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クルマに関する妄想集(+その他のことも少し)

大掃除2008<ティーダ篇>

2008年12月30日 23時00分41秒 | Weblog
一昨日・昨日と、僕の家では年末の大掃除に追われた。面倒くさがりなくせに、一度手を着けると凝り性なものだから、家中の徹底的な清掃を目的とした大掃除ともなると、なかなか終わらない。

クルマの大掃除も同様である。近所のコイン洗車場に朝の7:30に行って、帰ってきたのは11:30。クルマの掃除に4時間もかかるなんてと、赤子を抱いた妻の顔が言っている。

でも、クルマの掃除というのは、真面目にやれば1日かけても終わらないものなのだ。今回、ほとんど初めて手洗いによる洗車をやってみた。カネと時間がかかるものと知ったが、クルマの状態を知るためと思えばなかなか悪くない。

5年間通っていたコイン洗車場が最近廃業になり、今回は別のところへ行ってみた。コイン洗車場という場所自体が日本各地でどんどん廃業しており、残るこの場所も水道水をバケツに汲むのに10円かかるという有様。もっとも、ある程度の広さの土地と、高額な設備投資を要求されるこのビジネスモデルを考えると、特に都内においてはとてもうまみのある商売でないことは誰にでもわかる。「休日にコイン洗車場でクルマを手洗いする」スタイルは確実に時代遅れだし。加えて、水道水と洗剤を盛大に使った高圧ジェットの洗車マシンと、その結果としてのU字溝に流れる洗車の汚水を見ていると、水資源・環境保全の観点でも、コイン洗車場の廃業は必然に思えてくる。
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東芝レグザ(37H7000)購入記

2008年12月28日 22時12分46秒 | Weblog
いまさらの感はあるものの、我が家にも薄型テレビがやってきた。いまの家に引っ越してきたのが約1年半ほど前。リビングが広くなったのをきっかけに、でかいテレビにしてもいいなあと思うようになり、ようやく買うにいたったわけだ。

我が家は基本的にあまりテレビを見ない家なので、映像関連のハードウェアにはあまり投資したくない。したがって、HDDレコーダーの専用品など買いたくないわけで、必然的に録画機能を備えたテレビが購入対象となった。買いやすい価格の録画機能つきテレビといえば、日立のWoooと東芝のレグザだけであり、HDD容量と、外付けHDDが利用可能という点を評価して後者を選んだ。東芝というメーカーになんとなくシンパシーを感じていることもある。

いまのところ、その使い勝手にはおおむね満足している。番組表を立ち上げるときにやや動作がもっさりする点を除いて。あと、ブーメラン形のスタンドのデザインを除いて。ついでにいうと、リモコンの文字のレタリングも少々気に食わないが…

このテレビを買う前は、ソニーのトリニトロン(24型ワイド)を使っていた。結婚と同時に買ったから、5年間しか使わなかったことになる。これだけエコを意識させる広告やフレーズがあふれてくると、どうしても5年間しか使わなかったトリニトロンがこの後どのような運命をたどるのかが気になる。せめて今回買ったレグザは、永く使うことにしようと思っている。
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選んだクルマが語ること

2008年12月26日 00時57分12秒 | Weblog
徳大寺有恒が、その著書「間違いだらけのクルマ選び '90年版」において、T12型スタンザ/オースターに対し、次のような批評文を書いている。少々長くなるが引用したい。

「…クルマなんて動けばそれでいいと割り切れる人なら、こいつを買うのもいい。買ったときから思いこみのないクルマは飽きることもないだろうし、少々傷がついてもこたえることもない。そういうクルマの乗り方も、けっして悪くはない。」

徳大寺有恒が優秀な自動車評論家かどうかはともかく、上記の彼の評論はなかなか真実をついていると思う。僕は言うまでもなくクルマ好きであるが、ときどき自分でも、自分のクルマ好き加減が鬱陶しくなるときがある。あるクルマを気に入って買い、日々それに乗りながらも、必ず他のクルマを気にしている自分がいるからだ。

