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弱者のままで、世界を変えることはできない

日本史1 建国編

2005-02-24 13:42:16 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
 本編に登場する若き革命児……厩戸皇子 中大兄皇子 中臣鎌足

 日本の国の骨組みを整えた人物といえば、第1に名前が出るのは聖徳太子だろう。その肖像画が長い間紙幣にも用いられ、まさに、日本国のシンボルともいうべき、歴史的人物である。だが、10歳代から摂政として日本を担う重責にあったこと、日本の独立を達成したことなどは、あまり知られていない。

 太子の生前の名は、厩戸皇子または富聡耳皇子などといった。キリストと同様に馬小屋で生まれたとか、1度に10人の話を聞き分けることができたとかいわれるが、これは後世の伝説であろう。しかし、信心深くて賢い子供であったことは、間違いないらしい。
 皇子の人生で最初の転機は、父・用明天皇の死によって訪れる。当時の政治は長老主義に立っていて、天皇の位は、皇族の中の年配者が継ぐのが一般的だった。たとえ天皇の長男でも、若いうちは、容易にその位を継ぐことができなかった。ある意味で、今日以上に保守的だった。
 また、継承した時点ですでに年配だから、任期も短く、後継者争いが耐えなかった。このときも、皇族と親類関係にある蘇我氏と、強大な軍事力を持つ物部氏が対立し、それぞれが、別の天皇候補を立てることになった。そこで、両者は軍事的に激突することになる。皇子も、蘇我氏の軍に加わって、初陣を飾った。13歳のときであった。
 しかしさすがに、代々天皇の護衛を務めてきた物部氏は手強く、苦戦する。そのとき、太子は仏経の守護神である四天王の像を刻み、勝利の暁には、仏経を保護することを誓ったと伝えられる。その甲斐あってか、蘇我氏は、ついに物部氏を滅ぼすことに成功した。
 しかし、多感な思春期に戦場の悲惨さを目の当たりにした皇子は、さらに仏経に魅かれ、和を重んじることに心を砕くようになる。

 蘇我氏の実力者・馬子は、崇峻天皇を擁立する。しかし、天皇は馬子の影響力を嫌い、隙を見て排除しようと企てる。それをいち早く察した馬子は、逆に天皇を暗殺してしまった。
 その後、馬子は、想像を絶する革新人事を断行する。大陸でも例の無い女帝・推古天皇を擁立し、さらにまだ19歳の厩戸皇子を皇太子に立て、摂政として天皇職の代理に当たらせることを決める。こうして太子は、事実上の皇位後継者として、叔母である天皇の代理人を務めることになった。
 翌年、20歳になった太子は、『三宝興隆の詔』を出す。三宝とは「仏」「法」「僧」のことであり、この3つを尊ぶことを政治の根本方針として、天下に示した。
 当時、仏経はまだ、海外から伝わってきたばかりの新興宗教として偏見を持たれ、日本古来の自然崇拝と、思想的な衝突をしばしば起こしていた。しかし、蘇我氏が仏経伝来以来保護の立場を取ってきたこともあり、ようやくここで、仏経が日本に定着する。
 太子は、翌年には高句麗から渡ってきた僧侶・慧慈から、直々に経典を学んでいる。慧慈はその後も、太子の信仰上の師として尽力する。
 太子は、蘇我氏を排除しようとは考えなかったらしい。第一、そんなことを考えたら、すぐさま消されてしまう。しかし、天皇が政治のイニシアチブを取り戻すことは、必要だと考えていた。
 そこで太子が考えたのは、斑鳩に宮殿を建てることだった。ここに宮殿があれば、蘇我氏の勢力の強い地域を避けて、首都・飛鳥に大陸の最先端技術を伝えることが可能になる。この案は、太子が27歳のときに実現される。

 一方で、太子は大陸の行政を研究し、行政改革の案も温めていた。その第1弾が、29歳のときに定めた『冠位十二階』の制度だった。
 それまで、朝廷での役職は家柄で決まっており、本人の能力などは評価されなかったが、太子はこれを抜本的に変える。役人の位を12段階に分け、能力のある者はどんどん昇進させるというもので、今日の実力主義の考え方を先取っている。
 現代でさえ、公務員の能力主義については賛否が分かれ、導入が困難だというのに、実は、30歳足らずの若者が、1500年も前に実現していたのだった。
 しかし、ただ制度を変えるだけでは、改革は成功しないと、太子は考えた。制度は所詮、道具であり、制度を使うのは、人間自身に他ならない。実力主義の導入は、確かに行政の効率を上げるだろうが、競争意識が過熱するあまり、役人同士でいがみ合い、足を引っ張り合う恐れもある。
 そこで、5カ月後には、役人の心構えを説いた『憲法十七条』を発表する。これは、天皇と仏法僧を尊び、私心を捨てて全体の利益と理解を重んじることを定めたもので、『冠位十二階』と並び、太子の最も重要な功績として知られる。その影響力は計り知れない。和の重視、天皇中心の国づくり、仏経の尊重など、『憲法十七条』は、そのまま今日まで受け継がれる日本人の道徳の骨格となっている。


