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ぼけ防止・昭和を振り返る-⑫

2016-10-20 11:08:44 | 昭和史
昭和21年-2

先ずは 昭和21-1の続きである。

【政治・経済】・・・前回の気になる ※印項目から見てゆく

※天皇の人間宣言(神格化否定の詔書)

当然のことながら連合国の間では 先の戦争での天皇の戦犯問題や 退位問題が議論されていたに違いない。そうした情勢を背景に「天皇の人間宣言」が行われたものと愚考するが マッカーサーの示唆があった?ともある。

この日の宣言を国民は平静に受け入れ 一切の権力を一身に体現していた「神聖不可侵」の天皇も 新憲法で否定され ここに象徴天皇が生れたのである。

※金融緊急措置令公布(総合インフレ対策として新円発行・旧円封鎖)

政府はインフレに対処するため2月17日に新円切り替えを行い預金の一切を封鎖し 所帯主は新円で一ヶ月に300円、所帯員は一人100円しか引き出されなくなった。また月給の現金支払いも500円までで あとは封鎖となり 旧円の流通も3月6日で打ち切られている。

但し封鎖の対象は10円札以上で “小銭はその限りにあらず”とあり 皆な小銭あつめに駆け回ったそうである。

更にこの封鎖でとんだ悲劇?も起きている。”亭主に内緒でこつことヘソクリを貯めこんだ奥さん“亭主にはバレる”は 出すに出されぬ預金通帳を恨めしそうに眺めるばかりであったそうな。

※極東国際軍事裁判所開廷される(東京市谷)

時は4月29日(天長節)、場所は市谷(陸軍士官学校あと)。国際検事団は28人の被告に対する長文の起訴状を読み上げている。

日といい場所といい 全くもって演出されたこの設定に驚く。 さもあらん、軍国主義の悪に挑戦するが如く一種の見世物として 民衆の印象を強める必要があってのことだったのだろう。

戦犯の逮捕は占領直後の前年9月11日の東条英機大将から始まり、11月19日発表された戦犯名簿に皇族の梨本宮をはじめ 天皇の側近であった近衛文麿や木戸幸一らがあり 天皇の身に戦犯追及が及ぶとみられたが 天皇の逮捕は行わず 国際軍事裁判所は東条以下28名を起訴し 昭和21年5月3日東京裁判が始まっている。


※新日本国憲法公布(平和憲法) 

昭和21年11月3日 盛大な歓呼のうちに公布されている。
当時の式典の様子を伝える記事では以下のようにある。

『天皇は、午前11時、議会に行幸して、公布の勅語を読まれた。都内では小学生の旗行列が行われ、皇居前の祝賀都民大会には、約10万人の市民が集まった。

そして午後2時、都吹奏楽団の“千代田の空を仰い”の演奏で式典がはじまった。式辞、祝賀文の朗読が終ると、演奏は“君が代”に代わり,10万人の合掌がとどろいた』 とある。

憲法が示した三大原則は「国民主権主義」・「基本的人権の尊重」・「平和主義」である。

現憲法が占領軍から押し付けられたものにあるにせよ その誕生までに幾多の生みの苦しみがあったようだ。殊に制定にあたっては「天皇の地位」・「戦争放棄」・「封建制度廃止」が争点であったことは言うまでもない。

あれから70年、そして今 その改憲にむけての議論が活発化している。
一度 命をかけて誓ったあの9条はどうなるのだろうか?・・・との想いがしきりなり。

※シベリア引揚げ第1船・舞鶴入港

終戦のとき 海外にいた日本人は軍人・軍属が約300万人一般邦人が約350万人合計650万人とされている。

引揚げがはじまったのは終戦の翌月からで 21年8月末には 中国・満州・南朝鮮・中部太平洋・比島などから既に440万人が故郷の土を踏んでいる。

ソ連地区は 終戦時の治安混乱の為 状況不明で引揚げが遅れたが 12月5日に函館に樺太からの第一船が入港したのをはじめ 大連・北朝鮮・シベリア各地からも帰国がはじまっている。

しかし シベリアからの引揚げのピ-クは昭和24年6月20日にずれ込み、舞鶴港に入港した高砂丸は「赤い引揚船」として当時話題になっている。 
 
 独断と偏見で綴る「昭和21-2」である (つづく)

  
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