そんなときは、この写真のV20型カムリのように、生活の伴侶としてよく出来た実用車を買って、そいつと淡々と長期間にわたり暮らすといったスタイルが妙にまぶしく映ることがある。とくに、この写真のグレードは、「1.8 XTサルーン」という、カムリのグレード体系における中位機種であり、最上級グレードを選ぶことで生ずる自分の生活観と所有するクルマとの間のズレを嫌ったオーナーの思いがうかがわれる。「自分の生活にはこのグレードがいちばん合っている」と冷静に判断したその見識には脱帽である。

この頃のトヨタ車は、カローラ、コロナ、カムリ、マークⅡ、クラウンと、どれも水平基調のボディデザインで統一されているが、中でもこのカムリは平凡な中にも磨きこまれた美しさと車格感があり、一人前の男が乗るクルマとして十分に納得できるものを持っている。したがって、生産終了から20年近く経った今日でも、このクルマのたたずまいはそう古びていない。写真のカムリ1.8 XTサルーンからは、華美になることを慎重に避けながらも、自分の人生に責任を覚え始めたひとりの男の選択の結果が反映されているような気がして、とても好感が持てる。
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日本車のテールレンズ考

2008年12月25日 19時51分04秒 | Weblog
写真は、埼玉県某所で遭遇したAE90型カローラ・セダンである(こいつもだいぶ前のクルマになった)。 このカローラは、ナンバープレートを中央に据え、その両側をテールレンズでスキマなく埋めるという、リアビューをワイドで華やかに見せるための常套手段をとっている。言うまでもなく、このデザイン処理は「大きくて豪華なクルマ=いいクルマ」という文脈の中で有効であり、この時代はまだカローラがクラウンやマークⅡの縮小版としての役割を期待されていたことを示す好例だろう。

日本車のセダンから、この写真のようなリアビュー処理が姿を消して久しい。このリアビュー処理を持つ最後の日本車セダンは、考えつく限りでは1999年~2003年を生きたクラウンではないかと思われる(除くマジェスタ)。そのクラウンもいまやベンツ風の三角レンズだ。セダンという、どうしてもある種の威厳を求められる車型で、このような変化が起こっていることはおもしろい。もしかすると、セダンに威厳を求めるという考え方がすでに古くなってきていて、セダンはどんどんカジュアルな方向へ向かっているのかもしれない。一方では、アルファードやエルグランドでは、いまだにこのようなリアビュー処理が、それこそ「幅を利かせている」わけだけど。

僕はこの写真のカローラのようなリアビューは決して嫌いではなく、むしろ好きなほうである。ワイドに見えるかどうかはともかく、非常に安定感を感じる。1989年に投入されたアコード・インスパイアのリアビューも同様のデザインだったが、僕はそれを見て兄弟車のビガーよりもこっちが売れるなと直感したものだ。この写真のカローラも、いわば後進国的価値観に支配されたリアビューなのだが、全幅1655mmというAE90型カローラでこのような処理を行ったところに、せつなさからくる何ともいえない愛らしさを覚えるのである。
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最下級グレードの世界⑦ トヨタ・カローラ(E80型)

2008年12月15日 22時22分43秒 | Weblog
ここまで最下級然とした最下級グレードを見つけると、うれしくなってしまう。E80系カローラの最下級グレード、「DX」である。僕は時々中古車屋のサイトを見ては、面白いクルマが売られていないかとチェックすることを趣味としているが、このクルマもそんな地味な活動の成果だ。

デリカシーのない中古車屋による粗い画像が残念だが、それでもかろうじてクルマの写真として見ることができる。ここまで何もついていない素の状態だと、逆にある種の楽しさ、爽快感すら覚えるから不思議だ。このクルマが現役だったのは1983-1987年と、今から20年以上前の昔だが、この頃はまだこのようなグレードを設定する必要があったのだ。実際、路上でもけっこう見かけたし。

実はこの代のカローラには、このDXよりさらに下の、カスタムDX?なるグレードが設定されていたように覚えている。それは、シガーライターすら剥ぎ取られ、リアウィンドウデフォッガーも未装備で、トリップメーターが付いていたかもあやしい。タイヤもラジアルではなくバイアスだったりして。

