)だが、ここから約5キロメートル上流にある大江町には今でも舟運の盛んな時期に使われた船着場が残っている。

この大江町は「最上川舟歌」発祥の地といわれ、その石碑も建てられている。

ヨーイサノマカーショ・・・

エーンヤコラマーカセ・・・

エェーンエンヤーエェーーンヤーエェーーン・・

ヨーイサノマカーショ、エーンヤコラマーカーショ

酒田さいぐさけ~まめでろちゃ~

はやり風邪などひがねよに~・・・・・・

真っ赤ん大根塩汁に~

塩しょっぱくて、喰らわんねちゃえェ~エェ~ンやエ~~ン・・・

・・・・・・

と続いていくが

この民謡は江戸時代、ここ大江町から最上川河口の酒田まで米を積んでの舟運の盛
んなころ、子供を残して遠い船旅に出発する船頭達の舟歌として、昭和になってか
ら再現された比較的新しい創作民謡だ。

遥か江戸時代、舟運の盛んな頃、私が今、傍に立つこの冷え冷えとした最上川の川
面を、1艘の米を積んだ帆掛け舟が下って行ったったかと思うと、夕暮れ時の光景
のせいもあってか、しばし時の経つのも忘れ、2~300年の昔を偲ぶ感傷に包まれ、立ち尽くしていた。



気がつくと、最上川の川面からいつの間にか濃い蒼さが消え、残照だけをを映す漆黒の川面に変わっていた。

きっと明日も冷えそうな予感がした・・・・・・・。

還暦の誕生日

2008-01-19 | Weblog


1月18日は私の60回目の誕生日だった。



前日の1月17日、これまで勤めていた会社を定年退職、その送別会があり、写
真のようなめでたくサラリーマン卒業の修了証書でもある薔薇の花束を頂いた。



昭和46年、22歳で社会に出でてから、38年間いろいろな出来事があったにせ
よ一昨日までよくこれだけの長い間無事、勤めて来れたものだと自分自身不思議な
くらいでもあった。

これからは、ゆっくり、時間を超えて生きてゆきたいと思う。

送別会には、山形の皆さんをはじめ、新庄、仙台からも多数出席していただいて、
申し訳なく思った。

22歳で大学を卒業、なぜか集団就職でもないのに,就職のために上京。

日本経済の最たる好景気の中での就職、私も漏れなく1部上場企業に就職出来た。

時は大阪万国博覧会が開催され、三島由紀夫が市谷の自衛隊で割腹自殺をはかった
年。

鉄鋼製造業の会社は、その年、全国の著名大学から四十数名の新卒者を採用。

大学出の私達は社員、その他の人は、工員、という扱いで、東大、東工大、大阪
大、慶応、早稲田、東北大、etc・・・・モチロン私の東北・・大学など無名中の
無名・・・で・・しかしながらどうですこの同期の出身大学名・・・将来のエリー
トコースは約束されたも同然だった・・・・・?。

ところが私のもくろみは配属になったその日のうちに見事に打ちのめされてしまった。

3泊4日で松戸での自衛隊体験入隊、その後日比谷公会堂での新人研修セミナー、そして最後の1週間、会社の経営するレジャーランドでの新人研修・・・・研修最後の日、配属先の辞令が渡された時のこと。

何百人といる工員さんの中から特に優秀と認められた4~5人が社員登用の辞令を
一緒にもらった。

私達は勿論社員入社で何の疑問も持ってはいなかったが、こうして一生懸命努力してやっと社員になる人たちが居ることを知ったその時はある意味で社会に出て初めてのショックでもあった。

勿論、私も本社勤務の辞令を。・・・が、なんと、なんと、本社施設部川崎駐在所勤務、日本橋にある本社勤務の夢は見事に破られてしまった。

本社には施設部はあっても勤務場所は川崎にしかなかった。

本社施設部勤務となれば勿論日本橋の本社ビル勤務と信じて疑わなかった。

何故東京の会社を選択したのか・・・・?

東京の中心街の日本橋のオフィスビルにネクタイ、スーツ姿の服装で出社するのが
自分の憧れの姿であったことが、その時初めて知った。・・・・その夢が違った形でやっと実現したのがそれから25年後だった。(・・・・・後述)

JR川崎駅から東の海沿いの工場地帯に向けて川崎大師線が出ている。その終着駅
が私達の職場の工場だった。

当時の川崎市は公害の真っ只中。

吉永小百合主演の映画「キューポラのある街」の正に現代工場版だった。

化学工場、火力発電所、製錬工場、至る所煙突が林立していた。

その煙突から出る煙で、昼でも日照が遮られ、街全体が工場の唸り声に包まれ、異
様な音と臭いが街中を覆っていた。

夜、川崎大師付近にあった寮から空を眺めても、当時の川崎の空は、星空など全く
見える筈はなかった。

その時、故郷の空が今更のようになんと美しく思えたことか・・・?