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 これら歴史的な改革を実現した翌年、太子は斑鳩宮に移り住む。そこから18キロ離れた飛鳥まで、毎日従者と2人で馬に乗り、何時間もかけて通ったという。これには、蘇我氏の影響力を遠ざけるという狙いもあったのだろうが、それだけではない。
 太子は、通勤を利用して庶民の暮らしの現場を直に見学し、庶民に密着した政策を、常に考えていた。太子にとって、政治とは庶民への奉仕だった。そのためには、都に籠もっていては分からないこともあると、太子は気付いていた。
 太子は、為政者が仏経の信仰を重んじることが大切だという思いを、ますます強めていた。例えば、一向一揆などわずかな例外を除けば、歴史的にも、仏経のために戦争が起こされたことはほとんどない。キリスト教やイスラム教が、しばしば布教の手段として戦争をも辞さなかったのとは対照的に、仏経は殺生を最大の罪とし、対話による布教を重んじている。インドのアソカ大王などは、仏経に帰依するや一切の戦争を放棄し、平和外交による繁栄を築いている。
 そこで、太子は32歳のとき、推古天皇以下、全ての皇族と従者に「勝鬘経」「法華経」を講義している。特に法華経は、一切衆生(全ての人及び生きもの)に仏性があると説き、今日に至るまで、日本人に最も親しまれている経典のひとつ。
 日本では何度か宗教改革の波が起こっているが、その中で法華経は常に見直され、日本人の信仰の核となり続けてきた。平安時代に最澄が開いた天台宗は、法華経を拠所としているし、鎌倉新仏経では、日蓮が法華経の題目を本尊としている。近代の新宗教においても、霊友会や創価学会、立正佼成会など代表的な教団が、法華経を教義の柱としている。
 このように、時代を超えて見直され続ける経典は、他に例を見ない。その法華経に、日本史上初めて注目し、普及に努めたのが、聖徳太子だった。あるいは、太子は1000年2000年先までも見越して、この経典講義を決意したのかも知れない。

 一方で、現実の政治改革も、さらに進めていた。33歳になった太子は、大陸の文化をさらに導入する必要があると考え、小野妹子を隋に送り込む。妹子は、2年後に隋の使者を連れて帰国し、隋と日本の国交が、正式に開かれた。
 ここで重要なのは、太子が超大国・隋と対等な関係を結ぼうと計画し、成功させた点にある。これは、日本が国際的に独立国として認知されたことを意味している。
 それ以前も、邪馬台国が魏に使節を送り、日本の統治を認められたことはあった。しかし、あくまで日本は属国扱いであり、対等の関係ではなかった。それも、国力の差を考えれば無理のないところだったが、太子の時代には、ある情勢の変化があった。
 当時、隋は中国を統一したものの、勇敢な民族に支えられた朝鮮半島の高句麗だけは、どうしても攻め落とすことができなかった。その高句麗と日本が結ぶことだけは、隋としては、絶対に避けたいところだった。太子は、この国際情勢を熟知した上で、絶妙なタイミングで隋に対等な国交を要求し、これを呑ませたのだった。
 そしてこれ以来、日本は今日に至るまで、(近代に一時関係が悪化したことはあったものの)東の超大国・中国と対等な関係を結び続け、独立を保ち続けてきた。聖徳太子こそ、日本の国父なのだ。



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 38歳になった太子は、ある日、天皇のお供として薬猟(薬草摘み)に出かける。その帰り道、水不足に悩む農民の姿を見かける。太子はすぐさま用水池の建設を指示し、さらに、他にも水不足で悩む村がないか調査させ、大和地方の各地に用水池を造らせたという。太子は、庶民が困っているのを一刻も放っておかなかった。
 また、斑鳩宮のすぐ近くにある竜田山で行き倒れになった旅人を見つけ、憐れんで詠んだという歌が、万葉集に残されている。

 家にあらば
 妹が手まかむ草枕
 旅に臥せる
 この旅人あはれ
(家にいたなら妻の手を枕にしていただろうに、旅に倒れたこの人の哀れなことよ)

 という歌で、太子の人柄をよく物語っている。
 それからしばらくして、太子は突然摂政を引退し、周囲を驚かせる。政治家としては、これからという年齢である。
 しかし、太子は、内政でも外交でも、日本という国の基盤は固めたという気持ちだった。実際、長老政治の時代だったにも関わらず、若き太子がやり遂げた数々の歴史的功績を否定することは、誰にもできないだろう。
 30歳代も半ばを過ぎ、人生の転機にさしかかっていることを感じた太子は、後事を次の世代に託し、自身は仏経の普及に専念する決意だった。

 その後は、経典の解説書や歴史書の編纂に取り組み、50歳で病のために世を去った。その辞世の言葉は「世間虚仮唯仏是真(この世の全ては虚しく、仏のみが真実)」だったという。


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 仏経を象徴する植物として、蓮華が最もよく用いられる。
 蓮華は、泥の上に美しい花を咲かせるが、全て枯れる運命にある。まさに虚しい。だが、泥の下に隠された根は、絶え間なく新たな花を咲かせ続けていく。
 目に見えないところにこそ、宇宙・生命の実体がある。古代の賢者たちは、その実体を仏と呼び、蓮華になぞらえた。これは、近年の心理学や宇宙論の考え方とも、一致している。
 太子の没後も、しばらく蘇我氏の支配が続いた。馬子が没し、蝦夷の代になると、蘇我氏の専横はいっそう激しくなり、太子の死からおよそ20年後、蘇我氏は、太子の一族をも滅ぼしてしまう。どんな美しい蓮華の花も、いつかは散る運命にある。
 しかし、絶大な権力を握った蘇我氏も、太子の残した「天皇を中心とした国づくり」という理想まで、滅ぼすことはできなかった。蓮華は人知れず、次の開花の準備を整える。そしてついに、太子の理想を受け、2人の若者が立ち上がった。
 2人の名は、中大兄皇子と中臣鎌足。まだ皇子は19歳、鎌足は30歳に過ぎなかった。しかし、2人は絶大な力を誇っていた蘇我氏を滅ぼすことに成功し、聖徳太子の念願だった、天皇中心の国づくりに取りかかる。新たな歴史を拓いたのは、やはり若者たちだった。



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