この代のカローラは、カローラの歴史の中では初のFF車だ。初めてのFF化の時にはほとんどのクルマがそうであるように、このクルマも自らの性格を忘れ、欧州的な合理主義にもとづいたエクステリアデザインが採用されている(初代FFコロナ、初代FFサニーもそうだった)。販売的にはそれが仇となり、マイナーチェンジのタイミングでグリルのメッキを増量したり、テールレンズの華やか化を図ったりして、販売台数を挽回するのが、FF化第一弾のモデルの常であった。

このカローラDXが、クルマとしては何もついていないすかんぴんの状態でも、練りこまれたカッコよさが感じられてそれなりに美しかったりするのは、そんな合理主義的デザインが、このようなすかんぴんの状態と相性が良いからだと思えないこともない。

僕がもう10歳若かったら、このクルマをバイトで貯めたお金で買って(表示価格は25万円ぐらいだった。それでも高いと思うが)、意気揚々と乗り回すことだろう。お金のない若者が、そのことを恥じるでもなく、こんなボロい安グルマでも楽しそうに乗っている図はカッコいい。僕も、若いときにそんなクルマの乗り方をしたかった。
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ブランドは誰のものか?

2008年12月13日 00時40分11秒 | Weblog
新型アコードワゴン・アコードセダンはとても魅力的なクルマになったが、それは純粋にプロダクト単体としての話であって、ホンダの日本事業におけるアコードのポジショニング設定 -特に価格視点での- については、まったく賛成できない。

誰もが思ったであろうが、なんでこんなに価格が高いのか? いくら大きなボディを持ち、電子デバイスを満載していても、しょせんは4気筒エンジンしか持たない、輸入車でもないクルマである。それなのに、セダンのスタートプライスは270万円であり、売れ筋と思われるそのすぐ上のグレードにいたっては290万円である。

この価格は、いかなる基準をもってしても高い。積んでいる装備やクルマの仕様をそれぞれ金銭化して、それを積み上げればそのぐらいの価格になるのかもしれないが、このクルマの場合は、まずホンダの企業の都合としての設定価格が先にあり、それを正当化するだけの電子デバイスをはじめとする装備・仕様を備えてきたというのが実態であろうと思われる。

そんな企業優先の論理=アコードをこの価格で売ること、この価格のクルマをアコードとすることについては、僕自身ホンダからまったくなんの相談も受けていないし、この決断に至った説明も聞いていない。だから、僕はこのクルマに対してというよりは、このクルマを消費者から遠い存在にしてしまったホンダという企業に対して、とても深い不信感を抱く。

「バカな、そんなこといちいち消費者に個別に相談なんかできるか」。その通り。それは現実的ではないし、アコードの値付けに関しては、それを作ったホンダが自由に決めてよいことになっている。しかし、それでは、アコードというブランドはメーカーのものであって消費者のものではないというのか。

僕は、日本のホンダという会社が考えたアコードというクルマが、世界の自動車市場で憧れのクルマとして認知され、台数で見ても優良な実績を挙げていることを日本人として誇りに思ってきたし、それが望めば手の届く価格で売られていることを幸せに感じてきたひとりである。そう思っている人は、僕のほかにも少なからずいるだろう。つまり、アコードというブランドは、いまやホンダだけのものではなく、それを買おうと思っている人や実際に買った人、買う予定はないけれど憧れと敬意を持っている人のものでもあるのだ。

ホンダはきっと、こう言うだろう-「すぐにインサイトというハイブリッドカーを出します。それは、ハイブリッドカーなのに、200万円という割安な価格で提供します。アコードが高いというなら、そちらをお求めください」と。 そういうことじゃないのだ。そうやって、ホンダがまったくの自社の都合だけで、商品ラインナップや個別車種のポジショニングを滅茶苦茶に変えてしまうことに、僕はとても一方的な蹂躙感をうける。

僕がこれまで書いてきたことに違和感を覚える人もあるかもしれない。実は僕だって、今回のことは半ば仕方のないことかもしれないというとも思っている。だけど僕は問いたい。それでは、ブランドはいったい誰のためにあるのだろう?
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アコードツアラー降臨