朝、寮を出て、夕方帰って来て、自分の机の上を手で拭うと、鉄粉がぎっしりと付
いてしまう。もちろん窓は鍵を掛けていくのだが・・・今考えてみると、当時のサッシはスチールサッシといって隙間だらけのものだから当然だったのだろう。

でもそんなつまらないことばかりだけでもなかった。

私達の仕事はグループ関連の全国にある工場、自社事務所、寮等の建設、増改築、
の設計、監理、で新入社員の何も分からない私達でさえ長野、福島、茅ヶ崎、大阪
静岡、など方々へ出張した。

中でも川崎の工場では、新たに製錬の生産ラインを建設中で毎日工事現場で設計監
理の仕事があり本当に勉強になった。

仕事が終わって、同期の数人と先輩と一緒に水道橋にある社交ダンスホールにダン
スに行った記憶がある。

美しいワルツの曲に乗って踊る男女、煌びやかなミラーボールの輝きと7色の光、
スポットライトの交錯、大勢の着飾った美しい若い女性・・・

しかし、残念ながら私は2~3度の練習しかしておらず、1~2度踊ったがうまく踊れず隅っこに立って指をくわえるだけの見学に終わってしまった。

又、休みの日は近くの鎌倉まで何度か一人で足を運んだ。

東慶寺、円覚寺、長谷寺、・・だいぶ鎌倉には通った思い出がある。

千葉に叔母が住んでいた。

その時お土産に持って行ったのが川崎大師で売っていた鯨餅だ。

値段の割りにガサ大きくてなんか得したような気持ちだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この続きは徐々に書き加えていきます。

中略・・・・・・・・

さて翌日、私の60歳の誕生日でした。



初めのケーキは女房がバースデイケーキがなくて、ショートケーキ10個を買ってきて、丸く並べたもの。

上の写真のケーキは息子が別に買って来てくれた、バースデイケーキ。



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続き2008.3.9

だいぶ間が空いてしまったが、私の出来事の続き・・・・・

22歳で上京、ふと冷静に考えた時,やはり自分が何故今東京にいなければならないのか時々分らなくなっていた。

仕事の不満はといえば、ひとつにはやはり若気の至りであったのだろうか、他人の設計した図面ばかりを見ている自分が歯がゆくてしょうがなかった。

非力でもいい・・・何とかして自分の力で図面を描きたい・・・この根強い願望が
時々頭をもたげて来てしょうがなかった。

そんな時支えとなったのが、2級建築士の受験勉強だった。大学卒業した者は、実務経験無しで受験資格があり、その年の7月に学科試験が、9月に設計の試験が。合格発表は11月、ここで合格して帰ろうと決断。

その他に私にはもうひとつ大事な事がありました。

・・・・・・・・・早急に解決しなければならない際迫った状況に置かれてしまいました。

11月の試験発表は、めでたく合格、私はいよいよ帰る決心を。

しかし、せっかく私を大学まで出してくれて、東京の大手1流会社に就職し喜んで
くれたばかりの両親にどう説明をすればいいのやら、はたまた・・・・・・・・・

そんなこんないろんな事を全て解決出来ぬまま、翌年の昭和47年3月末、会社を退職し、無職となり、実家へ戻る。

当時東京での初任給は手取りで35000円位。

盆と正月とその他2度くらい帰郷したような記憶がるが、1年間で,12~3万位貯金をした。

東京の会社を辞め、実家に戻ったことに対して母は非常に残念がったが、父はそんな態度は全く見せなかった。今になって思うと、なんて親不孝なことをしてしまったのかなぁ~と反省する事しきりだ・・・。

その後、母校の大学へ行って就職活動。

幸い(以後17年近くお世話になる)山形のH設計事務所を経営している所長さん
と、東京工大(旧蔵前高専)で同じ研究室卒業だったS教授の紹介で、その年の新
規採用者2名はすでに決定していたのだが、とりあえず面接だけでもしていだけることになった。

当時の思い出だが、面接に伺がったところ、奥の6畳くらいの小さく薄暗い所長
室に通された。

暫らくすると、女の事務員の方が来て、画用紙1枚、鉛筆、消しゴムそして1枚のハンカチとガラスコップを持ってきて、所長が来られるまでこれをスケッチしておくようにとの事だった。

続きは又後日に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

寒河江市 昨日の様子

2008-01-16 | Weblog


昨日の寒河江市内の様子。

例年に比べて今年は本当に雪が少ない。

いつもの年だと、除雪した雪が道路の両側に壁のようになっているのだが、まだ道路のアスファルトが露出している。

それにしてもこの冬の季節に限ってのことでなく、通りを歩いている人が全くなし。車も2~3台。



大型スーパーや、DIYが、広い駐車場を備えて郊外に移転、古い町並みの残っているかっての中心街は寂れていく一方。



寒河江市のメインストリート。10年ほど前から、道路を広くし街の再開発をしているが、車社会の今日、もう買い物客がこうした個人の商店に、今更戻ってくることはこの先ないだろう。



この写真は昨年の市内の様子だが、これでも例年の雪の量の半分くらい。

さて我が家の雪囲い、その後どうなっているだろう・・・・?