2008年12月10日 00時56分14秒 | Weblog
旧型アコードワゴンは、現行日本車のなかでも、ずばぬけたカッコ悪さを誇るモデルとして永く記憶に残る作品だった。なんだけど、そんな汚名は、新型の登場により見事に払拭された。

日本のステーションワゴン市場はどんどんプレイヤー数(車種数のこと)が減少しており、誰の目にも未来のないカテゴリーなんだけど、そんななかでこのクルマの投入は、ある種の驚きというか、新鮮さをもって迎えられたように思う。それがまたこのカッコよさだったことで、このクルマはなおさら颯爽として僕たちの目に映る。

もっとも、ホンダ車のカッコよさって、芸能人で言えばジャニーズ系タレントのカッコよさに近いものがあり、すなわち一般ウケするわかりやすさが身上、ということなんだけど、それでもこの新型の前では「これなら騙されてみたいかも」と思わせるものがある。ワゴンと呼ばずに、「ツアラー」としたところも、分かってるなぁと思わせて小憎い。
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サニー雑感

2008年12月09日 01時11分11秒 | Weblog
細い路地を疾走する、前期型のB15型サニー。セダンらしいセダンが駆けていく姿はカッコいい。

いまとなっては結果論だが、サニーは、たとえヒョウロンカからは何といわれようと、B12型-B13型で築いた「日本の小市民的なるものを体現したセダン・オブ・セダン」というポジションを死守するべきだった。そして、高齢化するユーザーとともに死ぬべきだったと思う。そんなサニーの近年の歴史のなかで、ブランドとしての一貫性を欠き、販売的にも駄作扱いされているモデルが、B14型だ。B14型で、妙に欧州調のパッケージング重視主義を唱え、しかもサニーの良き伝統であった質実剛健さにつながるクオリティを軽視してしまっただけに、サニーというクルマの実像がぼやけてしまったように思われる(そんな風に、妙に新しがってカッコつけて、見事に失敗するところも日産のかわいいところなんだけど)。

一説によれば、B14型サニーを発売前に見せられたサニー系販売会社の幹部は、「これをこれから4年も売るのか。俺たちを殺す気か!」とメーカー開発陣に食ってかかったらしい。それほどまでにB14型は、問題提起をふくむモデルだった。あくまでサニーのわりには、だが。

B14型でそんな大風呂敷を広げて失敗し、早々に誤りを認める形で登場したB15型サニーだが、日本市場の売れ筋がコンパクトカーとミニバンにシフトし、セダンの全高がどんどん高くなるという周囲の環境の中、モデルチェンジのタイミングが遅れたことを逆手にとって、独自の地位を占めたモデルでもあった。

僕はこのクルマを運転する機会にはついに恵まれなかったが、このサニーと車台を共有するティーノのほうは、東京~三重県鈴鹿を往復した経験がある。サニーとティーノ(SR20DE車)では、エンジンもボディ質量も違うクルマなのでなんともいえないが、鈴鹿への往復1,000km超のドライブの中で、コシのあるサスと体が痛くならないシートに、日産の真面目なエンジニアリングの片鱗を感じることができた。

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ビューティフル・ネーム

2008年12月05日 01時47分44秒 | Weblog
最近、ひょんなことからゴダイゴのアルバムを聴いている。僕はゴダイゴについては今まであまりなじみがなく、有名どころの曲は知っているという程度であった。が、最近、3ヶ月になった息子を風呂に入れながら、どういうわけか「ビューティフル・ネーム」を彼に歌ってあげている自分に気付いて驚いた。

「ビューティフル・ネーム」は1979年に発表された古い曲だが、男女のこじんまりした視野の狭い恋愛をテーマにした曲の多いなか、この曲は人間への普遍的な優しさが感じられて、少しの間だけ人間らしい自分になれる気がする。こういう感情は、以前の僕ならおそらく持つことのなかった感情であり、そうした自身の変化も意外だった。

ゴダイゴがこの曲を歌った当時、僕は4歳の子どもで、まさにこの曲の中に出てくる子どもそのものであった。あれからおよそ30年が経ち、当時の子どもも大人になった。僕もすぐに、現在のゴダイゴのように初老を迎え、孫を持つようになるのだろうか。そうやって人は続いていくのか。
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