こちらもまだまだ雪の量が少ないようだ。


吹雪の朝

2008-01-14 | Weblog
昨日は朝から大荒れの天気。

久し振り冬将軍到来。

辺りが何も見えなくなる。

でも、これまでが暖かすぎただけ。

地球温暖化の危機が叫ばれている今日、やはり今日のような吹雪の朝の大荒れの天

気は、自然の偉大さを感じる。






真冬の子供動物園

2008-01-12 | Weblog
先日隣町にある子供動物園へ、1歳半になる孫を連れて女房と3人で行った。

先日降った雪が少し残っていた。

この時期、私達以外には誰も来園者がおらず園内は妙に静かだった。

季節外れの動物園、動物たちも何かしら来園者の少なさに少し寂しそうな様子。



写真は冬の季節、自分達の待ちに待った季節とばかり、大きな泣き声を出し、元気に振舞っているオオハクチョウの顔。



ニホンザルは逆毛を立て、寒さに震えながら餌をねだって来る。

この他にも、ツキノワグマ、ウサギ、孔雀、アナグマ、ヤギ、などあまり珍しい動
物はいないが、子供達にとってはこんな身近な所に何時でも来れる町の動物園があることはとってもいいことだと思う。

さて我が家の愛犬・・・いつもストーブの前の1等席で1冬中、猫になっている・・・・・・。

「アップル パン」

2008-01-07 | Weblog


 正月休みも今日まで・・・

いよいよ明日から新しい年2008年の「スタート」

今年は私の干支  で36歳位いや、48歳の干支位までは

よく、お前はネズミ年生まれだからいつも落着きがないと人に言われたし、

自分でもソウ思えることがあったような気がしていた。

さすが48歳を過ぎてからは、女房以外の人からは、ネズミ年云々とは

いわれたことはなかったような気がする。

正月休みの最後の日の今日、久し振りに本屋に行った。

孫が正月中全然遊びに来ていないので、そろそろ今日でも来るような気がして

何かでもと思ったのだった。

男の子で1歳半になったばかりだが、この頃言葉もだんだんと分かる位に成長し、間もなく話せるようになるのではないかと思えるほどだ。

正月休みのせいか本屋の中は、思ったとおり混雑していた。

いつもはパソコンと、仕事関係の本を見るばかりだったが、孫の本が並んでる絵本コーナーに近づくのになんとなくためらいを感じない訳にはいかなかった。

    音の出る絵本・・・・そう新しいものではないような気がしたが、勿論私にとっては初めて見る物だった。

なんと・・・絵本(童謡)から歌が聞こえる、、、、いろいろな本がある中で(大きな栗の木下で)が載っていた1冊を買った。

本屋を出た時刻は午後2時を過ぎていた。

あまりお腹は空いてなかったが,なんとなく蕎麦が食べたくなり、山形自動車道寒河江サービスエリア内にある食堂に行った。

そのサービスエリアの建物の入り口付近のパンコーナーのガラスケースに飾ってあ
ったのがこのアップル・パンだ。

色がよかった。形もよかった。そして、美味しそうだった。

高速道の食堂でちょっぴりドライブ気分を味わいながら蕎麦を食べ、早速帰りにアップル・パンを買った。

新年とあって、家に帰ったら来客がいた。

従兄夫婦が正月の挨拶に来ていた。

今朝は8時20分に私の古い友人が正月の挨拶に来てくれてこれで2人目の来客だった。

そうそう・・昨日この私の古い友人からがあり、明日伺いたいが都合がいいかとのことだった。

何時でもいいよ、待ってるよって言ったら、朝8時に行ってもいいかとの事だが、少し早いかなとは思ってはみたものの、何か事情でもあるのかと思い、いよ・・・
って返事をして、今朝、ピンポーンと玄関で来客を知らせるチャイムが鳴るまで私はうっかり寝過ごしてしまっていた。

さて、従兄とを飲み始めるうちに、なにやら二人とも調子が出て、新庄節、と最上川舟歌の2曲従兄の民謡を聞かせてもらいました。

この従兄との話も中身を書けば長くなりそうなのでこれは後ほど又の機会にして

・・・・・・・

従兄を見送って・・・

およそ10分・・・すると家の前に車の止まる音がした。

孫がやってきた。

嫁いだ娘と2人で来た。

旦那が明日から夜勤との事で3日ほど泊まっていくとの事。

いやいや何事もなかったような今日の一日・・・

こうして文字にしてみると書けども書けどもきりのないような長い一日になってしまった。


いよいよ明日から私も今年の仕事の「スタート」。


アップル・パンの中身の話は後日ということにして(程よい甘さのり

んごパイ)が中に詰め込んでありとっても美味しかった・・・・・事だけは書き込

んで・・・・

今年の私は 

START 出発 ・・・それは新しい自分探しの旅の始まり

SLOW ゆっくり・・ゆとり 何事もあせらずゆっくりと

SMIL  笑顔・・・・寛容 感謝

この3つのSで・・・とりあえず 歩いて「START]